腐敗の最期
諸王よ、ヴィクトリアの泣き声は聞こえるだろうか?
炎は母の体に赤黒い傷跡を残した……
されど、私が母の頭上を越えた時、助けを乞う声はなかった。
耳に届いたのは、ため息のみ。
しかし、母のため息は誰がために――
パプリカ
……
イネス
蒸気騎士や傭兵たちの亡骸はそのままにしておけばいいわ。ここはヴィクトリア人たちがずっと早くから彼らのために用意していた墓だから。
パプリカ
それは知ってるっすけど……でも……
パプリカは鮮血に染まった便せんをそっと握り、目の前に横たわっている蒸気騎士が、死の間際にそれを書き記した時の様子を想像した。
パプリカ
蒸気騎士たちの帰る場所はここかもしんないっすけど、サルカズをここに置いてくのは違くないすか?
ヘドリーさんが本当に「ライフボーン」でみんなをカズデルへ連れて帰れるなら、ここにいるみんなも連れて行きたいなーって。
イネス
そうしたいのなら、やってみなさい。
だけど、カズデルはあなたの家じゃないのよ。本当にいいのね?
パプリカ
ク、クルビアに帰ろうと思えば、いくらでも方法はあるっすから――
???
現時点では、大部隊と一緒に戻るのが最善の選択だろう。
ヘドリー
ヴィクトリアに留まるのも、今すぐクルビアへ戻るのも、リスクを伴うからな。
イネス
怪我をしてるなら強がらない方がいいわ。
ヘドリー
これくらいじゃ死なないさ。死ぬわけにもいかないしな。それに、俺たちはもう想定よりも随分と遅れてしまっている。多少の無理も必要だろう。
パプリカ
えーっと……ヘドリーさん、骨骸はどんな感じっすか?
ヘドリー
少なくともカズデルに着くまでは持つだろう……「予想外のダメージ」を受けなければ、だが。
ウィシャデル
へえ、それってあたしへのあてつけで言ってるの?
元気そうじゃない、ヘドリー。
イネス
W、外の様子はどう?
ウィシャデル
……
今は呼び名についてとやかく言わないでおいてあげるわ。
イネス
そう、なによりね。それで、外の様子は?
ウィシャデル
城壁がド派手に燃え上がった直後に、ヴィクトリアの軍隊が一気に攻め込んで、一瞬にしてナハツェーラーの防衛線を破ったわ……
ヘドリー
ナハツェーラーの王は?
ウィシャデル
死んではいない。でも、もうロンディニウムの中に引っ込んでる。
パプリカ
……あの、ウィシャデルさん、将軍の情報はないんすか?
ウィシャデル
ない。たぶん死んだんじゃない?
パプリカ
……
ヘドリー
マンフレッドはそう簡単には死なないさ。
ウィシャデル
だけど、外のあの混乱具合には絶対裏があるわ。
部下たちが集めた情報だと、ネツァレムのジジイの陣営では騒ぎが全く起きていないそうよ。もう軍事委員会の敗北は明らかだっていうのにね。
たしかに、テレシスの奴を爆弾で消し炭にしてやりたいとは思ってる。だけど、それでも……
あいつの実力と抜け目のなさからして、軍事委員会がほんの一瞬で壊滅するとは思えない。
ヘドリー、計画を早めたほうがいいんじゃない?
ヘドリー
そうだな。「ライフボーン」の準備はできている。
摂政王の狙いが何であろうと……サルカズの掃討が始まる前に、巻き込まれた者たちを連れ出さねば。
イネス
ヴィクトリア人はそう簡単に見逃してくれないわよ。
ヘドリー
わかってるさ、だが……
ウィシャデル
チッ、いつからあたしたちは何をするにもヴィクトリア人にお伺いを立てなきゃいけなくなったわけ?
いいアイデアがあるの。
でも、それにはまず軍事委員会の司令部を奪わなきゃ。それも……「バベル」の名義で。
あんたたちは、ここであたしからの指示を待ってれば――
イネス
アイデアと計画は別物よ、W。だけど、その様子を見るに勝算はあるようね。
行きましょう、もう地下はうんざりだわ。
ウィシャデル
え、ヘドリーは動いて平気なわけ?
イネス
これくらいじゃ死なないわ。自分でそう言ってたでしょ。
ヘドリー
……ああ。
摂政王とナハツェーラーが聖王会西部大広間で何を企んでいるのかは知らないが、残っている者たちの生死を気にかけていないことは確かだろう。
だが、俺たちは見て見ぬふりをするわけにはいかない。お前のアイデアとやらは、あとでゆっくり聞かせてくれ。
ウィシャデル
フン、二人ともとんだ間抜けね。
毛糸玉ちゃん、あんたは?
パプリカ
一緒に行くっす! 将軍も司令部にいるかもしんないから……まだあの人に聞きたいことがたくさんあるんすよ!
でも、「ライフボーン」をここに置いてって平気なんすか?
ウィシャデル
お望みなら、運びやすいように粉々にしてあげましょうか?
ヘドリー
W……
ウィシャデル
ウィシャデルよ!
……まあ、心配しなくたって誰もこんな場所にあるなんて思わないわよ。それに、ここに近付こうとする奴がいたら、あたしの部下が始末してくれるから。
ウィシャデルは、今やすっかり荒廃した帝国君主の眠る地を興味深げにジロジロと眺めた。
ウィシャデル
それに、でっかい骸骨と墓場なんて、ピッタリの組み合わせじゃない?
