歴史の針路

モーガン
金色に輝く? うん。あれは確かに金色で輝かしい一生だろうな……
激高する声
ヴィーナ、この剣はお前のものである。
これがお前の運命なのだ。
ヴィーナ
父上、これは……?
モーガン
ヴィーナ! 何してんの!
もうやめなって! 死んじゃうよ!
ヴィーナ
はぁ……はあ……
私は……
ホルン
ヴィーナさん! 今です!
ヴィーナ
任せろ!
クロヴィシア
ヴィーナ、キミは自分がどのような身分でこの宮殿を後にすることを望む?
ヴィーナ
……
私は――
モーガン
あっ、思い出した。ダグザちゃんが言ってたのは「石臼」だったかも。
「歴史とは石臼のようだ」、だったかな?
実際にどんな比喩をしてたかは忘れたけど、粉挽き小屋とか風車とか、夕日を連想させるものだった気がする。
まったく、ダグザちゃんのあの気取った口調がずっと嫌いだったんだよね。
いや違った! ヨットだ! 完璧に思い出したよ~。
「歴史とは波間に漂うヨットだ。いつの時代にも、その舵を取れると思い込んでいる腕自慢の操舵手が存在するもの……」
「だが、太陽が暮れゆく中で川が最終的にヨットをいずこへ運ぶのか知る者は永遠にいない――」
*ヴィクトリアスラング*、やっぱ違う。わざわざ今まで読んだ歴史小説の口調にしなくていいっての。これは吾輩の本なんだからさ。ヴィーナのマナーの先生のしゃべり方を真似する必要なくない?
う~ん、どうやって自分なりの方法でこの物語を語るべきかな……
……あれは吾輩の人生で一番楽しかった時間だよ。
インドラ
マンカスター。
モーガン
ふむふむ。
インドラ
……ブリストル。
モーガン
あとは?
インドラ
シェフェ……ディ……いや違ぇ、グロ――
ベアード! ヒントくれよ! おい、ヴィーナ! 俺が恥かいてもいいのかよ?
ベアード
あなたが自分でした賭け。私は何も言えない。
ヴィーナ
ベアードの言う通りだ。私たちが口を出しては不公平だからな。
ダグザ
頑張れー、ヴィクトリアには少なくとも六十は移動都市がある。あと一つで六分の一だぞ。
インドラ
俺は一度もロンディニウムを出たことがねぇんだ。俺の家はここなのに、なんで数千キロも離れた移動都市の名前を覚えてなきゃなんねぇんだよ。
モーガン
なら、きっとおうちの路地裏掃除がだーい好きなんだろうね~。
インドラ
*ヴィクトリアスラング*知ったかぶるのなんてやめりゃよかった!
ヴィーナ
そうだハンナ、この前ビデオシアターに行った時のことを覚えているか? リーン・ブラザーズとの喧嘩が終わったあの時だ。
インドラ
なんとなくなら。緑の芝生と白い家がある荘園が出てくる……恋愛映画だったか? うだうだと長ったらしい話だった。
ヴィーナ
ならその映画に出てきた貴族の宴会で、ヒロインが一番気に入っていた料理は何だったか――
インドラ
「シドマスの羽獣のバニラクリーム焼き」!
そうだ! シドマス! これで十個だ!
モーガン
はぁ……ヴィーナったら。
インドラ
やっぱ俺らの王が最高のリーダーだ! 一生ついてくぜ!
ヴィーナ
大げさだ。
ダグザ
……
ベアード
モーガン、賭けをしたなら潔く負けを認めなよ。飲んで。
モーガン
ベアードちゃんもヴィーナが助けてあげたのは分かってるくせに……ちぇっ、飲めばいいんでしょ~。
インドラ
モーガン! そんじゃオールドファーリー街んとこの工場のみかじめ料回収は任せたぜ。
ベアード
ハンクじいのサンドイッチ屋の路地裏の掃除も忘れないように。
モーガン
こういう時だけ、グラスゴーのシマは大きすぎるんじゃないかって思うよ。
インドラ
フンッ、いつかはロンディニウムの全部を俺たちグラスゴーのシマにして、みかじめ料も残らず俺たちに入ってくるんだ! それとロンディニウム一美味いサンドイッチもな!
モーガン
全部シマにしちゃったら、誰からみんなを守るつもりなの~? ガリア人?
