二度と踏み込めぬ川
ラナ
はい、この薬と抑制剤はロドスの事務所から持ってきたものよ。定期的に使うようにしてね。
監督官執務室は、クサントスさんたちへの拘禁命令を撤回したし、あなたが脱獄を手助けした件についても追及しないと決めたらしいわね。
ヘカデモス
はい。後から知ったんですが、リディアさんは最初から俺たちの計画をお見通しで、実行中から便宜を図ってくれていたみたいです。おかげで、不問になりました。
ラナ
……
それでも、あなたたちはアテヌスを離れて旅をするつもりなのね?
ヘカデモス
はい。
ここに留まっていても、あいつは余計なことばっかり考えちゃいますからね。それならいっそ外に出て、もっと多くの人と話して、色んなことをしたほうがいいと思うんです。
リュケイオン
彼の言う通りです。
ラナ
あら、珍しく素直ね、リュケイオンさん。あなたがずっとそのくらい素直でいてくれたなら、オペレーターを三人も見張りにつかせる必要もなかったんだけど。
リュケイオン
申し訳ありません。これまで、ご迷惑をおかけしました……
ヘカデモス
どうやら第一神殿でのクサントスさんの行動を見て、随分影響を受けたみたいだな、リュケイオン。
いっそ「鉱石病は英雄的精神を奪わない」ってことを素直に認めて降参してもいいんだぞ?
リュケイオン
バカを言うな。
ヘカデモス
ちぇっ、つくづく負けず嫌いなやつだな。
ラナ
ほら、もう出発しなさいな。これ以上遅くなると、渡し場の船が出ちゃうもの。今代理で入ってる渡し守さんはクサントスさんほど優しくないから、時間が過ぎたら待たずに行っちゃうわよ。
あっ、そっちの芝生に入らないで! 手入れしたばっかりなの――
幼いリディア
うっ……うっ……
幼いラナ
泣かないで、リディア……
幼いリディア
いつか、姉さんやステロス伯父様が住んでる場所も、前に私がいたお家みたいに、誰かに壊されちゃったりしたら……
私たち、帰るお家がなくなっちゃうよ。どうしよう……
幼いラナ
大丈夫よ。このお家がなくなって、離れ離れになろうとも、あなたを見捨てたりしないから!
そうだ! もしお家から遠く離れて、帰り道がわからなくなってしまった時は、この庭園を目印にすることにしましょう。
幼いリディア
て……庭園を……?
幼いラナ
ええ。そこに淡い青のボロニアをたくさん植えておくから、それが見えたら、お家に帰って来たってわかるでしょ。
それで、あなたが先に帰り道を見つけた時は、同じ方法で私にそれを伝えてちょうだい。いいわね?
幼いリディア
うん……約束ね……
かつては花とハーブで埋め尽くされていた公共庭園の芝生には、今や駄獣の群れが踏み荒らしていった痕跡だけが残っている。
だが、庭園が在りし日の美しさを失い、無残な姿を晒していようとも、あの青い花びらはそこに残っていた。
ラナ
一面に広がる、淡い青のボロニア……あなたも過去を懐かしんでいたのね。
ありがとう、リディア。私、家に帰って来たのね。
農家側の代表
カサンドラさん、今年分のリンゴをお届けに来ました!
神殿への供物にする分は下の倉庫に運んでおきましたよ。こちらはカサンドラさんと神殿の皆様に味わっていただきたくて、取っておいたものです。
カサンドラ
毎年、本当にありがとうございます。
農家側の代表
いえいえ。私たちが無事に収穫を終わらせられたのも、アテヌスのみんなの協力と、神殿の方々の調整あってのことですから、お世話になってるのはこっちのほうですよ。
カサンドラ
なんだか今日は、随分とお元気そうですね。
農家側の代表
ははっ、我々農家は収穫のことばっかり気にしていますからね。豊作となれば気持ちも軽くなるというものです。
カサンドラ
それは良かった。我々神殿の人間は、皆さんの心のことを気にしていますから、安心しました。
農家側の代表
では、今後ともよろしくお願いします! 私はこの辺りで失礼しますね。これからザクロの収穫期でして、今日は枝の剪定作業がまだまだ残ってるんです!
パラス
芳醇なリンゴに明るい太陽、なんと素晴らしい日でしょうか!
第一神殿の儀式も無事に終わり、アテヌスは豊作を迎え、あなたが気にかけていた渡し守さんも元気を取り戻した今……
すべては順調だと言うのに、人々の心ばかりを慮る、聡明なるあなたは何をそこまで案じているのですか?
カサンドラ
……私はあなたの心配をしているのです。
パラス
私の? なぜですか?
