最後の悦び
ホーリー
……
ニクト
ホーリー、せめて少しくらい食べたらどう?
ほら、白パンだよ。都市の食卓にしか並ばない貴重品だ。
ホーリー
……
ニクト
はぁ……
ん?
なんで歌なんか歌ってるんだ……
楽しげな坑夫
ニクト! ふぅ、ようやく見つけた。
ほら。変人で、都会人で、教授で、何もかも気に食わないニクトさん。ちょうど音楽も流れてることだし、私と踊りましょうよ。
ニクト
……今は踊ってる場合じゃないよ。
篝火なんか焚いて、夜中に目立ちすぎだ。
楽しげな坑夫
でも牽引車を見つけたし、物資だっていくつか手に入れたのよ。量はそんな多くないけど、あの場所からもっと遠くへ離れるには十分でしょ。これって祝う価値のあることじゃないの?
身体からチップを取り出して、鉱区を出て、監視隊を打ち負かした上に、牽引車と物資まである。こんな状況、夢にだってみたことないわ。
ニクト
ヴェトチキとランキンはどこに?
楽しげな坑夫
あんた見かける度にあの二人を探してるけど、いつも引っ付いてなきゃいけないわけじゃないでしょ。たまにはこうして少し離れて、お互いに息抜きするのも悪くないわよ。
でも、今ならちょうどランキンがどこにいるのか知ってるわ。あんたの嫌いな篝火の傍よ。どう、あんたもこない?
ニクト
……最後に一つ聞きたい。アコーディオンを弾いてるのは誰だ?
楽しげな坑夫
なによ、興味あるんじゃない! ついてきてくれたら分かるわ。
そうしてニクトは差し出された手を取った。手袋を脱いだ彼女の手の平はザラザラとしていて温かく、記憶から拭い去ろうとした過去に握った手たちとは違った感触だった。
二人は足を踏み出し、篝火と音楽の元へ歩いていく。
ニクト
……あいつ……
楽しげな坑夫
ね、ここにいるって言ったでしょ。
そう、彼はそこにいた。
ニクトはその男が両の拳を握りしめ、力いっぱい武器を振るう姿を何度も見てきた。
男の両手は傷跡だらけで、青筋が浮いている。そんな手でどうやってアコーディオンのように精密な楽器を操るのか、ニクトには想像がつかなかった。
ニクト
あいつはアコーディオンが弾けるのか?
楽しげな坑夫
ええ、それがどうしたの?
篝火の傍でランキンのタコのできた指が鍵盤の上を跳ねている。蛇腹を押し出す力も、とても柔らかだ。
音色はただそのまま流れてゆく。
楽しげな坑夫
見たまんまよ。嘘なんてついてないでしょ?
さあ、ぼーっとしてないで早く行きましょう。みんなの貴重な休憩時間を無駄にしちゃダメよ!
ニクト
僕は……
まるで狙っていた獲物を捕らえる狩人のように、彼女は彼の手を引いた。身体が群衆の中に引き込まれた瞬間から、ニクトはほとんど本能的にリズムに乗ってステップを踏み始めた。
ニクトも、かつては踊っていた。ダンスをする際の彼は素晴らしい踊り手だった。鉱区に来てから、彼はそのことを思い出さないようにしていた。
楽しげな坑夫
しかめっ面しないで。何も考えないで、ただ踊りましょう。体を動かして悩みを全部忘れるのよ。
ニクト
……
人々は拍子に合わせて飛び跳ね、歌い、身体全体でリズムに乗っている。
これはダンスだ。余計なものは何もない。純粋で原始的なダンスである。
ニクト
……ふっ。
ニクトは軽く息を吐くと、身体を揺らし始めた。しゃがみ、足を蹴り出し、ターンする。その一つ一つの動きが情熱的なビートにぴたりと合っていた。
楽しげな坑夫
やっぱり、あたしの目に狂いはなかったわね。あんたってダンスがとっても上手!