インドラ
さあな、貴族どもとかか? 今は分かんねぇよ。バカ野郎ってのは常にいるもんだろ。
ノーポート区の古馴染みたちも、ロンディニウムも、今は俺らなしじゃやっていけねぇだろ。いつか、グラスゴーが全ロンディニウムの英雄になるんだ。
ダグザ
間違いねー。
ヴィーナ
ああ。我らがグラスゴーに。乾杯。
グラスゴー
グラスゴー万歳!
談笑する貴族
この芝居はお気に召されましたかな?
あるヴィクトリア公爵の娘が、ハンサムなサルカズの青年を「愛」した。
そして公爵の娘の隣を狙う者は、気味の悪い恋敵を排除するために魔族の恐ろしい陰謀をいくつもでっち上げた。
まさかあの『ウィンザー夫人』を書いた劇作家が、十分な原稿料を手にした後でもなお、このような刺激に富んだ作品を書けるとは。
アラデルさん、どう思われますかな?
アラデル
少なくとも『ロンディニウム共同墓地』の結末は、好きとは言えませんね、モリル伯爵。
公爵の娘とサルカズが周囲からの迫害を受けて駆け落ちした末に、揃って命を落として墓地に埋葬されるなんて、あまりにも……使い古されたエンディングです。
モリル伯爵
あなたのようなお若い女性が、辛口の劇評家と同じような感性をお持ちだとは思いませんでしたよ。
お涙を頂戴できるだけでも、十分ではありませんか?
アラデル
誰の涙ですか? キャヴェンディッシュ公爵? それともあのサルカズ摂政王のですか?
涙は我々の両目を覆い、視界を遮ります。伯爵、よからぬ思惑のもとに生まれた大衆受けする創作は、往々にして共犯なのですよ。
モリル伯爵
誠に残念です。あなたならば他者の軒下に身を寄せて、己の意志で生きることが許されないヒロインの運命に共感すると思ったのですが。
アラデル
……
モリル伯爵
おっと、これはとんだ失礼を! 悪気はありません。ご存じの通り我が一族もかつてはカンバーランド家と付き合いがあったではありませんか……
アラデル
ええ、気にしていません。
カスター公爵が私の苦境に手を差し伸べてくださったのは、誰もが知る通りです。公爵に対しては感謝の気持ちしかありません。そして、私は自らの境遇について何も恥じていません。
モリル伯爵
では、今日この宴席に出席されているあなたの言葉を、カスター公爵のご意思と捉えてもよろしいですかな?
アラデル
善意による忠告だと考えていただいて構いません。
カズデルより来たる傭兵を相手にするにあたって、ロンディニウム人がすべきは十分な警戒心を抱くことです。決してバカげた物語の影響で、無意識のうちに憐憫や同情を感じることではありません。
カズデルは我々の市民からあまりにも遠いのですよ。民衆はあの場所にいるサルカズたちのことなど何も理解していません。涙によって彼らの判断を曇らせないようにしてください、伯爵。
モリル伯爵
ふむ、その言葉は才能豊かな劇作家を一人殺すことになりますな。
アラデル
いち公爵にとって、市民に涙を流させるのは難しいことではないかと思いますが。
モリル伯爵
それもカスター公爵のご意思ですかな?
アラデル
あなたが劇作家をどう評価されていようとも、私は『ウィンザー夫人』を得がたい作品だと思います。モリル伯爵、そしてキャヴェンディッシュ公爵も件の本に目を通されるよう心からお勧めします。
「鱗獣は泥沼から這い上がる足を持てず、人は時間を超越する視野を持つことができない。」
キャヴェンディッシュ公爵がこの言葉をきちんと理解し、それにより謙虚で保守的な考えを持つことができるなら、彼が次の「ウィンザー公爵」になることは避けられるでしょう。
ああ、もちろん、私も悪気はありません。
モリル伯爵
ふむ。あなたの鋭いご意見は嫌いじゃありませんよ。
時間を超越する視野……確かに得がたい代物ですな。それと比べれば、身分を超越した野心はずいぶんと安っぽいものです。違いますかな?
アラデル
同意せざるを得ませんね。
モリル伯爵
何年も経ちましたが、いまだに多くの者がかつてこの国には国王がいたことを覚えているのは明らかです。
本来であれば王位を継ぐはずであった継承者、そして王権を象徴するあの剣を忘れられない者もいますな。
カスター公爵の動きは決して秘匿されたものではない。彼女が他の公爵を指摘する際には、彼女自身を見つめる視線もあることをお忘れなきようお願いしたいのです。
アラデル
伝えておきます。
もう遅いことですし、お先に失礼させていただきます。
モリル伯爵
この後の晩餐の席にカンバーランド卿はいらっしゃらないと?
