平穏を願い
ひっそりと静まり返った村には、羽獣の鳴き声だけが響いている。今日もまた陽が山の上に登ろうとしていた。
太陽は日によって表情を変える。昨日は輝いていたのが、今日は力なく沈んでいた。分厚い雲の間からまばらに光が降り注ぎ、村の空き地を薄い灰色に染め上げている。
車椅子にぽつんと座った一人の老人が、目の前にある倉庫をぼんやりと眺めていた。
老人は、この中から物音がしたり、誰か逃げ出して来たりしたら、大声を上げて人を呼ぶようにと言いつけられていた。
彼は老い先が短くなり、歩く時も誰かの肩を借りなければいけない有様だ。できることも少なくなっていた。
老人は、村で近々ある大事なことが行われるとも聞かされていた。それが成功すれば、皆の暮らし向きが良くなると。
それを成し遂げるためにも、この倉庫の中にいる人物を逃がすわけにはいかない。
彼は老いた。だがしかし、未だ役立てる場面がある。村の助けになれるのだ。
突然、朝の風が吹いて、老人の肩にかけられていた毛布が吹き飛ばされた。
彼は声を上げて誰かに助けを求めたかったが、自分に託された仕事を思うと、この程度のことで騒ぐわけにもいかなかった。
すると誰かが地に落ちた毛布を拾い上げ、埃を払った後、再び彼の肩にかけてくれた。
年老いた村人
すまないねぇ……
お前さんはどこの家の子だい?
???
お気になさらず。
年老いた村人
そうか、役人が来たんじゃろ? いつになったらこの中にいる者を連れていくんじゃろうか? あと「大事なこと」というのはうまくいったのかね?
???
ご老人、この中に閉じ込められているのが誰か知っていますか? 村の者たちがやろうとしている「大事なこと」というのは一体何なのですか?
年老いた村人
何じゃと? 耳が遠いもんでな、もう少し大きな声で──
???
......
年老いた村人
ああ、そういうことかい。わしはここで見張りをしとるから安心せいよ。どこへも行かん。
ほれ、こんな年寄りにいつまでも構うんじゃない。若者は自分の成すべきことをしに行きなさい……
心配するでない。わしが見張っとる以上、中の者は逃げ出せんよ。
わしは今まで辛い日々を過ごしてきた。じゃが、お前さんら若者にまで辛い思いをさせとうはない。任されたことは、ちゃんと果たさんとな。
チュー・バイ
……
剣客は、老人の乗った車椅子を、数歩先の日当たりの良い場所まで押し出すと、静かに去って行った。
マルベリー
これも西へ向かう道だよね。間違ってはいないはず……
あそこの急な曲がり角を過ぎたら、そのまま先に進んで、三つ目の分かれ道を左に曲がる……
でも、一体どれが分かれ道なんだろう……
あっ、よかったぁ、やっと人に会えました!
こんにちは……すみません、おじさんはこの近くの村の人ですか?
通りすがりの村人A
そうだが、あんたは?
マルベリー
私は災害救援隊の隊員です。何日か前にここで土石流が起こったと聞いて被害状況の調査にやって来たんですが、どうも私の持ってる地図がちょっと間違ってるみたいで……
この近くで土石流の被害を受けた村を知りませんか?
通りすがりの村人A
この山奥の道は、何往復もして自分で覚えていくってのが昔からの習わしなんだ。地図が役に立ったなんて話は聞いたことないな。
あんたが言ってるのは謀善村だな。俺はそこの村のもんだ。
少し前に大雨に見舞われたせいで、馳道の一部が崩壊してたが……村には何の影響もなかったよ。
マルベリー
よかった、間違ってなかったみたいですね。こっちの方角で合ってたんだ……
おじさん、謀善村まではどうやって行けばいいですか?
通りすがりの村人A
この道沿いにまっすぐ行って、分かれ道に当たったら北だ。大体半日弱で着くはずさ。
マルベリー
ありがとうございます、おじさん!