カサンドラ
ここ数日、あなたがアテヌスへ帰って来た時言った言葉が気になっていて。
パラス
……
カサンドラ
あの時あなたは、夢の中でミノスの始まりを、ケレセイラと第一神殿を見たと言いましたね。
そして、ミノスの過去と未来、自分の目標と進むべき道について深く考えた、とも。
そうしたすべてが、あなたをここへ戻らせたのでしょう。
此度の出来事は、神託に対する私の解釈を裏付けているように思います。花々の咲き乱れる輝かしき未来ではなく、不安が心にまとわりついているのです。
パラス
神託とは、英雄の魂が我々に示した方向に過ぎず、それが必ずしも現実になるとは限らぬものだということは、祭司学院時代に学んだはずでしょう。
カサンドラ
普通の神託であれば、そうでしょうが……
たとえば私は、リラの帰還を望んでいましたけれど、あれほど奇妙な形で第一神殿に帰ってきたとなると、すべてが初めから定められていた、変えようのない出来事だったように思えてしまって……
パラス
見方を変えてみてはどうですか? あれほど奇妙な過程を経てリラの帰還へと帰結することがあるのなら、私の神託もそれと同じように予想外の展開を迎えるかもしれませんよ。
となれば、あなたの解釈もまた、その終着点を読み解いたものではなく、道中迎える困難な一幕に過ぎず、帰結は別のところにあるという可能性もあるでしょう?
カサンドラ
……だといいのですが。
パラス
それに、今回のことで私の考えも裏付けを得ました。私は確かに、戻って来るべきだったのです。ミノスは私を必要としており、私もまた、この地に戻る必要があったのですから。
カサンドラ
にもかかわらず、第一神殿を預かるつもりはないのですね。
感染者の自分が祭司になれば、人々が抵抗を覚えるのではと案じているのですか? クサントスさんは神殿広場で見た幻をすべて語ってくれましたし、あなたも気にしていないと思ったのですが。
あなた自身が言った通り、伝統は変えられるものです。私も議事堂で本件について、投票の発議を行うこともできますし……
パラス
いえ、そういうことではありません。単純に、私が第一神殿の再建を提案したのは、その管理を担う祭司になるためではないからですよ。
私はただ、皆の心を一つにしたかっただけなのです。アテヌスの民のみならず、ほかの都市の人々や、ミノスの皆の心を。
とにかく、ラケダイモンやコリニアでも大きな変化が起きているようですから、そちらも見に行ってみたいと思っています。
カサンドラ
……やはり別れを告げに来たのですね。
パラス
とはいえ、すぐに発つということではないですよ。第一神殿が完成するまでは皆さんと過ごすつもりです。カンティアは竣工祝いの酒宴を用意しているそうですし、それを逃す手はありませんから!
カサンドラ
……相変わらず、心のままに生きていますね。
ペリアンドロス
この度はご招待いただき、ありがとうございました。おかげで予想外の一幕を見ることができました。
アテヌスも予定していた航路に従い出発するとのことですし、我々もそろそろお暇せねばなりませんね。
リディア
今回の計画は周到とは言えませんでしたので、不測の事態がいくつか起きてしまったことは事実です。お恥ずかしいところをお見せしました。
ペリアンドロス
失礼ですが、その点について一つお伺いしたいことがあります。
あの渡し守の方は神殿広場で、あなたとサルゴン人との取引を告発しました。そして、あなたは昨日、緊急で議事堂に呼び出され、報告に向かわれたそうですね。
にもかかわらず、こうして変わらず執務室にいらっしゃる理由は――もしかすると、身を守るための特別な切り札でもお持ちだからでしょうか? あるいは、ほかに秘密の事情でも?
リディア
秘密の事情というほどのものはありません。単に本件の後始末については元よりいくつか手配をしてありましたので、議事堂が理解を示し、私の執政能力を信頼してくれただけのことです。
具体的にどのような手配を行ったかについては、まだ表沙汰になっていない事柄ですので、今はお話しできません。
ペリアンドロス
そうですか。我々としては、あなたが今なお変わらずアテヌスの監督官であるということさえわかれば十分です。
リディア
その点は問題ありません。私には今も、アテヌスの政務を預かり、調整する権限があります。
ペリアンドロス
それを聞いて安心しました。では、ここで一つ、正式なご提案をさせてください。
お二方もよくご存じの通り、現在のミノスは激しい変化の只中にあります。
アテヌスはもちろん、ラケダイモンでも、新たな競技場が築かれ、各国の選手を迎える準備が整っております。
リディア監督官は「伝統」という言葉を好まれないかもしれませんが、それでも、今こそその伝統に立ち返る時ではないでしょうか?
