蒙は誦を失わず

「理解できません。我らが多大な犠牲を払って得たものを、こうも易く炎家に差し出すというのですか?」
「彼の者はみだりに戦端を開き、幾千幾万もの民草に塗炭の苦しみを味わわせました。失徳の君に、なぜ手を貸すのですか?」
「我らの志は生民の難を解くにありて、一君を助くるを為すに非ず……天命には時が有り、また一人に在るものでもない……」
「求めるはただ、目下の戦乱が一日も早く止み、民草がこれ以上戦の苦しみを受けずに済むことのみである……」
年老いた声
ああ……そうだ、そうとも……!
これこそが……
……炎国の「天命」なのだ。
ホシグマ
おや、まだ残ってたのか?
近衛局隊員
それが聞いてくださいよ、鬼の姉――や、ホシグマ隊長……
中秋節になると、ダウンタウンの街中に飾り提灯が出るでしょ? この前、見物中の市民が車道にはみ出したんです。巡回の人員も限られてて注意が間に合わず、あわや大事故になるところでした。
その件で、局長が火が付いたようにカンカンに怒って……
ホシグマ
はーん、それはよろしくないな。
近衛局隊員
おかげで、罰としてうちの隊は今月の勤務時間が倍ですよ。
このところウェイ総督が忙しくて隅々まで目が届かないんで、局長としては、自分たちが普段よりも一層警戒を強めないといけないと考えてるそうなんです。
ホシグマ
間違ってないな。用心するに越したことはない。
何にせよご苦労。ちょうど食い物を持ってきたんだ。皆で分けてくれ。
近衛局隊員
隊長、そんなの申し訳ないですよ……
ホシグマ
強がるな。腹の音が雷みたいだぞ、鎮めておけ。
近衛局隊員
それは――
あれ、おかしいな。何か、ほんとに雷の音が聞こえませんか?
ちょっ、私の目の錯覚でしょうか?
あっちの……空のあれは何でしょう?
興奮した旅行客
船頭さん、船を出すのは少し待って。ほらあそこ、川の上で何かが動いてるわ!
もしかして循獣? でも循獣が川にいるはずもないし。それに背中に何かを乗せているような……あれは、酒杯?
船頭
蜃気楼でしょう。勾呉の都市外でも起こり得るものです。珍しいことではありません。
(……破っ。)
興奮した旅行客
あれ、急に雨が……川にいた循獣は? どこに行ったんだろう?
船頭
はぁ……
今年のこの秋雨には……骨まで凍える者が出そうですね。
炎国兵士
報告! 報告をいたします――
巨獣が……最終警戒地点に到達しました!
総員厳戒態勢! 繰り返す。全軍、直ちに厳戒態勢に入れ!
*炎国スラング*……
何が「獣」だ。どう見ても山……山が丸ごと動いてる……!
使用人
お客人、どうぞそこまでで。
太尉は重病に伏しており、誰ともお会いになられません。どうかお引き取りを――
……あっ! あなたは……
影の中の人物
太尉は屋敷にいるのか?
使用人
は……はい!
影の中の人物
……先導せよ。
太尉
ゴホッ……ゴホゴホッ……
……先ほど夢と現の狭間で、旧友の姿を見た気がしました……
きっと……先帝が、私の供を望んでいるのだと思ったのですが。
影の中の人物
太尉が常々先帝を偲んでおるのは知っている……
しかし今から死を思うのは、些か性急だ。
太尉
陛下……このような姿で失礼いたします……
……礼式を尽くせそうに……ございません……
影の中の人物
……数日会わぬ内に、ここまで病状が悪化するとはな。
薬は飲んでいるか?
太尉
勿体ないお言葉です……
私の肺の病は長年の持病でして……中秋ごろの常ならぬ気象に、感冒も重なってしまい……
老朽の身、おそらくこの冬は越えられぬでしょう……
影の中の人物
……太尉は我が炎国の股肱の臣だ。そうも易く諦めるな。
かつて数多の外敵に一歩も炎国の地を踏ませることのなかった太尉が、感冒程度を恐れるはずもあるまい。
心穏やかに養生せよ。一日も早く快復し、私の憂いを分かち、炎国の難を解いてくれるのを待っている。
太尉
ゴホゴホッ……私めは耄碌し、考えをまとめることすらもままならぬ始末。あまりに……荷が勝ちすぎているのです。
今日の炎国には、人材がひしめいております。加えて、小事に至るまで陛下御自らご判断を下しており、この老いぼれが口を挟む必要など……
影の中の人物
……なるほど。
太尉の本意は、私の独断専行への不満であり、病は退くための口実か。
太尉
とんでもありません……決してそのような恐れ多いことは。
影の中の人物
この半月、各地の役所や官吏たちから届いた出陣を請う文書が、内閣を越えて私の机に山積みになっている。
いずれも仮借ない書きぶりで、死を覚悟した諫言に近いものだ。
太尉がこのような時に病と称すのは、一体私に何をさせようと……
太尉
ゴホゴホッ……陛下、陛下はご覧になられたのです……
この千年も鎮座している難題に対し、炎国の上から下までがいかなる心持ちでいるのか……
たとえ陛下が私めを信じぬとしても……信じるべきでございます……
……「人心の向かうところ」を。
影の中の人物
……
徒に炎国の将兵の血を流すことなく、死地へと赴かせることもなく済むのであれば、どのような方策であろうと私は試みる覚悟だ。
太尉こそが、私の考えを最もよく理解する者だと思っていた。
太尉
炎国の千にも上る史書に通ずる陛下が……ゴホッ……存ぜぬはずもありますまい……
古来より、流されるべき血が流れること……それを一度でも……避けられたでしょうか?
