塞ぎきれない鍋蓋

アツアツのお鍋の中でスープがコトコト煮える音は、聞いていてとても心地がいい。
パパのラジオのノイズも、研ぎ師のおじいさんのお客さんを呼び込む声も、そばの動力炉の駆動音も……どれも心地いい音だけど、もう聞けなくなってるか、もうすぐ聞けなくなるものばかり……
コンロの火が揺らめいてる。悲しい顔をしないで、もっと楽しそうにしなくちゃって元気づけてくれてるのかな……パパもそう言ってたみたいに。
うーん、ちょっと火加減が弱いかも。もう少し強めよう。フゥー。
ん? この音って、もしかして……
鍋蓋ちゃん
ランナお姉ちゃん! またお碗を叩いたりして!
その癖はやめてって前にも言ったじゃないですか! ひと様の迷惑になっちゃいますよ。
アランナ
いいじゃないか。駅なんて元々騒がしいし、聞こえやしねぇって。それにここはあたしの車ん中だぜ? これくらいの自由はあったっていいだろ。
鍋蓋ちゃん
もう! いつも言い訳ばっかり!
アランナ
だって暇だしよぉ……
しかもどこの誰かさんが、今日に限ってやたらたくさん作るもんだから、こっちは待たされっぱなしでもうお腹ペッコペコ!
せっかくの料理が冷めるのを見てるだけってもの忍びねぇから、こうして音を立てて注意してあげてんだよ。まだだぞ、まだだぞ、鍋蓋(なべぶた)ちゃんが席に着くまで冷めちゃダメだぞってね。
鍋蓋ちゃん
またそんないい加減なことを……まったく、ランナお姉ちゃんったらいっつもこうなんだから。わがままな子供みたい。
そこまで暇なら、厨房に来て手伝ってくださいよ!
アランナ
いやいや、あんたっていう「六つ星シェフ」がいるんだからあたしの出る幕はないだろ。頼りにしてるぞ、鍋蓋ちゃん!
鍋蓋ちゃん
あー、また! だから「鍋蓋ちゃん」はやめてって――
アランナ
――ところで、この赤いのはなんだ?
鍋蓋ちゃん
あっ、それは瘤獣肉のトマト煮です!
できたてアツアツですから、きっとすっごく美味しいと思います!
アランナ
瘤獣肉の、トマト煮だって? だったら何でこの色なんだ……もっと黄色っぽい出汁になるはずだろ――
言い終わるよりも早く、アランナは湯気の立つお碗からスプーンで大きな瘤獣肉の塊をすくい上げ、口の中に放り込んでいた。
あまりの熱さに口を開けて、ハフハフと冷まそうとしながらも、アランナはグッと親指を突き立てた。
アランナ
……はふっ……ふぅ……
んまーい! こりゃいけるな。さっすが、うちのトレーラーの「六つ星シェフ」サマ。
鍋蓋ちゃん
えへへ、それほどでも~。
まあ、ランナお姉ちゃんのおかげでもあるんですけどね。とびっきり新鮮なお肉を手に入れてきてくれましたから、調味料で味を誤魔化さずに、ありのままの美味しさを引き出せました。
アランナ
そうなのか? きっとあたしらがもうじきここを出ると知って、市場の大将が気を利かせて新鮮なのを見繕ってくれたんだろう。二年も常連として通った甲斐があったってもんだ。
鍋蓋ちゃん
それはどうでしょう。ランナお姉ちゃんの話を聞いた限りだと、大将さんは最初からわたしたちのことを気にかけてくれてたんじゃないかなって思うんです。
想像ですけど、きっと背が低くて、おおらかで、汚れたエプロンを着けた、アイアンヘッドおじさんみたいな感じの人ですよね。
アランナ
あー、残念ながら、そいつは見当違いだ。あの人はな、包丁片手に店の前に立ってるだけで、市場を行き交う誰もがニンジン一本くすねるのをはばかるような、そんな人さ。
……まあ、なんだ。もう少し大きくなったら、街に出て自分で確かめて来てもいいぜ。
そういやこの、瘤獣肉のトマト煮? 食べたのいつぶりだっけか?
鍋蓋ちゃん
えーと。
わたしたちが初めて一緒にご飯を食べた時じゃないですか?
その時はランナお姉ちゃんが料理してましたよね!
アランナ
はぁー、だとしたらだいぶ久々だ。あんたよくそんな昔のことを覚えてられるな。
鍋蓋ちゃん
それはもちろん!
