一人は星を見た

11月28日 p.m. 5:00
カジミエーシュ南部 畑の狭いあぜ道
明るい女性の声
ムリナール氏、もう一度よく思い出してください。
私たちは確かに会ったことがあります! ゲイル工業の建設工事請負を巡って、あなたがウエストランド社の代表と入札会で争っていた時ですよ。
ムリナール
覚えていないな。
明るい女性の声
あれは確か三年前──血騎士がメジャー大会で優勝した年です! 入札会後のパーティーで、授賞式の模様がレストランのモニターに流れてましたよ。
ムリナール
記憶にない。私は騎士競技に興味がないのでね。
明るい女性の声
なら、そのパーティーで、あなたがゲイル工業の担当者一人一人と乾杯して、挙句にワインの飲み過ぎで酔い潰れてしまったのは覚えてますか?
私はあの時の光景を今でも覚えてますよ。商談をまとめるためにあそこまでするなんて、大企業のセールス部門でも大変なんですね。
結果的には成功だったと思いますよ。当時の担当者たちにあなたの印象は残ったでしょうし。まぁ最終的に──
ムリナール
私を懐柔するつもりなら、不要な気遣いだ。
私たちはただ向かう方角が同じというだけだ。これを助けだと思う必要はないし、私が見返りを求める心配をする必要もない。
明るい女性の声
そんなこと言わないでください! もしあなたに出会わなければ、私は今もまだ荒野でさまよっていましたよ!
それに、変な考えはありませんよ。本当に、純粋に感謝を示したいんです。大騎士領に戻ったら、必ずちゃんとお礼をしますから!
ムリナール
少しでも早く到着したいのであれば、歩くことに集中すべきだ。足元が悪いから気をつけて、ミズ──
少し暗くなった女性の声
ごめんなさい。ヒールが高すぎて、踏み外しちゃいました……
ムリナール
ミズ・デーシュット。
デーシュット
ほんとごめんなさい、恥ずかしいところをお見せしてしまって……ううっ、リップクリームはどこ行ったんだろ……
デーシュット
よかった、紙の資料はファイルに入れておいたから汚れてない。
デーシュット
ちょっと待っててもらえますか、すぐにバッグを片づけますから。
ムリナール
……休憩にしよう。
デーシュット
も、申し訳ありません!
デーシュット
すみません、ムリナール氏。レンタカーが壊れなければ、迷惑をかけることもなかったのですが。
デーシュット
昨晩、レンタカー会社からホテルまで運転しただけなのに、今朝突然にエンジンがかからなくなったんですよ。こんな簡単に故障するなんて、後でレンタカー会社を訴えなきゃ。
デーシュット
もし今後、こういうちょっとしたトラブルに遭った時には、お力になりますよ! 私こういったことに関してはわりと得意ですから。
ムリナール
……結構だ。
デーシュット
そうだムリナール氏。今回私が処理しに来た案件について、まだお話ししてませんでしたね。
デーシュット
この村の名前はロックヴィルと言います。元の所有者である貴族騎士マレックは、七年前ゲイル工業に対して、この土地を担保に供していたのです。
デーシュット
ですがその後、彼はここに住む村人に土地を売却したんですよ。
デーシュット
村人たちは、ようやく自らの土地を手に入れるチャンスが訪れたと考えて、十年分の税金と同額で畑を買い取りました。
デーシュット
村人が土地に問題があるのを知ったのは半年前のことです。マレック氏が病死した後に、ゲイル工業はロックヴィル村の開発に着手したんですが、そこで発覚しました。
デーシュット
多くの村人が、土地代のために組んだ長期間のローンを完済してもいないのに、土地は自分のものじゃないって言われたんですよ。ひどいと思いませんか?
ムリナール
……お前の話を聞きたいなどとは言っていないが。
デーシュット
あら。パートナー企業のブラックな事情に興味はありませんか?
ムリナール
正義の味方をする弁護士の物語には興味がない。
デーシュット
正義の味方ですか? そうですかねぇ……ただ弁護士としての職務を全うしてるだけですよ。
デーシュット
ところで、ムリナール氏はどうして大騎士領を離れて、こんなところに? 出張ですか?
ムリナール
ただの休暇だ。
デーシュット
わぁ、すごく羨ましい……
デーシュット
私なんて前の休暇がいつだったかすら思い出せませんよ。黒騎士が優勝した時だったかな……?
