河畔の船たち
この異国の地には、すっかりサルカズの血が染み込んでいる。
血をなぞってみると、混沌と絡み合う感情に触れられた。
戸惑い、怒り、怯え、郷愁……殿下、あなたはこんな結果を望んでいたの?
……
我が同胞よ、おやすみなさい。血が流れ続けていれば、すぐに痛みも感じなくなるでしょう。
……来るのが遅すぎたって? そうかもね。
もし戦争に結末があるのなら……その結末に勝ち負けが付けられるのなら……アタシたちサルカズが勝てたことなんて、一度でもあったかな?
アタシって、時計を見るのが好きじゃないの。自分の心音が時間を教えてくれるから。
それで今、心臓の鼓動に呼ばれてここに来たってわけ。
ケルシー
君たちの親王が去り、「船」たちが散り散りとなったことで、ローズ河畔は解散したものと思っていたが。
かつての船の中には、今や軍事委員会に仕えている者も多い。
そして君は、軍事委員会が劣勢に立たされたこのタイミングで、長年連絡を絶っていた我々へと通信を入れた。君の求めるものを私が差し出すとは限らんぞ。
謎のブラッドブルード
昔馴染みへの情けはないんだ? 相変わらずだね、ケルシー。
すくすく成長してるアーミヤも、どうせ裏でアタシへの警戒を強めてるんでしょ?
ケルシー
必要な準備だ。
それに、Logosも君の出現に警鐘を鳴らしていたからな。
墜落した飛行艇を離れて以降、我々の臨時拠点にコンタクトを取ってきた外部の人間は、君が一人目だ。
謎のブラッドブルード
……「外部の人間」ね。
ねえ士爵、もしかしたら君もアタシと同じで、悲しい時ほどひどいこと言っちゃうタイプ?
ケルシー
エンテレケイア、ここはバベルの臨時拠点のように無駄口を叩ける場所ではないぞ。
エンテレケイア
……
君の口からそのコードネームを聞くと、あの頃が恋しくなってくるね。
アタシね、ロンディニウムの外からここまで戦場を突っ切って来たんだ。道中で助けた人も、見送った人もいるけど……
同胞たちが異国の土地に沈んでいくのは、けっこう嫌な光景だったよ、ケルシー。
ケルシー
君は感傷的なタイプではなかったと記憶しているが。
黙り込んだブラッドブルードから、ケルシーは彼女がその言葉に応じる気がないことを悟った。
ケルシー
エンテレケイア、なぜヴィクトリアの戦場に飛び込むリスクを冒してまで会いに来た?
助けが必要ならば、テレシスの方が賢明な選択だったはずだ。
エンテレケイア
そうやって探りを入れなくていいよ。アタシは摂政王のやりたい事には全く興味ないから。あの人の考えを認めた船だっているかもしれないけど、知っての通り……
テレジア殿下がバベルの元で亡くなられて以降、ローズ河畔の繋がりは日に日に薄まってるし、船同士の制約も弱まりつつあるから。
でも、そういう話がしたくて来たってわけじゃないよ。アスカロンが都市に入りやすいように、ちょっと手伝ってあげたくてさ。
ケルシー
……何が目的だ?
エンテレケイア
……
ケルシー
我々が受け取った情報によれば、都市内では軍事委員会が統制を強めているという。
一方城壁部では、ナハツェーラーの軍隊とヴィクトリア公爵の大軍が壁を隔てて睨み合っている。情勢は刻一刻と変化しているんだ。
エンテレケイア
それくらいわかってるよ。だけどああいう可愛らしくて勤勉な若者は、アタシが面倒見てあげなきゃって思ってね。
ケルシー
いいや。私が言いたいのは、このような情勢下で、お前がアスカロンの状況を把握しているのは不自然ということだ。彼女の手腕については私もよく知っているからな。
エンテレケイア
ああ、なるほど。あの子ったら、ずいぶん重い怪我を負っちゃったみたいでね。
ケルシー
……
彼女が怪我を理由に警戒を緩めることなど決してない。
エンテレケイア
よっぽど信頼してるんだね。喜ばしく思えばいいのやら、危惧すべきなのやら……
ケルシー
協力者がいるのだろう。誰だ?
