絶頂を凌ぐ
ズオ・シュアンリャオ
どういうことだ……?
玉門守備軍
狂った男が比武場に押し入り、有無を言わさずに我々の仲間を数十人以上叩きのめしたんです。顔は、半年前にここで宗師と腕比べを行った男と似ていました。
なぜ発狂したかは分かりませんが、なるべく彼を傷つけないように対応しました。それで男はひとしきり暴れた後、すぐに逃げて行ったんです!
ズオ・シュアンリャオ
ワイ・テンペイが……?
奴がそのように荒唐無稽な真似をしでかすとは。宗師の剣は無事だろうか……
玉門守備軍
将軍!
先ほど、武器庫内に何者かが侵入した形跡が発見されました!
ズオ・シュアンリャオ
……何が盗まれた?
玉門守備軍
宗師が残した『武典』なる書物が……見当たりません。
武器庫内の物はどれも傷一つなく揃っていたが、ただ一つ、書架に一冊分の空白ができていた。
書架には一通の書状が残されていた。
ズオ・シュアンリャオ
……
誰か!
玉門守備軍
ここに!
ご用命ですか?
ズオ・シュアンリャオ
信使を手配し、都の司歳台に手紙を届けさせよ。
玉門守備軍
承知しました。
ズオ・シュアンリャオ
加えて、さらにもう一人、天師府へ密書を届けさせる人員を手配せよ。
玉門守備軍
はっ。
利発そうな少女
さすがの腕前よ、ワイ殿。万の軍勢の中をまるで無人の野を行くが如く出入りするその武芸は、古今の炎国を見渡しても他にいないでしょうね。
ワイ・テンペイは何も答えず、ただふらふらとその場を歩き回りながら、何やら不明瞭な言葉を繰り返し呟き続けていた。
利発そうな少女
ご安心を。この書物を持って来てくれたからには、私もあなたに協力するわ。
多くの観衆が見守る比武台で、あの宗師と納得がいくまで戦わせてあげる。
十日後、邙山山頂にて、宴席を設けてお待ちしているわ。
ワイ・テンペイ
……ああ。
利発そうな少女
ところで、ひとつ聞いてもいいかしら。あなたの武術はすでに天下無双の域だし、宗師がそもそも「普通の人」じゃないことは知ってるでしょう。どうしても彼に勝たなきゃ気が済まないの?
人と獣は初めから異なる存在よ。万年以上に渡る獣との争いの中でも、相手が得意とする分野で人は挑んだりはしてこなかったわ。
ワイ・テンペイ
……お前の言うことは、よく分からん。
己を超える武人がいれば、そいつに勝てるまで鍛える。天地の理が己より深ければ、それを超えるまで己を鍛え上げるだけだ。
利発そうな少女
はぁ……そうね。あなたのことを人だと言うには、身に纏う執念が人の域を超えすぎているわ。
でも人でないと言うには、娘への愛情がありすぎる。そうでなければ、あの「商人」にここまで追い詰められることもなかったでしょう。
憐れと言うべきか、滑稽と言うべきか分かりやしないわ。
面白い……
ワイフー
リーおじさん、父さんはこの道を通ったんですか?
リー
うーむ……地面に残されているこの足跡、歩幅が広く、安定した歩調を保ってる。しかも、どれもきっちり同じ深さだ。
見たところ、相当の手練れが残したもんだ。
ワイフー
私の見間違いでなければ、これは裂獣が残した爪痕だと思いますけど……
リーおじさん……また私をからかってますね。
リー
はははっ……
はぁ、この前はちーと顔を合わせたっきり、また逃げられちまったからねぇ……今のところ、手がかりはこの道だけだ。
賢い奴相手ならそれなりのやり方があるが、お前さんの親父みたいな武術バカが相手となりゃあ、通じるのは一番「バカ」な方法だけだ。
ゆっくり探していくとしよう……
ワイフー
……
リー
親父さんが心配かい? それとも、またこんな騒ぎを起こしたことに怒ってるのか?