大地が絶えず変わり続ける今だからこそ、三都市間の競争や対立を一度脇に置き、かつての都市連合へと立ち返って、古き祭典を復活させるのはいかがでしょう。
各地に散らばる村々や小都市もきっと呼応してくれるでしょうし、そうなれば我らの力もさらに大きくなるはずです。
ミノスの栄光を鋳直すにせよ、聖火をこの大地の隅々まで灯すにせよ……これは絶好の機会なのですよ。
お二人は、いかがお考えでしょうか?
リディア
……あなたがこの数日、アテヌスを嗅ぎまわっていたのはそのためですか。我々を査定していたのですね。
ペリアンドロス
いやいや、これはただの、市場調査から始めようとしてしまう商人の性分というものですよ。ご不快に思われたのなら、謹んでお詫び申し上げます。
リディア
あなたは想定外の事態を引き起こすのが実にお得意のようですね。そのご提案につきましては、即答はできかねるかと思いますよ。
ペリアンドロス
ええ、構いませんよ。慎重を期すべきことでしょうからね。
ラケダイモンの祭司シィニスカさん、あなたはどうお考えですか?
シィニスカ
ラケダイモンの行政にまつわる決定は、私一人で下せるものじゃないから。でも、一つ確かに言えるのは――
ラケダイモンはどんな挑戦も拒まないってことだね。
クサントス
川を渡すのは俺がやろう。そこからは、まっすぐサルゴンに戻ってくれ。
……
あなたがミノスに対して抱く想いは理解したが、あなたがサルゴン人であることに変わりはない。
正直に言えば、俺は今も、サルゴン人がミノスの地を踏むことを耐えがたく思っているのだ。
ティティ
……そうですよね。理解できます。
ここ数日、私も考えてたんです。ミノスのために、そして祖先たちが犯した過ちを償うために、私に何ができるかを。
でも、よく考えれば、それだけでは足りないと思ったんです。それでは、責任から逃げ、自分を欺いて安心を得ようとするだけの折衷案にしかなりませんから。
だからこそ、すべてを持ち帰り、博物館に収蔵すべきだと思うんです。すべてのサルゴン人に対して、歴史書に記されているものが偽りであることを、その目で確かめさせるために。
クサントス
パーディシャーは喜ばないだろうな。
ティティ
それでも構いません。もとより私の一族は、パーディシャーを喜ばせるのは不得手ですし。
それに、昨日そちらの監督官にもお会いしたんですが、その時彼女がすでに手を打っていたことを知ったんです。
彼女は学者に記録一式の整理と複製を依頼して、論文の執筆まで行わせていました。あれは私が資料を持ち帰り、交換が完了し次第、クルビアの学術誌に特集号として発表する手はずになっています。
クサントス
……
ティティ
彼女が私に会いに来たのは、その特集に向けて、サルゴン人として概要を執筆してほしいという依頼をするためでした。論文の信ぴょう性を増したいという話で……
加えて、この貴重な複製資料については、私が留学時代に築いた人脈でより多くの専門家を招き、共同で研究に当たってもらうことになりました。
そのうえ監督官は、その功績をたたえ、特別に「名誉ミノス人」の勲章を与えてもいいとまで言ってくださったんです。
クサントス
……あなたの勇気には驚かされるな。
ティティ
いえ、大したことではありませんよ。父ができなかったことを少しだけ、代わりにやっているだけですから。
それにしても、アテヌスでの暮らしは本当に楽しいものでした。昨日はエンディミオン神殿の祭司さんにもお会いしたんですが、私たちが舞台で見た幻は、ある種の神託でもあったそうですよ!
私、そう聞いてすごく驚きました。ミノスの神託は、夢の中で与えられるものだとばかり思っていたんです。本にもそう書いてありましたから。
クサントス
幻も、幻聴も、夢も、すべては神託となりうるものだが、中でも夢が神託となる場合が多いと聞く。夢は死者や英雄の魂と交信する重要な手段だからな。
ティティ
祭司さんもそう仰っていました。舞台で見たものや、以前駄獣牧場で見た夢のことをお話ししたら、丁寧に分析してくださって。
最後には、神秘的な口調でこう告げられたんです。「信じられないかもしれませんが、あなたに下された神託は、いずれあなたがパーディシャーとなる未来を示しています」と。
どうしてそうなるんでしょう? 祭司さんは、本気でそう仰っていたんですかね?
名誉ミノス人にしていただいたからには、祭司さんの解釈を本気で信じちゃいそうなんですが。
クサントス
……信じてみればいい。神託とは、人生の指針に過ぎぬものだ。信じれば力を与えてくれることだろう。
サルゴンの辺境に、あなたのようなパーディシャーがいたのなら、我々の間で幾度も血を流す悲劇が起こることもなかったのかもしれないな。
ティティ
あれ、この音……市民投票を知らせるものですか?