どーお? こういう雰囲気の中で、踊らずにいられる人なんていないのよ。
ニクトは答えなかった。彼は無表情のまま、ただ機械的に相手に合わせてステップを踏んでターンをし続けた。
つま先からかかと。一歩足を踏み出し、軽く跳ねる。腕を振り、身体を捻る。その繰り返しは、次の小節最初の強拍が訪れるまで続いた。
再び身を起こし、パートナーの両手を取る頃には、彼がダンスの主導権を握っていた。
楽しげな坑夫
わーお――
ニクト
礼はいらないよ。
楽しげな坑夫
その言い草、謙虚さの欠片もないわね。でも……
認めるわよ。ダンスのテクニックなんて習ったことのないあたしでも、あんたが相当上手ってことくらいはわかるもの。スピードも、その足運びの「魔法」も……まるで空を飛んでるみたい。
それってなんて言うの? 「ステップ」? 「身のこなし」?
ニクト
「哀れな装飾品の本能」って言うのさ。
楽しげな坑夫
どういう意味よそれ――
問いかけへの答えはなかった。陽気なリズムに乗って、ニクトは相手の手を強く握り締め、自分の方へ引き寄せたかと思うと、向こう側へと投げ出した。
彼女は笑い声を上げながら、先ほどから踊りたそうにしていたがダンスパートナーのいない若者にぶつかった。ニクトはゆっくりと手を放すと、二人がそのまま次のダンスを続けるのを見届けた。
ダンスが終わる頃には、ニクトはランキンのすぐ隣に立っていた。あと一歩下がるだけで、ランキンの傍に腰を下ろすことができる距離だ。
だがニクトはそうしなかった。声を発する前に、彼は自分に繰り返しこう言い聞かせた。問い詰めるな。落ち着いてランキンから真実を聞くんだ、騒ぎ立ててはいけない、と。
せっかくの楽しいひと時を邪魔してはいけない。
ニクト
あんたがアコーディオンを弾けるとは知らなかった。
ランキン
俺も、まさかお前がそこまで踊れるとは知らなかったな。
ニクト
確かに。僕らはまだ、何でも話せるような友人じゃないからね。
だけど、もし僕を友人だと思ってくれてるなら、話さなきゃならないことだってあるはずだ。
ランキン
……お前、ホーリーの様子を見に行っただろ。あいつはまだ何も食べてないのか?
ニクト
あんたまさかホーリーが何事もなかったように振る舞ってくれると期待してるの?
ランキン、僕たちは話し合わなきゃならないよ……
ランキンはため息をついて、曲の最後の旋律を弾き切ると、アコーディオンを隣の坑夫に手渡した。
ニクトはすぐに、その坑夫がボジーナの兄のパーヴェルであるとわかった。ボジーナはまだ熱を出しているのだろうか? 彼は知る由もなかった。
パーヴェルはアコーディオンを受け取ると、ニクトの聞き慣れない歌を静かに歌い始めた。
明るく、伸びやかで、それでいて悲しい歌を。
低く歌う声
「……我がか弱きナナカマド、いかでかクヌギに寄り添わん……」
「もはや頭を垂れて、風に揺られることはない……」
ランキン
(小声)向こうで話そう。
ランキンは立ち上がった。二人は賑わう人々の中を抜けて、こっそり離れていった。
ニクト
……あんなことをする必要はなかっただろ。
ランキン
……
ニクト
自分でやればよかったんだ。いつもそうしてるじゃないか。手を下す時にホーリーをあの場から遠ざけてれば、僕はきっとあんたの善意を褒めたたえてたよ。
――なのに、どうしてわざわざホーリーにやらせた?
ランキン
……
ニクト
なあ「高潔なランキン」。「英雄のランキン」。あんたは敵を倒すだけじゃ飽き足らず、こんなやり方で仲間まで苦しめるのか?
こっちのほうが、あんたは満足するからか? こういうやり方のほうが、あんたの勝利がより輝かしくなるってこと? 一体どうして――
ランキン
……怒っていたからだ。
ニクト
……
ランキン
そうだ……俺はホーリーが息子を許すことを望んでいたなどと、言い訳をする気はない。俺が望んでいたのはこの結果だ。心底満足しているよ。
だが俺は冷静でなきゃいけなかったのか? 慈悲を示すべきだったのか? お前の言うように、奴に楽な最期を与えてやるべきだったのか? なぜそうしなければならない?
