剣を失くした剣客
番頭
お客さん、もうここにきて二日も経ってるね。
一人酒を飲む剣客
ああ、分かっている。
番頭
待ち人にすっぽかされたかね?
一人酒を飲む剣客
何かあって、遅れているのかもしれない。
番頭
あんたがここで待つのは勝手だが、うちも店を閉めなきゃならんのだよ。
一人酒を飲む剣客
もし俺があんたの店の卓を一つ占領しているのが気に食わないのなら、今すぐに出て行くさ。
だがそれでも店の入り口あたりで待たせてもらう……彼女との約束の場所はここだからな。
番頭
いや、気にせず座っててくれ! そんなつもりじゃなかったんだ。俺たちももう結構な付き合いになるだろ?
初めてあんたに会った時の俺は、ただの給仕だった。ところが気づけば、この茶館の番頭だ。
それにしてもあんたも変わった人だよな。剣客ともあろうものが、毎年……おっとまた忘れちまった、あんたは姜斉の人だったか? それとも玉門だったか?
一人酒を飲む剣客
決まった住まいなどない。天地の間が、我が家だ。
番頭
だがこれだけははっきりと覚えてるぞ。あんたは毎年秋のこの時期になると、わざわざこの小さな町の茶館に来て、ある人物と会う――今年でもう何年目だ?
一人酒を飲む剣客
七年になる。
番頭
七年か……あんたらは会ってもいつも茶を飲んで話すだけだ。恋人同士でもなければ、友人同士でもない。あんた、あの子の名前すら知らないんじゃないか?
一人酒を飲む剣客
互いに深く詮索しないと最初に取り決めてあるんだ。
番頭
なんとも奇妙な話だな……
あんたの待ち人ってのは、一体何者なんだろうな?
一人酒を飲む剣客
さぁな……
俺はこの生涯、様々な人間と付き合ってきた。卑怯者に、悪人に善人、愚か者……多くを見てきた結果、人とはそう難しいものでもないと思うようになった。
だがあいつのことだけは、いまいち分からなかった。
……そこの嬢ちゃん、あんたの剣が当たって俺の茶杯が落ちた。
この店は狭い。剣を持ち歩くなら、きちんと収めておけ。
剣を帯びた女性
たかが茶の一杯だ。弁償してやれば文句はないだろう。
ついでに酒を壺一つやろう。これでもう私たちは友人だな。
友人になったからには、お前に剣を教えてもらう。
俺に? はははっ……
誰かと勘違いしているんだろう、俺はただの商人だ。夕城まで荷を運ぶ道すがら、偶然この町を通りかかって茶を飲んで一休みしているだけだ。剣客でも何でもない。
俺のどこを見ても剣などないだろう? 剣を持たぬ剣客などいるはずもない……
剣を帯びた女性
とぼけるな。頷いてもらうまで逃しはしないぞ。
慌てる給仕
おいおい、嬢ちゃんよ。店の卓を叩き切るなんて一体どういう了見だ? 他のお客さんが怖がって逃げちまったじゃないか……
剣を帯びた女性
黙れ。
壊れた物は、あとでちゃんと弁償する。友人との話を邪魔しないでくれ。
これ以上わめくなら、お前も斬る。
慌てる給仕
わ、分かったよ……
……嬢ちゃん、そいつは筋が通ってないな。
剣を帯びた女性
筋を通すことに何の意味がある? 江湖を思うままに渡る方がよっぽど面白い。
だがそうして江湖で好き勝手をしようというなら、それなりの腕がいる。
お前の優れた剣の腕は知っている。だから教えてもらいたいんだ。
はぁ……
剣を学びたいのなら、一足遅かったかもしれん。
俺の剣は失ってしまってな……
……あれを失くした時に、俺は誓ったんだ。きっぱり足を洗って、二度と江湖には関わらないようにしようと。
剣を帯びた女性
剣を失くした?
ああ。
剣を帯びた女性
いつのことだ?
昨夜だ。
この町に腰を落ち着けて間もなく、一晩過ごしたら、剣が消えていた。
確かに突然消えたんだ。盗人にやられたわけじゃない。そもそも俺の物を持ち去れる盗人などいないからな。
剣を帯びた女性
それはどんな剣だった?