アラデル
新しい冬用の衣装を誂えるために仕立屋と約束をしているのです。ご存知の通り、ロンディニウムの夏はほんの数日しかありません。そして――
冬が遅れてくることもありません。
モリル伯爵
でしたらこれ以上引き止めることはいたしません。
初演のチケットは、事前にお送りいたします。カスター公爵もご覧になりたいとのことであれば、カスター領を巡演するようキャヴェンディッシュ公爵が劇団に資金援助をいたしますよ。
アラデル
……では、公爵の視界が涙で覆われることのないように願っておくといたします。
アラデル
……
???
息の詰まる宴会だな。
アラデル
あなたは?
???
私のことはクロヴィシアと呼びたまえ。特徴的な白髪、きっとキミがアラデル・カンバーランドだな。
クロヴィシア
エルシーさんがうちに公爵家の次シーズンの衣装を注文したが、キミの服のデザインがなかなか決まらなくてな。
すまない、キミとモリル伯爵との会話を故意に聞くつもりはなかった。しかしキミの文学批評における作品への深い理解力は、伝え聞く通りであったよ。
アラデル
お褒めにあずかり光栄よ……きっとあなたもロンディニウムの今の情勢を案じているのでしょう。
クロヴィシア
いやいや。店にいると、紳士たちやご夫人方が話す最近の変化についてどうしても耳に入ってしまうだけだ。
さてと、空も暗くなってきたことだ。私も帰らねばな。どのデザインにするか決め終えたら、いつでもエルシーさんを寄越してくれ。
おっと、そうだ。これを。今日の『デイリーロンディニウム』を渡しておくようエルシーさんから頼まれた。
では。
アラデル
はぁ、ちょうどいいわ。今のロンディニウムに報道する価値のあるニュースが、あとどれだけあるか見てみるとしましょう。
ノーポート区で悪質な暴力事件?
これは……?
インドラ
クソがっ! 許せねぇ!
やりきれない労働者
これで今月はもう三度目だ……あのろくでなしが組合の新しいトップになってから、工場ではたびたび予想外のことが起きてる。
分かる奴が見りゃ、組合に意見する度胸のある連中が何日かしたら事故で謎の死を遂げるってのは分かり切ってる。
インドラ
行くぞ! 今すぐ俺を連れてけ。そいつの肝がどれだけ太いか見てやる!
ベアード
落ち着いて! 組合のこととストリートのことは別、それがこれまでやってきたルールだよ。
インドラ
クソ野郎全員を張っ倒すのが俺のルールだ!
やりきれない労働者
分かってるよ! もちろん分かってんだ……でも俺たちじゃ本当にどうしようもないんだ。
組合は工場内を支配して好き放題やってる。警察でも捜査しようがない。
モーガン
その新しい組合長の……ジョニーって人は、一体何者なの?
やりきれない労働者
相当なご身分で、ダヴェンディック公爵だかの親戚らしいっていうのを誰かから聞いたことがある……
ダグザ
キャヴェンディッシュ公爵のことか?
やりきれない労働者
そうそう! それだ!
モーガン
賄賂かなんか要求された?
やりきれない労働者
金は要求されてない……ただあいつが組合長になってから、結構な重要な役職がよそから来た工員に取られた。
ベアード
分かった。先に帰ってて。私たちはもう少し話し合う。
インドラ
モーガン! 何を迷うことがあるんだよ! こんなクソ野郎に好き放題させていいのかよ!
モーガン
そんな簡単な話じゃないんだよ。
ハンナちゃんも聞いたでしょ、例の組合はそこらのごろつきじゃないんだって。にしても、バックに公爵がいる人がどうしてわざわざこんな小さな工場に来て威張り散らすのかな?
インドラ
んなのどうだっていいだろうが! クソ野郎をぶっ飛ばすのに理由が必要かよ?
モーガン
最近はロンディニウムが不穏で、一部の公爵がこそこそ動き回ってるって聞いたよ。あんたたち、近頃ストリートで見慣れない顔をよく見ることに気づいてないの~?