あのコンテナの中にいた彼らも、詰め込まれる時には慈悲を乞い、苦しまずに死なせてくれと願ったんじゃないのか?
俺を無慈悲な奴だと責めても構わん。だがな、俺がああしなかったら、誰が亡くなった彼らのためにあの人でなしどもを責めるというんだ?
俺には奴らが理解できない。人の姿をし、人の言葉を話しておきながら、やることは何もかもが非人間的な所業だ。怪物みたいにな。
あんなに平然と自分たちと同じ人間に危害を加えることができるんだぞ。
俺はその隔たりが恐ろしい。まるで……まるで俺たちは、人としての尊厳を奴らと同じように持ったことがないみたいだ。もし奴らが怪物じゃないとしたら、きっと……怪物は俺の方だろう。
ランキンは真っ暗な空を見上げながら、抑揚を付けずに一言一句をはっきりと口に出した。ニクトはただ彼の顔を掴んで自分の方に向け、自分の目を見てもう一度話してほしいと思った。
しかし、彼は何もしなかった。
二人の間に沈黙が落ちる。
ランキン
……だがお前の言う通りだ。あんなことをする必要はなかった。
あんなことは無意味だった……
ニクト
……ランキン、あんたは自分で自分を苦しめてるよ。
そもそもあんたの頭の中にしかいない、理想の強い人間のフリをするべきじゃなかったし、ましてや隊の仲間に同じ強さを求めるべきでもなかった。
ランキン
……
ニクト
僕にあんたを責める権利はない。あんたは皆を導く使命を背負い、英雄にならなきゃいけなかった――それは立派なことだ。
けど、心の中の迷いや恐怖をなかったことにしちゃダメだ……あんたは自分の心から逃げてるんだよ。
その結果が今日の有様さ……あんたは自分を制御できなかった。これは危険だよ。次に感情に呑まれて我を忘れた時に、どんなバカな真似を仕出かすかわかったもんじゃない。
ランキン
忠告をありがとう……ニクト。肝に銘じておく。
ニクト
……
皆を呼んで、篝火を消そう。そろそろ車に戻らないと――次の村まであとどれくらいかかる?
ランキン
……もう少し待とう。
みんな楽しんでる。こんなに楽しいのは久しぶりなんだ。車両も手に入れ、カジミエーシュとウルサスの国境地帯までまた一歩近づいた……少しでも体を温められるように、もう少し騒がせてやろう。
少なくともさっき踊ってた時は、お前も楽しかっただろ?
ニクト
じゃあホーリーは? あいつの気持ちを考えた?
何も食べないし、話だって聞いてくれないんだぞ。
ランキン
……あいつもいつかは分かってくれるはずだ。
ニクト
それであんたの気が済むなら、そう思ってりゃいいんじゃない。
ランキン
……
ランキンは振り返り、篝火まで数歩進んだところで足を止めた。それから踵を返すと、意見を違えた友と歓喜に浸る仲間たちから遠ざかるまで歩みを進めた。
彼は歩き、歩き続けた。もう何度目だろうか、やがて決して色褪せることのない真紅の光景が、物思いに耽る彼の頭を再び覆い尽くした。
不明瞭な声
ランキン、どうすりゃいい? 骨が砕けちまったみたいだ。血が、そこら中に――
ランキン、助けて! 死にたくない、死にたくないよ!
ランキン――
ランキン?
すまない。
耳障りな声
受け入れなさい。
苦痛を受け入れなさい。この世の喜びを受け入れるように。死を受け入れなさい。ウルサスが与えた生を受け入れるように。
そうしてこそ、あんたは救われる。
ランキン?
ああ、受け入れよう。
ねじれた影
……あんたは誰だ? 一体誰なんだ!?
俺たちの魂は救われるはずだったんだ――こんなはずじゃなかったんだ! 全部、全部あんたという恐ろしいもののせいで、俺たちは行き場をなくし、二度と救われなくなっちまったんだ!
あんたのせいで――俺たちは全員、行き場を失ったんだ――
ランキン?