エンテレケイア
「お利口ちゃん」だよ。あの情報集めが得意な船のこと。エンジニアの腕を活かして、ロンディニウムで気になる手がかりを集めてくれてるんだ。
ケルシー
あの彼女が……? 彼女は君たちの寵愛を受けていて、戦場の最前線に送られることなどなかったはずだ。それに船同士の取り決めがある以上、ここに船が現れること自体が問題ではないのか?
エンテレケイア
……やっぱりあの頃のアタシたちについてもよく知ってるんだね。「お利口ちゃん」の情報通り、君が親王の情報を持ってるって確信したよ。
そこまで知ってるなら、アタシは絶対にこの血の河を離れないし、離れることができない唯一の人間だってことも知ってるでしょ。
ここまで言っても、まだアタシを疑うの?
ケルシー
……いいや、ロドスは君の助力に感謝する。バベル時代にテレジアがそうしていたように、我々も船たちの貢献に報いたい。
かの親王に関しても、私の知る手がかりを渡そう。
エンテレケイア
ありがとう、ケルシー。
それと、都市の地下にくっさい血の臭いが漂ってるんだけど、ドゥカレのでしょ。ついでだし、喜んで片付けてあげるけど――
それには、人手を貸してもらわないとね。
ケルシー
都市内においては、現状ロドスの人員を捻出することはできない。
……
だが、「ミルスカー」という勢力なら力になってくれるはずだ。君ならば、難なく探し出せるだろう。
嵐の中心部に限りなく近いところにいながら、あらゆる勢力に肩入れすることを避けている者たちだ。彼らのそうした姿勢は、君も馴染み深いのではないか?
エンテレケイア
そんな人たちを、君が信用してるの?
ケルシー
今はまだ、ロドスと利益を同じくする部分があるからな。
もし軍事委員会がドゥカレの布陣を利用して他の策を打てば、公爵連合軍の行動に影響を及ぼすことは必至……模範軍の都市入り計画すら頓挫しかねない。
それはロドスと「ミルスカー」双方にとって望ましくない結果だ。
エンテレケイア
あはっ、打算的なとこは相変わらずだね。これは君の計画? それとも例の指揮官さんの?
ケルシー
ロドスの計画だ。
エンテレケイア
……ロドス、ね。わかった、じゃあ指揮官さんにもよろしく伝えといて。たぶんアタシのことはもう覚えてないだろうけど。
ところで士爵、一つ、どうしても君たちに確認しておきたいことがあるんだ。
摂政王殿下以外だと、答えられるのはもう君たちくらいなんだよ。飛行艇から帰ってこられたのは君たちだけだからね。
ケルシー
内心では結論が出ているはずだ。改めて確認する意味があるのか?
エンテレケイア
……もちろん。
この目で見て、この耳で聞いて、この口で伝えなきゃ……うまくお別れできないからさ。
アタシの心臓はたしかにサルカズの魂が去りゆく残響を感じた。だけど、あの人もその中にいたのかどうか……何度も繰り返し確認せずにはいられないんだ。
……テレジア殿下は、また遠くへ行っちゃったの?
サルカズ傭兵
ゲホッ、ゴホッ……
エンテレケイア
簡単な質問に答えてくれれば、気前よく命は見逃してあげる。君のナイフも返すよ。
君たちをアタシの暗殺に差し向けたのは誰? アタシたちの存在を知ってる人自体そんなにいないんだけど。
サルカズ傭兵
どうせ死ぬんだ、さっさと殺せよ。他のやつを売るつもりは――
???
「解放」してやれよ。
若いサルカズ
ああ、いっそサクっと殺してやれって意味だぜ、エンテレケイア。
たっぷり血が流れれば、そこから記憶を引っ張り出せるんだろ?