良い剣だった。
長年共に過ごしてきた。あの剣がなければ、俺はあれだけの商売はできなかったし、今のように江湖で名が知られることもなかっただろう。
剣を帯びた女性
それほど大事な物なら、急いで探しに行くべきじゃないのか?
いいや、逆だ。探しに行くわけにはいかない。
剣を帯びた女性
なぜだ?
今までずっと、俺は剣を振っては清め、また剣を振る。悪夢を見ては、また目覚めることを繰り返してきた……まるで俺の人生にはそれしかやることがなかったみたいに。
剣は自分が浴びた血の臭いなんぞ覚えちゃいないが、俺はその罪から逃れられない……さっきからずっと考えていたんだ。あれを失くしたのは、まさに天からの警告じゃないかと。
俺はあの剣を手放したい。剣がもたらした身分と決別するんだ。別人になるのも、どこかで独りで余生を過ごすのも悪くない。もう江湖からは身を引いて、これまでの人生にけじめをつけたいんだ。
だから嬢ちゃん、あんたに教えられない。
この小さな茶館で会ったのも、何かの縁だ。お節介だと思わないでくれるなら、一つ忠告しておこう……剣を学ぶのはやめておけ。江湖には踏み入るな。
剣を帯びた女性
お前に剣を捨てるのは無理だ。
なぜそう思う?
剣を帯びた女性
お前は嘘をついているから。
憎み合い殺し合うことにはうんざりしているが、心の底では自由気ままで、愛憎に正直な江湖の日々を手放せずにいる。
足を洗うための口実が欲しかった時に、剣を失くしたことがたまたまちょうどいい理由になっただけだ。
まるで、俺のことをよく知っているような口ぶりだな……
剣を帯びた女性
賭けをしないか? 来年のこの時期に、またこの茶館で会おう。
お前は望み通り、一年間剣を使わぬ生活を送ればいい。
そういう暮らしの方が楽しいだと感じたなら、もうお前に付きまとわないし、剣術を教えてくれなくてもいい。
だがお前が教えてくれなくても、自分で身につけることはできるんだ。
ははは……いいだろう、約束だ。
剣術を教えるかどうかはともかく、次に会った時には、俺が酒をおごってやろう。
二年目
もう来ていたのか……なぜ茶館に入らない?
剣を帯びた女性
慌てるな、まだ入らなくていい。
ん?
剣を帯びた女性
この一年、自分なりに毎日剣術を磨いて、多くの技を編み出してきた。今から演武をしてみせるから、それを見ていてくれ。
教えてくれる必要はない、ただ見ていてくれればいい。
はは……そうか。いいだろう
では、どうぞ。
剣を帯びた女性
ふぅ……これで終わりだ、感謝する。
なぜ俺に礼を言う?
剣を帯びた女性
お前のような達人がいてくれてこそ、どの技に改良の余地があり、どの技を見直す必要があるかが分かるからな。
口に出して教えてもらうことはなくても、ただ技を繰り出した時のお前の反応に注意しているだけでいい。
どの技の出来が良く、どの技に穴があるか、お前の表情からそれがすべて分かる。
お前はもう剣を握りたくないと言うが、まだ見ぬ剣技を見た時の、まるで酒を前にした酒飲みのような顔は少しも隠せていない。
そんな性格では、江湖を渡り歩く時に損ばかりで難儀するだろう。
ははははっ、まったく嬢ちゃんの言う通りだ。
面白い……クッ――
剣を帯びた女性
ほら――薬だ。
お前なら我慢し続けると思っていたが。
笑って傷口が開いたもんで、我慢できなくなっただけだ。
剣を帯びた女性
どこで受けた傷だ?
ここへ来る前、姜斉で今季最後の貨物を客に引き渡した後に、町を出たところで一団に引き留められた。
剣を帯びた女性
敵討ちか?