イネス
……
ウィシャデル
イネス、通れそうな場所はあった?
イネス
どこも公爵連合軍の部隊に封鎖されているわ。だけど、攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
ウィシャデル
変ね、なんで軍事委員会の目の前に居座ってるわけ?
パプリカ
将軍はここの防衛態勢をすっごく重視してたっす。なのに、なんでこんなことに……
「グレーシルクハット」
将軍? あのマンフレッドという名の魔族のことかな? 恐らく彼は、あなたたちを見捨てて逃げてしまったのだろうね。
フン……公爵様の予想通りだ。軍事委員会の諜報員はやはりここに出入りしていたか。
ウィシャデル
誰が軍事委員会だって?
ヘドリー
俺たちはお前たちとやり合うために来たんじゃない、この戦争を終わらせるために来たんだ。
「グレーシルクハット」
……あなたの個人資料には目を通したことがあるよ。「マンフレッドの右腕」であるサルカズ……そんな者の言葉が、果たして信用に値するのかな?
ヘドリー
ならば、俺がどうやってマンフレッドの元から逃げたのかも資料に書いてあっただろう。
「グレーシルクハット」
失礼、大して重要ではないサルカズの資料を読み終えるほど、辛抱強くはないものでね。
連合軍兵士
上官、周囲の封鎖が完了しました。
「グレーシルクハット」
ご苦労。では、そこのサルカズの諜報員たちを始末してくれ。
司令部の情報を隠し持っていないか、しっかり調べるように。サルカズに不意を突かれるのはもうたくさんなのでね。
ウィシャデル
アハハッ、中が怖くて攻撃を仕掛けられないから、ずっと外で突っ立ってたのね!
そんなに怖いなら、あたしたちがお手本を見せてあげるわ。
イネス
W、このままヴィクトリア人とやり合うつもり? 私に任せてくれれば、全員を無事に撤退させられるわ。
ヘドリー
俺もWと同じ考えだ。ロンディニウムのサルカズに残された時間はもうわずかなんだ。
イネス、パプリカは任せた。強行突破するぞ。
イネス
……
もう好きにしてちょうだい。
黒い影がイネスの足元から伸び、包囲しているヴィクトリアの兵士全員の位置を捉えた。
だがすぐに、彼女は兵士とは違う影の存在を感知した。
イネス
……デルフィーン?
デルフィーン
彼らには手を出さないでください。
ウィシャデル
へえ、今回こそあたしたちを殺す覚悟を決めたのかと思ったけど。
デルフィーン
……
「グレーシルクハット」
はて、模範軍に我々への命令権などあったでしょうか? 私は公爵様からの命令を遂行しているだけですよ。ベリンガムのように「強制休暇」送りは御免なのでね。
サルカズをすべて始末せよ――それだけの命令です。
デルフィーン
彼らにも、私たちと共通のターゲットがいます。
サルカズも一枚岩ではないんです。
ヘドリーさん、あなたたちもナハツェーラーを倒すために来たんでしょう?
ヘドリー
ああ。サルカズにとって、ナハツェーラーの王は特別な存在であるとは言え……いや、だからこそ、これ以上活かしておくわけにはいかない。
ナハツェーラーの王と配下を迅速に壊滅させねば、ロンディニウムを離れることを迷っているサルカズを諭し、この地から連れ出すことは難しいだろうからな。
「グレーシルクハット」
……魔族どもを連れて逃げるつもりか!?
ウィシャデル
フン、それがどうしたっていうの?
デルフィーン
ヘドリーさん、あなたも彼らが犯した罪はよくわかっているはずです。
ヘドリー
……それについては否定できない。
だが、リーダーとその指揮を失ったサルカズの傭兵が各地へと散らばっていったら、どんな混乱がもたらされるのかも、俺にはよくわかっている。
しかも、戦争で血の味を知った傭兵たちだ。
デルフィーン
彼らを守りたいんですね。
ヘドリー
それと、サルカズがさらに大きな混乱を招くことも阻止したい。
デルフィーン
それをできる確信があると?
ヘドリー
俺の力では難しいだろう。だが、こいつなら、バベルならできる。
ヘドリーはウィシャデルを指さした。
ヘドリー
人の命を奪う最後の理由すら失った戦争は、すぐにでも終わらせるべきだ。そのことに、俺の今とかつての身分は関係ないだろう。
デルフィーン
……
わかりました、ここを通しましょう。
ロドスまでもが、あなたたちに全幅の信頼を寄せているというのなら……
「グレーシルクハット」
デルフィーン様、謀反を疑われたくないのなら、言動にはお気を付けください。
デルフィーン
あなたに言われるまでもありません。
シアラー少尉、彼らを司令部まで護送するよう、周辺の模範軍部隊に伝えてください。
そのついでに、他の連合軍部隊にも通信を入れておいてください――これはデルフィーン・ウィンダミアからの指令だと。
シアラー少尉
承知しました、ウィンダミア様!
「グレーシルクハット」
公爵方に責任を追及された際には、どうかきちんと責任を取っていただきたいものですね。
デルフィーン
私は、ここにいる大勢の人よりもずっとサルカズを恨んでいます。ですが、それでも今の情勢はちゃんと見えています。
ここに辿り着くまで、ロンディニウムはもう十分すぎる血を流したんです。
ヘドリー
協力、感謝する。
デルフィーン
いえ、あなたたちのために協力したわけではありませんよ。さあ、この戦争を終わらせてきてください。
……さて、あなたとはここで睨み合いを続けても構いませんし、ひとまず双方手を引き、最前線での戦いに備えることにしても構いませんが――
カスター公爵閣下の指示を仰ぐ時間が必要ですか?