ワイフー
……よく分からないんです。
父さんは、父親としては失格ですが、武術、武徳のこととなれば、いつも真っ直ぐで芯の通った人でした……
力に任せて弱きを挫いてはいけないし、無辜の者を傷つけてはいけない。父さんが何度も教えてくれたことです。
だけど今の父さんのことは、まるで分かりません。一体何があの人をあんな風に変えたんでしょうか……
リー
人が突然おかしくなるのは、愛する人を失ったか、求道のいきすぎで我を忘れたか、そのどっちかが相場だそうだが……
こと武の道に関して、うちのあの武術バカの信念を崩せる人間がいるなんざ、おれには到底信じられん……
もしあるとしたら――
リー
あいつは武の道を究めすぎたあまり、この世ならざるもんに触れちまったのかもしれないな……
ワイフー
ふん……父さんのことはまだ許してませんけど、あの人をあんな風に変えた人のことを、逃すわけにはいきません!
リー
その通りだ……あいつをあんな風に変えた奴は、一人も逃がしちゃならんな。
しかし、お前のおかげで一つ思い至ったことがある……
あいつの行方を追うのなら、手がかりがありそうな場所がまだ一つ残っているんだ……近くの町へ寄ってみよう。
道端の医館の従業員
人探しですか?
最近この医館に来る人が後を絶たなくて。見てください、広間でギプスを嵌めてる人は全員患者さんなんです。探し人がその中にいるかどうかは分かりませんけどね。
リー
そうですねぇ……患者さん方がぎゅうぎゅう詰めで、ずいぶんと繁盛なさってるようで。
一つお尋ねしたいんですがね。ここはそこまで大きな町でもないようなのに……なぜこんなに怪我人が出ているんでしょうか?
道端の医館の従業員
それがですね……この町は何年も平和が続いてて、武術を励行する伝統なんてなかったんです。
腕っぷしを生業にしてる人が何人かいても、達人なんて程遠い連中でした。せいぜい人の家の用心棒を務めるか、少し遠い場所まで荷物の護送をするのが関の山です。
ところが近頃どういうわけか、あらゆる流派の江湖の人たちが、各地からぞろぞろとこの町に集まってきてまして。
人が増えれば、騒ぎも増えます。江湖の連中は短気ですから、口ゲンカがすぐに殴り合いのケンカになるんです。
ワイフー
重傷者ばかりみたいですけど、一体何があってそんなにひどいケンカになったんですか?
道端の医館の従業員
それはまた別の話でして……
最近この町に集まってる人たちは、皆がとある秘伝の武術書とやらを巡って争ってるそうです。その中の武術を身につけば天下一になれるとか。その書物を奪うために、命懸けで戦っていました。
リー
天下一……またもや天下一と来たか。
道端の医館の従業員
中でもひときわ度を越した、妙な男がいましてね。
武芸の心得がある者や、町の外から来た江湖の者を見ると、相手が望もうと望むまいと構わずに腕比べを挑んで、手加減なく戦おうとしていたんです。
どう見ても様子がおかしいのに、困ったことにとんでもなく腕が立つんです。この数日の内、うちの医館にいる患者さんの半分はそいつにやられて運び込まれた人ばかりです。
ワイフー&リー
……
ワイフー
その妙な男というのは……まだ町にいますか?
道端の医館の従業員
それは分かりません。あれだけ恨みを買ってれば、誰かに目をつけられてるでしょうね。
もしかして、あの暴漢と知り合いなんですか?
ワイフー
ええと……
リー
安心してください、おれたちは争いを止めに来ましたんで……
道端の医館の従業員
あなた方に手立てがあるなら、一刻も早くあの男を捕まえてください。
江湖の社会のことは江湖でという理屈は分かります。けどあの「侠客」がこれ以上騒ぎ続けたら、天師や朝廷までもが動き出しかねません。そうなれば収拾が付かなくなりますよ。
はぁ、お話はここまでにしておきましょう、まだ患者さんがたくさん待っているんです。まったく薬酒の数が足りるかどうかも分かりませんよ……
ワイフー
リーおじさん、どうやら父さんはここへ来たみたいですね。
リー
そのようだ。
しかし、件の秘伝書ってのは、聞いたこともないがなぁ。
ワイフー
私も初めて聞きました。一冊の「秘伝書」がそこまで大きな力を秘めているなんて。
リー
真偽はいったん置いといて、一つ確かなのは、お宝ってのは餌として使われる時こそ、そのありかが世に広まるもんだってことだ。
さーて、問題はどうやって、その餌を撒いた奴を逆に釣りあげてやるかだな。
おや……?
