声が嗄れるまで

アーツを操ることは、この戦いにおける一番の困難ではない。
赤と黒の霧が立ち込める中、白い影がそっと佇む。言葉はなく、動きもなく、服の裾さえ微動だにしない。
それは避けることも、反撃することもなく、己の周りを取り巻く障壁が崩れても、ただ無言で存在し続けていた。
それは虚ろな洞。すべてを呑み込む、虚無の渦だ。
Mantra
……
あなたは一体……
意識空間の景色はなおも変化し続けている。一同は、再び起点へと戻ってきた。
そこは名前も、場所も定かではない荒野。あるいは単純に、こう呼ぶことができるかもしれない――
――サルゴンと。
懇願する声
なぜだ……一体なぜこんなことに……
天災が我らの故郷を破壊しただけでは飽き足らず、なぜ今度は戦争が命までも奪っていくのだ?
パーディシャーよ、寡黙にして賢明なるパーディシャーよ……
我が惑いを聞き届け、どうか……
我が苦しみに僅かなりとも慰めをお与えください。
Mantra
……無駄だ。
いくら私の意識を探ろうと、私が虚無の中で安らかに眠ることを望むような幻を作り出せはしない。
佯狂者
■■■■■■■■■……■■。
そなた■……パーディシャーだった。
Mantra?
パーディシャー、それがあなたの過去。
慰めを求める民に、あなたは幻を与えることすらしなかった。あなたにとっては容易いことだったというのに。
Mantra
それは慰めではなく、虚言だ。
長い歴史があり腐敗した王権が、一度の甘美な夢で揺らぐことはない。
私はあの地を離れた。自ら逃れたのだ。
Mantra?
確かにあなたは些かも揺らいではいない。
あなたの声は……
Mantra
佯狂者、お前は声の源にはなれない。「私」になることは……叶わないのだ。
なぜなら私は声を持たないのだから。そして、お前はただの――
「残響」に過ぎないのだから。
佯狂者
……
Mantra
「人々が目にする私の姿は、私に対して抱く認知と期待を映し出しているだけだ。」
それがため、お前は存在している。
だが私はお前にも、私自身の甚だしい愚昧にも……
何の期待も抱いていない。
佯狂者
そなたは強大だ……
試練も洗礼も受けぬまま、私とほとんど変わらぬ力を持っている。
だがそなたはこの力を、天から授かりし恩寵を侮った……本来ならこれをもって真理を説き、民を導くべきだったのだ。
そなたを自分の宮殿から遠ざけ、力を放棄させ、軟弱に変えたのは何だ?
Mantra
私は気づいたのだ……
知識は王権より永く息づき、真理は虚言より強大であると。
だがお前は……
虚言を弄して人々を滅亡へと差し向け、氷原に身を埋めさせた。
一体なぜだ?
柔らかな笑い声が空間に響く。
佯狂者
啓示だ。■■だ。布教だ。生贄だ。
大地は間もなく変革を迎える。強大でない者は、すべて滅びる。
であるからこそ、私は火種を育み、それを大きくし、広げる。
不浄なる品行を焼き尽くし、すべてを炎の中で生まれ変わらせるのだ。
Mantra
……
Mantraは、今なら自分は佯狂者を殺せる確信があった。この場所で、意識の中で、その存在をかき消すのは蝋燭の炎を消すのとそう変わらないのだ。
だが、ただ殺すことが、現状に対して何の助けになるだろう? 彼女にはわからなかった。ましてや相手が戦いに参加してすらいないなら、勝利など論外ではないか?
Mantra
これ以上時間を浪費するな、佯狂者。
直ちに坑夫たちへの干渉を止め、彼らを解放するんだ。
さもなくば、ウルサスは次の佯狂者を必要とすることになる。
佯狂者
いいや……違う……
そなたの過去は重く果てなく長い、■■。
だが必ず、どこかに存在するだろう……
そなたの苦痛が。そなたが避けようとも■■■■■苦痛が……
Mantra
……!