ベアード
方針を決めよ、ヴィーナ。私たちはあなたに従う。
ヴィーナ
……
みかじめ料を受け取ったからには、その働きはしてやらないとな。
公爵が後ろについてるとかいう、その碌でもない組合長に会いに行くとしよう。
インドラ
そうこなくちゃな!
モーガン
分かったよ。ヴィーナがそう言うなら……
でも念のため、先にその工場の情報を探ってからにしよう。ベアードちゃん、吾輩と一緒に行こ。
ベアード
うん。
インドラ
おい! なんで俺は連れてかねぇんだ!
ダグザ
……
ヴィーナ
どうした? 近頃浮かない顔をしているな。
ダグザ
何でもない。ただ……自分が少し幸せになりすぎているように思えて。
ヴィーナ
ここにいるのが、楽しくないなんてことあるのか?
ダグザ
シージ、あなたには使命がある。
ヴィーナ
ダグザ、言ったはずだ。
私はもう自分の生き方を見つけた。なぜ……
ダグザ
あなたの生き方とは、ストリートにいて、不当な扱いをされてる街の顔見知り連中のために動いて、貴族の家にレンガを投げることなのか?
シージ、世の中には逃げられないこともあるんだ。
ヴィーナ
ダグザ、ジムではこの話をしないと約束したはずだ。
ダグザ
そうだな。ならば、あなたが答えを出すその日まで、私はあなたのそばにいよう。
ヴィーナ
……
アラデル
エルシー、どうしたの?
執事エルシー
お嬢様は常々アレクサンドリナ殿下の行方に留意をしておくようにと、おっしゃっていたでしょう?
王立警察署の署長が先ほどノーポート区支部のとある暴力事件を再審査しました……
どうやら「マクラーレンズ・ホーム」というビデオシアターと「グラスゴー」という名のストリートギャングが関係しているとのことで。
これが元の書類です。
あまり鮮明な画像ではありませんが事件関係者のプロファイルになります。お嬢様は知っておく必要があると考えています。
一枚のぼやけた白黒の写真には、ロリポップをくわえた者が怒った表情で前方を睨んでいる姿が映っていた。
「事件関係者:シージ(自称)」
執事エルシー
アラデルお嬢様、もしこの方が殿下であると確信できるのなら……なぜ直に会いに行かれないのですか?
アラデル
会ってそれからどうするの? 彼女をカンバーランド公爵邸に連れて帰る? それともカスター領へと送るの?
本当にアレクサンドリナであるかどうかは、もう重要じゃないのよ……公爵たちに目を付けられたからには、彼女はもう逃げられないわ。
執事エルシー
……まるで、生きたままこの都市に呑み込まれてしまうかのようですね。
アラデル
ハッ、私たちは皆同じなのよ、エルシー。
賭けてもいいけれど、今現在彼女に注目しているのは絶対に私たちだけじゃない。この件は、とうに私の手から離れているの。
執事エルシー
カスター公爵の命令であると言うなら、お嬢様がしなければならないのは彼女を見つけ、そして公爵の所へ連れていくことだけでは?
アラデル
エルシー、私にも少し考える時間が必要なのよ。
執事エルシー
ですが、そうだとしても、もうずっと昔のことです。今さら正体不明の王位継承者が本当にそこまで重要なのでしょうか?
アラデル
ただの予感だけど……何年も前に初めて見た時から、私は彼女なら何かを変えられるだろうとずっと信じてきたわ。
行きましょう。訪ねなければならない労働者がまだ何人かいるわ。ここ数年の殿下の生活がどんなものだったのか、私も知りたいし。
ダグザ
きれいにしたよ。
ヴィーナ
こちらも全て片づいた。
モーガン
チャーリーが言ってた場所はここだね~。
組合が最近この古い工場内に荷物をたくさん置いてるっていう話を聞いたよ。密輸のやり口っぽいね~。
ベアード
例のジョニーが組合を占領したのは、組合のほんの少しの資金をかすめ取るだけじゃなくて、大きな商売をするためだったってこと。
このコンテナには何が入ってるの?
インドラ
ハッ、開けてみりゃ分かんだろ――
モーガン
ハンナちゃん! そんな不用心に――
インドラ
こいつぁ……
ベアード
……
ヴィーナ
……源石武器だ。
ダグザ
ヴィクトリアの制式武器じゃねーぞ。具体的にどこのものかは私にも分かんねーけど。
モーガン
キャヴェンディッシュ公爵の人間がこの工場を秘密裏に支配したのは、出所不明の武器をロンディニウムに運び込むためだったってこと? 一体何をするつもりなの!?
