魂の行く果て

記憶の抹消。それはテレジアにとってもあまり経験のない試みだった。
ましてや今回は、ほとんど知る由もない思考に向き合わなければならないのだから。
どんなものに遭遇するのかも、危険の有無すらも予想することはできなかった。けれど、彼女に退く余地はなかった。
これは彼女の命における最後の決定だった。
彼女はドクターの記憶の中を歩き、無数の記憶を糸のようにほどいては消していく。
記憶が消えていく。何の音も立てずに。
彼女はこれまでに見たことのない、理解が及ばない世界を歩いた。
これほどまでに輝かしい文明がなぜ終わるのだろうか?
なぜ流れ星のように輝く天才たちが努力を重ねても、この究極の問題に対する解が得られないのだろうか?
抵抗することに意味はないのか? 団結とはただの空想なのか?
テラの未来はすでに定まっているのか? それでは彼女が愛する故郷の未来はどうなる?
彼女が愛する人たちの未来は?
彼女に答えはない。彼女に答えは見つけられない。
ただ、記憶が散った後の虚無を歩き続けるしかなかった。
ついに、彼女はよく見知った人を見つけた。
ケルシー
皆の熱意に圧倒されてしまったのか?
ドクター
ケルシー、どうして君までここに?
ケルシー
これは君が再びもたらした大勝利を記念した祝勝会だ。私が来るのは不自然か?
ドクター
君も知っての通り随分と久しぶりのことだからか……あの頃の我々は、こうしたお祝いをできていなかっただろう。
どうやらそれで、祝い方を忘れてしまったらしい。
ケルシー
気にするな、少しずつ慣れていくはずだ。バベルがその新たな出発点となる。
さて、しっかりと祝われてくるといい。
ケルシーがドクターの背中を軽く叩き、待ちわびていた群衆の方へとそっと押し出す光景をテレジアは見た。
ドクターを目がけてたくさんの人が押し寄せ、握手をしようとする者やドクターの肩を叩こうとする者が、我先にと両手を伸ばす。
さらに上背がある者たちは大胆にも直接ドクターの頭へと手を伸ばし、もみくちゃにしてみせた。
ドクター
……?
Scout
えーっと、失礼な部下たちに代わって謝るよ。止めようと思ったんだが……
腕を負傷していて……間に合わなかった。
ドクター
構わない……怪我の具合は?
Scout
順調に回復してるぜ。
ドクター
だが、今夜は怪我人向きでない飲み物ばかりで気の毒だ。
Ace
気にするな。俺がこいつに代わってたくさん飲んでやる。
それに、今日はドクターのための祝勝会だろ。ドクターが最後に奇襲を断行しなかったら、俺たちは包囲網にはまってやられていたんだからな。
ほら、乾杯。今日は思いっきり飲むぞ。
ドクター
あまり飲めなくてAceをがっかりさせてしまうかもしれないな。
クロージャ
どいたどいた、今日の主役が見えないじゃん。
もー人多すぎでしょ。司令室がこんなに小さく感じたのは初めてだよ。今度拡張してあげよっか? 美味しいものを持って駆けつけた人たちで外までごった返しちゃってるよ。
Logos
ドクター、皆うぬがもたらした勝利に歓喜しておるのに、見たところ……いささか居心地が悪そうであるな。
ドクター
うまく隠せてると思ったが……コホン、ただ人が多い場所だと緊張してしまって。
Scout
おい、気をつけろ、押すなよ。アーミヤ、大丈夫か?
アーミヤ
大丈夫です!
ドクター! 早く来てください。ドクターのためにテレジアさんとケーキを焼いたんです!
ほらこれ、オーブンの熱さで指を火傷しちゃったくらい、ホカホカのケーキが焼けましたよ。
ドクター
ありが……いや待て! 火傷は大丈夫なのか? 誰か薬を……
小さな咳払いが響き、人々は声の主に道を開ける。
テレジアは白いドレスの女性が通り過ぎ、ドクターに向けて笑顔で手を差し伸べる姿を見た。その手にはまだ癒えていない刺し傷がある。
それは彼女自身だ。
喜びが、記憶が――耳元の声が、次第に薄れていく。
テレジアは自らもよく知るこの記憶を消し去り、さらに前へと歩みを進める。
その先で、彼女は見たことのないPRTSの記録を目にした。
ドクター
映像機能起動、管理者権限の暗号化をアクティベート。
映像番号(0091_admin)……件名:(君へのメッセージ)。
記録モード起動……録画開始。
……
君がこの映像を見ているということは、自分は君の目覚めまで持ちこたえることができなかったということだろう。
すべての結果が出るまで、自分はここに、最も安全な場所に留まるつもりだ。
そしてすべてをやり終えたら、沈黙の中消える……
恨みを寄せるすべての人の前から、姿を消すだろう。
……
心の中の鳴り止まぬ声が、絶えず疑問を投げかける――「自分は何者なのか?」と。
我々自身に属する守り人だろうか? それとも後の文明に属する裏切り者だろうか?