断つに当たりて則ち断つ。闇雲に完璧を求め、果断に欠けては……流される血は、増えるばかりで減ることはありません。
恐れながら、陛下に今更……申し上げることもない道理と……思っておりました。
影の中の人物
……
太尉
かの罪人が歳の陵墓に入って半月余り経ちましたが、いまだ吉凶も読めません。
今や、様々な擾乱が炎国を取り巻いております。件の五体の巨獣が鎮座するのみならず、機を狙う外敵まで……
罪人を歳の陵墓に一日長く留めるごとに、我が国に生じる危機は深刻さを増していくのです。
これは私一人の考えではありません……
たとえ私が陛下のために、百官を一時抑えられたとして……それも長くは続かないでしょう……
影の中の人物
……ではどうせよと言うのだ?
太尉
陛下の勅を撤回すべきと諫言することはできません……
私が陛下に望むのは……期日を定めていただくことだけです。
……炎国がいつまで待てばよいのかという期日を。
影の中の人物
……
果たして流されるべき血であったか否かは、千年後の史官と民が評価を下すであろう。
今この時、それは太尉の言によって決まることではない――私が決めることでもない。
待てぬのは、果たして炎国か、それとも功を争う者たちの心か、いずれであるのだろうな?
太尉
……陛下……
影の中の人物
……だが太尉の言にも、一理ある。
彼の者が歳の陵墓に入ったのは、八月の既望であったな……
では、次の望日まで待とう。
およそひと月だ。もしその時に至っても、あの者が歳の陵墓の中でなお結果を得られぬのであれば、太尉の意に従い事を進めよう。
太尉
賢明なるご決断です……陛下……
影の中の人物
ではそのように。
……感冒は小病であるが、侮らずくれぐれも静養することだ。
丹燕(ダンイェン)の梨は肺を潤すのに最も良いと聞く。後ほど届けさせよう。
梨を食し、一眠りすれば、太尉の病も良くなっているはずだ。
明日の朝議、遅れるでないぞ。
ユン・チンピン
ようやく……出られたのですか?
リン・チンイェン
巨獣の代理人たちの能力は……実に不思議でした。
鎮撫の儀式は、これでようやく終わったということでしょうか?
ズオ・ラウ
あるいは……
いえ、私たちが鎮撫の儀式を終えたのは……これで果たして幾度目なのでしょう?
界園の中にどれほど留まっていたのでしょう?
リン・チンイェン
手元の天師府の端末によると、我々が界園に入ってから……すでに半月余りが経っているはずです。
ズオ・ラウ
たったそれだけですか? もっと長い時間を過ごしていた気がします……
不在の間に、歳の陵墓の方で何か動きがあったかどうかもわかりませんね……
ユン・チンピン
ズオさんは先ほど、「幾度目」かと仰っていましたが、あれは一体……?
ズオ・ラウ
どうもここに立つのが初めてではない気がしてしまって。
鎮撫の儀式を終えて、玉尺を受け取り、界園を離れて、町へ戻る……そうしたことが何度も繰り返されていたようにも思えているのです。たとえば……
ある時はイーさんに出迎えられ、ある時はかの棋士に行く手を阻まれ……
ある時は後獣が蝶と化して歳獣に深手を負わせ……またある時は道中で器鬼の術中にはまり、訳も分からぬまま庭園を追い出された。そんな気がしてならないのです。
リン・チンイェン
いつからそのような感覚が? 初めから感じていたのですか?
ズオ・ラウ
いえ、これまではただ漠然とした違和感があっただけでした。ですがつい先ほど、ふと、界園に何度も出入りしていたような気がしてしまったんです。
ユン・チンピン
もしもズオさんの感覚が正しいのであれば、鎮撫の儀式は今この時になってようやく、本当に終わったのかもしれません。
ズオ・ラウ
……そうだと良いのですが。
ところで、印は今どなたの手に? イーさんの玉尺は鎮撫の儀式が終わるたびに、異なる人の手に渡っていた気がしますが……
リン・チンイェン
私のところにはありません。
ユン・チンピン
私もです。
ズオ・ラウ
ではまさか――
何か小さな物がズオ・ラウの懐から転がり落ちた。
だが全員の予想に反して、それは玉尺ではなく、小さく精巧な「人形」だった。
ズオ・ラウ
これは……?