……
「黒い雪」
諦めろ。
お前たちは元より……
どこにも行くことはかなわん。
ランキン
(重苦しく息を切らす)
ハァ……ハァ……
ナディア夫人……どうしてここに? ヴェトチキは一緒じゃないのか?
年老いた婦人
あたしはあんたを探しに来たのさ……ランキン。
ランキン
俺が……何か役に立てることでも?
年老いた婦人
いいや……あたしがあんたの役に立ちたかったんだよ。
ランキン
ああ……
年老いた婦人
あんたはあれを殺し、それを啓示と受け止め、それからすべてを背負ってきた。
あんたの苦しみは分かってるよ……他者の生死や、使命を背負うことは苦しいものだからね。苦しまずにいられるはずがない……
あたしにはあんたの魂が引き裂かれてボロボロになってるのが見えるんだ。だがあたしにそれを癒す術はないし、あんたの勇気を讃えることもできない。それがあんたの苦しみの源だからね……
ランキン
気遣いに感謝する、ナディア夫人。
だが俺を憐れむ必要はない。これは俺が選んだ使命だからな。
それに……いや、俺はこれまで啓示など信じたことはない。ただ自分がすべきだと思うことをしているだけだ。
年老いた婦人
そうさ、これはあんたが選んだ道だ。憐れな子よ、あんたを救えるのはあんただけさ……
あたしにできるのは、ただ敬虔な祈りを捧げることだけ。いつの日か……いつの日か、あんたの苦しみが救われ、あんたが狂おしいほど求めている安寧が得られますように……
老人は、干からびた手をランキンの胸に当てた。温もりが彼の身体に伝わってきた。
ランキン
これは――
ランキンは自分の胸に手を当てた。
あまりに疲れているせいなのだろうか。それとも錯乱して幻覚が生じているのだろうか?
――彼には自分の心臓の鼓動が感じられなかった。
聞かれたからには、鉱区の戒厳令の件から話を始めましょう。
最初は、暇を持て余した人々が資源の枯渇した坑道の底で、とある新物質を見つけたことから始まりました。
我々は当然その物質の研究に取り掛かりました。
不安げな研究員
感染者はともかく、なぜ我々まで鉱区を離れてはいけないんだ?
坑道から採掘することもできず、坑夫たちも全員宿舎に閉じ込められて仕事に出られない。下の源石鉱が本当に枯渇したかどうかなんて誰に分かるんだ?
クセニア
もう少し様子を見ましょう。女大公が私たちの安全を顧みないはずがありません。
不安げな研究員
様子を見る? そんなことして何になる? 現物支給で給料がもらえないなら出て行ったほうがマシだ。誰もが君みたいに気楽な身分じゃないんだ。俺には養わなきゃいけない母親だっているんだぞ。
興奮する研究員
最新のニュースよ! 坑道で起きたのは、鉱脈の枯渇じゃなかったわ!
クセニア
え? 本当ですか?
興奮する研究員
ええ。私たちが下で何を見つけたと思う?
不安げな研究員
源石鉱がまた出てきたのか?
興奮する研究員
違うわよ! あなたってほんと想像力がないわね。
不安げな研究員
想像なんてしたところで人生に無意味な希望を抱いて、そいつのせいで死ぬだけだ。俺はまだ死にたくないんだよ。
クセニア
それで、何を見つけたんですか?
興奮する研究員
ブレスクから来た地質学者が言うには、鉱脈で起きたのは断層運動であって、枯渇じゃないそうよ! 岩盤が移動する摩擦で源石鉱が消えたように見えても、実際には変質しただけなんだって。
不安げな研究員
俺は地質学者じゃないんでな。もう少し分かりやすく説明してくれないか?
興奮する研究員
つまり、源石鉱は見えなくなったけど、代わりに新しい物質が現れたってことよ。
で、その新しい物質がこれ! 今届いたばかりよ。今分析にかけるから、あなたにも手伝うチャンスをあげるわ。
興奮した研究員は表面が鏡のように滑らかな黒い液体の入った瓶を取り出すと、同僚の前で振ってみせた。
不安げな研究員
確かなのか? 俺は地質学者じゃないが、断層運動じゃ岩が固体から液体に変わることはないってことくらい知ってるぞ……
あいつらが俺たちに仕事を与えるために、でっちあげた物じゃないんだろうな?