「料理なんてちょちょいのちょいよ」って言ってた挙句、あんな超絶すっぱいものを出されたら、誰だって覚えちゃいますよ。
アランナ
ゴホン……そりゃー、あのトマトがそんな酸っぱい品種だとは知らなかったからだよ。出来上がったスープも黄金色で美味そうだったしな。こりゃメシが進むぞって思ったんだ。
鍋蓋ちゃん
たしかお姉ちゃんも、食べたあと酸っぱすぎて口元がギュッてなってましたね。
アランナ
は、腹が膨れりゃそれでいいだろ! 味なんて二の次! ていうかあんた、それでも全部平らげてたじゃないか!
鍋蓋ちゃん
食べ物を粗末にするのはよくないですからね。それにあの時は……
さあ、昔話もほどほどに、もういただいちゃいましょう。でないとランナお姉ちゃんがまた冷めたとか、ケチをつけ始めますからね。
そう言いながら、彼女は食卓に置かれた食器にそっと手を添えた。すると立ちどころに、料理は出来立てホカホカの状態に戻った。
ふわりと湯気が立つ料理を見て、アランナの顔つきが一瞬で険しくなる。
アランナ
ちょっと!
約束したよな? もうそんな風にアーツを乱用しないって。
鍋蓋ちゃん
あっ……
でも、こうした方がすぐに温められますから……
料理の一皿や二皿くらい、きっと大丈夫ですよ!
アランナ
……
そうかい。じゃあ好きにしな。結局あんたの身体だし。
けどアイアンキャロットシティに着いたら、頼れる先生を探して、正しいアーツの使い方をきっちり学んでもらうからな。
鍋蓋ちゃん
……
アランナ
なに見てんだ? ほら、あんたも早く食べな。
少女は食器の縁からこぼれたスープを布巾できれいに拭き、そして手を拭った。
それから分厚い本を数冊、棚から取り出すと、椅子に一冊一冊積み重ね、その上に腰掛ける。
そうして片方の腕をテーブルに置き、もう片方の腕にあごを乗せ、目を細めてニコニコしながらアランナを見つめた。
鍋蓋ちゃん
アイアンキャロットシティに着いたら、このトレーラーは会社に返却で、路線も廃止されちゃうんですよね。
アランナ
ああ。
鍋蓋ちゃん
そっか……
アランナ
名残惜しいのか?
鍋蓋ちゃん
……そうでもありません。
ウォーミーはいつもポジティブですから。
アランナ
あっそ。
それで、廃線になった後も、この車に残るつもりか?
ま、こいつならたぶん返却されても廃棄処分にはならないだろう。ただ、これまで停まってた停車駅たちにはもう寄れないけどな。
鍋蓋ちゃん
……
だとしても、わたしはポジティブなので……だから、きっと、落ち込んだりしません!
……それに、ランナお姉ちゃんがついてってくれますから、なおさら落ち込むことなんてありません!
アランナ
……
アランナはウォーミーの頭を撫でた。それに応えるように、彼女は耳をピクリと動かした。
鍋蓋ちゃん
えへへ……
アランナ
どうかした?
鍋蓋ちゃん
く、くすぐったいです……
コータスの少女の反応に、アランナは思わず笑みを零した。
アランナ
そんじゃ――
いつもお利口さんで、元気いっぱいの鍋蓋ちゃんに、お使いでも頼んじゃおうかな?
鍋蓋ちゃん
え? でもウォーミー、もうずっと街に出てないのに……
アランナ
大丈夫大丈夫。
実は車のスピードを上げるために、安全弁を取り外しちゃってるんだけど、車検の時に会社にバレたらまずいんだ。
そこで、新しい安全弁がご入用ってわけ。
長旅になるからな、当然日用品も必要だ。仕事仲間が少し分けてくれると言ってたけど、そこまで世話はかけられねぇ。
鍋蓋ちゃん
そうですか……自動車工場のおじさんたちは、ランナお姉ちゃんがここを出て行くってこと、もう知ってるんですか?
アランナ
ああ。けどまだ色々とやんなきゃいけないことが残ってて、これから片をつけに行く。ひょっとしたら一晩かけても終わんねぇかも。
鍋蓋ちゃん
わたしを連れてくつもりなのも、知ってるんでしょうか?
アランナ
まあ、そうだろうね。
――だから、他のことは全部頼んだぜ。なんたってウォーミーは立派で頼もしいんだから。
おっと、こいつを渡さなきゃ――
アランナはよれよれの文字が書かれた一枚の紙をウォーミーに手渡した。
アランナ
扉のとこの袋に入ってるもんを売れば、いくらか足しになる。
財布も渡しとくから、そいつの中身と売った金で、リストに書いてあるのを買ってきてくれ。頼んだぞ。
あたしは最後の仕事を片付けてくるよ。
鍋蓋ちゃん
最後の、ですか……
アランナ
役割分担してさっさと済ませよう。いいね?
