呼び起こされし悪夢

司教
あなたが来ることはわかっていました。さあ、お入りなさい。
スカジ
どうして?
司教
何とご説明しましょうか……
スカジ
はぁ……必要ないわ。
司教
吟遊の歌い手よ。あなたはどこへ行くにも、そのケースを肌身離さず持っているのですか?
スカジ
そうよ。
司教
では、もう一つご質問しても?
スカジ
何かしら。
司教
ケースの中には何が入っているのでしょう?
スカジ
サックスよ。
司教
サックス……管楽器の一種ですか。それは素晴らしい。
その音色、聞かせていただくことはできますか? 何せこの街にはもう何年も、音楽などありませんでしたから。
おっと、そうでした。申し訳ない……吟遊の歌い手には、報酬を支払わなければならないのでしたね。
お恥ずかしい話ですが……私では大した報酬をお渡しできないかもしれません。
ご覧の通り、この建物も随分年期が入っておりまして……フフ、管理するだけでも一苦労なのですよ。この都市では、貨幣は意味を持たないがらくたで、使う人も集める人もおりませんし。
ですが、私にもランチくらいはご馳走できます。吟遊の歌い手よ、いかがです? 何か演奏してはもらえませんか?
美味しい料理とは言えませんが……あなたのお腹を満たすことくらいはできますよ。
スカジ
……
司教
先ほどから何も言わない様子を見るに……ああ、もしや音楽よりも踊りがお好きなのですか?
ほら、あなたはダンス用のドレスを着ていますし……なんと多才な方でしょう。あなたのような魅力溢れる素晴らしき友をこの地で見るのは久しぶりです。
スカジ
(……気持ち悪い男。)
歌を聞かせてほしいなら、海岸で頼んでくればよかったじゃない。
私は聞きたいことがあって来たの。それはあなたにも関係があることだけど……あなたの隣にいる人なら多分答えを知ってるでしょうね。
グレイディーア
……
司教
こちらは私の――知人なのですが、もしやお知り合いですか?
グレイディーア
あら、ご存知かと思いましたわ。
司教
あなたには聞いていません。
グレイディーアはその声に、顔を背けて口を閉じた。
スカジ
どうかしらね。
司教
おや……そうなのですか?
スカジ
その人が、昔知っていた人と同じかどうかなんてわからないもの。
司教
ああ、なるほど……
それもまた、当然のことです。波が打ち寄せ続けるうち、時と共に岸辺が砂へと変わるように……人は、変わるものですから。
つまりあなたがここへ来たのは、彼女が呼び寄せたからではない……と?
スカジ
――あなたが私を呼んだんじゃないの?
司教
私があなたをお呼びしても、あなたは来てはくれないでしょう? あなたにとって、私は見知らぬ者ですから。
私はただ、彼女に呼ばれて来たのかどうかを聞いているのです。
スカジ
違うわ。私が自分から来たのよ。
司教
ふむ、嘘ではありませんね。私は嘘を聞き分けることができるのですよ……確かに、あなたは誠実だ。
スカジ
私が何も言わないうちから、根掘り葉掘り質問して……あなたってどうしてそんなに鬱陶しいの?
司教
怒りを鎮めてください、歌い手よ。別にあなたを怒らせたいわけではないのです。ただ……慎重さは美徳ですから。
スカジ
……今度は私が質問するわ。
この都市の人たちはあなたを信頼してる。でも、海岸での出来事は――
絶対に異常よ。
食べ物欲しさの物乞い。やってくる恐魚。そして……海。
あなたはどこから来たの? 何か知ってるんでしょ? あなたと彼女は私に何を隠しているの?
司教
あぁ……フフ、そうですね。確かに私は、他の人より多くを知っているかもしれません。
例えば、「あの方」があなたに会いたがっていること……だとか。
スカジ
会いたがってる? 私が歌い手だから?