デーシュット
勝敗の予想が的中したから、自分にご褒美をあげようと思ってたんですよ……
デーシュット
まぁ当たった金券は、そんなに高額じゃなかったんですけどね。
デーシュット
す、すみません! ちょっと電話に出ますね!
デーシュット
はい、デーシュットです。大変申し訳ありません。道中でトラブルが発生してしまって、まだ目的地に到着できていないんです。
デーシュット
いえ、いえ、遅れることはありません。ご安心ください。必ず本日中に交渉を終わらせ、時間通りにクライアント企業へ返答いたします。
デーシュット
はい、当然私のミスですので、問題が生じた際には、私が全ての責任を持って──あ、切られちゃった。
デーシュット
はぁ、これで帰ったらまた所長のご機嫌伺いかぁ……こんな辺鄙な場所に送り込まれただけでもうんざりなのに……
ムリナール
買い取られた村の土地を巡る訴訟の処理に来たと言ったか?
デーシュット
そうですよ。
ムリナール
しかし今電話で、「クライアント企業へ返答」と言っていたが?
デーシュット
誤解されてるようですね、ムリナール氏。
デーシュット
確かに私は、今回の土地買収に関する訴訟を担当していますが、それはゲイル工業の代理人としてなんですよ。
デーシュット
やっと……着きましたっ!
ムリナール
……
デーシュット
ムリナール氏、大丈夫ですか? きっと疲れていますよね。先に休める場所を探しますか?
スーツ姿の男
あの、デーシュット先生でいらっしゃいますか?
デーシュット
はい、そうです! あなたが連絡をくださったハム先生ですね。
デーシュット
遅れて大変申し訳ございません。ご覧の通り、道中でちょっとした事故が起きてしまいまして……
ハム
どうかお気になさらず。この村は大騎士領からかなり離れた場所にありますので、途中でハプニングが起きてもおかしくありません。
デーシュット
ではでは、ムリナール氏、この案件を処理したら一杯ごちそうしますね! この村はビール作りが伝統だそうですよ。
ムリナール
結構だ。
デーシュット
えぇ、そうですか……それじゃあ、ここまで本当にお世話になりました!
ハム
デーシュット先生、仕事を始めても?
デーシュット
も、もちろんです! すぐにでも。
ハム
はい、ではこちらへ。
ハム
(さすがは大企業が雇う弁護士だ。出張にも専属の秘書がつくなんて……)
デーシュット
今回の案件を引き受けた時、現地住民に対する法的な説明で、かなり時間をかけることになると予想していましたが、まさか彼らの方も弁護士を雇っていたなんて、思いもしませんでした。
ハム
住民たちが非政府組織に援助を求めたんですよ。「カジミエーシュ農村紛争調停協会」という組織から、私に依頼があったんです。
デーシュット
それはよかったです。代理人同士の話であれば、多くの手間が省けますから。
デーシュット
ハム先生、話し合いの前に、いくつか前提を確認させてください。
デーシュット
これまでご連絡いただいた内容によれば、あなたはすでに村の土地に関する問題を住民の方々に伝えていて、皆さんはもう立ち退きを受け入れているんですよね?
ハム
はい、そうです。村人たちに債務を弁済するほどの余裕はありませんから。マレック氏に責任を問うために、唯一の相続人である、息子さんに連絡も取りましたが……
ハム
とりつくしまもありませんでした。彼は征戦騎士でしてね、外にいますから、交渉にも時間がかかります。
ハム
土地問題は適切な解決に至っていませんが、当面の急務は村人たちの現在の生活を保証することです。
ハム
また、住民の皆さんはできるだけ、話し合いによる解決を望まれています。私どもとしては、国民議会の複雑な審議プロセスにかけることは避けたいところです。
デーシュット
もちろんです。時間は最も貴重なものですし、簡潔に解決できればそれに越したことはありません。
ハム
ロックヴィル村の住民たちは、ゲイル工業との交渉を私に一任しました。私も彼らと約束してあります。必ず公正公平で適切な立ち退き料を得てみせますと。
ハム
では、まず初めに住民たちが提示する賠償額についてご説明させていただきます。
ハム
こちらの希望としましては、ゲイル工業に対し、各世帯が有する農地の一割にあたる面積の宅地割り当て及び各世帯に8万マルクの立ち退き料を請求します。
デーシュット
その数字はどうやって算出したんですか?