鍋蓋ちゃん
……はい、任されました!
雑貨屋の店主
――するとハガネガニは目を覚まし、のそりと起き上がった。「カチカチ!」とデカい音がしたと思った時にゃあもう、タワークレーンはバラバラに切断されてた。
鉄筋が落ちてきたって、甲羅に穴一つ空きやしねぇ。そんなハガネガニを見た連中は当然、手に持ったシャベルやら溶接トーチやらを放り出して、慌てて逃げ出したってわけさ。
ハハッ、面白いだろ? 何やら実在する人物を……おっと違った、カニを題材に制作された映画らしいぜ。今夜、向こうのスラグ置き場で開かれる野外劇場で、こいつを上映するんだ。
寡黙な客
……
雑貨屋の店主
なぁに、礼はいらねぇよ。その顔を見りゃあわかるぜ、お前さん越してきたばかりだろ?
それからここでのボウリングとトランプゲームのルールについて、もうちょっと詳しく説明しておこうか。工場区画ごとに、ルールがそれぞれちょっとずつ違うってのは知ってるよな?
寡黙な客
……サンドビースト、一匹お願い。
雑貨屋の店主
……ゴホン。いいだろう。
そこの籠の中から好きに選びな。うちで売ってんのは、どれもしっかり手懐けてあるぜ。よく食べてよく寝る、人懐っこい子たちばかりだ。
ところでお前さん、そんなにおしゃべりが苦手なのかい? たとえばよ……今日はいい天気だろ? 珍しく砂埃のない青空だ。こんなお天気じゃそっちも仕事がしや――
鍋蓋ちゃん
ど、どいてくださ――い!
と、止まれないんですー!! わああああ――!
ううっ……
……大丈夫です! それに、わたしはもう子供じゃないので、これくらい何ともありません!
って……あわわ。鍋もお椀もみんな散らばっちゃってます。せっかく頑張って積み上げたのに……
女の子が腰をかがめ大きな鍋を拾い上げようとするのと同時に、横から別の誰かが手を伸ばしてきた。
お互い反射的に手を引っ込め、一歩退く。ウォーミーは慌てて、手を隠すように袖口を引っ張った。
寡黙な客
……
鍋蓋ちゃん
……あの、自分で拾えますから、大丈夫ですよ。
寡黙な客
わかった。
鍋蓋ちゃん
それと、さっきはカートを止めてくれてありがとうございました!
寡黙な客
いいよ。止めてとは言われなかったけど、前にゴミ収集車があったから。ぶつかったらよくないし。
鍋蓋ちゃん
え? ……たしかに、それもそうですね!
それとごめんなさい、店長さん。お店の入り口をこんなに散らかしてしまって……すぐに片付けますから!
雑貨屋の店主
気にするこたぁねぇ。焦らずゆっくり拾いな。
鍋蓋ちゃん
あれ……
あの、もしかして、「アロイ・ロングイヤー」って雑貨屋さんはこちらですか?
店長さん、商談させてください!
雑貨屋の店主
商談? ハハッ……嬢ちゃん、おうちの人はどこにいるんだい?
鍋蓋ちゃん
ここはわたしひとりで十分です。お姉ちゃんにはお姉ちゃんの仕事があるから、今回は役割分担をしたんです。だからお願いします!
雑貨屋の店主
ふむ……わかった、じゃあちょっと待ってな。
そっちのお前さんは、どのサンドビーストにするか決まったかい?
寡黙な客
……
もうちょっと見てる。
雑貨屋の店主
じゃ先にこっちの嬢ちゃんの対応をするぞ――で、何を探してるのかな?
鍋蓋ちゃん
その前にまずこの袋に入ってるものを売らせてください。お買い物はその後です。
店長さん見てください。この食器も、源石コンロも――これだけきちんとお手入れをして、ピカピカに磨いてある調理器具なら、けっこうなお金になりますよね。
雑貨屋の店主
ゴホッ、ゲホゲホッ……取っ手まで真っ黒に焦げた鍋に、歯の欠けたフォーク、それから鉄クズ……これを全部買えってのかい?
鍋蓋ちゃん
はい……これを売ったお金とお財布の硬貨を合わせて、安全弁と溶接ホルダー、ラッカー缶を買わないといけないので……
雑貨屋の店主
ハァ……じゃあこうしよう。まずは買いたいもんをレジまで持ってきな、少し安くしてやるから。それでも足りない分は、中古品を買い取って宛がうことにしよう。悪いが残りは持ち帰ってくれ。
鍋蓋ちゃん
それじゃダメなんです。これは全部売らなきゃいけなくて。
雑貨屋の店主
冷凍ニンジン一本おまけしてやるから、そいつで勘弁してくれ……
鍋蓋ちゃん
えっ……! やったぁ!