Mantraには反応する暇もなかった。彼女がほんの一瞬動揺した隙に、辛うじて保っていた意識空間に亀裂が生じたのだ。
自らの失策に気づいた瞬間には既に、無数の反応が意識空間の外で次々に響き始めていた。
敬虔な坑夫
受け入れます。
衰弱した坑夫
私は……受け入れます……
放心した坑夫
受け入れるわ。とうに受け入れたもの。
私は麦藁だって、苔だって食べられるし、砂の混じった雪でも飲める。お腹が裂けるまでそれらを詰め込めば、もう飢えを感じることもない。
ほらね、生きていることよりも死の方が恐ろしいなんてことはないの。
視界の先にいる佯狂者は、なおも蒼白な長身のままだった。小刻みに震える幻影でもなければ、腰の曲がった老婆でもない。
どのような姿であれど、それを信じる者が一人でもいる限り、佯狂者の存在は確立するのだ。
物事の病巣はそこではなく、他にあった。
佯狂者
■■■■■■■、■■……■■■。
時が再び流れ出す。Mantraは周囲を見回した。ただちに撤退すべきか、過ちを正すべきか。彼女の理性と感情が脳内で激しくせめぎ合う。
それほど時を置かず、彼女は心を決めた。
Mantra
エリジウム。
エリジウム
はいよ!
Mantra
外からサーモグラフィーを使って位置をマークしてくれ。ここにいる坑夫全員に呼びかけるための手助けをしてほしい。
できるか?
エリジウム
もちろん――
問題なし!
ほどなくして、冷ややかな女性の声が坑夫たちの脳内に響き渡る。
坑夫たちとリンクした瞬間に、Mantraは彼らがこれ以上の精神系アーツの衝撃には耐えられないことを理解した。
佯狂者を遠ざけておける時間も限られている。速戦即決で覚醒させねばならない。
Mantra
……これから私が行うことは、あなたたちにとっては酷かもしれない。それでも私は真実を見せる必要があると考える。
この逃避行が生への無力感と何者かの誘導により開始したのであれば、せめて結末はあなたたち自身の手で決定すべきだ。
衰弱した坑夫
誰が……話しているんだ?
どうして採掘場に戻って……
敬虔な坑夫
ここにいるはずがない! 俺たちはもう逃げ出したんだ。ランキンと一緒に――チップを取り外して、逃げ出してきた!
これは現実じゃない。
Mantra
半分は正しい。これは現在の真実ではなく、過去のものだ。
あなたたちは地面に倒れている人物を殺した。真実か、否か?
敬虔な坑夫
あ、ああ! 俺たちは奴を殺した……ランキンが殺したんだ!
俺はランキンのことを英雄だと思ってたんだ。あの人は俺たちを感染者が差別されない場所へ連れていってくれるって言ってくれた。なのに、結局は俺たちを見捨てて行っちまった――
Mantra
つまりあなたは、この場面が真実だと認めるのか。
敬虔な坑夫
俺は現場にいたんだ! これがあの時見た光景だ。俺たちは人を殺し、自らの魂を汚した……
Mantra
もう一度よく見てみろ。
答えてくれ、これは誰だ?
敬虔な坑夫
ナディア、ヴェトチキの婆さんだよ。採掘場の皆が彼女を尊敬してた。衛兵の連中だってほとんどそういう感じだった。
Mantra
あなたも彼女を尊敬していた。それは年長者としてか、それとも神像を崇めるようにか?
敬虔な坑夫
ナディアは採掘場であの歳まで生き延びたんだ。その二つに大した違いはない。
Mantra
彼女はあなたたちと一緒にいた。共にこの戦いに参加していた。
敬虔な坑夫
いや、そんなはずはない。あの時彼女はいなかった……誰も老人に戦えと要求したりしない。
ナディアはこの場で、誰を見てるんだ? 倒れた奴を弔っているのか? なぜ人殺しを弔う必要がある?
Mantra
彼女がここにいるのは、あの者を殺したのは彼女だからだ。
敬虔な坑夫
なんだって?