司教
ああ、いえ……音楽に興味があるのは私の方です。
少々、突拍子もない話に聞こえるかもしれませんが……あなたに会いたがっているのは、私ではなく――
私の友人なのです。他ならぬ「あの方」のためにこそ、あなたをここへご招待したのですよ。
スカジ
「あの方」? それは誰のこと?
司教
それはすぐにわかります。ついてきてください。
……あなたのご友人も、そこに居りますので。
「あなたは彼女に会いたいはずだ。そうでしょう?」
司教の口調は淡々としていたが、スカジは平静を保てなかった。
ハンターは密かに、ケースの取っ手を握り締める。材料工学の進歩とロドスによる多額の資金投資の甲斐あって、特製「サックスケース」の取っ手は握り潰されずに済んでいた。
司教
こちらへどうぞ。
司教
さあ、あなたも。
グレイディーア
……
司教
ええ、あなたも来るのです。報酬を与える時が来ました。
スカジはグレイディーアをちらりと見たが、何も言わなかった。
彼女は司教の後を追う。どういうわけか、前を行く司教の歩みには違和感があった。足に力が入っていないのか、まるで関節がないかのようだ。
階段を下りていくと空洞が現れた。岩壁にある階段はまるで巨大な生物の食道のようにうねり、下へ続いている。光はなく、いつ足を踏み外してもおかしくないその階段をスカジは感覚を頼りに進む。
司教
申し訳ない。少々暗いですが……あなたからすれば、大したことではないでしょう?
吟遊の歌い手はその多くが素晴らしい腕前だと伺いました。都市も荒野も、あまり親しみ深くはないものですし、遠出には災いがつきもの……身を守るすべが必要ですものね。
音楽の才はお金では買えませんが、それを披露すれば貨幣となり得ます。歌が上手ければ、どこへ行っても餓えて死ぬことはありません……
私も以前はそうした生活に憧れたものです。しかし、恐らく向いてはいないのでしょう……一度どこかに根を下ろすと、そこを離れがたくなってしまうものですから。
司教の言葉が、独り言のように響いていた。しかし、グレイディーアとスカジはひと言たりとも言葉を発しはしなかった。
司教
さあ、着きました。
スカジ
この場所は……まさか……
司教
そう、ここは海底です。
階段の奥深くまで下り続け、彼らはようやく開けた場所へと足をついた。息苦しいほどの湿気の中、暗闇から一筋の光へと足を踏み入れて初めて――目の前の光景に、ハンターは息を飲んだ。
巨大な洞窟は奇妙な装置で埋め尽くされていた。海越しに滲み出るように射した日光が、洞窟を、その場を照らし、淡い青色がそこへと浮かび上がる。
スカジ
あれは――!
何故――
スペクターの身体が、水槽の中に浮かんでいる。彼女は死んでいるようにも、深く眠っているようにも見えた。
スカジの頭の中を、いくつもの考えがよぎる。
どうして彼女が水槽の中に? グレイディーアがやったの? もし彼女が死んでいるなら、グレイディーアは彼女を見殺しにしたってこと……!? それじゃあ、彼女は本当に――
司教
彼女はあなたの友人……そうでしょう?
司教
では、あなたがスカジですか。ああ、いえ、あなたを見張っていたのは私ではないものですから。無論、我らの手の者ではありますがね。彼らは実によくやってくれていましたよ……
特に、あなたと親しかった人々を始末し続けてくれたこと……これは素晴らしい働きでした。あなたにプレッシャーをかけ続け、ギリギリの精神状態を維持させることができましたから。
スカジ
――
スカジは目を見開いた。
スカジ
なん……ですって……?
司教
ですが、最近の彼らはあなたに構っている暇がないようでしてね。代わりにこちらの隊長さんが、私への贈り物として……あなたをここへと呼び寄せてくれたのです。
スカジは怒りを露わにグレイディーアを振り返る。しかし、そこには既に彼女の姿はなかった。
グレイディーアは司教の方へ向かっていた。その足取りは憂いなどないかのように軽快だ。彼女が誇りとするスピード、アビサルの噂の的たる類い希なる速さは……その静かな歩みに表れていた。
司教
まさか歌い手ではなく、あなたの方から進み出るとは……一体何を待ち続けていたのですか? 私を殺す機会などいくらでもあったはずでしょう?