雑貨屋の店主
よし、これで交渉成立だな。どれどれ……おっ、このコンロだけで足りそうだ。ほかのガラクタは自分で持って帰んな。いいな?
鍋蓋ちゃん
……やっぱり、ダメです。
雑貨屋の店主
……変わった子だな、どうしてそんなに全部売ることに拘る? 悪い子に見えないから譲歩してやったが、そんな様子じゃ夜逃げのために身辺整理してると疑われても文句は言えねぇぞ。
それによ、嬢ちゃんのような身元もよく知らねぇ相手から、あれこれホイホイ買い取って他のお客に売るような真似はできねぇよ。感染者の所持品だったら大変だろ?
鍋蓋ちゃん
……
だから半日で全部売りさばくのは無理だって言ったんですよ……なのにランナお姉ちゃん、全然信じてくれないから……
……わかりました。それじゃコンロでお願いします。残りはまたあとで考えてみます!
雑貨屋の店主
……待った、嬢ちゃん。誰に言われて来たって?
鍋蓋ちゃん
えっと、ランナお姉ちゃんですが、あの「荒野のアランナ」です。
雑貨屋の店主
なるほどな。合点が行ったぜ。嬢ちゃんとは初対面だが、あいつのことなら知ってるよ。こんな小さい子に厄介事を押し付けるのも、あいつならやりそうなことだ。
ほら、脚立だ。こいつに登れば査定をしてるとこがちゃんと見えるだろ? 帰ったらあいつに伝えな。ブツはひとまずこっちで預かってやる。時間が出来たらメシでもおごれってな。
鍋蓋ちゃん
えっと……つまり全部買い取ってくれるんですか? どうしてまた急に……
それもそっか……! わたしはもう子供じゃないんだし、頼まれたことはやり遂げて当然ですもんね!
雑貨屋の店主
なんだなんだ、「商談」に応じても応じなくても、結局はへそを曲げるのかよ。
鍋蓋ちゃん
え、何を言ってるんです? へそを曲げてなんかいませんよ。
うーん……商品棚には、ランナお姉ちゃんが言ってた型番の安全弁がないような……
雑貨屋の店主
見せてみな。
こいつはとっくに廃盤になってるぞ。労組が基準を定めてから「型落ち品の入荷は禁止」って営業手引にしつこいくらい繰り返し書かれるようになったんだ。だからうちには置いてねぇよ。
鍋蓋ちゃん
それじゃ困ります。別の場所へ探しに行かなきゃ……きっと見つけてみせます! 店長さん、わたしのカートを見張っててください!
雑貨屋の店主
って、おい……ハァ、今度アランナのやつにきちんと言っとかねぇとな。
姉ちゃんの方はまだ決まんねぇのかい? それとも、何か別のもんでもお探しで?
寡黙な客
……
アランナ
ったくグズグズしちゃって、見てらんねぇ。レンチ貸しな、あたしがやるから。自分の車のことは自分が一番わかってるってもんだ。
チャーリー
お前が俺を雇ってやらせてるんだろ。値切るつもりなら素直にそう言えよ、アランナ。
アランナ
あたしはあんたみたいに金欠じゃないんでね。酒にも溺れないし、事ある毎に車を故障させるようなこともしねぇ。
それに、あんたよりも手を動かしとかないと、鍋蓋ちゃんに自慢できなくなるだろ? あたしの腕前はどうだってね。
チャーリー
ハハッ、あのおチビちゃんか……
……なあ、今取り壊してるのって、もしやおチビちゃんの寝床だったとこか?
アランナ
ああ、そうだよ。
チャーリー
マジかよ、こりゃ参ったな! ハハハハ、俺の負けだ。
いや、ずっと見栄を張ってるだけだと思ってたんだよ。
正直言って、短気なお前のことだから、とっくにほかの誰かに預けちまってるもんだと思ってたんだ。
アランナ
……
チャーリー
――っと、悪い悪い。そう睨むなって。
アランナ
誰が短気だって? もとはあたしに子供の世話なんて無理だなんだと賭けはじめて、喧嘩売ってきたあんたらのせいじゃねぇか。それで腹が立ってあの子を引き取ったんだからな。
またナメた口利いてみな。顔面にボール蹴りつけてやる。
チャーリー
そうは言っても、俺たちはあの子にかれこれもう二、三年会ってないんだぜ。お前が自分で語ることを聞いてるだけじゃ、そう思うのも無理ないだろ。
キャタピラを巨大循獣に噛まれて壊されただの、天災の中で安全弁を緊急交換して速度を上げただの、たまたま間欠泉に放り上げられた乗客を乗せただの……お前は何でも本当みたいに話すからな。
アランナ
全部ホントの話だって。
チャーリー
へぇへぇ、全部ホントね。で、チビちゃんをずっと車ん中に閉じ込めて、外へ遊びにも行かせないのは一体どうしてなんだ?