Mantra
ランキン、あるいはあなたたちは、最後に倒れた人物を殺していない。
あの者を殺したのは、本人の驕り。そして幻を作り上げ、その死が自分のせいだとあなたたちに思い込ませた存在。
「佯狂者」だ。
ヴェトチキは戸口に立っていた。逃げ出したくても足が動かない。様子を窺いたくても勇気が湧かない。
ゆえに彼女は手の中の「ストップウォッチ」を見つめるしかなかった。針がカチカチと音を立て、様々な数字を指し示していく。
彼女は思った。今は何時だろう? どれが時針で、どれが分針なんだろう? この余分な針はなに?
ヴェトチキ
……
お母さんは、雪の中で眠っちゃダメって言ってた。体温が低下すれば意識を失うし、雪が重くなりすぎると命をも奪うからって。
ランキンさんは、坑道では気を抜いちゃダメだって言ってた。酸素が薄くなると気を失っちゃうし、見えないガスが何もかも燃やしちゃうって。
だけどここは雪の中でも、坑道でもない。それならば、ここでは眠ってもいいし、休んでもいいのだろうか?
ヴェトチキ
……誰が……
わたしたちを助けてくれるの?
おばあちゃんはもういない。そこに立ってるのはナディアおばあちゃんじゃない。
いや、違う……
ここじゃダメだ。休むにしても、奪った他の人の家でじゃない。眠るにしても、それは生きる気力を失くしたからじゃない。
ヴェトチキ
眠っちゃダメ、休んじゃダメだ。
自分たちで……
自分自身を救うんだ。
彼女は即席で鍛造した「盾」をしっかりと立てた。その盾には、かつて坑道内の仲間に退避を知らせるために使っていた銅の鐘が吊るされている。
そうして、ヴェトチキはツルハシを振り上げると、再び鐘を打ち鳴らした。
敬虔な坑夫
……つまり、彼女は本当に佯狂者なのか?
Mantra
あなたたちは彼女を佯狂者として崇めていたな。
敬虔な坑夫
彼女は佯狂者で……俺たちを救ってくれた! 全部辻褄が合った。
佯狂者は俺たちを慰めて、苦痛を一緒に背負ってくれていた……いつも俺たちの傍にいてくれたんだ。
その時、あんたたちは一体どこにいた?
Mantra
それが正しいなら、今も彼女があなたたちを救うはずだろう。
坑夫は佯狂者に目を向けた。それはまるで、物言わぬ彫像のように立ち尽くしている。
敬虔な坑夫
俺たちの罪が重くなりすぎたのかもしれない。
Mantra
いいや、違う。
偽りと苦痛を作り出した加害者が、被害者に忍耐と屈服を強制するのは、これまで長く繰り返されて来たことだ。あなたたちは目を覆われ、従う以外の道が見えなかったのだ。
あなたたちに罪などない。
敬虔な坑夫
つまり、俺たちはまだ救われるってことか?
放心した坑夫
ふざけないでよ。そんなのもうどうだっていいでしょ? 黙りなさい、ヴァーシャ。
Mantra
救われるとも。
ここから離れて、先へ進めば。
生きることが時に死より恐ろしいかもしれない状況におかれても、それでも、生きることを選べ。
放心した坑夫
ハッ、出ていってちょうだい。
もう少し違う言葉が聞けると思ってたわ。その程度なら、私はいっそ五体満足で死ぬ方を選ぶわよ。皆もきっとそう思って――
敬虔な坑夫
鐘の音? 誰が鳴らしてる?
ヴェトチキか……
Mantra
どうやら、すでに選択した者がいるようだ。
ヴェトチキは黙って銅の鐘を鳴らし続けた。その音がもはや、かつてとは違っていても。
彼女は一度、また一度と打ち鳴らす。誰かが立ち上がるまで、手を止めはしない。
坑夫
もう退勤の時間か?