これはまた奇遇ですな……
リン・チンイェン
そちらは……尚蜀でお会いした、リーさんでしょうか?
リン・チンイェン
お二人は、秘伝書に魅入られてこの町を訪れた武人を探しにやってきたということですか?
リー
秘伝書に魅入られて来たかどうかはまだ分かりませんがね。
リンさんは、一体またどうしてこちらに?
リン・チンイェン
まさに奇遇なのですが……私の目的も、その秘伝書をここへ持ち込んだ人物を探すことなのです。
リー
何か手がかりは見つけたんですかい?
リン・チンイェン
今のところ掴んだ情報はわずかです。
ですが確かなこととして、その人物はかなり周到に策を仕掛けています。今や多くの人々がその言葉を信じてこの町に集ってきていますから。
その人物の真の目的については……
リー
これだけ大勢集めたということは、何かしら大きな騒ぎを起こすつもりでしょうねぇ……この町の中で、その騒ぎを見物するのにふさわしい場所と言えばどこかなっと。
ワイフー
外が少し騒がしいようですね。
利発そうな少女
これでユンさんと顔を合わせるのは、二度目ね。
この巡り合わせも、天意というものなのでしょうね。またお会いできて光栄だわ、ユンさん。
ユン・チンピン
あなたは……
利発そうな少女
モー・イーと呼んでいただいて結構よ。
ユン・チンピン
モーさんが私を呼んだのは、どういったご用件でしょうか?
モー・イー
宗師の直弟子であるユンさんならば、彼のことを一番よく知っているはずよね。そこで、ある宝物の鑑定をお願いしたいの。
この書物が彼の直筆であるかどうか、見ていただけないかしら?
ユン・チンピン
そういうことでしたか……
近頃この町では秘伝書を巡って騒ぎが絶えませんが、すべてモーさんが仕組んだことだったのですね?
モー・イー
ふふっ、ひとまず否定はしないでおくわ。
とにかく、そちらのリャンさんの前で、この『武典』の真偽を確かめてもらえるかしら。
モー・イーはポケットから秘伝書を取り出すと、ユンに手渡した。
青年がこの町に来てからその書を目にするのは、これで二度目だった。茶館で見た時には給仕に奪われていたはずだったが、どういうわけか今は彼女の手元に戻ってきている。
ユン・チンピン
(注意深くページをめくる)
間違いありません。これは宗師の口述を元に、私が自ら筆を執って記したものです。一字一句違いありません。
この書物は宗師が玉門のズオ・シュアンリャオ将軍へ贈答した品です。どうやって手に入れたのですか?
モー・イー
その話はまた後ほど――リャンさん、界園の主はこういった宝物にご興味がおありかしら?
リャン
その書物を手に入れられるのであれば、お嬢さんはきっと尋常ならざる手管を持っているのだろうね。細かいことは詮索しないでおこう。
後のことは、私が主人に伝え、判断を仰いでおくよ。
モー・イー
これが宗師の記した宝典の原本と分かったのに、それでもあなたのご主人は姿を現す気はないの?
リャン
主人の性格は私にも量りかねる。なにせ宝物と見なすか否かには、独自の判断基準があるようでね。
返答は、まず彼に会ってからとさせてくれ。
モー・イー
残念ね……
ユン・チンピン
モーさん、今ならお答え願えるでしょうか?
秘伝書を盗み出し、そのうえ江湖に様々な噂を流したのは、一体何のためですか?