――まさか、今になってもあの車から降りたがらないのか?
……もしそうなら、明日こいつが運行終了したら、あの子はどうすんだ?
アランナ
……
……アイアンキャロットシティに着いたら何とかするさ。会社が新しい仕事を振って来ないってこともないだろうし。
チャーリー
何とかするって……待てよ、お前こっちでじゃなく、あっちで新路線の割り振りを待つつもりなのか?
つまり、ここへはもう戻らないってのかよ?
鍋蓋ちゃん
うぅ、結局これしか見つかりませんでした……お姉ちゃんが言ってた仕様とちょっと違うけど、一応付けるには付けられるってお店の人が言ってたし、きっと大丈夫だよね。
そろそろ日が沈んじゃう……もう帰らないと、今日中にやらなきゃならないことが終わらなくなっちゃうよ。
ランナお姉ちゃんも……きっともう帰ってるはずだよね?
おどおどした男
あの、そこの君? こんばんは。のんびり歩いてるから、発着所に急いで向かってるわけじゃないよね……
鍋蓋ちゃん
えっ、のんびり? そう見えますか? えへへ……
おどおどした男
少し時間、いいかな? ここからアイアンキャロットシティ行きのトレーラーの最終便って、何時発かわかる?
鍋蓋ちゃん
それなら夜の九時半です。
絶対に合ってますから安心してください。その路線のことはわたしが一番詳しいんですから。
おどおどした男
そうか……わかった、ありがとう、助かったよ。
九時半なら……まだ時間はあるな……
鍋蓋ちゃん
はぁ、なんだかランナお姉ちゃんのことが心配になってきちゃいました。どうしてでしょう……
都市間トレーラーの発着所は古い自動車工場の作業場近くにある。窓からは見慣れた灯りが漏れ出している。
ウォーミーは窓の埃を払い、中を覗き込む――
出口の通路が、労働者たちの出入りや、フォークリフトの積み卸しなどによる「業務ストレス」に耐え忍んでいるところだった。
その古びた通路は、まるで年老いた工場長が二十年間洗っては使い続けた鉄製の弁当箱のように滑りやすくなっていると、もっぱらの噂である。
労働者たちの歓声と口笛が響く中、金属の球――正確に言えば、廃材やクズ鉄を圧縮して丸く加工されたボールが、ツルツルの床の上に投げ落とされた。
ボールはゴロゴロと、前方へ向かって転がっていく。
「ブレーキ」
ナイスショット!
「モーター」
またストライク? 何て腕前……さすがアランナ! やっぱりレベルが違うわ!
「ブレーキ」
えーと、十八、十九……二十ポイントもリードされてるぞ。こんなのどうやって追いつけってんだ!
おい、ド下手のチャーリーボーイ! 大差を付けられる前に、その辺で引っこめ! 俺らの工場に恥かかせんじゃねぇ!
チャーリー
まあまあ、黙って見てろっての。今からお前らに、完璧な一投ってやつを見せてやるからよ。
いらん心配するよりも、その錆びた足りねぇオツムで考えとけよ。今夜の「アランナ送別会」を、どうセッティングし直してさらに盛り上げるかを……
そうだな。まずは垂れ幕を「祝・ラストスラグ自動車工場新人歓迎会――アランナ正式加入おめでとう」に変えるとこからだな!
「モーター」
本気なの? ここでストライクでも取れなきゃ、次の一投すら回って来ないのよ。
チャーリー
いいから見とけ。
チャーリーは身をかがめ、倒れているピン代わりの瓶たちを起こして並べ直すと、ズボンのポケットに手を擦りつけた。布地にくっきりと汗の跡が残る。
ボールを掴み、つま先をファールラインに当て、視線を真っすぐ前に向けたその時――
アランナ
待った。
チャーリー、この辺にしておこう。
チャーリー
……はあ?
アランナ
今はあたしがリードしてるけど、あんたにだって逆転のチャンスはある。だから「一時休戦」ってことでさ――今のスコアは、お互い納得のいく結果だろ。
つーわけで、今回は引き分けってことにしよう、な?
チャーリー
……
あのなぁ……うちの工場どころか、レム・ビリトン鉱業連合でやってる試合全部入れてもありえねぇよ、そんな決着。
俺の記憶が間違ってなけりゃ、確かこういう約束だったはずだ――俺が勝ったらお前はここに残る。逆にお前が勝てば、俺たちはもう引き留めねぇ。どこへなり好きに行っちまえってな。
それを引き分けにって……お前、身体を真っ二つにして、半分でアイアンキャロットシティに向かって、もう半分は工場に残すなんて真似ができるとでも?