「グレーシルクハット」
不要です。公爵様から決定権を委ねられておりますので。確かに、我々の主戦場はここではありませんね。
ですが、ここで起きたことは全てありのまま公爵様に報告させていただきますよ。
デルフィーン
お好きにどうぞ。
そのついでと言ってはなんですが、模範軍からの誓言もお伝えください。
――決戦の角笛に足る情報が戦場の隅々にまで届いた時、模範軍は迷うことなく先頭を切ると。
ウィシャデル
軍事委員会が大変なことになってるのは知ってたけど、司令部の護衛までこんなに手薄なの?
ヘドリー
ケルシー士爵とドクターが言っていたように、ローズ河畔の者たちが露払いをしてくれたのだろう。
ウィシャデル
マンフレッドたちはどこ? あたしの爆弾が怖くて逃げちゃったとか?
パプリカ
もし将軍がまだ……生きてるなら、場所は一つしかないっす――摂政王のとこっすよ。
ヘドリー
摂政王のほうは、ドクターたちがうまくやってくれることを信じるしかないだろう。
ウィシャデル、あとは頼んだぞ。
ウィシャデル
アハッ、マイク争奪戦が始まるのかって期待してたのに。
ヘドリー
前回のお前の放送は期待以上の効果だったからな。ウィシャデル、お前の……
ウィシャデル
……何よ、急にクソ真面目な顔しちゃって。まさか、またわけのわからないお説教でも始めるつもり?
ヘドリー
違う、そうじゃない。殿下がお前に残したその名前には、たくさんの意味が込められている。
ウィシャデル
わかってるわ。
あいつらが新しい声を求めてるのなら、遠慮なくやってやるわよ。でも――先に会場を温めないとね。
イネス
この司令部は撤退の指示を出すために必要なの。あなたの憂さ晴らしのために、爆破させるわけにはいかないわ。
ウィシャデル
爆破? そりゃもちろん、粉々にしてやりたいわ。建物が一つしかないから、思いついた方法をすべて試せないのが残念ね。
イネス
……W。
ウィシャデル
はぁ……落ち着きなさい、イネス。今回はまず空に向かってぶっ放すから。
あたしたちが誰なのか、何をしようとしているのか――それを全員に見せつけてやるためにね
コホン、全員よく聞いて。軍事委員会の司令部は、あたしたちバベルが占領したわ。
ウィシャデル
軍事委員会のバカどもは今てんやわんやで、ナハツェーラーのジジイを助けに行く暇なんてないの。
だから、あんたらみたいな腰抜けがこれ以上頑張ったところで時間の無駄よ。
もうさっさと終わりにした方がいいわよ。まあ、あたしの言葉を信じるかどうかはあんたたちの勝手だけどね。
それと、空を見上げるのを忘れずに。
「霊骸布」
宗主、あれは……
ネツァレム
軍事委員会の指揮は既に崩壊した。暫しの混乱は免れぬ……だが、一向に構わん。
長きにわたる抑圧によって、今までサルカズの心は麻痺していた。だが、この戦争が再び憎悪に火を灯したのだ。
その火は、一時の恐れや迷いでは消せぬ。
ナハツェーラーの王は空を仰いだ。ほんの一瞬ではあったが、熱情的な焔光が腐敗の幕を穿つのが見えた。
ネツァレム
新たな者がサルカズを率いるために立ち上がっているのなら、なおのこと。
「バベル」……
俺が初めて伝説の聖王会西部大広間を見たのは、十五年前、五十ポンド紙幣の上でだった。
その日は、俺が初めてレンチを握った日であり、初めて自分で稼いだ金を手にした日でもあった。
俺は痺れた手で、受け取った紙幣を揉み続けた。その背後では、工場の扉がゆっくりと閉まっていったが、俺には突然、この大地のすべての扉が開かれたように思えた。
かつて国王が座していた場所は、俺とは無縁の遠い存在だと思っていたのに、こんなに簡単に手の内に収まっちまうんだな、ってな。
「ビッグレンチ」
なんで急に止まったんだ?
模範軍兵士
この先が濃霧で覆われてしまっているからだ。ホルン隊長曰く、ナハツェーラーが中で何を企んでいるのかわかるまでは、無闇に動くべきでないとのことでな。
「ビッグレンチ」
でも、見てみろよ。道路に敷いてあるレンガが模様付きのに変わっただろ……大広間はもうすぐそこじゃないのかよ。
模範軍兵士
焦るな。まずは補給キャンプでまともな武器をもらって来い。この辺りを守ってるのは、サルカズの中でも特に恐ろしい連中だ。そんなレンチじゃ……
「ビッグレンチ」
このレンチはこれまでにサルカズの脳天を五つもかち割ってきたんだ!
俺はやれる。あんたが信じようが信じまいが、俺はやれるんだ。
こんな気持ちになったのは十五年振りだよ。今の俺なら……あの大広間だって攻め落とせそうな気がするんだ。ナハツェーラーの王の陣地だなんて知ったもんか。
模範軍兵士
……シッ、声を出すな。
「ビッグレンチ」
……どうしたんだ?
模範軍兵士
この辺りにまで霧が出てきた。みんなに知らせてくるから、君は安全な場所に隠れていろ。
モーガン
みんな聞こえた? 霧の中から音がするよ!