今やもう自分自身を認識できなくなってしまったが――
こうして残した記録すべてに目を通せば、君はその答えを得られるだろう。しかしどうであれ、少なくとも今この時においては、自らの成すべきことにためらいはないと言っておこう。
……そして……
君が目を覚ました時、自分はすでに君の過去に消え、我々が約束した未来に現れることはないだろう。
だから……
……一時停止。一旦すべて削除しよう。まだもう少し……時間が必要だ。
テレジア
……
彼女はためらうことも、ため息をつくこともなく、ただ黙々と成すべきことを続ける。
テレジアの歩みは止まることなく、さらに奥深くに埋もれた記憶へと近づいていく。
ドクター
近場の救助隊に連絡してくれ! 事故に遭った輸送車両にはレム・ビリトンのマークがあり、恐らく君たちの輸送部隊――
まだ中から生存者の声が聞こえる!
通信音
(雑音)――すでに連絡した。しかし最寄りの採鉱区画から向かうにしても、救助隊が到着するのには時間がかかる。
君の情報によると、以前その場所で略奪事件が起きたこともあるのだったな。武装警備にも連絡し、ただちに出発させよう。
???
……うぅ……
ドクター
……武装警備か……しかしレム・ビリトンは身寄りのない感染者に対して……
くっ――
もう少し我慢するんだ……すぐに出してあげるから……
???
……だれ……
ドクター
眠っちゃダメだ……ッ……いい子だから、手を伸ばして――
この手を握ってくれ!
???
でも……わたし……もう疲れた……
ドクター
君の名前は――
???
……わたしの――
名前……?
お母さん……には……アーミヤって……
ドクター
よしアーミヤ、もう少し頑張るんだ。この手を握って!
アーミヤ
に……ぎった――
ドクター
離さないぞ――
記憶が砕ける。
ここがテレジアの終点であり、ドクターの記憶の終点――
「テレジア……」
テレジア
……
ありえないわ。記憶はもうすべて……
「テレジア。」
彼女はその声を頼りに、虚無の前へとやってきた。声は虚無の向こうから聞こえてくる。
テレジア
ここはどこ――
???
ようやくここまで来たか。待っていたよ。
テレジア
ドクター……?
???
ドクター?
そう呼ぶ人はめったにいないな。皆からはいつもチーム内のコードネームである「オラクル」という名で呼ばれている。
テレジア
……オラクル……予言者……
つまり、ケルシーが信じていたのは、あなただったのね。
オラクル
ケルシーには大変申し訳ないことをしたと思っている。だが、避けられない陰謀に深く囚われ、打つ手がなかったのも事実だ。
ずっとここで君を見ていたよ。君が希望のために奔走し、裏切りによって苦しむ様子は――
まるでかつての自分自身を見ているようだった。
テレジア
……ごめんなさい。
今のあなたは、ドクターの感情が燃え尽きた後に残った残滓にすぎない。今の状況下で、あなたの感情と記憶だけを残しておくことはできないわ……
オラクル
構わない。終点に辿り着いた以上、成すべきことを成すといい。
こんな自分を信じてくれてありがとう。
テレジア
……少し遅いかもしれないけど、あなたに会えてうれしいわ。
オラクル
こちらこそ、君に会えてうれしいよ、テレジア。
オラクルは果てしのない麦畑に足を踏み入れ、その中に消えていった。
吹き荒れる風に麦畑はざあざあと音を立て、この空間に残った最後の光景も散り散りに砕けていく。やがて、糸の末端があらわになった。
テレジアがそれを引くと、たちまち糸は光を失い、粉々になった。
テレジア
さよならを言う時が来たみたいね……
未来で、私たちはきっとまた会えるわよね……
ケルシー……アーミヤ……
……{@nickname}。
テレジアは最後の糸を握った手を緩めた。そしてそれが星のように散り、消えてゆくのを眺める。
彼女は足を踏み出し、希望に向かって……
死に向かって歩みを進めた。