ああ。
数年前、俺はある仕事を引き受けた……後になって気づいたんだ。その時に俺の剣で命を落とした男を、俺は残忍な金持ちだとばかり思っていたが、実際にはその男も多くの者を助けていたのだと。
連中はその男の家族でもなければ友人でもなかったが、仇を討つだけの理由があった。
きっと長年俺に目をつけていたんだろう。俺が剣を失くし、しばらく武術を用いることもなかったと確認して、ようやく手を下す気になったんだろう。
……やっとの思いで逃げて、あんたに会いに来られた。
剣を帯びた女性
この一年で、どれだけの復讐者に狙われた?
数えてやいないよ。
剣を帯びた女性
ずっと逃げ続けてきたのか?
逃げなければ殺されるだけだろう?
剣を帯びた女性
お前なら剣を使わずとも、その程度の小物は訳ないだろうと言いたかったんだ。
報復の連鎖に終わりはない。今いる仇を殺しても、また新たな仇が生まれるだけだ。殺しで復讐の連鎖を断ち切ることはできない。
より泥沼にはまっていくだけだ。
剣を帯びた女性
だからどうした?
江湖とはそういうものだろう? 心のままに恩は返し、仇は討つ。そこには恨みも悔いもない。いつの日か剣が鈍れば、より強い相手に敗れる。それで死ぬなら、そこまでのことだ。
人の世の悪辣さも、江湖の風景も経験する。そんな暮らしのどこが悪い?
大体、今のお前のように名を隠し、息をひそめてこそこそ生きることが、お前の望みなのか?
俺は剣を失くしたことはやはり天からの警告だったと思うんだ。
剣を帯びた女性
(肯定も否定もせずただ口元を歪める)
急かす給仕
二人とも、中へどうぞ。
茶がはいっているんだ。急がないと冷めちまうぞ。
剣を帯びた女性
入ろう。茶を飲んだらもう行っていい。
しかし、今来たばかりだが……
剣を帯びた女性
この一年で私の剣の腕は大分上達したが、お前はまだ自分が剣を手放した後どう生きるべきかを見つけていない。去年の賭けは、私の勝ちだ。
来年また会おう。
……分かった。
三年目
剣を帯びた女性
まだ生きていたか。
この一年はどうだった? 見たところ傷はそこまで増えてはいなさそうだ。敵討ちが減ったか、それとも逃げ足が速くなったか?
四年目
剣を帯びた女性
「船に刻みて剣を求む」だと? ははは……この世にそんな間抜けがいたとは。
しかし言われてみれば、私はまだ船を見たことがない。荒れ狂う大河も、逆巻く海流も見たことがない。
「天に接する蓮葉は無窮の碧」とは……一体、どのような景色だろう?
……
五年目
剣を帯びた女性
来年にまた会おう。
……
六年目
……
剣を帯びた女性
おい!
ああ、来たか。
剣を帯びた女性
お前の背後から二寸もない距離まで迫っていたのに、ちっとも気づかなかったな……私に殺す気があれば、とっくに終わっていたぞ。
やりたいなら、今からでも遅くない。
剣を帯びた女性
ふん、さっきまで別のものに気が向いていたな……何を隠しているか見せてみろ!
おい――
剣を帯びた女性
布告、懸賞、指名手配……
「渡魂剣(とこんけん)」……これがお前と、かつて持っていた剣の通称か?
ああ。
剣を帯びた女性
口では剣や技から逃れたいだの、この数年で少しずつ江湖から身を引いていくだの言っていたくせに、結局こんなにやらかしてきたのか?
俺じゃない、「渡魂剣」がだ。
剣を帯びた女性
どういう意味だ?
この数ヶ月間、長年沈黙してきた「渡魂剣」が再び江湖で活動し始めた。姜斉、琅珆、尚蜀、龍門……多くの移動都市にそいつの痕跡が残されてきた……
あるいは、殺人事件と言うべきか。
去年にも話したが、いくつかの薬草産地の収穫が芳しくなくてな。今年はそのせいでてんてこ舞いだった。いくつかの得意先に借りた金を、なるべく早く返したくてな。下手人は俺じゃない……
剣を帯びた女性
つまり、誰かがお前の名を騙って悪事を働いたり、あるいは直接お前に罪をなすりつけたりしたということか?
なぜそんなことをする?