通りすがりの村人B
よし、族長の言いつけ通り、この辺りの罠は仕掛け終わったぜ……使わずに済めばいいんだがな。
あの女の人だって、いっつも村を助けてくれてたんだし、なるべく傷つけず、村に近付けさせないようにすりゃそれでいい。
通りすがりの村人A
どのみち俺は力仕事をしに来たんだ。言われたことをやるだけさ。
通りすがりの村人B
はぁ、まったく災難だぜ。そもそも表沙汰になるはずじゃなかったのに、よりによってあの頑固な信使の邪魔が入るとはな。
そうだ、さっきお前が話してたあの女の子は何者だ? ここに何をしに来たって?
通りすがりの村人A
ああ、救援隊とか何とか言ってたな。土石流の調査に来たんだと。
通りすがりの村人B
お前、それをそのまま行かせたのか!?
通りすがりの村人A
族長が引き留めろって言ってたのは信使だろ? 救援隊は別に関係ないんじゃないか?
通りすがりの村人B
アホか! 族長が信使を引き留めろっつったのは、俺たちがやろうとしてることを外の奴らに邪魔されたくないからだろうが。
その救援隊ってのは、役所が寄越した奴らじゃねぇのか?
役所が早めに人を寄越したとしたらマズいぞ、村の方はまだ準備ができてないんだぞ。何か手違いがあったらどうすんだよ?
通りすがりの村人A
くそ、そこまで考えてなかったな……どうすりゃいい?
通りすがりの村人B
どうするも何も、急いで族長に知らせるしかねぇだろ! お前は近道を使って村に戻れ。
急いでファン・シャオシーを隠すんだ。くれぐれも見つからんようにな!
通りすがりの村人A
えーとつまりその……俺は何て伝えたら……
通りすがりの村人B
もういい、お前はここを見張ってろ。俺が知らせに行く!
通りすがりの村人A
ちょっ──
そんなに慌てて行くことないだろ。まだこの罠の使い方もちゃんと説明してもらってないのに。
この罠、普通にしっかりした造りで、一目見ただけじゃ落とし穴がどこだか分から──
信使
何事ですか……?
あの……手を貸しましょうか?
村人
族長! まずいことになりました! 役人が予定より早めにここへ来やがったんです!
年老いた族長
どういうことじゃ? 日時を指定したのは役所の方じゃろう。なぜ予定を繰り上げるような真似を?
村人
はぁ、具体的なことは俺にもよく分かりません。
村の入口を見張ってたんですが、大福(ダーフー)のバカが役人に出くわしたってのに、よりによって道案内なんかしちまって。慌てて俺が近道を使って知らせに来たんですよ!
年老いた族長
何ということじゃ。予定外のことばかりが起きる……
まぁよい。どのみちやって来るわけじゃからな。遅めに来るよりはマシじゃろう。
お前さんたちも慌てとらんで、やるべきことをやるのじゃ。わしは少し準備してから村の前で待つとしよう。
村人
族長、お一人で大丈夫ですか?
年老いた族長
どういった説明をするか、わしに考えがある。
お前さんたちの方は、シャオシーがくれぐれも騒ぎを起こさぬよう厳重に見張っておきなさい。ひょっとすると後で役人が猟師の家を訪ねることになるかもしれんでな。
村人
分かりました。あいつが何か騒ぎを起こそうとしたら、一旦村の外へ連れていきますんで。
それと猟師の方にも誰かを行かせるよう手配しておきます。
猶予は何日も与えてやりましたし、そろそろあの墓標を立てないといけませんからね。
年老いた族長
……
うむ、ひとまずそのように。
ご先祖様、わしらがこの難局を乗り切れるよう、どうかお守りください……
マルベリー
こんにちは……
年老いた族長
ようこそようこそ、お待ちしておりましたよ。わしがこの謀善村の族長ですじゃ。
長官様にまでわざわざこのような辺鄙な場所へご足労いただいて、ほんに申し訳なく思うとりますじゃ。
マルベリー
長官……?
ええと、お出迎えありがとうございます族長さん……何日か前にここで土石流が発生したと聞いて、被害調査に来たんですけど……
年老いた族長
はい、はい、このような一大事ですから、もちろん念入りに調べる必要がおありでしょう……わしらの方も準備は整っております。
ご案内差し上げてもよろしいですかな?