インドラ
ありゃ風の音だろ。ジムの窓を閉め忘れた時には、一晩中ああいう音がしてたぜ。
ダグザ
だが、仮に風だとしても、何かが風に吹かれて音を立てているはずだ! 旗か……もしくは、服がはためく音だ!
急いでヴィーナに報告を――
次の瞬間、無数の朽ちた布切れが濃霧の奥から現れ、灰色の潮のように都市の上空を覆った。
その中には、つい先ほど服から引き千切られたような布もあれば、千年にわたって憎悪で繕われ続けてきた軍旗もあった。
それらは代々ナハツェーラーの戦士たちの体を包み込み、腐敗を覆い隠してきた布であった。しかし今、それらの布は空を飛び回り、触れたすべてのものを腐敗させていた。
模範軍兵士
*ヴィクトリアスラング*、足に絡みつかれた!
ヴィーナ
よし、しっかり掴まっていろ!
身を隠せる場所を探せ! あの布から距離を取るんだ!
ホルン
あれに触れると刃も腐蝕するわ。白兵戦は避けて、術師に対応を任せなさい!
模範軍第一、第三術師部隊、私に合わせて一斉攻撃!
アーミヤ
……追い払えません!
Logos
打ち覆いは腐敗を湛え、弔旗は死を象る。形無きナハツェーラーの巫術にも規則性は存在しておるはず。
だがこの霧は、我にも読み解けぬ……
術で編みこまれたものでもなければ、自然に形成されたものでもない。
アーミヤ
つまり、これは彼らの新しい戦術なんですか?
Logos
ネツァレム自身、あるいはナハツェーラーそのものに……変化が生じておるのやもしれぬ。
ケルシー
ともあれ、外の戦場で踏み入った弔旗よりも危険と見て間違いないだろう。
他の部隊も恐らく同じ妨害を受けている。通信もほとんど繋がらない状況だ。
たった三百メートルの大広間でも、数千人規模の部隊を数日間は足止めできるだろうな。
Logos
すでに試みておる。
「普く規則は必ず解きほぐせるものである。」――この常軌を逸した弔旗にも、必ずやその根源があろう……
しばしの間、待たれよ。
クロージャ
霧の中で一方的にやられるのを……濃霧があいつらの食べ放題バイキングになるのを防ぐには……
一番いいのは、広場全体に信号中継器を設置することだね。もちろん、両側の曲がりくねった回廊にも漏れなく設置しなきゃ……
って、今からそんな大量の設備を用意するのは絶対に間に合わないけど、あたしに応急策があるんだ!
皆には秘密だが、実は俺は人を殺したことがない。いくつもの通りの鼷獣を徹底的に退治したことはあるが、人を殺したことはない。
それと、俺が体に巻き付けてるのはアーツを込めた打ち覆いなんかじゃなく、盗んできたモップの布切れだってことも皆には言ってない。
なんせ、ロンディニウムの下水道で必死に生きてたガキの頃、俺は自分以外のナハツェーラーに会ったことはないし、当然、ナハツェーラーのアーツを教えてくれる人もいなかったからな。
俺がモップの布切れで体をガッチリ覆っているのは、ヴィクトリア人に殺されないためでしかない。鼷獣を退治してくれる「モップ頭」は、少なくともサルカズより生かしとく価値があるだろうしな。
「モップ頭」
その、なんであんたらは体に巻き付けた布を全部取ってんだ?
ナハツェーラー戦士
腐敗を覆い隠す必要はもうないと、宗主が仰ったのだ。
「モップ頭」
そんじゃ、俺も取ったほうがいいのか?
ナハツェーラー戦士
もちろんだ、幼子よ。
「モップ頭」
あれ……なんで俺のはあんたらの布みたいに飛んでいかないんだ?
なんかのアーツが足りてないとか……
ナハツェーラー戦士
体内の腐敗が大地へと還るのを感じ、枯れた命が体内へ戻ってくるのを想像するのだ。
そして、それに狂喜せよ。
「モップ頭」
狂喜って……
俺のレンチがナハツェーラーをぶっ飛ばした。
みんながナハツェーラーを殺すことなんて不可能だって言ってたから、俺はそいつが動かなくなっても、ずっと必死にレンチを振り下ろし続けた。
その醜い体は、俺が想像していたよりもずっと脆かった。レンチで殴っていると、子供の頃、雪の下の枯れ枝を踏んで遊んでいた時の感覚を思い出した。
枯れ枝が足元で砕ける音を聞くと、なぜかいつも満たされた気分になる。まさに今、戦争そのものが、俺の勇気に応えてくれているのかだろうか?
ああ、いい気分だ。
「ビッグレンチ」
ほら、俺ならやれると言ったろ!
ナハツェーラーは死なないだって? どこからどうみても死んでるぞ!
バグパイプ
おじさん、気をつけて! ナハツェーラーの亡骸のそばにいたらダメっ!
ナハツェーラーの戦士の体は急速に干からび、色も形も完全に失われていった。
直後、濃霧が死者の生前の姿を型取り、亡骸を優しく抱え込んだ。
「ビッグレンチ」
……自然にじゃなく、自ら腐り落ちたのか? こんな一瞬で?
バグパイプ
はやくどかないと、うちらもその亡骸と一緒にナハツェーラーの栄養になっちゃうよ。
「ビッグレンチ」
*ヴィクトリアスラング*、ちょうど今ナハツェーラーだって大した化け物じゃないって思えたばかりなのによ……
バグパイプ
ウダウダ考えるのはやめよ! おじさんはどこから来たの? 故郷のことを想像してみるべ。太陽とか、干し草とか、ビールとか!