ハム
これは専門家の市場評価、およびロックヴィル村の住民たちによる検討を経て出された数字です。
ハム
集団移住が生活に与える影響、及びゲイル工業の経済力を鑑みた場合に、これは双方にとって妥当な数字だと考えています。
デーシュット
うーん……交渉である以上、当然そちらに理想的な金額を提示する権利はあります──では私からもゲイル工業が提示する金額をお伝えしますね。
デーシュット
こちらは各世帯における宅地面積の三分の一にあたる住宅を都市内に手配し、また各世帯に800マルクの立ち退き料を支払います。
ハム
……
デーシュット
あれ、聞こえませんでしたか? もう一度言いますね──
ハム
デーシュット先生、冗談を言っている場合ではないと思いますが。
デーシュット
ハム先生、私は冗談なんて言ってませんよ。
ハム
でしたら、ロックヴィル村の土地の価格設定について初めから説明する必要があるようですね。
デーシュット
お伺いします。
ハム
ロックヴィル村から最も近い、ストルミコボ村のケースを例に挙げましょう。
ハム
昨年、あちらの領主はミェシュコ工業と取引を行い、領地内すべての農地を売却しました。最終的な取引価格は一ヘクタール当たり60万マルクでした。
ハム
ストルミコボの農地の質と地理的位置は、ロックヴィルと非常に類似しています。つまりこの取引価格は、ロックヴィル村の土地価格に対しても一定の参考価値があると考えています。
デーシュット
奇遇ですね。あなたが例に挙げた話は、私も少し知っています。しかしストルミコボ村の状況をロックヴィル村と同一視するのは、あまりに軽率だと思いませんか?
ハム
ご意見を伺いましょう。
デーシュット
まず、二つの村は大騎士領から直線距離ではほとんど同じですが、ストルミコボ村までは幹線道路が通っていますよね。それに対してロックヴィル村へは、長く険しい山道を越えなければなりません。
デーシュット
二つの村は交通の便において著しく隔たりがあります。それに村の内部に目を向けると、ロックヴィル村は山地が多くの面積を占めています。
デーシュット
次に、先ほどおっしゃっていた「農地の質」というのは曖昧な概念です。慣例に従い、より直観的な方法で衡量するのであれば、産出される作物によって土地を評価すべきです。
デーシュット
ストルミコボ村の場合、栽培から食品加工にいたるまでの生産ラインが完備されていました。土地が産出できる作物の価値は明確に示されています。
デーシュット
ですがロックヴィル村の主要な農作物はホップで、さらには村唯一のビール加工工場も数ヶ月前に倒産しています。聞くところでは、深刻な環境問題も引き起こしたそうですね。
デーシュット
ですからロックヴィル村の土地を評価するには、作物の市場価値を考慮する必要があり、先ほど述べた交通の不便さもマイナス要因となります。
デーシュット
以上の部分だけでも、二つの村の土地には大きな違いがあるのは明確です。おっしゃっていた「参考価値」というのは、一体どこにあるのでしょう?
ハム
先生のおっしゃる通りかもしれません。ですが土地の価値だけが補償請求の根拠ではありません。
ハム
村人が住所の移動を余儀なくされ、なおかつ生計維持の手段すらも奪われたことを考慮しなければなりません。我々がゲイル工業に補償を請求する理由は充分です。
デーシュット
ハム先生、統計資料をお調べになったことはありますか?
デーシュット
十年前、ロックヴィル村には215世帯があり、その中で農業生産に従事している割合は85%、農地利用率は95%でした。
デーシュット
現在、このデータはそれぞれ137世帯、15%、21%となっています。
つまり、ほとんどの住民が軽工業と手工業を主な生計の手段としている状況で、単に農地を占有しているからという理由で村人全体に対する補償をゲイル工業に要求するのは……
あまり理にかなっていないのでは?
ハム
たとえ15%であっても、蔑ろにされていい理由はありません。
デーシュット
ハム先生、十数年前までは、大騎士領の街のそこかしこでニューススタンドがあったのをご存じですか?