サルカズ傭兵
……
エンテレケイア
君がそう言うなら――
ブラッドブルードはゆっくり手を上げた。
傭兵を拘束している血の色の枷が霧散していく。
エンテレケイア
アタシはその逆がいいかな。
サルカズ傭兵
……!?
エンテレケイア
さっさと行けば。見ての通り、今回ずいぶん多くの傭兵がアタシを殺しにやって来たから、君の顔なんて覚えてられないよ。
お礼はいらないよ。
若いサルカズ
くせぇ芝居だな。
エンテレケイア
「ローズ河畔」の名を知る人間はそう多くないからね。わざわざ血で探らなくても、だいたい誰の仕業かくらいわかるし。
殿下が亡くなったばっかりなのに、ずっと影を潜めてた誰かさんはもう我慢ならなくなったんだね。
……
それより、君のお芝居の方はまずまずだったよ。見逃す口実を考える手間が省けてよかった。
若いサルカズ
誤解すんなよ。殿下はもういないし、摂政王側に付いてヴィクトリアに死に行くのも嫌なんでな……
今はまだ、自分の活路を探ってるとこだ。
エンテレケイア
ということは、君もアタシを殺す気なのかな、ミルトン。
ミルトン
俺はアンタには……ローズ河畔の連中には手を出せねぇよ。
でなけりゃとっくに姉さんを連れ去ってるっての。
エンテレケイア
あっそ。じゃあさっさとアタシの視界から失せなよ。
若き混血のサルカズは立ち去るどころか、手にした剣を強く握りしめた。
ミルトン
はあ。
エンテレケイア
君は昔、君のお姉さんに代わって情報を届けてくれたことがあるから、よーく覚えてるんだよ。今の君が何者であろうと、あの頃の思い出に免じて――
ミルトン
殿下がいなくなったらカズデルに何が起きるか、互いによくわかってるだろ。
嵐が近づいてきてるのを感じるんだよ。誰も逃げられねぇような大嵐がな。
エンテレケイア
ミルトン、君のお姉さんを悲しませたくないの。今ならまだ見逃してあげるからさ。
この先どうなるかはまだわからないし、船たちは散り散りになってアタシでさえ消息を掴めない……
今回のカズデルの混乱で、アタシはもうたくさんの人とお別れしたんだよ。ざっくばらんにお喋りできる人だって減り続けてる。
君のせいで姉妹も同然の船をまた一人失うのは御免だよ。
ミルトン
……アンタたちに身を隠せるところなんざねぇよ。
刺客のほとんどは恨みで動いてるわけじゃねぇ。アンタたちが情報を持ってるのが一番の理由だ。
軍事委員会がバベルの関係者を追及しないと公言したところで、アンタらが情報や秘密を持ったまま去っていくのを奴らが見逃すとは思えねぇ。
エンテレケイア
ふんっ。
それなら片っ端から相手になるだけだよ。
ミルトン、バカなことをやってる自覚はあるのかな。
ミルトン
俺は無価値な傭兵にすぎねぇが、アンタを殺して信用を勝ち取れれば……姉さんだけは見逃してもらえるかもしれねぇだろ。
だからやるしかねぇんだよ、エンテレケイア!
若きサルカズは不意に剣を振るったが、相手に命中することも、鎌で受け止められることもなかった。
ブラッドブルードの姿は血の霧となって霧散し、消えていった。
ミルトン
チッ。
エンテレケイア
最初から素直に言ってくれればよかったのに。
生きた人間はもうこの周辺には寄ってこないって教えてあげたら、素直に話してくれるかな?
ミルトン
……
エンテレケイア
うん。予想はついてるようだけど、君が潜伏させてたお仲間さんたちはもう来ないよ。
ミルトン
アンタこそ、平然を装ってるけどホントは気が気じゃないんだろ?