そうすれば、どこもかしこも腐ってるこんな場所でも、少しは気が晴れるからさ!
「ビッグレンチ」
俺はロンディニウム生まれだ! 故郷のもんっつっても、喉につっかえて飲み込めないサワーブレッドくらいしかないんだよ!
バグパイプ
それでもいいべ!
「ビッグレンチ」
ああ、俺もそれでいい!
Logos
死と腐敗は静謐を意味するものでありながら、「霊骸布」がこれほど騒々しく動けるとは。
もはやナハツェーラーはその本質を内に留めることなく、腐敗が蔓延るがままに任せておる。
うむ。溢れる水を両の手で受け止めきることはできぬ。
マーガレット
よし。もう大丈夫だ、かならず良くなる。
負傷した兵士
いってええええええ! こっ、これで本当に良くなるのか?
マーガレット
治療アーツを一気に施すとこうなるんだ、心配はいらない。
絶望する兵士
これを、俺の代わりに……渡して――うっ! あれ――
――痛く……なくなった?
ナイチンゲール
痛みから逃れるために死を選ばないでください。どうか耐えて。
痛みもいつかは必ず終わりを迎えます。
絶望する兵士
サルカズ……ありがとう……
マーガレット
リズの言う通りにしていれば問題ない。急性感染には激しい感情の起伏は禁物だ、どうか心を落ち着けてくれ。ほら、息を大きく吸って、吐いて――
シャイニング
ニアールさん、ドクターからの通信です。
マーガレット
ああ。たった今、負傷兵たちを連れて補給キャンプまで後退してきた。
シャイニング
とても衰弱していますが、他の負傷者の治療をするのだと言って聞きません。リズさんのことは私たちに任せてください。
ドクター、そちらは……
マーガレット
前線の支援が必要なら、すぐに教えてくれ。
わかった。
ナイチンゲール
……多くの人を救えば、腐敗の養分を絶つことにもなります。
それこそ使徒が今までやってきたこと……そうですよね?
ニアールさん、シャイニングさん、まだまだ休めそうにありませんね。
シャイニング
リズさん……
リズの青い羽獣がシャイニングの肩にとまり、小さく飛び跳ねながら、彼女の頬に柔らかな羽を擦りつける。
シャイニング
はあ、あなたときたら……
ニアールさん、どうしますか?
マーガレット
二人は皆を守ることに集中してくれ。敵は――
この盾と槍が引き受ける。
「ザッ、ザザァー」
「ザァーー」
クロージャ
ああもううるさいなぁ……通信に割り込んでくる霧なんて聞いたこともないよ!
干渉が酷すぎる。こんな伝送効率じゃ直接叫んだほうがマシだよ!
フェン
クロージャさん! 地面に中継器を設置すると、アンテナが霧で腐蝕してしまいます!
クロージャ
防護カバーをつけたらどうかな? カバーをつければ……
いや……ダメだ。こんな干渉下でカバーまでつけたら、今ある僅かな信号も届かなくなっちゃう。
フェン
私たちが中継器を背負うというのはどうでしょう?
背負っている人間が生きている限り、霧が先に機械を腐蝕することはない……そうですよね?
クロージャ
……
クロージャは、通信端末を力いっぱい握りしめた。だが、金属の角が皮膚に食い込む痛みは段々と弱まっていく。手足の感覚がなくなりつつあるのだ。
濃霧は平等にすべての命ある肉体を這い上がり、その生命を順々に腐敗させていく。
フェンの提案が何を意味するのか、クロージャにはわかっていた。だから、全力でそれを却下したかった。
しかし、彼女はそうしなかった。
クロージャ
わかった。中継器をお願い。あたしはここで基地局を守るから。
クロージャ
落ち着いて耳をすましなさい、クロージャ! 霧がナハツェーラーのアーツである以上、この音は絶対に意味のない雑音なんかじゃない……
規則性さえ見つけられれば、全部遮断できる!
うーん……
そっか、わかった! これは雑音なんかじゃない。ナハツェーラーの声だ!
肉体が朽ち果てようと、意識が消失しようと、ナハツェーラーの命は循環へと還る時、なおも狂喜の叫び声を上げていたのだ。
クロージャ
君たちが何をそんなに喜んでるのかは知らないけど、もうたくさんだよ!
これを……こうして……
「ザ、ザザ、ザー」
「ク……ロ……ジャ……ザザァー」
クロージャ
ちょっとだけ聞こえるようになった! でももうちょっと……
Misery
これでどうだ?
クロージャ
Miseryちゃん! はっきり聞こえるようになったけど、いったいどうやって……
Misery
俺の刃は霧を破り、信号の通り道を作り出せる。
クロージャ
さすが! これでみんなの声も聞こえるようになったよ――
ホルン
模範軍第三術師部隊、戦線の後方から湧き出すナハツェーラーの対処を!
「小公爵」
模範軍との共同戦線を断たれないように警戒してください!
ヴィーナ
広場両側の回廊の支柱部分にまで腐蝕が広がっている。じきに崩れるぞ!
デルフィーン
全員、落石に注意!
クロージャ
戦場全体が……
……一つに繋がった。
今の俺は人を殺したことがある。相手は、鮮やかな模様の頭巾を被ったヴィクトリア人の若い娘だった。
頭巾は色褪せ、その下の顔も歪んでいき、たちまち娘は俺が殺してきた鼷獣と大して変わらない姿になった。違いと言えば、こっちの方がもっと大きくて、もっと空っぽだってことくらいだ。
この娘の命はきっと俺の中に流れ込んだんだ。仲間がくれた背丈より長い大剣も、いつの間にか振るえるようになってた。
だけど、狂喜の感情はわき上がってこなかった。
「モップ頭」
はあーー!