デーシュット
騎士競技の観覧チケットが手に入らない、または買えない人々は、新聞が届くのをニューススタンドで待って、試合の情報を得ていたんです。
ハム
もちろん知っていますよ。私も若い頃は、ニューススタンドをよく利用していましたから。
デーシュット
ですが、近年の都市間ネットワークや物流の発達によって、今の都市にはニューススタンドなんて影も形もありません。
デーシュット
かつてニューススタンドを生業にしていた人々は一体どうなったと思います? 政府から一ヘラーの補償でもありましたか? これはあなたの言う「公正」に合致していますか?
ハム
その例えが完全に当てはまるとは思えませんが……
ハム
デーシュット先生、歴史について語るのならば……各国の歴史において、土地の併合に関する問題が途絶えたことがないのもご存知でしょう。常に不確定要素として、存在しているのです。
ハム
今回のロックヴィル村の土地取引価格も、今後は他の村の土地取引の参考価格になるはずです。
ハム
もし国民議会が裁決を行う場合、ゲイル工業が法外な低価格でロックヴィル村の土地を買い付けることを彼らが許すと思いますか?
デーシュット
ハム先生、あなたは根本的な概念をはき違えているようですね。
デーシュット
ゲイル工業が支払うのは「保障金」であって「土地の購入代金」ではありません。マレック氏とゲイル工業との取引が先にあり、村人との取引はその後にあるからです。
デーシュット
そもそも法的に言うならば、債務不履行に陥った時点で、ゲイル工業はロックヴィル村の土地を自由にしていいんです。あなたもご存知だから、マレック氏の子息に連絡をとったのでは?
デーシュット
ゲイル工業は、社会的責任の観点からこちらの住民に保障をする必要がありますが、このお金と土地の取引額とを結びつけるあなたの論理は、破綻しています。
ハム
そ、それは……
ハム
ですが……あなたの提示金額では、村人たちが受け入れるのはやはり難しいでしょう。
デーシュット
もちろん、これは最初の提示金額にすぎません。依然議論の余地はありますよ。最悪の事態に陥っても、我々にはまだ国民議会に仲裁の申請をする権利が残されています。
デーシュット
ただその時は、私たちの今の対話を、裁判官にもう一度陳述することになるでしょう。法廷でさらに高い価格を勝ち取る自信がどれだけありますか?
ハム
それは……その……
デーシュット
では、ここまでの議論を踏まえて「公正公平で適切」な立ち退き料が一体いくらになるのか、改めて評価しましょうか。
デーシュット
交渉成立を祝って、カンパーイ!
ハム
か……乾杯。
デーシュット
ふぅ──ぷはぁ。こんなにリラックスした気分でお酒を飲むなんて随分と久しぶりね。今回の出張も悪いことばかりじゃなかったわ。
ハム
あなたの今回の出張、私にとっては災難でしたけどね……
デーシュット
ハム先生、そんなに落ち込む必要ありませんよ〜。常勝不敗の弁護士なんていやしないんですから。それに今回は示談交渉に過ぎません。期待した金額が得られないのも、よくあることですよ。
デーシュット
落ち込まないでくださいよ。弁護士に定年はありませんからね。これからゆっくり努力していけばいいんですって。せめて今くらい、ここの美味しいビールを楽しみましょう!
ハム
デーシュット先生、実はずっと前から、あなたについての噂は聞き及んでいました。
ハム
『ザ・レッドワイン』が以前、あなたの無敗記録について記事を書いていました。粒揃いの「ロングレインズ法律事務所」の中でも、あなたは最も優秀な弁護士の一人です。
デーシュット
そこまで持ち上げられると、結構恥ずかしいですね、アハハ……
ハム
ゲイル工業の代理人があなただと知った時、こちらの有利な状況に進めるのは難しいだろうと予想はしていました。
ハム
それでも交渉のために最大限の準備をして来たのですが、あなたは私が想像していたよりはるかにすごい方です……
ハム
デーシュット先生、教えていただけませんか。
ハム
プロの弁護士の視点から見て、私の今回の仕事に何か問題はあったでしょうか?
デーシュット
うーん、たくさん準備をされたのは確かに見て取れました。ですがその方向で過ちを犯していますね……
ハム
方向で過ち?
デーシュット
まあまあ、業務時間外にまで仕事の話はやめましょうよ。こうして楽しくお酒を飲むための、前座みたいなものですって。さ、飲みましょう!
ハム
デーシュット先生、契約はもう締結されたことですし……一つ質問に答えてもらえますか?
ハム
この土地売買に関する案件で、あなたにはいくらの報酬が入ってくるんですか?