マルベリー
準備……
はい……分かりました! ご協力ありがとうございます。
年老いた族長
(妙じゃな。役所はどうしてこんな若い娘一人だけを寄越してきたのじゃろうか。)
(彼女が提げているカバンは……百万以上もの大金を詰め込むのは無理そうじゃが。)
居丈高な村人
出ろ、ファン・シャオシー。
ファン・シャオシー
なんだってんだよ!?
居丈高な村人
いいから大人しくついてくるんだ。
ファン・シャオシー
へっ、こんな時に慌てて俺を連れ出すってことは、村の外から誰か来たってことだな?
好都合じゃん。今から俺が出て行って、あんたらの悪だくみをその人たちに教えてやるよ!
居丈高な村人
大人しくしろ! 余計なことを考えてんじゃねぇ!
うっ、こいつ頭から突っ込んで来やがった!?
お前ら、こいつを縄で縛り上げろ!
村人
猟師よ、そろそろ時間だ。
今から一緒に墓標を立てに行くぞ。この件はそれで終わりだ。
猟師
どうしてそんなに急かすんだ? 約束が違うじゃないか。役人が来るのは明日だったはずじゃ……
村人
なぜかは分からんが、今日やって来たんだ。
だからこっちの仕事も前倒しで片付けなきゃならなくなった。
猟師
しかしまだ墓標に文字を刻み終わってないんだ。「墓」の字があともう少しで終わる。
墓ってのは大事なことだから、いい加減にするわけには……
村人
遅いんだよ! 良いから早く行くぞ。そもそもただ芝居を打つだけなんだ。誰もそんなとこまで気にしない!
猟師
わ……分かったよ……
ついていけばいいんだろ。
年老いた族長
数日前の夜中に土石流が起こった時、その子はちょうど馳道の工事現場にいたのですじゃ。
ファン・シャオシーはこの村で生まれ、我々全員に見守られて育ちました。あの子が小さい頃から心の優しい子じゃったというのは、この村の誰もが知っております。
この山で道を作ることがどれほど大変か、そしてその工事がこの村にとってどれほど重要かを、あの子は知っていたのですじゃ。
きっと工事に使う資材を守ろうとして、その結果……
マルベリー
この災害でそのような犠牲者が出ていたなんて。本当にご愁傷様です……
災害は無慈悲ですが、災害が起こる場所には、どんな時も互いに手を取り合う人たちがいます……
年老いた族長
ありがとうございます、長官様……
ファン・シャオシーの犠牲は決して無駄にはなりませぬ。あの子が命を落としたのは村のためなのですから。わしらはあの子のことをきっと忘れんでしょう。
事が済んだ暁には、この廟にあの子の名前を記したいと思うておりますのじゃ。
それにあの子の唯一の肉親である父親についても、村の者たちからできる限りの手助けをしていきたいと思うております……
マルベリー
族長さんは本当にお優しい方ですね。
年老いた族長
いえいえ……皆がわしのことを「族長」と呼んでくれるからには、皆のために全力を尽くす義務がありますでな。
長官様……前置きが長くなってしまいましたので、そろそろ本題に入りたいと思うのですが……
マルベリー
と、言いますと……?
年老いた族長
いささか唐突だと思われるかもしれませんが、前もってお尋ねしておきたいのでございます。そちらの確認が済んだ後、補償金がいつ支払われるのかということを……
マルベリー
補償金?
年老いた族長
長官様、お戯れもほどほどに……
ファン・シャオシーの死は、工事中に起きた不慮の事故ですから、補償金が支払われて然るべきではありませぬか。
わしは守銭奴などではございませぬが、しかし今の村にとってはそのお金がまことに重要なものでして……
マルベリー
族長さん、なんだか誤解なさってるみたいですけど。
私は、工事中の不慮の事故による補償金に関しては、あまり詳しくありません。その件は役所が専門の方を派遣してくるはずです。
私は「春乾(しゅんけん)」という災害救援組織の一員で、今回の土石流発生の原因調査にやって来たんです。
既に起こってしまった悲劇はとても胸の痛むことですし、取り返しがつきません。私たちはこれからなるべく全力を尽くして、二度と同じような災害が起こらないよう努めなければならないんです。
年老いた族長
な……なんと……
慌てる村人
(苦しげなうめき声)
信使
動かないで、ちょっと見せてください……
うん、幸い骨までは達していませんね。
どうです、歩けそうですか?