グレイディーア
あら、あなたはそこまで愚かでしたの?
司教
あなたたち罪深き者はいつもそうした態度を取りますね……中身がともなっていないにも関わらず、自分が優位にあると思い込む。この実験体の……彼女の命がここで消えても構わないのですか?
グレイディーア
彼女を連れてきた時……あなたの表情からは喜びようが見て取れました。その上あなたは、彼女をどこへ連れて行くか私には見せませんでしたわね。ええ、あなたに彼女を殺せないことは明白ですわ。
それはきっと私ではなく、スペクターの命こそがあなたにとって重要なものだったからでしょう。
私があなたたちの実験場にもたらした損害よりも、ずっと……ね。
司教
やはり、やったのはあなたでしたか。
グレイディーア
――スペクターの存在はさぞかし貴重でしょうね。あなたが行っている、アビサルを対象とした源石感染性テスト……その被検体となりえるのは彼女だけですもの。
司教
陸生家畜の原罪が、あなたたちの罪深き身体にも影響を与えること……興味深いとは思わないのですか?
スカジとグレイディーアは、その言葉に表情を変える。
司教
確かに……我々三人の実験場はあなたに手ひどく破壊されてしまいました。エーギルの技術を駆使して、精錬後の液化源石をあれほど大量投入したというのに……もはや再現は叶いません。
そう、彼女は実に貴重です。なぜこれほど凄まじい源石感染に抗えるのか……私には理解が及びません。何しろ彼女の脊髄は、その成分を希釈しても、小国を一つ感染させるに十分なのですから。
しかし、今はこれまでとは状況が違います。彼女は既に私の手中にある……あなたのお陰でね。罪深き者よ、感謝します。私は他の二人に先んじて……あなたたちの最後の秘密を暴いてみせましょう。
私は、自らの成果を証明するのです。我が研究を、我らが宿敵の秘密を、そしてその弱点を……
グレイディーア
あなたがそれを成す前に……ここで死んでいただきますわ。
スカジは密かに拳を握り締める。司教に対する怒りに比べれば、グレイディーアへの疑惑と怒りなど取るに足らないものだった。
すぐにでも、このすべての元凶をバラバラにしてやりたい。
今、すぐにでも。
グレイディーア
私、生かす理由も価値もない者は始末することにしておりますの。つまりあなたを生かしておいたのは、あなたこそが「あの男」なのだという確証を得るためですわ……
そして、あなたと彼らがこの実験に関与していること……その確証を得ましたので、あなたはもう必要ありませんわ。
スカジ
深海教会……あなたは、深海教会の人間ね。
司教
私がいつ、そう呼ぶことをあなたに許しましたか?
スカジ
上手く素性を隠したものね。あなたたちは皆、生まれが違うように見えるし、言葉も随分達者だし。
スペクターがおかしくなったのも……あなたたちが彼女に何か植え付けて、苦しめたせいかしら?
それにあの住民たち……あなた、彼らを利用してるわよね。彼らもあなたの実験台?
それなら海に身を投げた人たちは……皆、あなたの実験の犠牲者ってことになるのかしら?
司教
無礼者め。
司教の姿がいくらか大きく見えた……本気で怒っているのかもしれない。
司教
海の施しは、彼らを利用するための行いなどではありません。彼らへの救済こそ我が目的。
無論、彼らを放っておくこともできますが、そうなれば彼らは命を落としてしまうでしょう。
海は彼らに食べる物を与え、生きたいと思えない人には自由で新しい生までもを与えてくださるのです……
スカジはぞわりと総毛立つ。まさか人間が……恐魚になるなんて!