ふぅー……お前も、腐っていく……
俺が腐らないと、あんたたちが腐るってことか……
な、なんだ!?
大きな爆発音が若きナハツェーラーの鼓膜を激しく震わせ、巨大な鋼鉄の甲冑が彼のそばを掠めていった。
すぐさま濃霧が甲冑に付着した残骸を摘み取り、灰白色の残りカスは蒸気と共に散っていく。
たちまち数体の「霊骸布」が飛来し、甲冑を取り囲むと斬りかかった。刃が鋼鉄の体躯を引っ掻く不快な音が、源石火薬の低いうなりをかき消す。
蒸気騎士
(激しい蒸気噴射音)
「霊骸布」
鋼鉄も、腐敗に帰す……
若きナハツェーラーは振り返ろうとするも、突如出現した重たい金属の足が眼前に広がる霧を蹴散らし、元々薄暗かった後方の視界を遮った。
キャサリン
みんなで何年もかけて作った「クローラー」だ。そんなにあっさり壊されやしないよ!
左前足、装甲板を補充!
フェイスト
主砲はまだ動くか? 二時の方向にもう一発頼む!
蒸気騎士に纏わりついてる「霊骸布」を引っぺがすんだ!
若きナハツェーラーが地面に倒れ込むと、冷たい血がモップの布切れに染みこんだ。まるで、彼は生まれながらにして汚れを拭うための存在であると告げているかのように。
しかし、自分はそんな人生でいいのだろうか?
その結論を出す間もなく、頭上に鉄槌が振りかざされた。
「モップ頭」
や、やめてくれ――
俺はまだ――
???
死にたくないのだな。
腐敗の波が目の前のすべてを呑み込んだ。振りかざされた鉄槌は力なく滑り落ち、地面に当たって粉々に砕け散る。
「モップ頭」
そ、宗主……?
す、すみません、俺、そんなつもりじゃ……
ど、どうかお許しください……逃げ出すつもりはなかったんです。ただ、ほんの一瞬だけ――
ネツァレム
……
未だ戦争を完全に理解できぬ者は、脱走兵と呼ぶ価値もなければ、当然、戦争に命を捧げる資格も持ち合わせておらぬ。
その方の戦争は、まだ訪れておらぬのだ。
去れ。
アーミヤ
霧が……薄まっています。
生きて霧の中から撤退できる負傷者が増えれば、ナハツェーラーの養分となる腐敗も少なくなるはず……
Logos
「散れ」。
ケルシー
随分と霧が薄まったな。
アーミヤ
ドクター、今までずっと息ができなかったんですか?
どうしてすぐに言ってくれなかったんですか。
ケルシー
だが、この状態はそう長くは続かない。シャイニングの報告によれば、他エリアに散らした霧も、こちらへと戻り始めているそうだ。
急ごう――
アーミヤ
ドクター!
ケルシー
Mon3tr!
Logos
「息を止めよ」!
懐かしい感じがする。
決して何かを思い出したわけではないが、自分の命が再び取るに足らない脆い存在と化したことを、はっきりと感じた。
所詮この命は野原の草と同じなのだ。死を前にすれば、無数に生えた草も、人も変わらない。皆等しく、翌年に芽吹く新芽の養分となる。
枯朽の波がアーミヤの黒い帳を破り、Mon3trの巨躯とLogosの呪文の障壁を越え、あなたに向かって押し寄せる。
だが次の瞬間、それは突如として動きを止めた。
ネツァレム
その方であったか。
その方は約束通り、この地に至った。
ケルシー
Mon3tr、構造強化! ドクターを守れ!
ネツァレム
やめよ、士爵。ここでその方たちと争うつもりはない。
ケルシー
ここが戦場であるとしてもか?
ネツァレム
なればこそだ。
その方たちはこの戦場には属さぬ。そちらがこの地に留まっている一分一秒が、我輩の戦場への冒涜となる。
ハッ! なんと傲慢な答えよ。
だが、構わぬ。我輩を育み、我輩によって育まれたこの戦争は、もう終わりを迎えた。
千年に渡って退屈に繰り返され、それが産み落とす痛みさえ麻痺していようとも……この戦争は最終的に目的を果たした。
今この瞬間、サルカズはようやく己が運命の舵を取ったのだ。
ケルシー
テレシスの手にある「アナンナ」は……
ネツァレム
テレシス? 否。千年もの間、この大地で散り散りになっていたすべてのサルカズが、共に「アナンナ」を掴み取ったのだ。
彼らは全員でこの戦争から力を、自由を、そして未来を手に入れるだろう。
そして、我輩の元には、この戦争の最も純粋な輝きが残る。目的などなく、ただ戦争そのものを湛えた残光が。
アーミヤ
目的がないのなら、どうして……
ネツァレム
異族の幼子よ、何故そうも性急に、己の見たくないものをすべて封殺しようとするのか。
戦争を悪とし、苦痛を誤りと考え、犠牲を浪費と捉えている限り、その方は破滅も誕生ももたらすことはできぬ。
アーミヤ
……それは、戦争の神から「魔王」へのご忠告ですか?