慌てる村人
すまない……
信使
一体どういうことですか? なぜ山道に狩猟用の罠が仕掛けられたりするんです?
慌てる村人
これは……その……
春になって、野獣が村に侵入してくるようになったもんだから、防護措置を取っていたんだよ……
信使
だとしても人が歩く場所に罠を仕掛けるなんて、危険すぎます……現に、野獣ではなくあなたが引っかかってるじゃありませんか。
まったく……これを届け終わったら私が力を貸しましょう。野獣の駆逐でしたら得意です。
では私は荷を届けなきゃならないので、お先に失礼しますね。
慌てる村人
待ってくれ!
信使
まだ何か?
慌てる村人
あんた、謀善村へ行くつもりなのか?
信使
そうですけど、どうかしましたか?
慌てる村人
そ……それはダメだ。
信使
どうして?
慌てる村人
だって……
そうだ! あんたは知らないだろうが、少し前に土石流が起こって道が封鎖されちまったんだ!
信使
道が封鎖されたのなら、あなたはどうやってここへ?
あなたが出てこれたのなら、私だって入れるはず。山を越えるだけなのに大袈裟すぎますよ。
慌てる村人
待ってくれってば!
信使
……何なんですか?
慌てる村人
えっと……その……ああもう!
俺は嘘なんかつけないって初めから言ってたのに、何でこんなことしなきゃならないんだ。
その、正直に言うよ。俺がここにいるのはあんたを引き留めるためなんだよ。
あんたを騙すのも説得するのも失敗した。だけど、たとえ殴り合いになったって、今日は絶対に村へ行かせるわけにはいかないんだ!
信使
なるほどね……
さっきから何だかおかしいと思ってたんです。
あなたたち、一体何を企んでいるんですか?
年老いた族長
やれやれ……わしも耄碌したもんじゃな。
はぁ……お嬢さんが聞きたいという土石流の件じゃが、何も話せることなどないんじゃよ……
土石流が起こった場所は、村の居住地から少々離れたところでな。誰も被害は受けとらんのじゃ。
わざわざここまで来てくれて申し訳ないが、この村には何の影響もなかったし、調査することなど……
マルベリー
族長さん、待ってください。まだ確認したいことがあるんです……
この季節に地滑りが起こること自体は、珍しくないんですが……
本来なら、馳道を山に通す場合は、工事前に両側の山肌を補強するための防護設備を建設することになっているんです。今回のような災害が起こるのを防ぐために。
何か想定外の事態が発生してなければ、土石流に押し流されることはないはずなんです……
年老いた族長
……
マルベリー
もしも防護設備に問題があった場合、この付近すべての補強工事自体に問題があるということになります。
だとすると、次に土石流が起こった時は、馳道だけじゃなく村まで被害が及ぶ可能性も……
だから私は、その山まで行って詳しく調査する必要があるんです。一体どこに問題があったのかを確かめるために。
年老いた族長
お嬢さん、山へ登るつもりかね……?
マルベリー
はい。族長さん、案内していただけないでしょうか?
年老いた族長
それは……
協力したいのはやまやまなんじゃが、今ちょうど野良仕事が忙しい時期でのう。どの家も畑にかかりきりなんじゃよ。誰か一人を案内に回せば、その分野良仕事に回す人員が一人減るわけでな……
マルベリー
お暇がないようでしたら、私一人で探しに行きます。大体の方向だけで構いませんので教えてください。
年老いた族長
この山は道が険しい上に、分かれ道も多い。お嬢さん一人だけではおそらく難儀するじゃろう……
???