中でこんな物を手に入れましたっけ? お二人とも、覚えていますか?
???
あら、全員生きて出てこれたのね。なかなかやるじゃない。
リン・チンイェン
祖師様!
ズオ・ラウ
祖……祖師様。
「老天師」
そこの小童、あんた天師府の門下生でもないのに、随分馴れ馴れしいわね。
ズオ・ラウ
ええと、ではどのようにお呼びすれば……
「老天師」
お呼びすれば、じゃないのよ。あんたは軽功が達者みたいだし、足も速いんだから、さっさとやるべきことをやってきなさい。
ズオ・ラウ
やるべきこと?
「老天師」
持燭人が界園で印を得たら、何をすべきかしら?
ズオ・ラウ
司歳台に戻り、玉尺を引き渡し、職務の報告をします。
「老天師」
でしょ? 分かってるならとっとと行きなさい。
ズオ・ラウ
ですが玉尺は――
「老天師」
印は印。形が違うのなら、そうなるわけがあるのよ。いいから司歳台に行きなさい。まさかあの代理人が盗難届を出すとでも思ってるの?
ズオ・ラウ
もう一つ伺ってもよろしいでしょうか。今の百灶は――
「老天師」
ほんっと、ぐだぐだと話の多い小童ね。持燭人はあんたなの? それとも私?
百灶がどうなっているかなんて、さっさと行って自分の目で見れば済むことでしょ?
幼い子供でもあるまいし、機を見て動くという道理もわからないのかしら?
ズオ・ラウ
……承知しました。
リン・チンイェン
私も共に行きましょう。
「老天師」
あんたは残りなさい。
リン・チンイェン
祖師様……?
「老天師」
今の百灶に炎律を見て判決を出す輩は必要ないし、あんたが行ったところで無駄足よ。それよりも、ここに残った方がよほど役に立つわ。
そこのユンって若造もそう。あんたたちは司歳台の人間じゃないでしょ? 野次馬して余計な面倒ごとを増やす前に、ここに残りなさい。
三人はしばし顔を見合わせた後、黙って老天師の言葉に従った。
ズオ・ラウは印を懐にしまい、一行に別れを告げると、身を翻して駆けていった。
ユン・チンピン
その老……天師府の祖師様、もう一つお尋ねしたいことが……
私たちが歳の陵墓に入る前に、あなたが連れ去った山海衆を名乗る女性は、今どちらに?
「老天師」
へえ? あんた、鈍いやつに見えたけど、まさかあの小娘のことが気になっていたなんてね?
ユン・チンピン
とんでもありません。あの方が、界園の中に炎国と歳獣との戦を防ぎ得る物が存在すると語っていたのを覚えていただけです。
あなたは、我々が界園に入るのを特別に許して下さったにもかかわらず、先ほどズオさんの持つ印を検めようという素振りすらなさいませんでした。
つまり……彼女の言葉が正しいとご存じであるのではないですか?
「老天師」
面白いじゃない……その洞察力、隙があれば武術の鍛錬を始める奴の下で学んだとは思えないわ。
ユン・チンピン
当然、祖師様がそうなさるのは、相応の理由があってのことと信じております。ただ、もしそれほど重要な品であるなら、ズオさんが危険な目に遭わないか心配で……
「老天師」
ふん、危険ね……どうあれ、ここまで来たからには、盤外に身を置ける者なんていやしないわ。
あの小童が持燭人たる覚悟を持っているのなら、そろそろ行動で示さないとね。
リャン
……
イー
どうした? 珍しく黙り込んでいるね。
リャン
彼らが印を無事に送り届けられるか気になっているだけだよ。
印の正体を知る者は手をこまねいて傍観するしかない。だけど我々に力を貸してくれる者たちは、印を届ける場所すらわからない。
イー
あの老天師がここまでやってくれただけでも、私たちにとっては望外の助けだよ。とんでもなく親切だ。後のことは、我ら一家の幸運に委ねる他あるまい。
リャン
まさか、あの若者たちを巻き込むことになってしまうとは。喜ぶべきか、憂うべきか迷うところだ。
イー
この百余年で、界園に足を踏み入れた者は少なくない。
だが私たちが忘れてきた記憶の中から、僅かな活路をすくい取り、現世へと運び出したのは彼らだけだ。
いずれにせよ、彼らと私たちの家族の間に、多少なりとも縁があることは信じるべきかな。
リャン
まったくその通りだ。
イー
はあ、世の風物は千差万別だが、人との出会いという点では、やはり「縁」がものを言うな。
予め入場券を用意し、下調べして計画を立て、地図を覚え、正門に立って開園を待った挙句に、雷雨で何一つ見物することができないなんてことは、当たり前に起こるからね。
一方で、側門から勝手に園内に入り、無闇に歩き回っていても、心を一つ所に向けてさえいれば、思いがけずうまくいくこともある。
興が乗れば訪れ、興が尽きれば帰る……望む結果のために強引に物事を曲げては、却って無粋というものだ。
私たちはここで心静かに待ち、庭園を守ろう……
……この良き時節に美しき景色は、そうそう易くは手放せないものさ。
しわがれた声
……ほんに面倒なことよ。同じ道理を何度も何度も説いて、口が乾いてしまったわ。
またしても振り出しに戻ってきたではないか。幾千年もの間こうして議論をしてきたが、お主の頑固頭はこれっぽっちも柔らかくなる気配がないな。
低い声
頑固はどちらだ。貴殿こそ、その角と同じように考えを曲げぬではないか。学問の才よりも理屈をこね回す腕前の方が上だな。
簡単な道理だ――規矩(きく)なくして、方円は成らず。人が世で生きるからには、是非を弁じ、善悪を分けるのは当然のこと。
もしも貴殿の言うように、誰もが万物を斉一と見なし、黒を白と言い張れば、この世はどれほどの混乱に陥る?