アンタは追っ手を根絶するために、その親玉である離反者をあぶり出そうとしてる……ように装ってる。
とっ捕まえた追っ手もわざと逃がして、アンタの行方を広めさせてんだろ。復讐目的の連中を、アンタ一人に注目させるためにな。
ハッ、姉さんから何度も聞いてんだよ。アンタは船の中でもそういう「後始末役」だったってな。
姉さんが命からがら逃げ伸びた時だって、アンタは同じように敵を一手に引き受けてた。
あの時は怪我人を装うって手を使ったんだったな。アンタも相当血を流してたからサマになってたし、アンタを見た奴全員を血の霧に変えちまうようなアーツで一網打尽だったな。
姉さんは命の危機を犯してまでアンタたちに血液を「洗浄」してもらって、純粋なブラッドブルードになったってのに……あの光景を思い出すと何日も飯が喉を通らなかったらしいぜ。
エンテレケイア
できるだけ血は飛び散らないようにしてたんだけどね。アタシだってあんまり派手なことをするのは好きじゃないから――
ミルトン
違ぇよ。アンタのその傲慢さがムカつくって言ってんだ。
ローズ河畔が血で重ねた債務を、一手に引き受けられるなんて思いこみやがって。
エンテレケイア
……そんなこと思うはずないでしょ。
アタシに全員の視線を釘付けにできるような実力があったら、きっと何が何でも船のみんなを引き留めて、ずっと一緒に血の河にいてもらったよ。
ローズ河畔はこんな早くに散るべきじゃなかったのに……
それに内戦の情勢が目まぐるしく変わっていく中で、何一つ変化の予兆を捉えられず、後始末の役目しか果たせないのも嫌なんだ。
……だけど事実、そうなってる。アタシにはテレジア殿下を助ける力も、一艘の船を救う力もなかった。
君がお姉さんのためにやりたいことだって、アタシにはできないんだよ。
ミルトン
……
――なっ!?
エンテレケイア
しーっ。
血のような赤を湛えた宝石が、ゆっくりとミルトンの目の前に降りてくる。エンテレケイアの顔色が蒼白さを増したように見えた。
エンテレケイア
お姉さんを助けてくれる人にそれを差し出しなさい。この大地でそれとアタシの「ザクロちゃん」の違いがわかる人なんて、たった二人しかいないって保証するから。
ミルトン
……アンタの耳飾りか?
エンテレケイア
ただの耳飾りじゃないけど……それ以上知らなくていい。もう行って。
君と、船たちに幸あらんことを……
ミルトン
アンタはどうするんだ?
エンテレケイア
君がそれを持ってるってことは、アタシは死んだってことでしょ。
ミルトン
……
エンテレケイア
お姉さんに再会できたら伝えてちょうだい。アタシがあの人を絶対に見つけ出して、船のみんなが納得できる答えをもらうからって。
ミルトン
アンタたちのその親王って奴はいったい何なんだ? 裏切者か? ペテン師か? それとも別の……
エンテレケイア
……
風が血生臭さを運んでくる。彼女はもういなかった。
ミルトン
……ありがとな。
エンテレケイア
聞こえる?
軍事委員会の司令部に入ったよ。無線封鎖解除ね。
無線から聞こえる声
こんなに早く侵入できるなんて、さすがエンテレケイア。
エンテレケイア
そりゃあもう。いつもの手を使ったから。
物のついでにドゥカレの祭壇を片付けてる時に、血だまりに倒れてる人を山ほど見つけてね。当然、その中には軍事委員会に近しい人間もいたってわけ。
司令部に関する情報もその中から見つけたんだ。
無線から聞こえる声
へー……じゃあわたしの今日の占いはハズレちゃったね。
あ、滴った血の形を見る例の占いね。今日は二本の剣の形になったから、エンテレケイアが王庭軍と正面衝突して、苦戦の末にようやく司令部への道を切り拓くって暗示かと思ったんだけど。
エンテレケイア
まだそのどこかで聞きかじった占いをやってるの?
無線からくぐもった転倒音がかすかに聞こえた。
エンテレケイア
……大丈夫?