デーシュット
おーっと、かなりぶっ込んで来ましたね……うーん、いくらだと思います?
ハム
大騎士領の法曹界におけるあなたの評価から察するに、期待された価格の範囲内に収めたなら、少なく見積もって5万マルク?
デーシュット
まさか〜。
ハム
10万マルク?
デーシュット
(首を横に振る)
ハム
いや、これ以上は想像つきません……
デーシュット
実は、今回ゲイル工業はこの案件解決に100万マルクを用意したんです。つまり、この価格内で交渉成立させれば、残りのお金は全部私のものってことです。
デーシュット
はぁ、でもガッツリ税金で引かれちゃうんですけど。
ハム
私では一生かけてもそんな大金は稼げません……
デーシュット
ていうか、ここのビール本当に美味しいですねぇ。マスター! もう一杯!
若いバーの店員
ありがとうございます。ふふ、うちのビールは独自の発酵法を使ってますから、よそじゃ絶対に飲めませんよ。
デーシュット
え? 他の場所では絶対に飲めないんですか?
デーシュット
お嬢さん、ちょっと話し合いませんか? いくら出せばその秘伝の製法を売ってくれます?
若いバーの店員
無理ですね。パパが絶対に首を縦に振らないので。
若いバーの店員
それに、製法だけお渡ししたとしても、あまり意味がないんです。このビールはロックヴィル産のホップでしか作れないんです。もし気に入ったのなら、お土産にたくさん買って帰ってくださいね!
若いバーの店員
……ここの土地は商業連合会に買い取られてしまいましたから、次来た時はもうホップはなくなってるかもしれませんしね。
デーシュット
うーん、それは残念だなぁ……
ハム
デーシュット先生、私にロングレインズに入るチャンスはあると思いますか?
デーシュット
ゴホゴホッ……ゴホッ……今何て?
ハム
すみません、自分が力不足なのはわかってます。でもお願いです、私を推薦していただけませんか? インターンからでも構いません……ちゃんと働きますから!
デーシュット
親切で村人の代理を務めるような弁護士なら、大企業専門の法律事務所なんて眼中にないとばかり思ってましたよ。
ハム
とんでもない! そんなことは思ってもいません……元々、弁護士の責務は依頼人のために利益を勝ち取ることです。これは文句のつけようがないことです。
デーシュット
それがたとえ、大企業の手先になって、力のない平民から利益を奪い取る仕事だとしても? こんなものはちっとも「公正」じゃありませんよ。
ハム
私はこの業界で五年間やってきました。今さら、「公正」なんて言葉を誰が信じると思います?
ハム
分厚い法典をいくらめくっても、その中から「公正」の二文字を見つけることはできません。
ハム
確か法学書の中にこんな一節がありましたよ。ええと……規則は矛盾をもたらすだけで、公正をもたらすことはできない……
デーシュット
「人為的に定められた法によって公正を実現しようとする考えは、それ自体が一種の矛盾である。」
ハム
そう、それです! そういうことなんです。
ハム
ましてや私はしがない一介の弁護士、公正をもたらすことなど……大騎士領内でまともな部屋を借りることさえできないんですよ……あのう、デーシュット先生?
デーシュット
うー……あっ、ごめんなさい、ボーッとしてました。
デーシュット
ちょっと思ったんですよ。私がみんなから立ち退き料を搾取した悪徳弁護士だと、さっきの店員さんが知ったら、このバーから叩き出されるのかなって。
デーシュット
すみません、少し飲み過ぎちゃったみたいです。外で風に当たって来ます。事務所の件は、また今度話しましょう。
デーシュット
ふぅ……
デーシュット
……
彼女は空を見上げた。ふと自分が長い吐息をもらすのさえ、場違いであるように感じた。
静かな闇夜が彼女を包み込む。まるで延々と続く灯火を遮るため、緞帳を下ろそうと初めて思い至ったかのように。
デーシュット
大騎士領の外の夜空には、まだ星が見えるんだね。
デーシュット
こんな星空を見たのは、何年ぶりだろう?
デーシュット
皆さんはじめまして、デーシュットと申します。今日からお世話になる見習い弁護士です。
デーシュット
初めての仕事ですが、持てる知識と能力をフルに発揮して、法に則り公正を守りたいと思います!
デーシュット
(え、どうしてみんな笑うの……私何か変なこと言ったかな?)