司教
罪深き者などに、どうして理解できるでしょう……
グレイディーア
もう結構ですわ、司教。何か勘違いなさっているようですけれど……あなたの目的に興味はありませんの。私の関心事は、あなたの為した数え切れぬほどの悪行がどこまで影響するかということだけ。
お話はもう十分ですわ。
司教
たかだか一人連れてきただけで……私に勝てるとでも?
あなたたちは皆等しく自信に満ち溢れていて――同時に等しく愚かであるようですね。
グレイディーア
あなた方の中には恐魚になるという選択をした者もいること、私は既に存じております。ですが、それは切り札とはなり得ませんわ。
たとえあなたが「シーボーン」になれたとしても――
突如として、スカジは近くにその「シーボーン」の匂いを感じた。
匂いの出処は、司教ではない。
スカジ
グレイディーア!!
スカジが前へと飛び出すも、「シーボーン」は既にグレイディーアのすぐ傍まで近付いていた。
グレイディーアの速度を以てすれば、声が届くよりも早く避けられたはずだった。
しかしそれは、彼女が避けようと思えばの話だ。
グレイディーアは気付かなかった……
グレイディーア
ゴフッ――げほ、ごほッ……
???
この行為。彼が願い、私が応じた。
休息せよ。Gla-dia。
怪物がグレイディーアを突き刺した。腕がずるりと引き抜かれ、彼女が地面に倒れ込む。その一部始終を、スカジは見ていた。
罠だ。これは罠なのだ。スカジはとっくに、シーボーンと戦う準備ができていた……だが、グレイディーアはなぜ気付かなかったのだろうか?
自分が傍にいることが、彼女の慢心を誘ってしまった? それとも彼女はスペクターのことで冷静さを欠いていたのだろうか?
この場の誰が狩る側で、誰が狩られる側なのだろうか?
そして、「シーボーン」はなぜ――
「シーボーン」
Ishar-mla。
(なぜ……一体、どうして……?)
なぜグレイディーアは、ここで手を下すことを選んだのだろう? スカジに声をかけていれば。二人なら、司教など簡単に殺せたはずなのに。
果たして司教は本当に、怪物などではないのだろうか? ずっと漂い続けていたあの匂いの出処は、この「シーボーン」であり、司教ではないと考えていいのだろうか?
そもそも、目の前の「これ」は一体何なのだろう。恐魚? あるいは司教が姿を変えたもの? 本当にシーボーンなのだろうか?
もし「これ」が長きにわたって憎んできたあの敵だとすれば、どうして言葉を話せるのだろう?
「シーボーン」
Ishar-mla。会いたかった。
スカジは無言だった。ケースへと手を伸ばし、「シーボーン」の動きを、その予備動作を捉えるべく注視する。
生死は常に一瞬で決まる。そしてこの怪物は、死ぬべきなのだ。
「シーボーン」
長らくの浮沈。長らくの浮游。数多の生と、死。
司教
やれやれ……
愚かにして罪深き者よ。使者があなたを必要としていなければ、あなたたちのような悪しき者は海岸で命を落としていたでしょうね。
スカジ
減らず口を……
司教
使者よ、どうかこの問題を疾くご解決ください。我らが海を侵犯する悪しき者たちを見ていると、気分が悪くなってきます。
「シーボーン」
お前は、それほどに。彼女たちへの攻撃を望むか?
司教
この連中が、エーギルが生み出した雑種どもが……我らの同胞をどれだけ殺してきたとお思いですか?
「シーボーン」
お前は――いや。
初めに、問う。質問をしよう。
Ishar-mla、我が姉妹よ。
スカジ
……今、なんて……?
司教
……
「シーボーン」
姉妹よ。お前は今も、己がどこから来たのかを、故郷を知らない。
スカジ
私の故郷はエーギルよ、怪物……つまり、あなたの天敵ってこと。
「シーボーン」
お前は無知だ。
私が、真実を教えてやろう。
お前たちは、我らと同じ存在だ。
スカジ
……
何?