ええ、そうよ。
帰りたいな。
家に帰りたいわ……
床から、壁際から立ち上がる人々がどんどん増えていく。重なり合う人影は、部屋の奥に佇む蒼白を徐々に覆い隠していった。
佯狂者
■■■■■■……
佯狂者は体を震わせながら、Mantraの傍を通りすぎ、立ち上がった人々の間を通り抜け――
――ヴェトチキの前までやってきた。
佯狂者
■■■■……
かわいい子。
ヴェトチキ
……
ヴェトチキはうつむいたまま、呼びかけに応えない。
彼女はただひたすらに銅の鐘を打ち鳴らし続けた。その音で皆が目を覚まし、ぼんやりとした笑顔を浮かべるまで。
坑夫
「小枝ちゃん」、お疲れ様。
「小枝ちゃん」、もう帰りな。あまりここに長居するんじゃない。
「小枝ちゃん」――
ヴェトチキ
いえ、わたしは……
帰りません。
坑夫
「小枝ちゃん」?
ヴェトチキは前を向き、口角が下がっていく仲間たちと、透明に近い蒼白な佯狂者を見据えた。
彼女は、「いいえ」と言った。
ヴェトチキ
わたしたちは帰りません。
ここを離れて、生き延びるんです。
「生きる」、ということが……わたしたちの、唯一の、関心事ではなくなるまで。
アーミヤ
皆さん……すっかり元気になられたみたいです。
Mantraさん! 大丈夫ですか?
Mantra
こちらMantra。
交渉完了。坑夫たちは佯狂者の支配から脱した。
アーミヤ
Mantraさんが、あの佯狂者を倒したんですか……?
Mantra
私がそう述べることはできない。彼ら自身も努力していたが、佯狂者は単に姿を消しただけだ。位置はもう特定できなくなった。
だが、今は他にやるべきことがある。
Raidian
ウルサス軍が……
もうここへ来てる。
アーミヤ
エリジウムさん、状況報告をお願いします。
エリジウム
進行方向の五キロ圏内に敵の痕跡はないね。このまま進んで問題なし。
ツンドラを抜ければ、その先は歩きやすくなるはずだよ。
アーミヤ
いい知らせですね。ありがとうございます、エリジウムさん。
エリジウム
いや、そうとも言い切れないんだ。敵が前方にいないってことは、後方にいる可能性が高いからね。
アーミヤ、しんがりを務める君たちの部隊は十分に気をつけて。
アーミヤ
はい、わかりました。
アロイジウス
砲声が近づいてきてるわね……
アーミヤ
我々の部隊の進む速度はすでに限界です。
アロイジウス
さらにまずいのは、軍の位置がまったく掴めてないことよ。
Raidian
アーミヤ、もっと情報を集めないといけないよね。少なくとも連中の行軍ルートは何とかして把握する必要がある。
アーミヤ
Raidianさん、もしかして、相手の軍用通信を傍受するつもりですか? そんなことできるんですか?
Raidian
ウルサスの軍用通信の暗号化方式は知ってるんだ。だけどもう何年も経ってるから、今どの帯域を使ってるかをすぐに掴むのは難しいかもしれない。
……
アロイジウス
何よ、その目は?
わかったわよ。また私に秘密を売り渡す悪役をやらせるつもりなのね? 絶対に力になれるって保証はできないけど……
もし私たちが生きてウルサスの軍事裁判に辿り着けたら、あなたのこれからの行動は完全に自己防衛の必要性に基づくものだったと証言してあげるわ。
Raidian
そのジョーク、あなたが思ってるほど面白くないよ、「軍曹」。
アロイジウス
どうお伝えすればいいかしら。私の言ったことは、おっしゃる通りジョークにもならないものなの。だからもう少し要求を下げてもらえないかしら、Raidianさん。
Raidian
すでに十分下げてるよ。帯域を教えて、それから……「静かにしてて」。
アロイジウス
ええと、書いておくわ。
Raidian
見つけた。この帯域だね。ありがとう。
キー信号追跡……アクティブ信号切替……艦載通信機? うんと、どれどれ……
「……感染者の坑夫が反乱を起こした。現在クライニ・セーヴェル地区にて逃走中……」
……
アロイジウス
どうしたの、あの連中の厚顔無恥さに驚いて言葉も出なくなった?
Raidian
別に意外じゃないよ。
とはいえ少なくとも、移動都市は避けて動くつもりみたいだね。けど念のために、民間放送も聞いておこうかな……誰か地図は持ってない?