この道に入って二十余年、俺は表の仕事も、裏の仕事も引き受けてきた。俺に関する布告やかけられた懸賞は数知れないが、一つだけ確かなことは――
相手の目的が世間の注目を集めるためだろうが、己の真の目的を隠すためだろうが……「渡魂剣」という名前は不足ないということだ。
剣を帯びた女性
……
つまり、「渡魂剣」は江湖から身を退くことなど、永遠に叶わないと。
笑えるだろ?
剣を帯びた女性
名前がそんなに気になるか?
俺の剣がなくなってからもう六年になる。あれは厄介事からなるべく離れろという、天からの警告だった……ほとんど成功しかけていたってのに。
最初に江湖に足を踏み入れた頃は、武芸者の社会において剣一本で食っていけるだけなら十分で、ついでに善行もできればなお良いと思っていた。だが次第に、自分の意志ではどうにもならなくなっていった。
今日になってようやく気づいた。江湖ってのは渦だ、巨大な渦なんだ。そこから抜け出す方法はただ一つ――
初めから足を踏み入れないことだ。
剣を帯びた女性
辛いんだな……
そんなお前を見るのは初めてだ。
そうか? かもしれないな。
……俺の話はもういい。あんたのことを聞かせてくれ。
剣を帯びた女性
私?
……さっき近づいてきた時、あんたは俺を殺すことができた。
この数年で、見違えるほどに腕が上がったな。
秘伝書も、師の存在もなく、この町には手合わせ相手になるような剣の使い手すらいない。だがあんたは己の才知だけでその域にまで達した……
それに俺の身に起きたことに対し、驚くことも戸惑うこともなかった。心の修練もまた、常人を遥かに超えている。
初めて会った時、俺は自分の経験から、剣を学ぶことをやめるよう軽率に勧めた。だがひょっとしたら……
あんたこそが真の天才で、はなっから江湖にいるべき人間なのかもしれない。
この小さな町を出て、外の天地を旅するべきだ。
剣を帯びた女性
その通り。
それは、私が必ずや成し遂げねばならないことだ。
嬢ちゃん……
剣を帯びた女性
なんだ?
正直に言えば、あんたの今の腕なら、江湖全体を見渡してもそこらの達人相手には十分通用する。もうこの町で燻ることもない。本気で旅立つつもりなら、早い方がいい。
これもせっかくの縁だ。あんたさえよければ、これを贈ろう――「渡魂剣」という名を。
継承者を名乗っても構わないし、本人だと自称してくれてもいい。証拠となる物も渡しておく……江湖は危険な場所だ。この名があれば、何かと便利だろう。
行きな、嬢ちゃん。年に一度会う約束も、今回までとしよう。
剣を帯びた女性
まだその時じゃない。
なに?
剣を帯びた女性
その、まだこの町から出る方法が見つからなくてな……だが直に見つかるはずだ。
言ってる意味がよく分からんが……
剣を帯びた女性
渦に引き留められているのは、お前だけじゃないってことだ……来年にまた会おう。
番頭
もう二刻も過ぎてるよ。約束の時刻はとっくに過ぎてるんじゃないかい?
剣客
……あいつが約束を破ったことはない。
番頭
帰らないのか?
剣客
もう少しだけ待つ。すまんな。
番頭
はぁ……
お客さん、やっぱりもう待つのはやめときなよ!
剣客
さっきから何か言いたげだな。番頭、何か知ってるなら、教えてくれ。
番頭
あんたの待ってる娘は、今じゃいくつもの殺人事件の犯人になってるんだ。
とにかく町中めちゃくちゃにするもんだから、誰も彼も怯えちまって、昼間でも誰も外に出たがらない。うちの茶館も客足が遠のいちまって、がらんとしてるのに気づかなかったか?
少し前に、ようやく天師府から来た天師がここを通りかかってな。事件のことを知ってからは、全力で犯人を追いかけてる。
だから……ここへは来られないかもしれないんだ。
剣客
あいつは偏屈で、少し気難しいところはあるが、悪い奴じゃなかった……
一体何があったんだ?