それとも二重生活でも始めて、時間の半分を新生活に当てて、もう半分で俺たち腐れ縁の同僚と過ごすって寸法か?
アランナ
勘弁してくれ、あたしを新しく赴任してきた区画代表の腐れ野郎と一緒にするな。
奴らだったら確かに、朝っぱらから総会に出て最新の事業計画を発表したあと、午後から坑道に降りて現場監督してても、夜になればつまんねぇ社交パーティーとかに出席できるかもしれねぇけど……
あたしには絶対に無理だね。トレーラーの運転ひとつとっても、ハンドルを握るだけで精一杯さ。せいぜい、乗客たちのキテレツな話に耳を傾けられる程度の余裕しかねぇ。
だからあたしの提案は、こうだ――
まずはアイアンキャロットシティへ行って、やるべきことを片付けてくる。あんたらの工場に正式に加わる話については、また戻ってきた時に話し合おう。それでいいだろ?
チャーリー
そんなこと言ってよ……そもそも戻る気なんてねぇんだろ!?
いったいどうしちまったんだ、アランナ? 俺たちとの例の賭けのせいか? あのチビが原因なのか?
鍋蓋ちゃん
あっ! ランナお姉……ちゃん?
アランナ
……鍋蓋ちゃん?
鍋蓋ちゃん
な、な、なんでボウリングなんかしてるんですか? 片付けなきゃならない仕事がたくさんあるんだって、言ってましたよね?
アランナ
いや、それはつまり、賭けの勝敗がついてない以上は、当然片付けなきゃいけないわけで――
鍋蓋ちゃん
ハァ……
(小声)ランナお姉ちゃんったら……こういうところは瘤獣そっくりでマイペースなんだから。
頬を膨らませたウォーミーは手を高く上げ、アランナの肩をドンと押した。
その動作でずり落ちた袖口から、不規則な形をした黒い結晶体が露わになる。アランナがプレゼントしたブレスレットでも、その光沢を完全に抑え切ることはできなかった。
鍋蓋ちゃん
ん? 皆さん、どうしてわたしのことをじっと見てるんですか?
アランナ
――チッ、単なる野次馬根性だ。ほら、車に戻るぞ。
鍋蓋ちゃん
わぁ……
アランナ
どうだ? 四時間前までここに規定違反のキッチンがあったとは全然思えないだろ? 賭けてもいい、誰一人見抜けやしないってね。
これぞ、区画屈指のカスタム技術をもってこそ成せる技さ。めったに拝めるものじゃないぜ、あたしの本気は。
鍋蓋ちゃん
はい、もうすっかり面影もありません……
でも……全部取り外すとは言ってなかったじゃないですか……
……ううん、さすがランナお姉ちゃん!
すっごく大変なお仕事が残ってて、一晩かかっても終わりそうにないから、仕方なくわたしにお使いを頼んだはずなのに……
帰ってきてみれば、仕事が片付かないどころかおじさんたちとボウリングまでして、今はサイダー片手に雑誌を読みながらくつろいでるんですから!
アランナ
ま、まあな。アハハ。
とにかく、あと残ってんのはちょっとした問題が三つだけだ。
まず、壁のすす汚れを上から塗装して隠さなきゃいけない。一回手本を見せるから、あとは好きにやってくれ。ラッカーは二本用意してある。
鍋蓋ちゃん
こうしてみると、鍋を焦がして火が上がった回数、結構あったんですね……
アランナ
次に、予備動力炉の配管に安全弁を取り付ける。
鍋蓋ちゃん
あっ、それなんですが、ランナお姉ちゃんが希望してた型番のものが見つからなくって……その場合ってひょっとして……
明日の車検に出せなくなったり……?