アロイジウス
手元にはないわ。今取ってくる――
ヴェトチキ
地図、ここに……あります。
あなたたちが聞いてる、情報、わたしにも……聞かせてもらえますか?
他の鉱区の、状況を、知りたくて……
逃げたのは、わたしたちだけ、でしょうか? それとも、他の人たちも……
Raidian
放送されてるのが真実とは限らないよ、ヴェトチキ。
ヴェトチキ
わ、わかってます!
ただ、確認したいだけです……みんなが安全か知りたくて。構いませんか、お姉ちゃん?
Raidian
確かに、鉱区の放送も信頼できる情報源の一つだってことには気づかなかったな。ありがとね、ヴェトチキ。
ゴルシコワ中尉、お手数をかけるけど、軍の進行方向にある移動都市をすべてマークしておいてくれるかな。
待って……電気信号が勝手に切り替わった……
軍用帯域だ。さっきまでは民間の帯域に向けてループ放送してたけど、今は他の部隊向けに内部通信を共有し始めたみたい。
アーミヤ
え……
アロイジウス
……
ヴェトチキ
「掃討」?
……掃討って……
何を?
Raidian
ヴェトチキ、聞いちゃダメ!
少女は首を横に振り、自分の耳を塞ごうとしたRaidianの動きを押し止めた。
短い沈黙の後、最新の情報が再び自動的に受信される。
いくつもの聞き覚えのある名前や、知らない名前が端末からノイズ交じりに聞こえてくる。その通信の向こう側にある光景を想像しようとする者はいなかった。
名前、これはただの名前だ。
アーミヤ
……
アロイジウス
もう十分よ、切りなさい。
これ以上の情報は得られないわ……それを切りなさい。
ヴェトチキ
ダ……ダメ……
わたしは、知らなくちゃ……知り、たいんです。
みんな……わたしたちの……仲間だから。
端末から流れる放送は、同じ旋律を繰り返し続ける楽曲のように途切れることなく続いている。
夜空に揺らめくオーロラ、その美しい帳が氷原に響くすべての悲鳴を隔絶していた。
この闇夜は、一際長く続いた。
エリザベト女大公
……存じております、いつだって存じておりますとも、我が敬愛する陛下。
陛下の慈愛深きお心はよく存じております。ですが、慈悲によって敬意を得られた者などいないのです……
エネルギーの供給源となる資源を失った国家を待ち受けるのは、如何なる末路でしょうか?
他者の顔色を窺う家畜に成り果てるか、あるいはその前に自身が生存するためのエネルギーを奪い取るか。
陛下にもお判りになるはずです。これは軍の渇望ではございません……ウルサスの渇望なのです。
ウルサスは決して弱腰になってはなりません。もしも間もなく弱さが生まれるなら、その軟弱な部分を切り捨てるまでです。ひとたび隙を晒せば、瞬く間に他の捕食者に喰らい尽くされるでしょう。
それが道理というものです……
なんと苦しい沈黙でしょうか……
エリザベト女大公は議会の封蝋が押された手紙を暖かな暖炉にそっと投げ入れた。
ぱちりと小さく炎が爆ぜると、すべては再び静寂に包まれた。
Raidian
ヴェトチキ……落ち着いて。私の話を聞いて。
怖がらないで……諦めないで。私たちにまだ生き延びるチャンスはある。まだみんなを連れてここから逃げ出すことはできるんだよ。
ヴェトチキ
ここを離れたいです……
でも、「虐殺」……人を殺しているんですか? 軍は、みんなを……口封じしたんですか?
昔は、バターと、コーヒーで。その後は、鞭と、死の怖さで。
お父さんもお母さんも、口を閉じなかったから……死んじゃった。
Raidian
ヴェトチキ……
ヴェトチキ
でも、口を閉じても、結局死んじゃうなら?
今聞いた鉱区の人たちは……みんな、死んじゃった? でも、わたしたちだけが、それを知ってる。
わ、わたしたちも「口封じ」、される前に、もっと多くの人に、知らせるべきじゃないんですか?
あいつら、全員を、殺すことなんて、できませんから。
そうですよね?