無線から聞こえる声
あちゃー、またケーブルに引っかかって転んじゃった。
まっ、これだけ弱った体だから仕方ないね。血でアーツを使うこともろくにできないし、たまに何滴か垂らして遊ぶぐらい大目に見てよ。
エンテレケイア
……どこに隠れてるか、本当に教えてくれないの?
無線から聞こえる声
昔からのルールでしょ? 船同士が一番仲良しだった頃でも、わたしの居場所を知ってる人なんてほぼいなかったんだから。
エンテレケイア
だけど君は今ロンディニウムにいるんだよ。ここには絶対安全だって言い切れる場所なんてないのに……
無線から聞こえる声
とにかく、心配いらないから。
それより、移動中の集団を見つけたよ。北東方向から来てる。音で判断する限り、小隊が二つだと思うから、はち合わせにならないようにね。
エンテレケイア
了解。
アタシが指揮系統を破壊したら、知らない傭兵たちが仕事を引き継ぐんだってさ。
無線から聞こえる声
――ジジッ……
エンテレケイア
……あれ、電波が悪いのかな。おーい? いる?
無線から聞こえる声
あー、ごめん、いるいる。船はいつだって一緒……ずっとそうだったでしょ。
エンテレケイア
そうだね。ずっとそうしてきた。
……それで、その傭兵チームだけど、リーダー格の三人は昔バベルと関りがあったらしいんだ。
ケルシーの要望を聞いてるだけとは言え、長い付き合いに免じて許してなんて通用しないかもね。
ねえ、これって船同士の約束を破ったことになるのかな?
無線から聞こえる声
それはエンテレケイア次第でしょ。二度とバベルに関する仕事に関与しないってルールを決めたのは、あなたなんだから。
ルールさえなければ、同胞で殺し合うことにもそこまで抵抗がない子だっているからね。
エンテレケイア
そうだね。だからそういうルールを増やして、面倒ごとを減らしてきた。船たちは……一筋縄じゃいかない子ばっかりだから。
無線から聞こえる声
そうそう。それに、来る人がいれば、当然去る人もいるわけだ。
エンテレケイア、わたしたちはそれを受け入れていかないと。
エンテレケイア
だけど、それは親王が急に行方をくらませたことの説明にはならないよ。アタシがあの人を一番よく知ってるつもりだったのに……
無線から聞こえる声
それはそうだよ。彼女の血を一滴もらっている人なんてほかにいないし。
エンテレケイア
だから、あの人がいなくなったのは本当に前兆のないハプニングみたいなもので、アタシたちが察してあげられなかったからじゃない……そういうこと?
無線から聞こえる声
自分のせいかもなんて思ってたの?
実はね、わたしもそう思ってたんだ。いわゆる「占い」にハマったのもその時からだし。
占いはさ、全っ然当たらないただの連想ゲームかもしれないけど、ちょっとしたヒントをくれて、何が起きてもいいように心の準備をしておけって教えてくれるんだ。
まぁ、わたしも手伝うからあんまり気負わないで。少なくとも、あの人がロンディニウムに来てたのは間違いないってところまではわかったんだしさ。
ひとりよりふたり、全くあてがないよりちょっとでも手かがりがある方がマシ。そうでしょ――
待って。司令部の外に動きがあった。ヴィクトリアの連合軍と正体不明のサルカズたちが衝突しているみたい。
エンテレケイア
引き継ぎに来た傭兵だと思う。
アタシたちと比べても、意外と早いご到着だったね。
先回りして司令部を綺麗にしといてあげようか。そうすれば後々の面倒ごともぐっと減るだろうし。
案内を任せていい?
無線から聞こえる声
うん。わたしがずっとついてるよ。
ケルシー
――エンテレケイア。
エンテレケイア
……遅刻だよ、ケルシー。
ケルシー
最終攻撃計画の策定に少し時間が取られてな。それにしても、声を掛けるまで気付かないとは、珍しいな。
……ロドスの医療オペレーターによる医療支援は必要か? ブラッドブルードが止血を拒めば、彼らにも手の施しようはないがな。
エンテレケイア
このくらいどうってことないよ。戦場を出入りしているんだから、血くらい流れるって。
ただ、この血だまりはどういう形に見えるかって考えちゃってね。なんか不吉な形に広がってるように思わない?