アランナ
そこは心配ないさ。市場ではもう出回ってない可能性も想定済みだから。
鍋蓋ちゃん
え……
アランナ
このトレーラーが点検改修に出されるワケを教えてなかったか? こいつはな、ほかのパーツはまあまあ新しいが、肝心の動力炉がもうオンボロだ。
昔は特にルールもなかったんだけど、最近になってビッグピラー自治州の労組のいくつかが、「スタンダーダイズ」ってやつに乗り出し始めてな。
ハッ、「スタンダーダイズ」だなんて小洒落た言葉でカッコつけてるが、ようは「ルールを決めときましたー」ってこと。
古い動力炉のちょっとした欠陥くらいはどうにでもなるけど、宣伝されてるような最新式設備に変えたほうがみんなのためになるってのは、あたしも一理あると思った。
そんで、うちらがアイアンキャロットシティに行くのは、まさにこいつが新しい規格に合ってないからで、設備更新するためだ。だから安全弁が多少違っていても、叱られやしないさ。
あとは輸送を終えるだけだからな。目的地まで動けばオーケーだ。
ただし、万が一予備配管を使うような状況になれば――そんときは頼んだよ。
いつも通り、あたしが動力室の状況を見てきてって言ったら、すぐに確認してきてくれ。当然、報告も頼んだ。
鍋蓋ちゃん
はい……任せてください。
アランナ
そんで最後……
こいつが、発着駅に提出する運行終了報告書だ。今回ここを出ちまえば、もう戻ることはないからな。
鍋蓋ちゃん
……
黙るウォーミーをちらっと見やりながら、アランナは話を続けた。
アランナ
……まったく、手続きが多くてほんと嫌になるよな? 通知も急に届くしよ。あの「手厚いパーカー」に二時間教えてもらってようやく埋められたんだから、今日中に提出なんて無理無理。
ってことで明日あさイチで提出してくる。あんたは、今日の働きっぷりに免じて、工具室で朝まで好きなだけ寝ることを許す!
鍋蓋ちゃん
はい……
アランナ
なあ。なにか言いたいことがあれば、たまには我慢せず口に出してもいいんだぞ……?
鍋蓋ちゃん
……担当する路線が変わったら、ランナお姉ちゃんはこの辺に住んでるお友だちとはもう……なかなか会えませんよね?
アランナ
え?
鍋蓋ちゃん
なので、報告書はわたしが出してきますよ!
そうすれば、お姉ちゃんはお友だちともうしばらく話せますし、お別れもそこまで悲しくなくなるはず!
今はキッチンがないので無理ですが、新しいおうちに着いた後、また色々と取り付けられたら、すぐに甘口のミートスープを作りますね……あれを食べるたび、お姉ちゃんは笑ってくれますから。
アランナ
ははっ、そいつは楽しみだ。
鍋蓋ちゃん
……あう! 背中を叩かないでくださいよぉ! 痛いですってば!
アランナ
いつももう子供じゃないって言ってるだろ? このくらいもっと大人になれば、痛くも痒くもなくなるさ。
ほら、これもやるよ!
今夜はあたしと一緒に、キンキンに冷えたサイダーを飲むことを許してやろう。それと、いつもより一時間遅く寝てもいいぞ。
鍋蓋ちゃん
ふわぁ~……眠い……
でも、眠くても迷子にはなりません! 子供じゃないんですから、地図だってちゃーんと読めます。
えーと、ここを曲がって、正面の階段を上って……
あれ? 昨日の人、まだあそこに座って……もしかして乗車時間に間に合わなかったのかな?
昨日座っている場所から一ミリも動いていません。姿勢も、しょんぼりしている表情も全く一緒です。すごい……
おどおどした男
あ、君か……お、おはよう……いいところに来たね。
その、今日のアイアンキャロットシティ行きの始発って、何時発かわかるかい?
鍋蓋ちゃん
それなら、六時二十分ですよ。
おどおどした男
そうか、ギリギリ間に合いそうだな……
鍋蓋ちゃん
案内しましょうか? そうすれば今度はもう乗り遅れませんよ!
おどおどした男
え、い、いやいやいや、大丈夫!
……ごめんよ、お、お気遣いはありがたいけど……その、もう少しここに座っていたいからさ。
鍋蓋ちゃん
……ひょっとして、誰かを待ってるんですか?
おどおどした男
え? いや、僕は……えっと、どうしてそう思うんだい?
馴染みのおじさん
ウォーミー、今夜はひとまずバラックへ戻ろう。これ以上待つわけにはいかない。
こういう事態が起こるのは、仕方のないことなんだ。
鍋蓋ちゃん
それは……
誰かを待つのは、ここじゃよくあることですから。
それじゃ、わたしはもう行きます。その人に会えるといいですね!
おどおどした男
いや、その、別に会いたいわけじゃないんだ、今だってそのことを考えただけで恐ろしくて震えが……
……って、もういない。コータスの子供は足が速いんだな……まあでも、あの子には感謝しなきゃ。
事務所のアナウンス
次の方、資料を持ってお入りください。
鍋蓋ちゃん
(つま先立ちをしながら)わたしの番まであとどのくらいだろう……列の間からじゃ前が全然見えない……
どうしよう、もうすぐ出発の時間になっちゃう。書類提出は間に合わないかも。
朝早くからこんなにたくさんの人が並んでるなんて、ツイてないな……でも、大人だって、運が悪い時はどうしようもないよね。
ハキハキした女性
ホントにね。ちゃんとしたイベントだってアピールしたいのは別に悪いことじゃないし組合の勝手だけど、わざわざボディビル大会の受付と行政手続きを同じ窓口で処理する必要なんてなくない?