興奮する研究員
私は下に降りてこの目で見てきたのよ。そこら中この物質だらけで地下河川みたいだったわ。坑夫たちが源石鉱が消えたって言ってたのは、実は源石がこれに変わったってことだったのよ。
ねえ、私はね、あなたに論文の第二著者になるチャンスをあげてるのよ。それをありがたく思わないの?
不安げな研究員
わかったわかった、行くよ、行くってば。口ではうまいこと言ってるけど、結局俺の実験室を使いたいだけだろ。
興奮する研究員
だったら何よ? だって、あなたの実験室が一番綺麗なんだもん……
クセニア
……
そう。断層運動で岩石が変質し、源石鉱が固体から液体になるなんてあり得ません。
ですが、その既成事実を我々が疑う余地はありませんでした。迅速な分析と結果の照合を経て、私たちはそれが未知の物質であることを確認し、その性質を元に「オカ」と命名しました。
その直後、女大公から命令が下りました。
クセニア
直接臨床試験の段階に入る? それは誰からの命令ですか? 所長ですか?
いえ、所長の指示だとしてもできませんよ。まだ「オカ」の性質もはっきりしてませんし、動物実験やエネルギー実験も始まってないのに、行うべき準備が足りていません。所長に訊いてきます――
不安げな研究員
臨床試験の志願者はもう定員いっぱい集まったし、ラコダもすでに取り掛かり始めてるんだ。所長に会ったところで無意味さ。
それに、これは女大公直々の命令だ。しかも二週間以内に結果を出せとまで言われてる。
クセニア
たった十四日じゃ半減期の測定すらできませんよ。何の結果が得られるって言うんですか?
こんなのは私が望んでいたことじゃありません。私は――
不安げな研究員
望まないのなら、「オカ」の研究から降りることだ。
クセニア
私は「オカ」の主要成分の抽出を主導して、ラコダさんと一緒に動物実験に用いる試薬を開発したんです。研究を続けたいに決まってるでしょう!
ただ――こういうやり方は違うと思うんです。発生し得る結果の予測もできないまま、いきなり臨床試験に突入するなんて。
不安げな研究員
さっさと結果を出せば、女大公はそれだけ早く俺を家に帰してくれる。正直な話、俺が今気にしているのはそれだけだ。
言っただろ、誰もが君みたいに気楽な身分じゃないんだ。
クセニア
ですが――
私は……
結局のところ、臨床試験は始まってしまいました。私は研究の中心メンバーからは外されて、核心となる実験データに触れることができませんでした。
それでも私はどうしても「オカ」の本質を知りたかったんです。それが坑道に現れた理由を理解したかった。だから……
研究所で飼育していた鼷獣での実験では何の進展も得られないと分かった時、追い詰められた私は、自分の体で独自に実験を行おうとすら思い始めました。
もちろん、本当にやったわけじゃありません。なぜならすぐに気づいたからです。実験に参加していたいわゆる「志願者」が、実際には自発的に参加したんじゃないということに。
Raidian
クセニア、あなたたちはここから離れなきゃ。
クセニア
セラフィナさん? どうしてここに? 衛兵が入口を守ってるはずじゃないんですか? まさか、また坑夫の志願者がやってきたとか――
Raidian
聞いて、クセニア。あの坑夫たちは自主的に臨床試験に参加したわけじゃなかったの!
私たちの医療拠点にいた患者すら、強制的に連れ去られたんだよ。自発的な参加者だって言ってるのはあなたの同僚だけ。彼女の嘘が自然すぎて、私でもすぐには異変に気づけなかった。
クセニア
何ですって?
Raidian
自分から進んで臨床試験を受けたがった人は一人もいなくて、みんな強制されてるだけ! ここで起きてることは科学倫理に反してるんだよ、クセニア。
「小枝ちゃん」。鐘撞きの、少し吃音のある子、覚えてる?