今、奴は何を言った?
違う……違う……!
そんなはずがない!
「シーボーン」
お前には、我らと同じ血が流れている。
スカジにとってそれは、何度も考えたことだった。あの怪物たちと自分の間に、何か関係があることは知っていた。しかし彼女は、そのすべてを最後の戦いによる傷痕のせいだと結論づけていた。
だが――彼女は嗅ぎ取れていた。聞き取れていた。知っていた。認識できていた。
スカジ
嘘よ!
司教
おお、使者よ……今、何と仰いましたか?
「シーボーン」
Isha-mla。お前の血潮は、我らの血潮。
お前たちの肉体が存在し、我らの血潮が流入した。
私には、数多の血族がいる。彼らはお前たちに会った。そして、彼らは死んだ。
彼らは、お前たちの匂いを嗅ぎ取る。お前が、我らの匂いを嗅ぎ取るように。
彼らは、お前たちの皮膚の下に、同胞が幽閉されていると考えた。故に彼らは危険を顧みず、お前たちの肉体を噛み千切り、同胞を解放したいと願った。
しかし彼らは、準備ができていなかった。その時点では未だ、理解するための器官を持たなかった。
お前たちの体内に、幽閉されし同胞は存在しなかった。お前たちもまた、我らの同胞だったのだから。
Ishar-mla。お前は、我らの一員だ。
「シーボーン」の言葉は魔法のようだった。スカジの乱れた思考が過去へと遡る。僚友たちと共に恐魚を斬り殺す時、血生臭さが濃くなるほどに高揚し、動きが激しさを増し、身体は反応を示した。
「同類」の血に対して。
「シーボーン」
今こそお前を呼び覚まそう。記憶の中の、その感覚を。エーギルの肉体は脆く、そして万物はあまりに速く過ぎ去っていく。お前の中に眠る血脈を私が共に探し出す。
スカジ
やめ……やめて!!
「シーボーン」
だが、お前は知りたがっている。それを私は、理解している。
スカジは知りたがっていた。
自分が一体何者なのかを。なぜこんなにも嫌な目に遭い続けなければいけないのかを。
スカジ
あなたたちは、私たちを、エーギルを散々殺してきたじゃない……なのに今度は私を同胞呼ばわりして、迎え入れようっていうの!?
「シーボーン」
私には、お前と同じ血が流れている。
お前は、我らの匂いを嗅ぎ取る。我らが、お前の匂いを嗅ぎ取るように。
お前たちは、我らを探し出し、我らを殺した……
我らの理解が及ばなかった時、我らもお前たちを殺した。
我らは海に餌をやる。我らの死体は海を育てる。
Ishar-mla、我らの故郷は同じなのだ。
スカジ
あなたたちは私の家族を殺したのよ。私のお母さんを、おばあちゃんを、妹を……
スカジは知りたい。
「シーボーン」
いいや、違う。
我らは、エーギルの都市には行かない。
スカジ
数え切れないほどの都市を滅ぼしたくせに!
「シーボーン」
あれらの都市は、我らの領地に存在していた。
スカジ
ふざけないで。エーギル奥地の都市でも、あなたたちに狩られた人がいたのよ!
「シーボーン」
違う……それは、違う。
我らの行いではない。都市での死は、一族を育まない。
エーギルが我らを攻撃し、我らがエーギルを攻撃する。違いは存在しない。
お前たちの領地、都市での人々の死は、その地の者の行いだ。
スカジ
そんなの、嘘に決まってるわ!
「シーボーン」
「嘘」? 私は「嘘」の意味を知りたい。先刻、お前は「嘘よ」と発言した。私は「嘘」を知りたい。
スカジは立ち尽くす。
「シーボーン」の思考に触れたような感覚があった。
シーボーンに関する情報が、匂いを伝って直接頭へ流れ込む。
そして彼女は知ることができた。当然のように……
スカジ
違う……いいえ、違うわ……!