モー・イー
ユンさんも一応は武林の人間よね。
ユン・チンピン
かつて先生と共にいくつかの土地を旅したことはありますが、武術はからきしですから、武林の者と名乗るほどではありません。
モー・イー
そうね……私も武林の人間ってほど武術を修めているわけではないわ。せいぜい、ちょっと腕が立つから江湖を渡り歩いているだけの者よ。
だけどね、武林の豪傑気取りが些細な名声や、取るに足らない恩讐を巡って殺し合い、血を流す様を見るのが私は何より大好きなの。
生きた人間の人情や、人の性は、芝居よりよっぽど見ごたえがあるわ。
ユン・チンピン
ですが、あなたが望むそんな一幕のために、多くの人の血が流されることになるんですよ。
それは些か仁義にもとる行いではありませんか?
モー・イー
この天地には初めから仁義なんてものはないよ。なのになぜそれを取り繕わなくてはいけないの?
まあ見ていなさい。これから始まる出し物は、ユンさんもきっと気に入ると思うわ。
ワイフー
これは一体……どうなってるんですか?
目の錯覚でしょうか? なんだか、道端の椅子や机に、箒まで人間に化けたように見えましたけど?
リン・チンイェン
見間違いではありません……
ここは元々不思議な町です。器物が「人」に化ける光景も、幻術のようなものと思ってください。驚くことはありません。
リー
これくらいじゃ驚きやしませんがね……
この怪物たちには見覚えがあります……まさかここにも、リィンさんの兄弟姉妹がいるってことですかい?
リン・チンイェン
……事態はもっと深刻かもしれません。
ですが、こんな風に一斉に暴れ出すのは初めて見ました。一体。何が?
ワイフー
どれも同じ方向に向かってませんか?
あれは……山へ登ろうとしてるんでしょうか?
邙山山頂は、すでに隙間もないほど人で埋め尽くされていた。噂を聞いて集まった江湖の者たちは無論のこと、町に住む人ならざる住民たちも、人の顔をしてその中に紛れ込んでいたのだ。
モー・イー
武林の豪傑、そして稀代の奇人異士の皆さま。本日こうしてお目にかかれましたこと、この上ない光栄に存じます。
若輩者の私がお時間を取らせるわけにもいかないし、前置きは抜きにして、こちらをご覧いただけるかしら――!
モー・イーが両手に持った『武典』を高々と掲げると、群衆からざわめきが上がった。
モー・イー
これぞ、近頃江湖でささやかれている宝典、辺境の守護を務めた偉大なる宗師直筆の品。
「武、絶頂を凌ぎ、一典、世を蓋う。」この書に秘められた真髄を紐解けば、門派を天下に轟かせるばかりか、己の肉体を至高まで高め、宗師の境地に触れることさえ可能なのです!
自らの門派を天下に轟かせ、天下一とすることは、武林に生きる者たちにとっての宿願である。だがその他の「人」にとっては、「己の肉体を至高まで高める」ことの方が重要だった。
求めるものが何であれ、モー・イーの言葉は彼らを熱狂させるのに不足なかった。
モー・イー
近頃数多の噂が飛び交うこの江湖において、ただ書物を見せるだけでは、あなたたちの信用を得られないことは承知しています。
そこで、こちらのユンさんをお招きしました。
ユンさんは宗師のお傍で録武官を務める方です。武林の諸先輩方の中にもユンさんをご存知の方はいらっしゃるでしょうし、私の話が虚言でないことはお分かりのはず。
彼に鑑定をしてもらった以上、この書の真偽についてもはや異論はないと思います。
ユン・チンピン
……
モー・イーはしばらく口を噤み、下の群衆がもはや自分を疑っていないことを確認すると、言葉を続けた。
モー・イー
私のような浅学非才の輩にとって、これほどの宝物を独占するような真似はとてもとても考えられません。そこで今日は、ここに「英雄宴」を設けました。
この地に集いし英雄豪傑の皆さま、どうか各々ご存分に力を披露してください。秘伝書を奪い、かつ守り通せた者こそが、その所有者となるのです!