なぁに、心配ご無用。拙僧がそちらの女性を案内して進ぜよう。
年老いた族長
お前さんは──
サガ殿、どうしてまだここに……
サガ
拙僧はここ数日、村の皆にずいぶん世話になり申した。
拙僧は畑仕事の知識を持ち合わせぬゆえ、そちらでは力にはなれませぬ。しかし道案内とあらば、お任せあれ。
年老いた族長
サガ殿、何もこんな時に──
マルベリー
族長さん、少し疑問なのですが。
何だか、私を山に行かせたくないように見えますけど……
年老いた族長
……
マルベリー
さっきまではずっと、今回の災害が村に多大な損失をもたらしたと主張なさっていたじゃありませんか……
なのに、再び災害が起こる危険性の方はあまり重視をされていない気がしますけど、それは一体どうしてなのでしょうか……
村人
族長、猟師の件ですが……
(耳打ちをする)族長……いかが致しましょう……
年老いた族長
わしが行って確かめよう……
村人
今日のこの日は、ファン・シャオシーが安らかなる眠りについた日である。
ここにいる皆が、それを見届けたことだろう。
年老いた者が若者を見送るというのは、実に辛いことだ。されど人の寿命には定めがあり、我々にはどうすることもできん。
……彼は村のために最期まで善行を成したと言っても過言ではないだろう。次に生まれ変わる時には、このような山奥などではなく、少しでも恵まれた環境に生まれることを願おう。
ではたった今より、ファン・シャオシーを死人と見なす。
猟師
……
村人
猟師の者よ。父であるお前の手で、息子のために墓標を立ててやりなさい。
猟師
待ってくれ、一つ訊きたいことがある……
あんたらはシャオシーが村のために死んだと言った。そして最後は村の中に葬られた……
だが結局、あんたらは本当にシャオシーを村の一員だと思っているのか?
今回の件が終わったとしても、あんたらは本当にあいつが村の中で生きることを許してくれるのか……?
村人
何が言いたい?
いいか、役人が近くに来てるかもしれないんだ。勝手なことを言うのはよせ!
猟師
勝手なことなんかじゃないぞ……俺がケガや病に悩まされて、半分死人みたいなもんだってのはあんたらも知ってるだろ……
俺はどうなったって構わないんだ。俺の願いは、シャオシーに……息子に平穏に暮らして欲しいってことだけなんだよ……
村人
既に約束したじゃないか。族長だって移山廟の中で誓っただろう。この件さえ終われば、今後はお前ら親子の面倒は村が見てやると。これ以上何の不安があるんだ?
猟師! 何をグズグズしているんだ?
猟師
俺はただ……
今はあんたらも俺たち親子の力を借りたいと思ってるんだろうが、金を得たらあんたらの態度がどう変わるのか分からない……それが恐ろしいんだよ。
昨日、ある人が俺に言った言葉を思い出したんだ。
「人の心が満ち足りることはない。」
猟師の手から木でできた墓標が地面に落ち、砂埃が舞い上がった。
村人
お前──!
補償金が入って田畑が蘇ったら、誰がわざわざお前たちに危害を加えるかよ。族長の言葉が信じられないならどうしろってんだ? 村人全員がご先祖様の前で土下座して、誓ったら信じるのか?
猟師
そうじゃなくて……
村人
もう時間がないんだ。お前がどうこうできることじゃなくなったんだよ!
大勢の人がどっと押し寄せ、男の腕を掴んで引き起こし、突き出すようにして男を墓の前に立たせた。
その内の一人が地面に落ちた墓標を拾い上げ、男に無理やり抱えさせた。
男は人だかりの真ん中で墓標を抱きながら頭を垂れていた。その姿はまるで、飼い馴らされた駄獣のようであった。
文字も刻み終わっていない墓標が、群衆の手によって少しずつ土の上に突き立てられていく。
その刹那、長剣が横なぎに走り、墓標を両断した。
盗賊、悪漢、百戦錬磨の将軍、稀代の武術家……彼女はこれまでの実戦や腕比べにおいて、無数の相手に対し剣を抜いてきたが、そのどれもが今の一太刀よりも洗練されたものだった。
それに比べて今の斬撃は、力加減さえもろくに制御できておらず、木屑が派手に吹き飛び、切り口も到底鮮やかとは言えなかった。
彼女は玉門を発つ際、あの人に向かってこう告げた。「この剣の力を活かせる場所を探したいと思います。」
だが武器も持たぬ村人の前で剣を抜くことが、果たして誇れることだろうか。
彼女は剣を抜くべきだったのか? この件に介入するような立場にあるのだろうか?