番頭
噂じゃ、希代の秘伝書を巡って争っているそうだ。武術をさらに上達させるとか、他にも何か効果があるらしい。具体的なことはよく分からんが……
剣客
……実は、ずっと前から腑に落ちなかったことがある。
番頭
何だ? 言ってみな。
剣客
あいつが持っていた剣は、尋常の物ではなかった。
俺の知る限り、この町に武を修めた者はいなかったはずだ。
この世間から隔絶された小さな町で、地元育ちの娘が、どうやって剣術や江湖のことに触れて、あそこまで執着するようになった?
番頭
地元育ち?
いやいや、あの子は地元の子じゃないよ。いきなりこの町に現れたのさ。あの子の名前や、どこから来たのかは誰も知らない。
剣客
番頭、そいつが現れたのはいつだったか覚えているか?
番頭
そうだな……あんたが初めてここへ来た日と同じ頃だったかな。
剣客
……あの時、俺は剣を失くしたばかりだった。
番頭
そ、そりゃどういう……
剣客
――!
剣を帯びた女性
お前はリン・チンイェンだったな、なぜこうもしつこく追い回してくる?
リン・チンイェン
邪なるものめ、多くの悪事を働いた以上、潔く罪を認めて縄につくべきです。
剣を帯びた女性
お前に何が分かる!
リン・チンイェン
確かに疑問は数多くあります。宗師の『武典』が一体なぜこの町に現れたのか。どうしてあなたがそれを奪おうとするのか……
ですが捕えないことには、あなたは口を割りはしないでしょう。
剣を帯びた女性
無駄話はやめて、さっさと来い――
剣客
約束を破ったな。
剣を帯びた女性
もう行ってしまったと思っていた。
リン・チンイェン
……
「渡魂剣」の鄭愁(ジェン・チョウ)ですね?
剣客
天師府に関わるような仕事をした覚えはない。
リン・チンイェン
天師府、リン・チンイェンです。大理寺に務めていた頃にあなたの分厚い資料は読ませていただきました。この数年、江湖から急に消息が途絶えていましたが、まさかこんなところに隠れていたとは。
剣客
巡り巡って、こんな場所で俺の素性を知る大理寺のお役人に出くわすとは。足を洗うと言っておきながら、やっぱり笑い話になってしまったか。
リン・チンイェン
あなたたちは手を組んでいるのですか?
剣を帯びた女性
その男と? 何を言っている。分厚い資料とやらにはのってなかったのか。そいつは足を洗ってから、もう七年になる。
その男はこの秘伝書とも、今回の件とも無関係だ。
リン・チンイェン
しかし、彼はあなたを庇おうとしています。
剣を帯びた女性
私を庇う? 無用だ。
リン・チンイェン
……
剣客
嬢ちゃん……
剣を帯びた女性
どけ、私一人で相手できる。
剣客は動かなかった。
剣を帯びた女性
お前はようやく自分の剣と、それがもたらした身分から逃れ、丸々七年もかけて今までの人生に区切りをつけたんだ。それをこんなところで無駄にする必要はない……
私たちは所詮、偶然出会っただけの関係だ。
剣客
初めて会った時に、お前は言ったな……俺にあの剣を捨てるのは無理だと。
もっと直接言えば良かっただろ。そいつは今もずっと俺のそばにいると。
剣を帯びた女性
なに?
剣客
俺はこの町で剣を失くし、それからお前に出会った。お前はまるで生まれながらに剣を知っているかのように、俺の僅かな反応も観察して、剣術を磨いていった……
それも当然だ。お前と俺はかつて常に一緒だったのだから!