あの子はいい子だった。鉱区にいる人間を全員覚えてて、誰かがいなくなると真っ先に現場監督のランキンに報告してくれてたの。
最初は感染者の坑夫だった。そのあとは坑夫の非感染者の家族……
ランキンもしばらく姿を消していたけど、戻ってきた時、失踪した坑夫の遺体をいくつか持ち帰ってきたの。
クセニア
なんてこと……じゃあ前にラコダさんたちが「設備の盗難」で実験を一時休止するって言ってたのは――
Raidian
あなたたちのことは詳しくはわからないけど、今はたくさんの坑夫たちが宿舎を離れて、研究所に向かってるよ。説明を求めてね。
坑夫たちのほとんどは感染者だし、数も多い。もし命懸けで突入されたら衛兵でも止められないよ。血が流れる戦いになるだろうね。
クセニア
でも……志願者が拒絶反応を起こしたとも聞いていませんし、ましてや死者が出たなんて――
Raidian
それは確かなの?
クセニア
わ……わかりません。
Raidian
実験データは手元にある?
クセニア
ありません。実験データの整理を申請するために、午前中ずっと所長を探してたんですけど、どこにもいなくて。
Raidian
あなたたちが一体何を研究してるのかは知らないけど、いずれにせよ、感染者にとっての最悪の結末は、火で塵ひとつ残らず焼かれる程度のことだよ。
クセニア
……
Raidian
もしここがまだ皇帝陛下の望まれているとおり、病院としての機能を一部でも持ってるなら、焼却炉か死体安置所を見に行ってみて。
その後で、もしも私と一緒に来る気になったら、医療隊の野営地においで。
彼女は私を誘ってくれましたが、その時の私は断りました。
だけどセラフィナさんは正しかった。
地下室の中には、持ち主を失った衣服が積まれていて、焼却炉の火もまだ消えていませんでした。そこを守っていた人間は去り、まだ崩壊していない遺体が服と同じように散らばっていました。
二週間の内に、臨床試験に参加した志願者は次々に死んでいきました。「オカ」が人体に影響を及ぼすという事実は、もはや明白でした。
クセニア
人体実験の過程と同じく、退去の際にも私は含まれていませんでした。
私が地下室ですべてを知り、まだ崩壊していない遺体を一つ残らず冷凍した時には、研究所はすでに無人でした。
……実のところ、「退去」というのも私の一方的な思い込みです。所長やラコダさんたちが一体どこへ行ったのかは分かりません。
今思えば、これはチェルノボーグ研究所での事件の再現のようなものでした。今回は研究所にいたのが私だったというだけです。
Mon3tr
当時の君はまだ若かった。研修の名目で加わっただけで、もとから中心メンバーのリストにも記載されるべきではなかったんだ。
クセニア
あなた……どうしてそれを?
まさかあなたも――
……近衛兵は確かに来ましたが、もうここにはいません。
(小声)……なんてこと。
話せることは何もありませんよ。
ウルサスで生まれ、ウルサスで育ち、生涯流されるままに生きる一般人が……人を思い通りに操り、壊してきた暴力が音を立てて崩れる様を、どうやって説明できると言うんですか?
近衛兵はウルサスの子供一人一人の枕元にまとわりつく悪夢です。一挙手一投足を監視し、軽率な真似をしないように抑圧する。反逆しないよう、従順にさせる。
打ち勝つことも、抗うこともできない存在です。
もしもその死に様を突然目の当たりにしたとしたら……それは、悪夢以上の恐怖の存在が現れたというだけです
……いえ、違います。わかりません。私の話はでたらめだと思っていてください。
私は何も見てないし、あなたたちも何も聞かなかった。それがすべてです。ここから離れてください。
あなたたちの知りたいことも、私が話せることも、すべて話し終わりました。
Mon3tr
もしその物質に接触することにより何かしらの影響があり、それが伝染するものなのであれば、研究所の者たちはここに留まっているはずだ。離れるのを許すわけがない。
クセニア
「オカ」による病変が伝染するとは限りません。少なくとも、私が見つけた実験データによれば、まだ対照観察は行われていないはず――
……いいえ。何をするつもりですか?
ですがサンプルはすべて……坑道に降りるつもりですか!? 今から?
……