ダグザ
いち公爵がひそかにロンディニウムに武器をため込んでいたんだ。その理由は一つしか考えられない。
ベアード
私たちはすでに痕跡を残してしまったけど……
ヴィーナ、どうする? 見た限り、これは私たちだけで解決できるようなことじゃない……
ヴィーナ
……
私たちでは解決できない。だが他の者に知らせることはできる。
ハンナ、火を貸してくれ。
インドラ
マジかよ、こっからでも工場の火が見えるぜ!
モーガン
ハンナちゃん! よくこんな時に笑ってられるよね!
インドラ
あったりめーだろ! 俺たちは邪悪な公爵の陰謀を阻止してやったんだぜ!
ベアード
うん、ほんとに。私たち……随分大それたことした。
ヴィーナ
少なくとも、間違ったことはしていない。
あとは警察に任せよう。
???
ロンディニウムは果てがないほど大きい都市とは言いますが、稀にそうではないこともありますな。
モリル伯爵
まさかこのような場所でお会いできるとは。アレクサンドリナ、殿下。
ヴィーナ
――!
ダグザ
貴様は何者だ!?
モリル伯爵
モリルと申します。キャヴェンディッシュ公爵邸で、客分として遇されている無名の輩です。あるいは、幸運な者と言うべきでしょうか。
ヴィーナ
貴様は工場の件を知っている……キャヴェンディッシュが何をしようとしているかを知っているな。
モリル伯爵
はて。私はキャヴェンディッシュ公爵と憂いを共にすることができるのだ、と誇りたいのは山々ですが、ロンディニウムにおける公爵閣下の計画については私も全貌を知らないのです。
今この瞬間、私の頭にあるのはあなたのことだけです、アレクサンドリナ殿下。
ヴィーナ
……
モリル伯爵
殿下、こうしてあなたが目の前に立っておられると、本当に当時のあの陛下を思い出してしまいます。
あなたはあの方と大変よく似ておられる。同じように幼稚な正義感を抱き、同じように……その正義感のために代償を支払わねばならない。
ヴィーナ
貴様は何がしたい?
モリル伯爵
今晩のあなたとお仲間の火遊びは――まあいいでしょう。あの程度の品の価値など、あなたと比べたら取るに足りませんからな。
私と共にいらっしゃい。少なくとも、お仲間には活路を差し上げられますが、いかがです?
ヴィーナ
……貴様をどう信じろと?
モリル伯爵
殿下にこのような言葉は大変不敬ですが、事実として、今のあなたに他の選択肢はありません。
もちろん逃走を試みても一向に構いませんが、私はいつまでもあなたの行方を気にかけるでしょうな。
ヴィーナ
……いや。
モーガン
ヴィーナ! 何してんの!
もうやめなって! 死んじゃうよ!
ヴィーナ
はぁ……はあ……
私は……
インドラ
大丈夫だ、まだ息はある。
ヴィーナ……こりゃどういうこった?
ヴィーナ
貴様らは……早くここを離れろ。
工場のこと、それとここでのことは全て私がやった。他の者は関係がない。
インドラ
何ふざけたこと抜かしてやがる!
モーガン
ヴィーナ……この人が言ってたのって、どういうこと? どうしてあなたのこと殿下って呼んだの?
ダグザ
……彼女こそがヴィクトリアの王位継承者だからだ。
ヴィクトリアの前国王アリステアⅡ世の娘である、アレクサンドリナ・ヴィーナ・ヴィクトリアだ。
ヴィーナ
私は……隠すつもりはなかった……ただ、それに意味がないと思っただけで……
ハンナ……
モーガン
ヴィーナは吾輩たちにしなきゃいけない話がまだまだたくさんありそうだね。
ヴィーナ
すまない……
ベアード
急いで! おしゃべりしてる場合じゃないよ。すぐにここを離れないと!
モーガン
どこに行けるっていうの?
ベアード
都市を出る。
今、すぐに。
ヴィーナ
それはでき――
ベアード
もう時間がない。警察が工場の件に気づいたら、都市防衛軍と協力して移動都市の全ての出入り口を封鎖する。そうなったら逃げたくても逃げられなくなる。
ノーポート区なら心配はいらない。私がいる。
ヴィーナ
……
インドラ
おい待てよ、ベアード。お前は行かねぇのかよ!? モーガン、なんでお前まで何も言わねぇんだよ?