あの時何が起きたのか、お前がなぜそこまでするのか、俺には分からんが……
剣を帯びた女性
ふふっ、本当に間抜けだな。今頃ようやく気づいたか。
考えてみれば笑える話だ。去年に会った時、お前は「渡魂剣」という名まで私に譲ろうとした……それが私だったのに。
剣客
……
剣を帯びた女性
ここは妙な町だ。まるで空気そのものに不思議な力が宿っているように、器物が何かの影響を受け、精神を宿し、器鬼に変わる。
町中を歩く人の内、十人に四人は茶壷や扇子や石といった器物から生まれたものかもしれない。
いつはぐれたのかは忘れたが、気づいた時には、今のこの姿になっていた。
それで探し回った末に、あの茶館でお前を見つけた。お前は悠々と茶を飲んでいて、少しも焦っている様子はなかった。わざと近づいて注意を引こうとしたら、お前はこう言った……
剣客
剣を失くしたのは、天からの警告だったと。
嬢ちゃん、いや、渡魂剣。いや、どう呼べばいいものか……
俺は……
剣を帯びた女性
はぁ、うじうじするのはよせ。
手が血に塗れた剣客が改心しようとしているんだ、お前の考えは間違ってない。そこのしかめっ面の天師に話してやれば、「善これより大なるは莫し」と感嘆してくれるかもしれないぞ……
私はただ、あの時ふと気づいたんだ――
お前が倦んだ江湖を、かつて共に見て、歩んできたが……私は、この身でそれを体験してはいなかったということに。
だから、私は武を学び、剣術を磨き、自らが剣客となりたいと思った。この広い江湖を、再び渡り歩きたい――私自身の名で!
……だが器物が化けた器鬼が、この町から離れることは永遠に叶わない。
私は何度も試した。東の川、西の橋……だがこの町の端には、まるで器鬼だけを阻む壁が立っているかのようだ。
剣客
あの時、あんたが「まだその時じゃない」と言ったのはそういうわけか……
リン・チンイェン
……やはりそうでしたか。
あなたが『武典』を奪ったのは、宗師の技や型の中から、この町が器鬼のために築いた「障壁」を突破する方法を探そうとしたからですね。
そうなると、どうにも妙ですね。宗師の正体を知らぬはずのあなたが、なぜ彼の著作にそのような効果があると思い込んだのか……器鬼の性格を利用して、事件を起こそうとした何者かがいます。
剣を帯びた女性
天師様、推理は終わったか?
リン・チンイェン
ええ。
あなたが器鬼であることは想定していましたが、まさか「渡魂剣」ジェン・チョウとの間にそのように不思議な因縁があるとは……しかし、それはあなたの罪を裁く際の酌量理由にはなり得ません。
書物を奪うために多くの事件を引き起こし、人にあだなしたのですから、当然罰を受けるべきです。
おとなしく縄につきなさい。でなければ雷法の下に、器も魂も滅びることになります。
剣を帯びた女性
縄につけだと?
秘伝書はもうこの手の中だ。じきにそれに秘められた奥義を解き明かし、ここを出られる……このために七年も努力してきたんだ!
持ち主も鞘もない剣の切っ先を誰が止められる?
止めたくば、へし折るがいい!
リン・チンイェン
ならば……
心静め力巡らせば、天雷自ずと来たる。
リン・チンイェンの声はとても小さかったが、まるで天地全体が天師の号令に応えているかのようだった。明るかった空が突如として陰り、暗雲が立ち込め、まばゆい稲妻が彼女の掌に集まっていく。
剣客
リン天師、俺はなぜこうなったのかよく呑み込めちゃいないが……こいつがやろうとしていることは、決して理解できないものじゃない。罰するほどのことでは……
こいつは俺の剣だ。俺が共に責任を取る……
剣を帯びた女性
どけ!
リン・チンイェン
痴れ者が!
彼女が自由を求める心は、分からなくはありません。
しかし剣の器鬼であるなら、凶気を持つはず。事によっては己にも制御できないのかもしれない。だから願いが切実であるほどなおさら外へは出せません。無辜の民が多く傷つく恐れがあるからです。
そしてあなたは……
剣を失くしたことを啓示と捉え、過去の因縁を断ち切り、江湖から身を引くと誓いを立てた、そこまではよいことです。ですが足を洗うと言ってから、もう七年にもなりますね。
本当に身を引けたのでしょうか。恨みとは谷に雪が降るが如く、積もるほどに根深くなるもの。とはいえ本気で抜け出ようと決めたなら、必ずや成せるはずです。
もしかしたら彼女の言う通りかもしれません……あなたは本当に心の底から剣を手放したのですか?
剣客
……
リン・チンイェン
これ以上の言葉は無用です。大理寺少卿としても、天師府のアーツを継承した者としても――この雷は、落とすべき時に落とすのみ!