まあいいや。続けて、ケルシー。
ケルシー
……君がドゥカレの残した法陣を破壊し、ロンディニウムをもう一つの滅びから救ったことについては、これまでと同じように、一個人として感謝することしかできない。すまない。
エンテレケイア
アタシだって、個人的な嫌悪感からドゥカレの残したゴミを片付けただけだよ。
君たちを助けているわけでも、ましてやヴィクトリア人を助けているわけでもないから。
ケルシー
だが、それに加えてウィシャデルたちのためにかなりの障害を排除してくれただろう。
エンテレケイア
それは否定しないけど。まぁ、士爵がアタシのやってきたことを覚えといてくれたらいいよ。
ケルシー
当然だ。それで、鮮血の法陣から得た情報は、「ミルスカー」に伝えたのか?
エンテレケイア
ヒントを教えただけだけど、賢い子ネコちゃんだったから、まあだいたいわかってるんじゃないかな。
ケルシー
そうか。ならば、ヴィクトリア人とサルカズが戦争を始めれば、利益目的で協力者を募る者が現れるということにも思い至るだろう。
戦争はもう終わるべきだ。残りの問題はロンディニウムに……ヴィクトリア自身に委ねるほかない。
現在、アーミヤとドクターがヴィクトリアの代表と平和的な収束案を協議しているところだ。
もし理想的な結論に至れば、サルカズは皆この都市を立ち去ることになる。それによって、ロンディニウムの災難もまた収束するだろう。
過去のことについては……今は多くを知る必要もなかろう。人々が物事を詳しく知れば知るほど、それは悩みに変わるものだからな。
エンテレケイア
全知全能のケルシー士爵がそういうことを言うと、なんか自嘲してるみたいに聞こえるんだけど。
四年前、踏みにじられて瓦礫の山になったバベルを探し当てた時、ふと、アタシと士爵は似たところもあるんじゃないかって思ったんだ。
後始末役ってさ、本当はどうしても離れ難くて、失敗を受け入れられなくて……ずっと現場に留まって、バラバラの破片を継ぎ合わせようとしてるだけの人なんじゃないかって。
ケルシー
……エンテレケイア。親王の手がかりは、君が指定した通信回線に共有してある。断片的な情報であることに変わりはないが、役には立つはずだ。
エンテレケイア
ありがとう、ケルシー。
まだ何か手伝えることがあれば、今のうちに教えて。ロンディニウムにいるサルカズ全員に出て行ってもらうのも、簡単なことじゃないだろうしね。
ケルシー
それよりも、伝えておくべきことがある――手がかりを受け取ったはずの受信者から、一切返事が返ってきていない。
エンテレケイア
……!?
ケルシー
それに加えて、クロージャがなんとか大まかな受信者の位置を特定したが、我々が近づくことを妨害している者がいる。
いや、妨害というよりは、意図的に我々の注意を引こうとしているように思える。別の目的を持つ者が関わっているのかもしれん。
エンテレケイア
アタシ目当てかな?