ネツァレム
よろしい! 少なくとも、その方は王を名乗る覚悟を得たようだ。
だが、これは忠告に非ず。我輩の戦争がサルカズの未来を勝ち取ったのだとしても、その未来について指図するつもりはない。
我輩は今、己が存在の本質を貫くのみ。
腐敗と誕生は、我輩にとっては大差ない。
だが、老いぬ士爵に異族の魔王、そしてその方を……我輩が裁くべきではなかろう。
行くがよい。テレシスが待っておる。
ナハツェーラーの王の背後に控えていたサルカズの軍は、静かに左右に分かれた。
白い霧、白い骸骨、白い打ち覆いの間に、一本の黒い道が現れた。
ケルシー
……ドクター
アーミヤ
ドクター、私たちがずっとそばにいます。
ケルシー
ロドスがこの混乱のために準備したすべては、この瞬間のためにある。迷う必要はない。
Logos
構うな。我の笛の音が濃霧を散らそう。
勝利の暁には、決着の悦びは我らだけのものに非ず。
あなたは、霧の向こう側に見え隠れするクローラーを、頭をもたげ天を衝く蒸気騎士を、肩を並べ戦う模範軍と連合軍を見た――
耳元では、クロージャとウィシャデルたちの通信がひっきりなしに響いていた――
大勢の者たちが同じ目標のために戦っている――
ネツァレム
アエファニルよ、その方は既に死の河を渡り、ほの暗き彼岸の燭火を見たのだろう。
去るがよい。もはやその方と戦う気は起きぬ。
すべての腐敗が大地へと還り、戦の銅鑼が静まり返る頃に、もう一度その歌声を披露するがよい。
その方の終点は、此処に在らず。
バンシーは何も言わず、ただ静かに首を振った。骨筆がゆっくりと浮かび上がる。
ネツァレム
ハハハ、よかろう。
……ラケラマリンよ、その方が羨ましいぞ。
ナハツェーラーの王は両腕を広げ、バンシーは骨筆を振るう。
血肉と骨によって織り成された幾千もの枝が、ナハツェーラーの体から芽吹く。幾千もの呪文がバンシーの筆によって刻まれ、腐敗と混ざり合い、輝きを放つ。
戦場に伸びる無数の枝が、ナハツェーラーの亡骸に触れていく。原形を留めていない古の「霊骸布」の骸も、まだ腐敗していない若きナハツェーラー肉体も、枯朽の花を咲かせた。
――そうして、ナハツェーラーたちは再び腐敗の中から立ち上がった。
――そうして、恐れなき者たちはバンシーの呪術の中を突き進んでいった。
聖王会西部大広間……いざ目の前にすると、正直大したことはなかった。
十五年前に紙幣で見た時よりも、それはさらに荒れ果てているような気がした。
そんなものよりも、両手いっぱいについた血と肉のほうが、よほど存在感がある。ここまで何人のサルカズの頭をかち割ったのだろうか。レンチも折れたことだし、きっと相当の数に違いない。
「ビッグレンチ」
見つけたぞ! きっとあれがナハツェーラーの王だ!
模範軍兵士
待ってくれ……もう歩けない……
ゴホッ、素手じゃ戦えないだろ。この剣を持っていけ。
「ビッグレンチ」
しょ、諸王の息――
俺の娘は、一緒にベッドに寝っ転がって、俺の腕をつねるのが好きだった。二の腕の硬い感触がおもしろいらしい。
そんなときには、娘の頭を撫でながら「お前も大きくなったら、パパみたいに鉄筋の束を担げるほど力持ちになれるぞ」と言ってやるんだ。
俺は山のように積み重なった枯れ枝に剣を突き刺しながら、てっぺんまで登った。
「ビッグレンチ」
だけど……どうやったら浮いてる敵に届くんだ?
蒸気騎士
(待ちわびたような噴射音)
ヴィクトリア!!!
蒸気騎士が死へ向かって突撃するのを見た。
鋭い笛の音が耳元で鳴り響くのを聞いた。
クローラーの絶え間ない砲撃で大地が震えるのを感じた。
空高くに浮かぶ、白く恐ろしい影が一瞬だけたじろいた。直後、蒸気騎士がそれ目がけて急降下し、ナハツェーラーの王を地面に叩きつける。
「ビッグレンチ」
ヤツは……もう目の前だ……
俺はたぶん、この戦争を好きになり始めてる――そこで、俺は枯れ枝の山頂から飛び降り、持っていた剣を力いっぱいナハツェーラーの王の体に突き刺した。
蒸気騎士の呼吸によって噴き出す熱波で、視界が焼け付いているようにすら感じた。
「ビッグレンチ」
……ハッ……ハハ!
ネツァレム
ヴィクトリア人よ……戦争から命を取り込むことを学んだのだな。
ならば今、その命を戦争へと還すことを学ぶがよい。
ハッ、てんで効かなかったらしい。
俺は遠くへと投げ飛ばされ、手足の、身体の感覚を失った。
ナハツェーラーの王が再び空へと舞い上がり、もう一度突撃を試みようとした蒸気騎士が、激しく入り乱れる白い布切れに包み込まれていくのが見えた。
呪術を操る奇妙なサルカズが、ナハツェーラーの王へと通じる長い道を紡ぎ上げ……
見知った顔が次々に、その死に満ちあふれた道を駆け抜け、どう考えても勝ち目のない敵へと迷わず突き進んでいく――
霧が少し晴れたのか、あの巨大な四足戦車が前進しているのも見える……あれ、あの金髪のクランタは誰だ?