しかし、不義を目の前にしてなお、それを正そうとしないなら……
この剣は一体何のために握るのか?
チュー・バイ
その墓標を打ち立てるということは、二人の人間の命を汚すことと同じです。
猟師
チューさん……
村人
あ……あんた、まだ出て行ってなかったのか!?
チュー・バイ
私はこの茶番劇が取り返しのつかないところまで行き着いてしまうのではないかと、案じていました。
……どうやら危惧していた通りの事態になったようですね。
村人
あんた、まさか全部……?
チュー・バイ
ええ。
村人
だったら、俺たちがこんな真似をするのは、生きるためだってことくらい分かってるはずだろ……
チュー・バイ
この数日、その言葉を何度も耳にしてきました。
誰かの死体、誰かの名前、誰かの金。あなた方の活路とは、他人の尊厳を踏みにじることでしか開けないのですか?
彼女の声は静かなものだった。だが、村人全員が気圧されたように後ずさりをした。彼女が周囲をぐるりと見回すと、戦々恐々としたいくつもの目が自分を──自分が手に持った剣を見つめていた。
この目つきを、彼女はよく知っている。
もしかすると彼らが恐れているのは、単純に一振りの剣だけではないのかもしれない。なにしろ彼らの命運を翻弄し得るものは、あまりに多いのだから。
あるいはただその剣を恐れているだけかもしれない。荒野の塵芥が安心して触れられるものなど、風雪以外に何があるというのか?
剣に反射する光がたちまち薄れていく。彼女は剣を鞘に収めると、それ以降、誰にも向けることはなかった。
村人
お嬢さん……いや、女侠……
この件は元々あんたには何の関係もないことだ……侠客ってのが皆人助け好きなのは知ってる。だがあんたは勇ましい侠客で、かたや俺たちはただの……あんたなんかに分かるもんか!?
チュー・バイ
私とあなた方に違いなどありません。
母さん、私……親父殿の荷物の中にお役所の御触書があるのを見つけちゃったんだ。
「姜斉一帯に水賊一味が結集しており、民たちが苦しんでいる……近いうちに討伐隊を組織して鎮圧に向かう。水賊一味に告ぐ、自ら出頭すれば酌量し、罪を軽くしてやろう……」
親父殿を説得して!
娘のためだと思って。まだ間に合うから……
簡単に言うが、俺らが自首したとして、その後どうなる?
でも、川を渡る行商や、食糧を運ぶ水夫たちが……一体何をしたというの?
仕方がないんだ。恨むのなら、山々が険しいこと、川が荒れてどうしようもないことを恨むんだな。
そんな……
娘を頼んだぞ。
富豪や高官の家に生まれ育ち、遊び暮らす者もいる。路頭に迷い、水や草を求めて野獣のように彷徨い生きる者もいる。飢えをしのぐのに精いっぱいで、明日の見通しさえ立たぬ者もいる。
常に天災の危機を想定せざるを得ないこの大地の上は、見渡す限りどこも同じような光景が広がっている。
世の中には正義など元より存在しないというのに、川辺を漂う浮草や荒野の石ころにはそれを守れと、遵守せよと求めるのか?
否。とは言え、それはこの不公平の輪に加担することを、甘んじて受け入れても良いというわけではない……
チュー・バイ
姜斉から玉門に至るまでの五年。玉門でまた五年。私はこのような境界線の近くで彷徨っていました。あと少し、ほんの少し道を違えていれば、あの山海衆のような人間に成り果ててしまいそうな……
あの父のようになってしまいそうな際で。
チュー・バイ
あなた方の苦しみは理解できます。けれど、それはあなた方が不義を働いて良い理由にはなりません。
――絶対に。
川の水は、最後には私たち自身をも飲み込むのだ。
チュー・バイ
本当は介入などしたくありませんでした……
だがあなた方は、一体どこまで落ちれば気が済むのですか!?