「シーボーン」
Ishar-mla、お前と我らの間には、大きな隔たりがある。お前では、我らに思考を伝達することは不可能だ。
しかしお前には、我らの思考を知ることが可能だ。それで十分だ。
私の身体は成長した。言語を用い、お前と交流することができる。
言語は膨大であり、扱いにくい。私の言葉は限られる。しかしお前は言葉を以て、私に伝達することが可能だ。
Ishar-mla、私はお前に会いに来たのだ。
スカジは知っている。流れ込んでくる情報から理解したのだ――
シーボーンは嘘をつかない、ということを。
スカジ
私と、あなたは……ううん……
「シーボーン」
お前は、周囲の生き物を、馴染みがたいものだと感じている。
海を泳げば、その方向を知る。理解する。光なくとも、海中のあらゆることを知ることが可能だ。
お前は、時折夢の中で、大群と共に泳いでいるように感じている。
スカジの血潮は沸き立っていた。
どうして? どう……して?
スカジは知っている。
我がことのように感じている。
彼女と僚友たるハンターはささやき合う。
彼女たちハンターは、皆怪物なのだ。
スカジ
……どうしてそんなことを言うの。どうして……
自分は怪物だ。
同族殺しの怪物なのだ。
同族のために、同族を殺した。
己の同族に、同族を殺された。
街の人々は温かい目をしていた。彼らは何も知らなかった。
研究所で、テントの中で見た、あの目は冷たかった。
ハンターが寝ている時、守りを務めたのは巡海者だった……いや、今思えば、あれは守っていたわけではない。ハンターのための夜回りではない。
巡海者は、ハンターが怪物になるのを待っていたのだ。
そして、彼女は見た……そう、見たことがあった。
自らの姉妹が、エーギルを喰らう様を。彼女が隊長に殺されるその瞬間まで、大きく裂けた口で骨を噛んでいたのを。
「彼女の神経は恐魚によって感染した。恐らく恐魚が、彼女の身体の一部となってしまったのだろう。そうなれば、もう彼女を救うことはできない。」
いや、違う……それは違う。
ああなったのは、彼女がエーギルの同胞ではなくなったから……故郷に帰ったからだ。
スカジ
……
「シーボーン」
お前は、思い出した。
スカジは、黒く静かな海の中を漂う。
逃走も防御も意味はない。
過去も未来も意味はない。
今や彼女は海の怪物だ。
一匹の、海の怪物。恐魚、あるいは「シーボーン」。
それは彼女を除いて、誰もが知ることかもしれない。
海の怪物。
……彼女はかつて、最大の罪を犯した。
彼女が怪物だというのなら、兄弟がそこにいれば、彼女は……
彼女は「それ」が全く抵抗しなかったことを思い出した。
彼女は「それ」が自分の体へ優しく触手を置いたのを思い出した。
でも、私が「それ」を殺した。
私が彼女を殺した。
私が■■■を殺した。
司教はすべてを理解すると共に、混乱に陥っていた。彼の自尊心とアビサルへの蔑視とが絡み合い、「シーボーン」が口にした真相を紐解くことができないのだ。
司教
……あ、ありえない……
なぜ、これまで……どうして、我らは気付かなかった!? なぜ我らに発見できなかった!?
グレイディーアの貫かれた胸からは、未だ血が流れ続けていた。しかし彼女の心臓は、鼓動を止めてはいない……
「シーボーン」
Ishar-mla。聞きたいことがある、Ishar-mla。顔を上げろ。
スカジは機械的に顔を上げ、兄弟を名乗る目の前の生き物を呆然と見やった。
スカジ
私が……私が、「それ」を……殺したの……
「シーボーン」
お前は、殺していない。
スカジ
違う……私が、殺した……
彼らの神を殺した。
一つの代をこの手で終わらせた。
彼らの、そして私たちの起源を殺した。
スカジ
私が■■■を……殺した……
■■■は何もしなかったのに……それなのに、私は……私は……
私の……私の妹までも……エーギル……エーギルが……!