アロイジウス
あなたの言うことはもっともだわ。だけど、今外へ発信したりしたら、近くにいる軍に真正面からこちらの位置を知らせるようなものよ……
私たちは……
アロイジウスはそこで言葉を飲み込んだ。理性のみに基づいた考えは、今この瞬間どうしても口に出せなかった。
Mantra
ヴェトチキの言う通りだ。
我々は、ここで起きた出来事が沈黙の中に葬り去られるのを許してはならない。
アーミヤ
Mantraさん、あなたは先ほど死闘を経験したばかりです。
Mantra
私はこうした時のためにいる。心配はいらない、アーミヤ。
アーミヤ
ですが、心配にならないわけが……
Mantraさんは、もともとこの北方の土地を再び訪れて自分のアーツを晒すことを望んでいませんでした。そこには必ず理由があるはずです。他者に知られたくない過去か、それとも……
ロドスは決してオペレーターに本来不要な犠牲を強いたりはしません。Mantraさんがかつてここで何を経験したかは知りませんが、それを克服するには大きな勇気がいることは理解しています。
Mantra
理解に感謝する、アーミヤ。だが今の私は……もう殊更に隠すつもりはない。それはすでに過去に捨てたものだ。
今は、この地で起きた惨劇を公にし、皆の前で奴らの陰謀を暴く時だ。
ヴェトチキ
は……はい!
Mantra
うむ、当事者もここにいる。
始めるとしよう。
エリジウム
機材の調整は完了したよ……隊長、調子はどう?
Mantra
正常だ。
エリジウム
なら範囲の拡大を続けるね。Raidianさんは?
Raidian
ちょっと待って。もしかしたら頻発する磁気嵐を利用して、ノイズに紛れた電気信号を逆利用できるかもしれない……
Mantra、これならどう?
Mantra
……
聞こえる音が増えた。
「増えた」とは、簡潔すぎる表現だった。実のところ彼女はより多くの音だけでなく、より遠くの、より細かい音まで拾っていたのだ――
高速戦艦の履帯が氷原に轍を刻む音。源石エンジンと砲撃でも覆い隠せぬ悲鳴。
子供たちの額に口づけをした両親が言う、ウルサス南部訛りのおやすみ。カーテンを引こうと思いながら結局忘れてしまい、キスを交わし合いながら窓辺からソファへと移る恋人たちの愛のささやき。
磁気嵐の影響で途切れ途切れに聞こえる、北原のどこかの都市間ラジオ。雲獣を抱いてまどろみに落ちていく、老人ホームにいるお年寄り……
Mantraは、自分にはあらゆる音が聞こえるのだと認識しかけていた。そして、聞こえるすべての音を断ち切り、必要な言葉に置き換えることすらも自由にできると思えた。
Mantra
「鉱区――」
Mantraは不意に、これは自分が口にすべき言葉ではないと思った。
少なくとも、自分一人だけが口にすべきではない。
Mantra
ヴェトチキ。
ヴェトチキ
は、はい?
Mantra
これはあなたが言い出した、あなたが伝えたい言葉だ。
だから、私と一緒に。
ヴェトチキ
でも、わたし、うまく話せません――
Mantra
問題ない。あなたならできる。
ヴェトチキ
わ、わたし――
Mantra
「鉱区と都市の仲間たちへ。」
ヴェトチキ
「鉱区と都市の、仲間たちへ。」
Mantra
「私たちはクライニ・セーヴェルの者だ。」
ヴェトチキ
「わたしたちは……クライニ・セーヴェルの者です。」
Mantra
「私たちは今、虐殺に遭っています。」
ヴェトチキ
「わたしたちは今……」
鉱区と都市の仲間たちへ。わたしたちは軍に追われている、クライニ・セーヴェルの坑夫です。
わたしたちはまだ生きています。ですが今、虐殺に遭っています。
わたしたちがウルサスを裏切ったからではありません。ウルサスが……
わたしたちを見捨てたからです。
ヴェトチキ
で――できました!
Mantra
よくやった。
今度は私があなたに……
少し手を貸してもらう必要がありそうだ。