すくみ上がる村人
それじゃファン・シャオシーは……
チュー・バイ
……
ファン・シャオシーはどうなったのです?
村人
確かジョウ・スーとジョウ・リュウの二人が、村の裏手の山の上へ連れて行ったはずだ……
チュー・バイ
山の上?
村人
あいつが騒ぎを起こすんじゃないかと心配して、とにかく一旦遠くに連れ出そうとしたんだ。別に傷つけるつもりじゃ……
猟師
……
チュー・バイ
まだ間に合うはずです。
まるで雪が突然降り、また一瞬にして溶けたかのように剣客は姿を消した……
猟師はしばらく呆けていたが、気を取り直して足を踏み出し、全力で追いかけた。
二つに断ち割られた墓標と、地面に散らばる木屑、分かったような分からないような言葉……
その場に取り残された村人たちは、荒れた墓を囲んで、互いに顔を見合わせている。その顔は何かを思い出したようにも、何かを忘れたようにも見えた。
年老いた族長
終わりじゃ……何もかも……
マルベリー
そんなにこの辺りの地理に詳しいだなんて、サガさんはここの僧侶さんなんですか?
サガ
いいや。拙僧は各地を行脚し、立ち止まってはまた歩くことを繰り返す身でしかない。最近この辺りを旅していたところ、たまたま不測の災難を目撃したというわけでござる。
マルベリー殿は災害救援の専門家でござったか。地滑りの具体的な状況が分かれば、いつかこの村に降りかかるであろう災害をも防止することができる。これは大変素晴らしいことでござるよ。
マルベリー
その……あ、ありがとうございます、サガさん。道案内を申し出てくれて助かりました。もし村の人たちに協力を拒まれたままだったとしたら、どうなっていたことか。
サガ
時にマルベリー殿、彼らがなぜそなたへの協力を拒むのかお分かりかな?
マルベリー
まさかサガさんは、この事故には何か裏があるとお考えで……?
サガ
人の力には限界がある。万物を目にしたところで、竹筒で野獣を覗くのと同様、一部しか見えておらぬ状態でござる。天災か人災か、裏があるかどうか、みだりに論じることなど拙僧にはできませぬ。
マルベリー殿を連れてこの山へやって来たのは、この一件には未だ明かされておらぬ部分があると、ひとえに拙僧がそう思ったからでござる。
百聞は一見に如かず。現場まで赴き、マルベリー殿ご自身がその目で確かめれば、自ずと明らかになりましょう。
マルベリー
なるほど……
マルベリー
ここが、地滑りが起きた最高地点……
崖ぎりぎりまで近付いたマルベリーは、一切迷うことなくしゃがみ込んだ。スカートが土で汚れたが、気付いてすらいない雰囲気だった。
遥か下を覗き込むと、災害発生地点に堆積した土砂が、まるで誰かが無造作に投げ捨てた扇のように広がっていた。それにより生命線のごとき馳道は断ち切られ、ただの乱雑な模様と化している。
サガ
如何でござるか? マルベリー殿、何か気づいたことは?
マルベリー
……
サガ
マルベリー殿、いささか険しい表情をしておられるが……
マルベリー
……
考えていたんです……この前発生した地滑りは、本当に偶然起きたものなのでしょうか。
サガ
この辺りはちょうど連日の大雨に見舞われた場所でござる。拙僧はそのせいであの村まで雨宿りをしに参ったのだ。
マルベリー
炎国北西は山岳地帯が多く、ここ数年日照りがますますひどくなっています。数少ない降雨は春夏に集中していますし、以前にこの近辺で発生した天災が原因で気候変動は更に悪化しつつあるんです。
この辺の山は植物もまばらで、栽培も困難です。そしてほとんどが禿げ山で、地面が露出し、土質もますます軟化しています。短期間に集中して雨が降れば、地滑りが起きてもおかしくありません。
ですが……サガさん、あそこを見てください……
サガ
む?
マルベリー
あそこの、崩落が起きていない箇所です。
サガ
あれは……防護設備?