……
暗雲と落雷が消え散り、剣を手にしていた女性の姿もなくなり、天地は再び澄み渡った。
リン・チンイェンは気づいた。女性が立っていた場所に、素朴な装丁の一冊の書籍が横たわっていることに。その頁が風に煽られてめくられると、扉に記されていたのは――
『武典』。
リン・チンイェン
(『武典』を玉門から盗み出した者が、この町にいるのかもしれない。その者の目的は一体……)
(今のところ手がかりはない。ひとまず、『武典』を回収しなければ――)
ワイ・テンペイ
ハハハハッ、ここにあったか!
探したぞ!
リン・チンイェン
……ワイ・テンペイさん?
剣客
……
瞬きの間に、通りに残された人間は剣客一人となった。
彼は茫然とその場に立ち尽くしたまま、しばらく黙り込んでいた。
番頭
なんとまあ、この騒ぎは……お客さん、どうかしたかい?
剣客
俺は……
俺は剣を手放した。
剣客
そろそろ行かねば……
年に一度会うことも……もう二度とない。
???
そこの方、お尋ねしてもいいでしょうか……
剣客
あ、あんたは……
眉尻を下げる女性
私を知っているんですか?
剣客
いや……
眉尻を下げる女性
道に迷ってしまったんです。どうやってここに来たかも分からず、しばらく待っていたところにあなたが通りかかったものだから、道を尋ねようと思いまして。
剣客
(あの時にリン天師が言っていたのは、そういうことだったのか……)
リン・チンイェン
あなたは心の中で、本当に剣を手放したのですか?
剣客
……
それには答えられない。
だがリン天師、あんたはあまりに無情すぎる。
リン・チンイェン
無情ですって?
まだ彼女のため、情けにすがるおつもりですか?
剣客
一年に一度会うのも、もう七年目だった。これまで、俺は自分があいつをなだめているとばかり思っていたが、あいつになだめられていたのは俺の方だった。
認めるよ、俺は愚か者だ。とっくに剣を手放したのに、何度も何度も拾い上げてきた。
自分が何に未練を抱いているかも、何を恐れているかも分からんが……それこそ、これから明らかにすべきなのかもしれない。どこか辺ぴな寂れた村か、あるいは大理寺の獄中でな。
こいつがこの町で起こしたすべての損害は、俺が弁償する。それから自首しよう。だがその前に、頼みがある……
剣を帯びた女性
……
(錯乱しながら何かをつぶやく)
リン・チンイェン
見なさい……もうあなたの声は彼女には届いていないでしょう。
最近の彼女は秘伝書を奪うために、たびたび暴力を振るってきました。天雷の力によって誘発されておらずとも、いずれは精神が凶性に支配されていたでしょう。
たとえ運良く雷法で彼女の身からすべての鬼気を取り払ったとしても、真の「人」として、健全に生きていけるわけではありません。
生けるものは悩みが多く、思いもまた複雑なものです。しかし器鬼は、元となる器物の枠に縛られ純粋な心の持ち主であることが多い……器鬼が本当に世間に溶け込むのは、我々より遥かに困難です。
彼らを人の社会に引き入れることが、果たして善行なのか、残酷な行為なのかを、我々は考えねばなりません。
(リン・チンイェン。この件が片付いたら、あなたも天師府に詫びるべきでしょうね……)
剣客
そんな……
リン・チンイェン
これ以上の言葉は無用です。大理寺少卿としても、天師府のアーツを継承した者としても――この雷は、落とすべき時に落とすのみ!
眉尻を下げる女性
今何と言いました?
剣客
……
何も覚えていないのか?
眉尻を下げる女性
覚えてるって、何をです?
剣客
いいや、何でもない。
この道を戻ると、町がある。このまま先へ半日ほど進めば馳道に出る。馳道沿いに進んでいれば、多くの移動都市に行けるだろう。尚蜀に、大荒城、琅珆……
眉尻を下げる女性
お前はどこへ向かうつもりだ?
剣客
あんたはどこへ行きたい?
眉尻を下げる女性
前に。
私は身体が丈夫だとは言えないのですが、それでもたくさんのところに行ってみたいんです……
剣客
そうか。なら、しばらく同行できるかもしれないな。