クサントス
そうだ。
あなたを川向こうへ渡した後、俺はアテヌスの民全員の投票により裁かれることになる。
彼らには、ここ数日の俺の行動に対する評価を下してもらう。その結果次第で、俺がこの都市を去るかどうかが決まるのだ。
ティティ
でも、あなたのやったことは、ミノスのためで――
クサントス
理由がどうあれ、俺の行いは裁かれるべきものだ。己の行動に対する責任を負わなくては。
ティティ
……
クサントス
もう時間がない。行こう、メジェティクティ嬢。
クサントス
俺は幻の中にもう一度、イサコスと、故郷の川を見た。
カサンドラ
その川は、夢の中と同じように血に染まったものでしたか?
クサントス
いいや。記憶の中にあるように静かで穏やかで、澄み切ってこそいないが、大地を育む泥と生気を宿していた。
カサンドラ
なんとも素敵な神託ですね。それなら、この先あなたはどこへ身を置くことになろうと、再び詩集を手に取ることができるはずです。
クサントス
……そうだな。
投票の結果がどうあれ――アテヌスを去るにせよ、あるいは留まるにせよ、クサントスはそれを静かに受け入れることだろう。
彼は神殿広場に向けてゆっくりと歩き出した。
三ヶ月後
ベフヌイ
見たまえ、ラテラーノの学者から届いたこの書簡を! 「此度のことには衝撃を受けました。史学とは、誤謬を排除し続けて真実を探るものであり、貴国の勇気には敬意を表します」とある!
それに、クルビアの新聞では――「歴史を正視し、サルゴンは大国としての責任感を示した」と報道されている!
ミノスからの帰国後、すぐに開催された特別展示会のもたらす悪影響を和らげるために、私は日夜コネを使って火消しをしているんだぞ!
君の独断専行が通用するのは、一度限りだと理解してもらいたいものだな!
今後同じようなことがあれば、バルジャバンダバード博物館の館長を辞した後はどのように生計を立てるかを考えてもらうことになるぞ。
ティティ
それはあなたの意向ですか? それともパーディシャーのご意向ですか?
ベフヌイ
両者に違いなどない。私の意向はパーディシャーのご意向だ。
ティティ
ミノスを離れる前に、お話はつけたはずですよね。
今回の文化財交換と親善交流が円満な形で成功を収めたのは、すべてあなたの指導の賜物ということにする代わりに、パーディシャーに対する説明責任もあなたに負っていただくと。
パーディシャーを満足させられるなら、どう説明し、どこまで話すかはすべてあなた次第なんですよ。
ベフヌイ
事実として、任務の成功は私の指導の賜物なのだから当たり前だろう! そもそも、君がこれほど大胆な真似をするとは……!
今回は上手く誤魔化してやったが、次も同じように行くとは思うなよ。
それと、予め警告しておくが――この件がもたらした影響は極めて甚大だ。情報によると、黄金都市からはすでに使者が派遣されていて、間もなくミナトハマイに到着されるそうだぞ。
今後はくれぐれも言動に気をつけることだな。
ティティ
……
???
よもや私が到着する前から、そのような知らせが届いていようとは思いませんでした。
ベフヌイ
……!
あなたは……その華やかな身なりに、美しい立ち居振る舞いを拝見するに、諸王の王の使者様ですね!
使者様にご足労いただくなど、この小さな博物館には過ぎたる光栄でございます。こちらへは、ご見学にいらしたのですか?
ティティ
……ミノスの特別展示会にご興味がおありでしたら、私が……
ベフヌイ
バカを言うな! 尊き使者様をご案内するのは私の役目だ。
???
いえ、見学は後回しで構いません。私がここを訪れたのは、諸王の王より直々に賜ったご意向をお伝えするためですので。
陛下は、ミナトハマイが此度ミノスへ使者を遣わしたという件を耳にされ、強い興味を示していらっしゃいます。
ベフヌイ
……!!
で、では……私を迎えに来てくださったのですか? 本当に光栄です!
我が一族は当地の名高き名家であり、私自身、いずれは黄金都市にて諸王の王にお仕えする機会を賜れたらと切望しておりました。やはりそうでしたか、いつかはこのような日が……
???
申し訳ないのですが、そちらのおしゃべりな御仁には、用向きはございません。
メジェティクティ゠ナストゥ゠マーシャイェルさん。陛下は、あなたを黄金都市へと招き、ミノスでの経験を語らせよとお命じになりました。
ご出立の準備をお願いいたします。陛下は、あなたがミノスで成したことや、その際の見聞を聞きたいとお望みなのです。
ティティ
……はい!