「慌てなくてもいいの、エンテレケイア。実際、どれだけ早く歩いても、花が枯れる前にこの戦場を渡り切ることなんてできないから。」
「ええ、カズデルにはバラがないし、持っていってもみんなが気にいるとは限らないでしょう。そのバラの花束が枯れてしまったら、捨ててしまいましょう。」
「カズデルの移動都市に戻ったら、何が私たちを待ち受けているのかしらね。」
「だけど、あなたは戦闘技術もアーツも十分鍛え抜かれているから、必要なものはあと一つだけだと思うわ。」
「エンテレケイア、別れを悲しむことを覚えてほしいの。憎しみを抱えて生きていくのは簡単だけれど、愛ゆえの苦しみを受け止めることは難しいから。」
「私はね、別れが悲しいものであるからこそ、テレジア殿下には自身の願いを叶えてほしいと思っているの。」
「それから、彼女の願いが叶うところを、あなたと一緒に見届けたいとも思ってる。」
「エンテレケイア、一緒に見届けてくれる?」
エンテレケイア
……
エンテレケイアは廃墟へと足を踏み入れた。
怯えた様子の市民が数人、遠くから後を付けてきていた。彼女をにらみ、ブツブツと罵り続けてはいるが、手にした煉瓦を投げつける勇気はないようだ。
地面には引きずったような血痕が伸びていた。ほとんど乾いた血痕は、市街戦で倒壊した壁を抜けて、錆びだらけの生産ラインの設備を迂回して、さらに奥へと伸び――
その先で、事切れた「お利口ちゃん」が横たわっていた。懐には、打ち壊された通信機を抱えている。
おぞましい傷口から、なおも真っ赤な血が湧き出ている。
ひ弱なブラッドブルードがロンディニウムで死んだ。なんともありきたりな光景だった。彼女がなぜ死んだのかを気にかける者はいないが、彼女の死を汚す者もまた存在しない。
エンテレケイア
――
まだ血が枯れてない……誰かが最後の尊厳を守ってくれたんだね。
……このささやかなアーツを、命のアーツを施せるのは、生きている人間だけ――
親王、君の慈悲は……たったこれだけなの?
「やっぱり来ちゃったんだね、エンテレケイア。」
指先を血に浸すと、情報が視界に湧き出した。エンテレケイアは血を通じて、死者の未だ消散していない意識と語り合う。
エンテレケイア
……誰が君を殺したの?
「ずっと隠れてたからお腹が減っちゃって、ちょっと出歩いたら誰かに何か投げつけられてこのザマだよ。どうせ逃げられないのはわかってたから、止血もしなかったんだ。」
エンテレケイアはローズ河畔の「後始末役」として、何度も仲間が血だまりに沈む姿を見てきた。
そうした姿が頭の中で情報の語り部となり、真偽も定かでない記憶を織りなす。
エンテレケイア
ヴィクトリア人? それとも軍事委員会の――
「誰も恨まないで。ローズ河畔に入れてもらえなかったら、わたしみたいにひ弱なブラッドブルードは、内戦の時にとっくに死んでただろうし。」
「みんなからは情報集めが上手な船って褒めてもらえたし、いつも気に掛けてもらって……溶炉のちょっとした故障とかでも、みんな真っ先にわたしの安否を心配してくれたしさ。」
「それで十分だよ。みんなと出会えて、本当に嬉しかった。」
記憶が過去へと遡っていく。いつの間にか見慣れた姿が血の河から歩み出て、静かに彼女たちを見つめていた。
これは「お利口ちゃん」の記憶であり、船たち全員に共通する記憶でもあった。ほどなくして、血の温かさは次第に失われ、死者の記憶も枯れていった。
船との別れはそう頻繁にあるわけではない。しかし、どれだけ厳しい情勢下でも、ローズ河畔の者たちは各々時間を作り、去りゆく船のために哀悼するのが習わしだった。
少なくともかつてはそうだった。
エンテレケイア
待って、待ってよ――人探しの途中でしょ? 君は本当にこれでいいの?
君だって船のみんなを連れ戻したいんでしょ?
血の中にその答えはない。もはや何の情報も見えなかった。
しかし彼女の指はふと、何か硬いものに触れた。
「血から指を離しなさい。この血の河にはもうこれ以上留まらないで。」
エンテレケイア
……!?
それは馴染み深い結晶だった。
彼女の血の一滴であり、誓約であり、ローズ河畔の起点だった。
純粋な結晶は一切情報を宿しておらず、アーツの余熱だけが残っていた。
エンテレケイア
親王……どうしてよりによって今、これをアタシに返すの?