皆、エーギルに殺されたのだ。
妹も、お母さんも、おばあちゃんも……
長きにわたる復讐は、矛先を間違えていた。
大切な人々は、実際の所すべてエーギルに殺されたのだ。――あの深海教会に。エーギルに。
シーボーンは嘘をつかない。
「シーボーン」
お前は、罪に言及するか?
スカジ
私の罪は……私は……
「シーボーン」
Ishar-mla、疑問は不要だ。我らに罪など、存在しない。
お前はただ望み、行動しただけだ。Ishar-mla、同胞のしたことに罪はない。
スカジ
でも私は、私たちは、エーギルのために……あんなに、たくさん殺したのに……
血の匂いが喉までせり上がってくる。
これは罪悪感だろうか? いいや、違う。
スカジは呆然としていた。ふいに、彼女をこれほど長く支え続け、大きな苦難に耐えさせてきたその原動力が……消えるのを感じた。
彼女がしてきたすべてには、最初から何の価値もなかったのだ。
「エーギルのため」? 自分はそんな高尚な存在ではない。理由を探すのは自分を慰めるためだ。
エーギル……エーギルはアビサルを何だと思っているのだろうか?
自分は一体「何者」なのだろうか? 何のために生きているのだろうか? 自らを顧みることもせず、必死だったあの時の自分には、そんなことなど関係なかった。
「私は――何をしているの?」
......
「シーボーン」の未熟な言葉が、彼女を現実に引き戻す。この強烈な目眩と焦燥感に襲われる今を「現実」と呼ぶなら、の話だが……
「シーボーン」
お前は、自分をエーギルだと思っている。ならば、お前が殺した、行為は正しい。
お前は、他の人間を血族と見なした。だから、お前は行動した。我らは、知らなかった。お前たちを攻撃した。その時、お前たちは我らを殺した。この行為も、正しい。
スカジ
――
どうして?
「シーボーン」
――Ishar-mla。
エーギル、鱗のない者たち。「罪」とは、お前たちの言葉の中にのみ存在する。
生存のための行為は、すべて正しい。
スカジ
つまり……
「シーボーン」
お前は、間違っていない。お前には、知ることをすべて伝えることが可能だ。望むか、望まないかは我らには存在しない。伝えるか、伝えないか。存在するのは、それらのみ。
お前に、質問をしよう。回答せよ。
最後はやはり、この問いに至る。
スカジは言いたくない。だが彼女にはシーボーンの血が、真実が流れている。
エーギルの人々は、自らの家族が誰に殺されたのかを知らないのだろうか?
もし本当にシーボーンが都市に入ったとして……彼女たちの犠牲だけで済むものだろうか?
「シーボーン」
Ishar-mla。お前たちの攻撃が、我らと「それ」との繋がりを、密接な関係を断った。今、我らは「それ」の脈動を感じるのみ。その声を聞くことはできない。
お前たちが最後に共に泳いだのは、共に攻撃したのは、その時だ。
そう。自分でもよくわかっている。実際、そうなのだ。
最後に残ったのは彼女一人だった。
怪物の群れを引き裂いた。空を切り開き、暗闇へと斬り込んだ。
アビサルハンターはその全勢力を以て突き進んだ。すべての僚友が彼女の足元で散っていった。すべての戦いが、その一瞬のためだった。
決死の思いで彼女が「それ」を突き刺した瞬間。
海の怪物とハンターの血で、海は腐りかけていた。あまりに多くの死が沈み込むと、新たな命は芽吹かない。
彼女は見た……■■■が沈みゆくのを見た。
巨大な目玉がじっと見つめてくる様を見た。何かが自分の意識へと繋がるのを感じた。肌は「酸味を感じて」視界は「耳をつんざき」痛みを「嗅ぎ取って」……己が狂気に陥ったかとすら感じた。
しかし彼女は正気だった。生きることは即ち、正気を保つことだ。
だが、その正気を疑うのも無理はなかった。――あの時、彼女の眼前で■■■は「口を開いた」のだから。
「シーボーン」
そう……
「それ」が再び眠りに就いた時、お前は――
「それ」が何か言ったのを、聞いたか?