しわがれた声
なんともはや、バカげているな……お主が固執する規矩の遵守も、所詮は地を画して牢とするに過ぎぬ行いなのだ。
問おうか。一軒の家を建て、一城一池を築くのであれば、ひとまず従うべき規矩もあろう。
しかし千古の功罪や万民の民心を測ろうとすれば――果たして何を規とし、何を矩とすればいい?
低い声
当然ながら規矩とは時宜に合わせて立て、人のために立てるべきものだ。
いつ私が規矩を立てるために規矩を立てろと言った?
チェン
ここは……どこだ……?
……あなたたちは誰だ?
質素な身なりの老人
よかろう……では是非ご教授願いたいものだが。
お主は規矩を立てねばならぬと言うが、一体誰がそれを立てるべきなのだ?
奇怪な容貌の職人
無論、徳のある者だ――徳こそ民を従わせる要。人々が心服する規矩こそが、真の規矩である。
質素な身なりの老人
見よ、そこで問題が生じるではないか?
規矩を定めるには、まずは徳ある者を探さねばならぬ。だが徳ある者とは何者なのか? その者を探すために、また別の規矩を定めねばならぬのではないか?
矩(ジュー)殿、お主は万に上る時を生きていながら、いまだ羽獣が先か、卵が先かという問題すら解いておらん。
奇怪な容貌の職人
ハッ! 無茶苦茶だな。屁理屈をこねて、因果を逆さにしている。
この世には、元より「公義」と名を為す規矩がある。人が捏ね上げたものではない。
チェン
一体……
何の話をしているんだ……?
質素な身なりの老人
おや、どうやら、こちらもそろそろ目覚めるようだ。
現実か? 夢か?
奇怪な容貌の職人
問うまでもない。このぼんやりと、無為に日々を重ねる様子は、夢見心地以外の何物でもない。
質素な身なりの老人
夢に似て、現に似る、夢に非ずして現に非ず。この娘は今難題にぶつかり、さぞ頭を悩ませていると見える。
奇怪な容貌の職人
頑冥不霊、暗愚魯鈍、そうなれば如何なる問題に出くわしても頭を悩ませ、如何なる道を進んでも壁にぶつかることになる。
質素な身なりの老人
言い得て妙だな……この娘は、智慧はあるが行いが伴わず、無為から有為を求めている。確かに自己矛盾だ。
奇怪な容貌の職人
今に至っても、形あり体ある「公正」を見つけ出し、あまつさえそれをそのまま懐に入れて持ち去ろうとしている。不出来な我が弟子と比べても、一層の痴れ者だ。
そうとも、この世で一番の痴れ者でもなければ、絵空事を夢見るはずもあるまい。
質素な身なりの老人
矩殿、そう厳しく責めることはあるまい。この世の多くの者が木に縁りて鱗獣を求め、氷を叩いて火を起こそうとするものだ。詮なきことよ。
一つだけ確かなのは……
この娘は、つまるところ痴れ者であること……
チェン
誰なんだ――
冷淡な女性
どうしたの?
チェン
何でもない……
さっき、何も聞こえなかったのか?
冷淡な女性
本当に変な人ですね。初めからずっと上の空で。
まさか、字鬼たちに頭をやられたのかしら? それなら私にもどうにもできませんね。
チェン
いや、そういうわけでは――
ただ……なんとなく……
ここに来るのは初めてじゃないような気がしてな……