まるで大家族全員でおばあ様の部屋に押しかけて、みんなで一斉に告げ口して判断してもらおうとしてるみたい。
来たのがわたしでよかった。ドクターやアーミヤちゃんみたいな忙しい人だったら、頭を抱えてただろうな。
はぁ、アーミヤちゃん、かわいそうに……まだ十代なのに、なぜあんな重荷を背負わなくちゃいけないのかな。
ところであなた、さっき間に合わないかもとか言ってたよね? 小さくて細いその体型から察するに、大会の申し込みに来たわけじゃなさそうだけど。
鍋蓋ちゃん
え? ち、違います。「運行終了報告書」の提出に来てまして、これです!
提出が間に合わないと、運行終了ができなくなっちゃうので……
ハキハキした女性
なるほど。そういうことなら大丈夫、わたしに任せて!
鍋蓋ちゃん
えっ――?
で、でも、手続きをするのはわたしたちのトレーラーで……あっ、もしかして、ランナお姉ちゃんの知り合いですか?
ハキハキした女性
ううん、知らないけど。
でもあなたが運転手本人ってわけでもないでしょ?
鍋蓋ちゃん
ええと、はい……
ハキハキした女性
でしょでしょ。なら大丈夫。つまりその報告書は、提出さえできれば誰が出しても一緒ってことだよね。
どうせわたしはここに並んでなきゃいけないんだから、ついでにあなたの書類も出しとくくらいどうってことないよ。だから気兼ねなく帰って大丈夫。
……って、あれ。なんか落ち込んでるけど、どうしたの? まだ何か心配事でも?
鍋蓋ちゃん
え、そう見えますか……ううん、ダメダメ、ちゃんとしなくちゃ。
あの……では、お願いします。
ありがとうございます、優しいお姉さん!
ハキハキした女性
(この子、もしかして……)
……ねえ、これ、持ってて。
鍋蓋ちゃん
なんですか……えーと、カード?
ハキハキした女性
名刺だよ。ご家族にきちんと渡すようにね。いつか役に立つ時が来るかもしれないから。
アランナ
ほら急ぎな! もうすぐ乗客たちが乗ってくる頃だよ!
鍋蓋ちゃん
はぁ、はぁ……はーい!
アランナ
悪いけど、到着するまでは工具室で隠れててもらうからな。
鍋蓋ちゃん
わかりました。ここに来たばかりの頃はずっとあの中で生活してましたし、大丈夫です。
アランナ
まあ、いつもどおりその端末から監視カメラを通して車内の様子は見られる。乗客の様子も……って、これ以上の説明は必要ないか。
鍋蓋ちゃん
はい!
アランナ
よし、じゃああたしは運転室に行くからな。
鍋蓋ちゃん
……
短い間の中でウォーミーはたくさんのことをやり遂げました。
いろいろトラブルはありましたし、お姉ちゃんも間に合わないかもと言ってたくらいだったのに……ちゃんと車検に向けての準備を終わらせて、きっちり手続きも済ませられました。
あっ、あの駅にずっと座ってた人、間に合ったんですね。よかった……そうでした、ダイヤがわからなくて困ってた人も助けてあげたんです。
車内放送
ドアが閉まります。間もなく出発です。ご乗車のお客様は速やかに座席にお座りいただくか、お持ちの折り畳み式の寝椅子、腰掛け、もしくはマットなどを適宜な場所に――
鍋蓋ちゃん
……こんなによくできたんですから、わたしはもっとはしゃいだっていいし、ちょっぴり誇らしげに胸を張ってもいいくらい!
でも……本当は……
本当は……
大変なことが起きてもいいから、この車が運行停止になるまでの時間がもっと長くなればいいのにって、ずっと思ってる……
だって、わたしは……まだ……
車内放送
このトレーラーはジャックした。今からニヤニヤ谷に向かう。
鍋蓋ちゃん
……え?
ウォーミーは運転室の監視カメラ映像が流れる画面に目を向けた。
車内放送から流れる聞き慣れない声の主は、昨日出会った怪しげな女性だった。彼女の手にはアランナが普段使っている放送用マイクが握られている。
そしてもう片方の手にしっかりと握られたクロスボウが、アランナの首に突きつけられていた。
監視カメラがアングルを切り替える際のわずかな動作音を察知したのか、彼女は驚くほど平静に、レンズ越しのウォーミーへと視線を向けた。
車内放送
運転手を含め、ニヤニヤ谷に用のない乗客はここで降りてもいい。
鍋蓋ちゃん
……これって本当に、カージャック?