マルベリー
炎国の領土内を無数に走る馳道は、そのほとんどが天災が頻発する荒野や山地を通っています。頻繁に整備や再建が必要になるので、最初に敷設する時にはより念入りに臨むことが多いんです。
地形が複雑になるほど、工事を行う範囲も広くなっていきます。
道路以外にも、施工隊が馳道の両側の山肌に補強工事を施したり、立体的防護設備を建てることで、馳道の安全を保障するんです。
サガ
拙僧、理解し申した。馳道を挟んだ両側の山ならば、もっと堅牢であるはずということでありましょう。
マルベリー
何よりも……
私、見つけたんです……残留火薬を。
サガ
火薬……
馳道の施工隊がこの山に防護設備を建設したなら、それは発破掘削を行った痕跡なのではござらぬか?
マルベリー
うーん……
「春乾」で実習をしてた頃、馳道の施工隊に協力して、探査や建造や救援活動を行ったことが何度もあります。
施工隊が工事に取り掛かる際は、できうる限り「精密に制御する」よう努めます。彼らが発破掘削に使う火薬は、すべて工部の冶造坊(やぞうぼう)が開発した、制式工業用爆薬です。
けど私が見つけた残留物を見る限り、使用された火薬はかなり粗末な作りだと思われます……
まるで手製の旧式爆薬のような……
サガ
旧式爆薬か……そういえば拙僧も道中で見たことがござった。狩人たちが手製の旧式爆薬で砂地獣の巣穴を塞いでおったところをな。
しかしこの何もない山頂に、一体誰が、どういう目的で爆薬なんぞを埋めるのでござろうか?
客僧は何気なく石ころを蹴飛ばした。
石ころは斜面を勢いよく転がり落ち、最後にはきれいな形に凹んだくぼみにすっぽりと嵌った。
彼女は薙刀で周囲の雑草をかき分けた。くねくねと伸びているそのくぼみは、既に大半が風砂で埋もれつつある。
サガ
……
マルベリー
サガさん、どうかしましたか?
それは歩行車の轍の跡だった。
老人が疲れ切った足取りで、ふらふらと村の外へと歩いてゆく。
日は徐々に西へと傾いており、夕陽に焼かれた雲が格段に美しく見える。一日の終わりのこの時間はちょうど暑くも寒くもなく、胸がほっとするような暖かさだった。
いつもなら、その日の野良仕事を終えた直後、あるいは村の様々な業務を処理し終えたばかりであるはずだった。
繁忙期は、いつだって時間が足りない。彼にとって、一日がこれほど長く感じたことなど未だかつてないことだった。
彼は目的もなくただ歩き、それ以上動けなくなると、呆然とその場に座り込んだ。
信使
族長……?
年老いた族長
ど……どうして村へ来れたのだ……
お前さんは……
信使
族長、お金を届けに参りました。
年老いた族長
何……じゃと……?
くたくたに疲れ果てた信使が包みを地面に下ろすと、重々しい音がした。砂埃が老人の顔にかかりそうな勢いで舞い上がる。
信使
お忘れですか? あなたが二年前に役所に届け出た申請のことを。
ずっとお待たせしていた補助金が、ついに届いたんです……
町から知らせが入った後、すぐに受け取りに行って持ってきたんですよ。
これで、今年の春分の種まきが終わったら、一番上等な灌漑設備が揃いますね。村の皆さんだって新しい農機具を買い足すことができますよ。
お上は謀善村を忘れたりしてませんからね……ただ天災の影響で、少し遅れてしまったというだけで……
族長……?
老人は身動き一つせず、ただ口をぽかんと開いたままだった。何かを言おうとしたものの、言葉が出てこなかったのだ。
金の入った包みは、地面の上にどっしりと鎮座している。老人はめまいを覚えた。まるで千年前にご先祖様がどかしたはずのあの山が再び戻ってきて、彼の心に重くのしかかったようだった。
年老いた族長
すぐに……
すぐにシャオシーを解放してやらないと……
村人
族長……
ファン・シャオシーが……山の上から飛び降りてしまいました……