その言葉が終わるや否や、下の群衆は騒然となった。
誰もが手に武器を握りしめ、警戒した様子で周囲の者にその切っ先を向け、容赦なく振り下ろす機会を見計らっている。
自信のない者はこっそりと後ろへ退いたが、多くの者は目の前の約束に惹きつけられてモー・イーに殺到していった。
腹に一物抱えた器鬼たちもまた、人と同じように争い始めていた。
ユン・チンピン
皆さん、皆さん! 私の話を聞いてください!
喧噪の中、ユン・チンピンは前へと歩み出ると、下の群衆に大声で呼びかける。
群衆の中には彼の声に気づいた者や、華奢な少年がここにきて何を言うのか興味を示す者がいた。やがて人々は次第に手を止め、彼の言葉に耳を傾け始めた。
ユン・チンピン
「切磋無くば以て自らを省みるに足らず、勝ちを争わざれば以て精進するに足らず」、先生はそうおっしゃっていました。武を修める者が厳しい鍛錬を重ね、競い合うことは、確かに尊ぶべき心です。
ですが、決して忘れてはならないのは、「武に精通せんと欲せば、ただ苦練に従うのみ」、この最も基本的な道理です。
武の道とは己を磨くための修行です。もし勝つことに執着しすぎ、近道をしたい心が芽生え、あまつさえ邪道に縋って力を得ようとすれば、それは本末転倒というものです。
モー・イー
……一体何が言いたいの?
ユン・チンピン
その書物は『武典』の原本に相違ありません。しかし、皆さんにお伝えしたいのは――
その書は、先生の口述を元に、私がしたためたものであり、モーさんがおっしゃったような摩訶不思議な力などないということです。
もしその書が本当にそんな不思議な力を持つのであれば、筆者たるこの私自身が、いまだ武の道を修められずにいる平凡な人間であるのはどういうわけでしょうか?
少年の声は決して大きくなかったが、一言一言に重みがあった。それを聞いた下の人々から、またもやざわめきが起こる。
モー・イー
ユンさん、いま波風を立てるのは利口じゃないのではないかしら……
少女は低い声で脅すようにそう言ったが、ユン・チンピンはまるで聞こえていないかのように続けた。
ユン・チンピン
『武典』は、先生の生涯にわたる武道への理解と、武を磨く際に見落としがちな要点について記したものです。武の道を志す者にとっては間違いなく有益な書物でしょう。
ですが、その他には何も特別なところなどありません。
もし皆さんが信じられないなら……
ユン・チンピンはそう言うと、懐から印刷された『武典』を取り出した。
ユン・チンピン
『武典』はそもそも一冊しかない「秘籍」ではありません。皆さんが争う必要は元からないのです……
ワイフー
リーおじさん、危ない!
リー
おっとっと……
まったくこの光景ときたら、逆にこれっぽっちも懐かしさを感じないな……
ワイフー
数が多すぎます……
ここに集まっている人に化けた鍋や茶碗は、まさか、「秘伝書」と関係があるんでしょうか?
リン・チンイェン
この混乱を引き起こした元凶は、どうやら鍋や茶碗が向かっていく方向にいるようです。その輩を捕らえれば、一切が明らかになるでしょう。
ワイフーさん、リーさん、どうか力をお貸しください。
ワイフー
分かりました! リンさん、私が道を拓きます!