それと、突然戦場に現れて、妙な音を立ててるあのアンテナは一体……?
それだけじゃない……あれは殿下――英雄ヴィーナ・ヴィクトリア、帰還せし国王だ……大勢の人々を率いて敵へと突っ込んでいくぞ……
「ヴィクトリア!」
戦争の終わりを見たような気がした。
ナハツェーラーの王の背に太陽が重なり、眩い光を放っている。その手前には、戦争の終結を切望する人々が集っていた――
だけど、俺にはもうこの続きを見ることはできない……そうだ、あの剣はどこに行ったんだろう?
愛する我が娘よ……ごめんな、パパはもう帰れそうにない。
テレジア
先生は、テレシスの戦争に賛同するのね。
たとえそれが、あなたを滅ぼすものだとしても……
ネツァレム
殿下、その王冠が我輩の結末を示したのか?
テレジア
いいえ。ただ、戦争の果てには滅びしかないと、互いによくわかっているでしょう。
ネツァレム
ハハ、滅びが怖いと?
原初のナハツェーラーが廃墟より這い起きた時から、我々は種族の運命を自覚しておる。
「我こそが万物の終着点なり」。
遙か昔より、「戦争」と言う名の巨石は我々の頭上にあった。「時間」と言う名の坂の上で、我らにできるのはそれを精一杯押し上げることのみ。
だが今回、テレシスはこの円環を終える機会を約束したのだ。
その方もかつて約束してくれたことを、覚えているか?
テレジア
ええ、軍事委員会が成立した時の会議で。
だけど、私たちは別の道を見つけたの。
ネツァレム
……
ならば証明して見せよ。我輩はいつまでも待とう。
しかし、その方の道では終着点に辿り着けぬとしても、我輩はサルカズのために別の道を切り拓こう――
テレジア
あなたの感情が見えるわ。その道を歩むのが待ちきれないのね。
ネツァレム
いかにも。二百年前のあの一戦から、我輩はもうあまりにも長く待ち続けたのだ。
さらばだ、殿下。その方と摂政王の争いは、この目でしかと見届けよう。
テレジア
……バベルは戻って来るわ、先生。
ネツァレム
それを疑ったことはない。その方の……テレジアの約束であるがゆえ。
テレジア
……
さようなら、先生。
黎明の光が、聖王会西部大広間のてっぺんから降り注がれた。
霧が散りゆき、戦争が作り出した無残な光景が露わになる。
ヴィーナ
霧が晴れた。
モーガン
ナハツェーラーの王も……いなくなってる。
ダグザ
私たちが勝ったのか? あいつは死んだのだな?
インドラ
……たぶん?
デルフィーン
息が詰まりそうな圧迫感は、まだ残っていますが。
ヴィーナ
……慣れるしかないさ。これから、やらねばならないことがたくさんあるからな。
しかし、その朝日は帰郷者に懐旧の念を抱かせず、戦士たちに新たな夜明けを予感させもしなかった。
血のような朝焼けが、積み重なった屍を染めていく。
フェイスト
俺らのロンディニウムの日の出って……こんなんだっけ?
キャサリン
いや……一度だってこうじゃなかったさ。
やがて冷たい朝日は、その真っ赤な輝きを遥か彼方の地平線へと向けた。遠くの山脈が赤く染め上げられ、どこまでも続く屍の山のように見える。
時折かすかな歓声が上がったが、それもすぐに止んだ。輝かしい勝利がこんな姿だと、一体誰が想像できただろうか?
マーガレット
終わったか。
シャイニング
ですが、本当の意味で戦争を殺せる人など、いるのでしょうか?
ウェリントン公爵
戦争を殺せる者などいない。
殿下、まだ奴の気配を感じますか?
エブラナ
残念ながら、奴は死に身を捧げたようだ。しかし、あなたの言うとおり、戦争を完全に終わらせることなどできやしない。
奴が去ったのは、この戦争が終わったからというだけに過ぎん。
公爵閣下、本音を言うと奴が羨ましいよ。
己の戦争を楽しむためだけに、これほど大勢の者を付き合わせたのだから。
ウェリントン公爵
……
どうやら私はまた、尊敬する好敵手を一人失ったようですな。
パプリカ
……
ウィシャデル
チッ、あのジジイが死ぬなんてね……
ヘドリー
向こうに構っている余裕はない。ヴィクトリア人によるサルカズの掃討が、いつ始まるとも限らないからな。
イネス
ずいぶんと思いつめた顔をしているのね。
ヘドリー
いや、ただ一つだけ……わからないことがあるんだ。
次にこの大地の運命を書き換えるような戦争が起きた時、もしかすると――
いや、きっと俺の考えすぎだろう。
静寂の中、物寂しい骨笛の音だけが、この地下にある漆黒の玉座の間へと流れ込んでくる。
バンシーが死者のために奏でる挽歌だ。
マンフレッド
摂政王殿下、あのお方が逝ってしまわれたのでしょうか?
……挽歌が聞こえますか? あなたの計画とは、いったい……?
返事はなかった。この戦争をもたらした張本人であるサルカズの摂政王はここにはいない。
マンフレッドは目を閉じる。まぶたの裏に、地平線の遥か彼方へと向かって逆流する血の川を見た気がした。
この暗がりの中では、無数の伝説を残したかのサルカズの英雄の結末を確かめることすらままならない。
だが、彼の脳裏にとある光景が浮かんだ――
戦火が再びカズデルを滅ぼそうとした時、地平線の彼方にある山脈の間から、死が歩み出る光景を。