デーシュット
ほんと……何年も昔の話だな。
デーシュット
ムリナール氏、まだこちらにいらっしゃったんですね!
デーシュット
よかったです! 昼間は慌ただしかったので、もう行ってしまったと思ってたんです。お礼がしたくてもできないんじゃないかと心配しましたよ。
ムリナール
……事故があって、道が封鎖されてしまったんだ。
ムリナール
それと、これはお前のだろう。
デーシュット
あっ、制服に付けてた身分証……いつ紐が切れちゃったんだろ? 転んだ時かな……
ムリナール
何者かにマークされていた。
デーシュット
え?
デーシュット
ア、アハハ……あ、ありがとうございます! 命拾いしたってことですかね……
ムリナール
機嫌が良さそうだな。ゲイル工業のために満足できる金額を勝ち得たのか。
デーシュット
まあそれなりですかね、アハハ……ふぅ、あなたも私のことを職業倫理に欠ける弁護士だと思いますか?
ムリナール
そのような発言をするほど、常識に欠けてはいない。
デーシュット
……一つお伺いしたいことがあります。
デーシュット
例のゲイル工業の入札会が終わった後、競争相手のウエストランド社が、深刻な建材品質問題で起訴されたことはご存じですか?
ムリナール
……新聞はたまに読むのでね。
ムリナール
大騎士領において、建材市場の手抜き問題などは日常茶飯事であるにもかかわらず、記者はあの会社の不祥事のためにかなりの紙面を割いていた。
ムリナール
それに国民議会が課した罰金の総額は、彼らが破産するには充分な額であったからな、印象に残らない方が難しい。
デーシュット
やはりよくご存じのようですね……それとも、実は記事になる前にはすでに知っていたとか?
ムリナール
……
デーシュット
あなたは、ウエストランド社のやり方を知っていた。そして病院建設のプロジェクトを彼らに請け負わせたくなかった。だからあの契約を何としても勝ち取ろうとしたのでは?
ムリナール
……やり手の弁護士は、甘い発言はしないと思っていたが。
デーシュット
甘いですか?
ムリナール
どういった経緯で、その馬鹿げた結論に至ったかは知らないが、今の言葉は私への侮辱にしか聞こえん。
デーシュット
ごめんなさいって、ただ世間話がしたかっただけなんです。
ムリナール
……今日はもう遅い、戻って休むことにする。
デーシュット
ここの特産品のビールは飲んでいかないんですか?
ムリナール
酒は嫌いだ。
デーシュット
話し相手が欲しかっただけなのに、また間違ったこと言っちゃったみたいだな〜……
デーシュットは、道端のさほど広くない農地へとゆっくりと歩いていく。
秋の収穫後、畑に残された茎はきれいに倒れ、まるで天然の寝床のようだった。湿った空気と混ざり合うホップの香りが、清々しくて心地よい。
デーシュットはその上に横たわると、指を一本伸ばし、何かを探すように星々をなぞる。
デーシュット
繋げたら天秤になる星って、今はどこにあるんだっけ?
はい、デーシュットです。ええ、ご安心ください、交渉成立しましたので。何も問題ありません。
申し訳ございません、本日中に大騎士領に戻るのは無理そうです。はい、追加の出張時間は有給から差し引くということですね、異論ありません。
これ以上は問題は起きないと保証いたします。もちろん、契約書はできるだけ早く──また切られちゃった……
ったく、ただ静かに星を眺めてたいってだけなのに、それも無理なんてね……
デーシュット
ちょっと変わるべきタイミングなのかも。
ハム
デーシュット先生、まだ残ってやるべきことがあるので、お見送りはここまでで失礼します。
ハム
今回の交渉を通して、多くのことを学ばせていただきました。本当に感謝します……
デーシュット
とんでもありません。今度大騎士領でお会いできたら、また一杯ごちそうしますね!
ハム
いや、今度も私がごちそうすべきかと……
ハム
あの……ロングレインズの件は……
デーシュット
まだあきらめてなかったんですね……まぁ、推薦してあげられないわけでもないんですよ。
デーシュット
では、まず簡単なテストをしましょう! これを見てください。
ハム
これは……もしかしてゲイル工業とマレック氏が結んだ土地売買契約書?
デーシュット
よーく見てみてください、何かに気付きませんか?