モー・イー
何ですって……
ユン・チンピン
より多くの人々が武の道を進めるよう手助けすることは、先生が長年抱いてきた宿願でした。ですが、武術を教えるには直接見て行う指導が欠かせず、先生ご自身の時間と体力にも限界がありました。
先生にできることと言えば、後に続く人たちが少しでも回り道せずに済むよう、自分が武を磨く際の考え方と気づきを可能な限り正確な言葉で記録することだけでした。
この『武典』は、間違いなく先生が心血を注いだ作品です。この中には歴代録武官がつけた記録が数多含まれており、それを私がようやく一冊にまとめ上げたのです――これは私の一生の誇りです。
先生がこの書をズオ将軍に託したのは、まずは軍の中からこの書を広め、やがては万民のために使われて欲しいと願ってのことです。先生は初めから、何も出し惜しみなどしていなかったのです。
つまり、この場の皆さんに武を磨く志があるのなら、私が印刷所にこの「秘伝書」の増刷をお願いし、一人一人にお渡しするのも決して難しいことではありません。
短い沈黙の後、人々の口から次々に乱暴な言葉が飛び出し始めた。
今この場で誰か一人でも踏み出せば、群衆全体が押し寄せてペテン師のリーベリを山頂から突き落としかねない有様だ。
モー・イー
……
なかなかやるじゃない。
さすがは宗師の弟子、彼の気概を少しは受け継いでるようね。
でも私を怒らせるのが怖くないの? ほんの少し刀を振るうだけであなたの命を奪えるのに。
ユン・チンピン
それで命を落とすのであれば、私の運が悪かったというだけのことです。
私に武術の素養はありませんが、不正を目の前にして、見過ごすわけにはいかない、という江湖の掟はよく承知しています。
モーさん、盗んだ『武典』を玉門にお返しください。江湖の人々にとって、この書はさして特別なものではありません。
ですがズオ将軍にとっては、とても大切な贈り物なのです。
モー・イー
あなたって人は……
ユン・チンピン
モーさん、口うるさくなりますが、最後にもう少しだけ言わせてください。
先ほどモーさんは、人情や人の性にまつわる面白い出し物を見せるとおっしゃいましたね。
あなたが見せたかったのは、人々が武術秘伝書を巡って殺し合う光景だったのでしょう。ですが私が目にしたのは、一心に武の道を極めんと願う人々だけでした。
武の道を追い求めること、それ自体のどこに罪があるでしょうか?
私は世の悪事を数多く見てきましたが、そのほとんどが悪を成すために行われたものではありませんでした。いわゆる「悪行」とは、その多くが「善」を成すために、手段を誤ったものばかりです。
モーさん、あなたが一体何を目的に今回の件を引き起こしたかは分かりません。ですが、このように卑劣な行為は、どうあっても正しい道ではないのです。
あなたの手腕と才知は、もっと真っ当なことに使えたはずです。
モー・イー
はいはい……宗師の元で武芸は学べずとも、そういう大層な御託だけはしっかり身につけたようね。
それじゃあ悪く思わないで――
リン・チンイェン
ようやく捕まえました……
モー・イー
――!
リン・チンイェン
軍の要地に忍び込み盗みを働いた挙句に、妄言で人々を惑わすとは一体何を企んでいるのですか!?
モー・イー
ふふっ、あなたがかの有名なリン少卿ね。
だけど、もう官を辞していたのではないかしら。私的制裁なんて、あなたらしくないわ。いいの?
リン・チンイェン
天師として、このような悪事を見て見過ごすわけにはいきません。
私が百灶へ連行します。
モー・イー
ふふっ……
ふふふふふふっ……
ユン・チンピン
何がおかしいのですか?
モー・イー
だって、皆さん立派な大義を振りかざしている割に、実に視野が狭いんだもの。
百灶も玉門も今や風前の灯火だと言うのに、正義の士気取りで悪びれもなく私の邪魔をしてくるとはね。
リン・チンイェン
何ですって?
モー・イー
武道に関しては、確かにあなたたちほど詳しくはないけど……
巨獣への理解なら、あなたたちなんて私の足元にも及ばないわ!
本当はこの手は使いたくなかったけど……
モー・イーは後ろへ飛びのき、一行から距離を取った。
山頂のてっぺんに立ち、書物を手に持つ彼女は、かつてないほど集中し、敬虔な眼差しをしている。
モー・イー
九州八荒、墨色に染まり――――
その言葉と共に、空が突然暗くなる。
モー・イー
天地乾坤、静まれり――
斯れ遥遥たるを以て、吾が真言を借る――
経緯縦横して以て坤を定め、武中に有を生じて乃ち乾を開く――
山海之衆、請い願わん。十二の首、その名を朔(シュオ)、顕現せよ!