モーガン
ベアードちゃんの考えてることは分かるから。吾輩たちの家は結局グラスゴーなんだよ、ハンナちゃん。
ベアード
ハンナ、家にはあなたたちの帰りを待つ人が必要。違う?
ダグザ
……
ベアード
誰かがあなたに目を付けている。でも、ごめん、ヴィーナ。私たちではあなたを守れない。グラスゴーは本物の大きな権力の前では、弱くて小さすぎる。
ヴィーナ、今まであなたが本当にノーポート区の人間だったことはない。それともこう言うべきかな。ここだけの人間であったことはないって。それはあなたが私たちに加わった日から分かってた。
ヴィーナ
全て私の責任だ。皆を守りたいと考えていたのに、結局、私は厄介な問題に皆を巻き込んだだけだった。
ベアード
そうだね。もしこのことで自分を責めるなら、どうせなら覚えておいてほしい。
ヴィーナ
……?
ベアード
ノーポート区には、まだ借りが残っているって覚えておいて。そしていつの日か、みんなに借りを返しに帰ってこなければならないことを覚えておいて。
ヴィーナ
誓おう。私は必ずここに帰ってくる。
インドラ
その通りだ! ここは俺たちのシマだからな。いつか取り返してやる!
ヴィーナ
しかし、貴様らは本当に共に来るのか? 私と危険を冒す必要はないんだぞ。
モーガン
吾輩は参謀だからね。ヴィーナ、放ってはおけないよ~。
インドラ
誰かがちょっかい出してきたら、俺が代わりにぶん殴ってやんないとだろ!
ダグザ
……ヴィーナの居る場所が、私の居るべきところだ。
ベアード
ヴィーナ、覚えておいて。あなたがどこへ行こうと、グラスゴーはあなたのそばにいる。
私もこのシマをちゃんと守り抜く。ここは私たち全員で勝ち取った場所だから。
ヴィーナ
ベアード、約束する。私は必ず皆を連れて帰ってこよう。
ベアード
……その日が早く来てくれることを心から願ってるよ。
どこにいても心は共に。グラスゴーのために。
全員
グラスゴーのために!
慌てる事務員
な、なんてことだ……こ、この方はキャヴェンディッシュ公爵の者ですよ!
すぐに総署に知らせます。たとえロンディニウムがひっくり返ることになろうとも――
???
……この件はもみ消せ。
慌てる事務員
分かりました。すぐに病院に連絡を――え? もみ消す?
???
私が人をやって処理をさせる。今後のことは、キミたちノーポート区警察署とは無関係だ。
安心したまえ。王立警察署の署長は決してキミや、現場の誰にも責を問うことはない。
慌てる事務員
ほ、本当ですか? どうしてそう確信できるのですか……
???
未来のことは分からない。しかし未来を望む方向に導くことはできる。
この都市は間もなく客人たちを迎えようとしている。キミには今すべき重要なことがあるのではないか?
慌てる事務員
それは……はい……分かりました!
???
ヴィーナ、これはキミの運命だ。
アラデル
……
ギャングメンバー
おい、何者だ? ボクシングをやりに来たのか?
アラデル
グラスゴーってここかしら? シージという人を探しているの。私の認識が間違っていなければ、彼女はここのリーダーのはずよね?
ギャングメンバー
今このボクシングジムには、ベアードという名前のリーダーしかいないよ。
待て……お前のその身なり、貴族か?
帰ってくれ。お貴族様の来るとこじゃねぇ。
アラデル
……お邪魔したわね。
ベアード
待って。
あなたヴィーナを探してるの? 彼女の知り合い?
アラデル
ええ……古い友人よ。
ベアード
……
ヴィーナは遠くへ出かけた。用があるなら、私が代わりに伝えておく。
アラデル
大したことじゃないわ。ただ友人として、彼女の近況が気になってね。
もしよければ、どうか無事でと彼女に伝えておいてちょうだい。
ベアード
うん、ヴィーナは元気。伝えておく。
アラデルは身をひるがえし、少し汚いボクシングジムを後にした。目の前の人物が嘘をついていないことを彼女は分かっていた。なぜなら壁に掛けられた写真に写る笑顔を見たからだ。
まだその時ではない。
ふと、あの重厚な声が再び彼女の脳内で響き渡る。
「アラデル・カンバーランド。」
「いつの日か、お前は再びヴィーナと出会うであろう。」