ここまで来たんなら、どうしてさっさと行っちゃったの?
この子を助けられなかったから? あるいは、終わったばかりの戦争が理由とか、ここ数年で起きたすべてが原因?
それとも……ただ別れを告げるために……
ケルシー
ロンディニウムを去るのか?
エンテレケイア
そうだね。もう欲しい情報は手に入ったから。
ケルシー
親王はやはりロンディニウムに来ていたのか。
軍事委員会の情報網でも、我々の敷いたロンディニウムの地下ネットワークをもってしても、彼女は捕捉できなかった。不確定因子が増えたのはいい知らせとは言い難いな。
エンテレケイア
親王はこの戦争のために来たわけじゃないよ。
「ローズ河畔は二度とバベルに関する仕事に関与しない」って、アタシが決めたことだし、あの人は絶対背かないよ。
あの人はただ、殿下を見送るために来たのかもね……それか、アタシと「お利口ちゃん」がいつまでも親王の調査を続けるのを制止しに来たのかもしれないし……
ケルシー
エンテレケイア、親王がバベル崩壊の直後に失踪したということ自体、疑問に満ちているんだ。それがテレシスによる指令でないことさえ、確かめられていない。
彼女の立場が明らかになるまで、ロドスは彼女が我々の計画をかき乱す可能性を排除できない。
たとえ私自身が、彼女がただ別れを告げるためだけに来たのだと信じたくてもだ。
エンテレケイア
大丈夫、アタシが親王を見つけるよ。「お利口ちゃん」が最期に十分な手がかりを残してくれたからね。
アタシも親王に答えてもらわないと気が済まないしね。
ケルシー
もし協力が必要ならば、我々は引き続き――
エンテレケイア
ロドスは協力を惜しまないって言いたいんでしょ。
でもロドスはバベルとは別物だし、ロドスを過去の因縁に巻き込みたくないからさ。きっと殿下も同じ考えだよ。
ケルシー
使命は名が変わったからといって変わりはしない。
ロドスはバベルが歩んだ失敗の道を歩むつもりはないが、バベルが描いた理想を否定するつもりもない。
加えて、私もまた、在りし日のすべての真相を知りたいと思っているんだ。
エンテレケイア
……善意には感謝するよ。
だけど、フラフラとさまよう船には波止場が必要なんだ。アタシたちにとってのそれは、カズデル以外ありえないんだよ……
ドゥカレの王庭は船のみんなが嫌いな臭いに満ちてるし、あいつの血の池からは、そのうちまた別の嫌な奴が生まれるだけでしょ。
だから、そう遠くない未来に、アタシがほかの船を連れて血の河を渡って、殿下が立ち上げた都市に戻るかもね。
予感がするんだ。この戦争が終わった後のカズデルは、かつてのバベルよりもアタシたちを必要としているかもって。
ケルシー
だが、船たちを説得するのはそう簡単にはいかないだろう。親王もまだ行方知れずだというのに……
エンテレケイア
……
船同士の誓いを信じてるから。互いに気に食わないって思ってたって、誓いがアタシたちを結び付けてくれるよ。
士爵、アタシの代わりに「お利口ちゃん」の花びらをカズデルまで送り返してくれるかな。あの子の故郷なんだ。
エンテレケイアがそっと手のひらを開くと、そこには血の色を湛えた結晶があった。彼女は姉妹の血にくすぶる思念を精一杯引き留めたのだ。
ケルシー
わかった。私とロドスが約束しよう。
エンテレケイア
それでロドスが面倒ごとに巻き込まれても、恨み言はなしだよ。
ケルシー
ロドスは君が思うほど脆弱ではない。
エンテレケイア
だといいね。じゃあね、ケルシー。
「この血の温もりは決して消えず、血の河が私たちの船を飲み込むこともない――これが私たちの誓い。」
「約束するわ……」
「私もお別れを悲しむ。別れなんて少ない方がいいけれど――」
「……さようなら、エンテレケイア。」