天地を覆っていた闇が一気に払われ、続いて現れたのは、天を衝く巨大な歳獣の化身だった。
その姿の前では、たとえ高い山の頂に立っていようと、己の存在がいかにちっぽけかを身に染みて思い知らされる。
幻影であれ本物であれ、それが現れたのなら、あの書物の原本には「シュオ」の偉大な力が秘められていたということだ。
巨大な影
(低い雄たけび)
リン・チンイェン
これは……!
ユン・チンピン
あれは……先生?
モー・イー
そう、いま炎国で生きている連中で、「あれ」の姿を見たことのある人はごくわずかでしょうね。
ちょうどいい機会だし、思い出させてあげる。炎国が長きに渡り、一体どんな怪物と付き合ってきたのかを。
私を捕まえたかったら、まずはあれに勝ってからよ。
リン・チンイェン
危ない!
巨大な影が地面の人々に向かって掌を振り下ろす。瞬間、山全体が大きく揺れ始めた。
人々は立っていられず、次々に転倒していく。しかしユン・チンピンにははっきりと分かった。それが明らかに、形と意の込められた一撃であることが。
巨大な体躯であるにもかかわらず、「シュオ」の動作は少しも鈍らない。技の一つ一つや、威圧感のどれをとっても、それが「武」の化身であることを示していた。
リン・チンイェン
皆さん! 離れてください!
五雷正法――
雷法が影を撃つ。しかしその手ごたえは、まるで虚空を撃ったかのようだった。
リン・チンイェン
効いていない!?
あの影は、一体……
ユン・チンピン
いえ……あれは決して、先生ではありません。
先生の剣はここにはありません。あれは、『武典』が映し出した幻でしょう。
どう実現したかは不明ですが、きっとこの術を破る方法があるはず……
リン・チンイェン
あの幻を避けて、直接彼女を叩ければ――
???
ついに……
また会えたな……
散り散りに逃げる群衆の中から、「シュオ」は最初の挑戦者を迎えた。
リン・チンイェン
待ちなさい! 危険です! これ以上前に出てはいけません!
ユン・チンピン
ワイさん!?
ワイ・テンペイは何も答えず、確かな足取りで一歩一歩「シュオ」へと向かっていく。
ワイ・テンペイ
俺は剣を失くした。約束を破った以上、お前に会う資格はない。
だが、俺には未だ果たしていない宿願があり、この命にも限りがある。だからお前に会わねばならない。
巨大な幻
(威嚇する唸り声)
拳の一撃が振り下ろされ、大風が吹き、雲が湧き起こる。
ワイ・テンペイは避ける素振りを見せず、押し寄せる拳風がその身を掠めていくに任せた。
さらなる一撃が、山が叫び海が吠えるかの如き勢いで、ワイ・テンペイ目掛けて放たれる。
拳と拳、力と力のぶつかり合いだ。
モー・イー
な、なんてことなの……
巨大な「神」の虚影、「武」の化身。それを前にして、互いに拳を交え、なんと互角に渡り合っていた。
またもや訪れた一対一の勝負だ。
気づけば、ユン・チンピンは再び紙と筆を取り出していた。
打ち下ろす掌の一撃。天が崩れ地が裂ける。
息を吐き、気を整える。何もかも極めて自然である。
拳と掌の衝突は、なおも拮抗している。
ワイ・テンペイは一手一手を見切りながら、着実に距離を詰めていく。打ち合うたびに、幻であるはずの「シュオ」はどんどん現実のものであるように思えてくる。
交差する一撃、また一撃。ワイ・テンペイはついに頂上まで辿り着くと、怒りの色を浮かべる「シュオ」を仰ぎ見た。
ユン・チンピン
これで……十一度目の応酬か?