スカジの血潮は既に燃え上がらんばかりだった。
スカジは答えを知っている。
彼女は知っている。その秘密を、墓場まで持って行くつもりでいる――
しかし。
スカジ
■■■は――
■■■は、言ってたわ――
「我らが苦難は永遠なり。」
その言葉が、口をついて出る前に。
スカジの最後の抵抗が、ほんの少しの反抗心が、彼女にただ瞬きをさせた。
彼女は、グレイディーアが血だまりの中から起き上がるのを見た。
司教
なっ……!? し、使者よ!
「シーボーン」
あぁ……いずれまた会おう、我が姉妹……
グレイディーアは先ほどの攻撃を避けられた。しかし彼女は、敢えて避けないことを選んだのだ。
「シーボーン」
グ……ァあ……
Gla-dia……
ゥ、ギ……お前は、頑丈だ。Gla-dia。
グレイディーア
小煩いゴミですこと――(エーギル語)あなたには、礼を以て接する価値などなくってよ。
(エーギル語)おとなしく狩られなさい……罠に掛かり、醜い悲鳴を上げて。勿論、獲物はあなたよ。この意味、無能なゴミにわかるかしら?
彼女の矛が再び閃くと一瞬にして、「シーボーン」の身体に巨大な傷が刻まれた。傷口からは体液が噴き出し、グレイディーアの腕を腐食させた……しかし、彼女の傷はみるみるうちに治っていく。
「シーボーン」
我が姉妹よ……お前の伝達……情報量の、密集……
グレイディーア
感情を、恨みを。獲物風情がどうして理解できるというの?
愛、恨み、苦痛、悲しみ、喜び、安堵……あなたたちからすれば、すべてが無意味なのでしょう? それらを無用の塵芥……不要で余計なものだとでも、思っているのでしょう?
「シーボーン」
お前の言う、すべて。我らは、持っていない。
グレイディーア
では、愚鈍なゴミには理解も及ばぬことでしょうね。私たちからしてみれば、「余計なもの」を持ってこその人生なの。いいこと? ――私たちは、あなたとは違うのよ。
「シーボーン」
Gla-dia。感情。非常に強力な感情。
グレイディーア
歌すら満足に歌えないのに、随分お喋りするのね。死になさい。
司教
どうして――なぜ! そんな、ばかな……
あれほどの傷を受けておきながら、回復したというのですか!?
グレイディーアはシーボーンの体から力強く矛を引き抜くと、ひらりとそこから飛び上がり、スカジの前へと軽やかに着地した。
グレイディーアはシーボーンの傍から抜け出したのだ。さもなくば次の瞬間には、その気があろうとなかろうと、その巨体に叩き潰されると彼女はわかっていた。
彼女は横一線に矛を薙ぐ。シーボーンがそう望まなくとも、司教は必ずスカジを殺しにかかるだろう。対するグレイディーアは、アビサルの第二隊長だ。僚友を、ハンターを庇護する義務がある。
たとえスカジが自らの隊の所属でなかろうと。
グレイディーアの脳内を、様々な思考がよぎった。しかし彼女は、己の傷に少しの注意も払わない。
なぜなら、彼女にはこれで十分だからだ。今の状態でも、誰を殺すにも申し分ない。
「シーボーン」が痙攣する。それの持つ複雑な筋肉が、身体を支えていた。
一方、グレイディーアの傷からは未だに血が溢れ出ている。スカジは全身の血管が浮き上がり、「シーボーン」がもたらした知覚と、その膨大な神経信号にとらわれていた。
海は深く広大なれども、その子らは狩る者と狩られる者とに分かたれた。