ハム
内容に問題は見当たりません、細部も完璧です……いや待ってください、ここの取引人のサインがマレック氏ではなく、彼の息子の名前になっている!?
ハム
契約当時マレック氏はまだご健在です。息子を代理人に立てたという証明書類は添付されて……いませんね。
ハム
ならば、息子さんには父親に代わってこの契約にサインする資格なんてないはずです。
ハム
その他にも……マレック氏の息子さんは征戦騎士であるのに、なぜゲイル工業とこれほどたくさんのビジネス的なやり取りをしているのでしょうか?
ハム
いずれにしても……改めて見ると、ゲイル工業のロックヴィル村の土地に関する取引は、まったく成立していないじゃないですか!
デーシュット
そうとも言い切れませんよ。何しろマレック氏はすでに亡くなっていて、ご子息は相続人ですし、ゲイル工業にも、取引の合法性を証明する手段は無数にありますからね。
ハム
ですがこれは重要な突破口になり得ますよ……デーシュット先生、これほどの機密文書を……故意に漏洩したとなれば、弁護士資格を取り上げられるのでは……
デーシュット
単に重要な資料を交渉の場でうっかり紛失してしまっただけです。それがどうして故意の漏洩になるんですか?
ハム
さすがですね……
デーシュット
正直に言うとですね、本来あなたは交渉の初期段階でゲイル工業にこれらの資料を請求すべきだったんです。
デーシュット
もちろん向こうはあの手この手で隠蔽しようとするでしょうが、それでも彼らは後手に回りますから、優位に交渉を進められるでしょう。
デーシュット
この点について考えが及ばなかったのは、あなたのミスですね。
ハム
つまり初めから、法的根拠の薄い筋で攻めるのではなく、土地売買に関する違法性を指摘すべきだったということですね。
ハム
これがあなたがおっしゃった、方向の過ちですか?
デーシュット
ちょっとヒントを出しただけでそこまで理解するなんて、あなたは優秀じゃないですか。
デーシュット
適切な証拠は弁護士にとって弾丸のようなものです。ですが威力を発揮するにはそれに見合う銃がないとダメなんですよ。ハムさん、どうすればいいのか、考えはまとまりましたか?
ハム
よく考えておきます……
デーシュット
今回締結した契約書は、そのままクライアントに送ります。ですが同時に、あなたから重要証拠を発見したという理由で、国民議会に訴訟を起こしてみましょう。
デーシュット
保障金について再交渉するもよし、ゲイル工業の買収を完全に拒絶するもよしです。
デーシュット
最終的にどんな結果が得られようと、あなたは今回の案件を履歴書に書くことができます。それを持ってロングレインズに行って話してみてください。
ハム
ですが……なぜ?
ハム
なぜあなたはこれほどまでに大きなリスクを冒して……ここの村人を助けるんですか?
デーシュット
いやいや、私はそんな立派な人間じゃありません。
デーシュット
そうですね〜、今後もこのロックヴィル村のビールが飲みたいからだとでも思ってください。
村のトランスポーター
はい、こちらが昨晩の事故の犠牲者の方々です。ズウォネクへ向かうマイクロバスでした。
村のトランスポーター
この老人をご存じなんですか? それは珍しいですね。私は十数年ほど配達業務をしてきましたが、彼が誰かに手紙を送るのも、何かを受け取っているのも見たことがありません。
村のトランスポーター
彼は新聞すら買ったことがないんです。ものを教える人だとは到底思えませんよ。
村のトランスポーター
ところで今日の新聞はいかがですか? たったの50ハレル。例の事件についても書いてありますよ。
村のトランスポーター
都市に住めないことについて感染者が抗議したらしいです。あんな命知らずな暴徒たちを都市に入れるなんて……そんな度胸がある奴がいるわけないですよ。
デーシュット
ムリナール氏!
デーシュット
車の修理は済んでるんですけど、また道案内してもらえませんか?
ムリナール
私が向かうのはズウォネクだ。大騎士領とは方向が異なる。
デーシュット
いえいえ、私もしばらく大騎士領へは戻りませんよ。
デーシュット
うん、ズウォネクへ行くというのも悪くないかもしれませんね!
ムリナール
行って何をするつもりだ?
デーシュット
今のところは具体的に考えていませんが……
デーシュット
ちょっとした休暇ですかね。それから、新しい仕事を探そうかなと思います。