ユン・チンピンは録武簿を開いた。かつて行われた世紀の一戦は、いまだそこに記録されている。言葉では記録できないあの最後の拳の一撃を、彼は今も覚えていた。
ユン・チンピン
ワイさんの武術は、あの頃よりも磨かれているようです……
本当に優れた技巧は技巧に見えず、大道とは至って簡明なもの。これは誰にでも分かる理屈である。
だが己よりも圧倒的に大きな強者との命懸けの局面で無為無我の境地に至り、型も技も捨て去って、ただ一拳一蹴を最も的確な瞬間に繰り出し、攻守を成せる者が一体どれほどいるだろう。
今やワイは、武を彼自身の体の隅々まで染み込ませていた。
三十度目の応酬が終わっても、ワイ・テンペイはなお膝を突くことなく立ち続けていた。男は未だ敗れていないのだ。
足元の岩肌には拳と脚に削られた二つの溝が深々と刻まれている。
だが前方にもはや道はない。あと一撃でも繰り出せば、そのまま崖から落ちてしまうだろう。
それでもワイ・テンペイは半歩も退く素振りを見せなかった。
リン・チンイェン
まずい……このままでは、彼が危険です!
しかしこれほどの対決に、割って入れる者がいるだろうか?
ワイフー
――父さん!!
ワイ・テンペイ
――!
その叫びで、命を懸けて戦っていた男が一瞬呆然とした。
ワイ・テンペイ
お前は……
お……
……思い出した。
思い出したぞ。
俺はかつて、ある者と四十年後に再戦する約束を交わした。
俺があの剣をあいつに渡したのは、未練を捨てきれなかったからだ……
思い出した。
俺には娘がいるんだ。あの子を守らねば……
俺の名は……ワイ・テンペイだ。
だが俺は忘れていた。
かつて学んだ技や型の数々を。
出会った仇敵や好敵手たちを。
俺は誰にも負けたことがない。俺はすでに天下無敵だ。
ならば、俺が勝負する相手は誰だ?
俺と勝ちを争えるのは、俺自身のみ。
もはや俺の前に道はない。ならば、振り返らねば。
ワイ・テンペイ
ハッ――!
ワイ・テンペイは高々と飛び上がると、腕を開いて拳を引き絞り、「シュオ」の胸へと叩き込んだ。
その身はやつれていても、彼の瞳には澄んだ輝きが宿っている。
拳を受けた「シュオ」の体が空中にかき消えると……
ワイ・テンペイは崖下に落ちていった。
一陣の風が吹き、空はふたたび本来の色を取り戻した。先ほどの天地を揺るがす戦いが、その場の者たち全員で見た白昼夢であるかのように感じられた。
人々は誰もが呆然として、しばらく空を見上げていた。
リン・チンイェン
ラウくん?
ズオ・ラウ
ユンさん……姉さん……
無事なご様子で幸いでした。どうやら間に合ったようですね……
ユン・チンピン
ズオさん、先ほどワイさんが巨獣の幻と戦って崖から転落してしまいました。人を手配して捜索していただけませんか……
ズオ・ラウ
ワイさんもこちらに? なんと奇遇な……
尉官!
玉門尉官
はっ。
ズオ・ラウ
崖から落ちた者がいます。ただちに人員を手配して、麓で捜索に当たってください。
玉門尉官
承知しました。
ズオ・ラウ
玉門の軍に忍び込み、宗師の『武典』を盗み出した賊が現れ、さらには町で騒ぎを起こしたと聞いて、急いで兵と共に駆けつけてきました。
リン・チンイェン
しかしその元凶は――
皆が気づいた時には、先ほどの少女は姿を消していた。
リン・チンイェン
……また逃げられましたか。
ズオ・ラウ
構いません。山の各出入り口はすでに手の者で固めてあります。逃げられはしません。
残りの者たちについては……こほん!
朝廷の命により、本日の騒動は無法者によって煽動されたものと判断する。速やかに退散すれば、個々の罪には問わない。
しかし、なおも頑なに逆らう者がいれば、容赦はしない。
甲冑の兵を見た時点で、江湖を渡り歩く者たちは冷や汗をかいていた。そこで不問に処すとの通達を聞くや否や、多くの者はすぐさま頭を下げて詫びると、そそくさと去っていく。
残ったのは、器鬼たちだけだった。状況をうまく呑み込めていないのか、戸惑った様子でその場をうろうろとしている。
プー先生
はぁ、はぁ……間に合いましたか。
あなたたち皆、今の自分の姿を顧みなさい。何と言う体たらくですか。また人を真似て争いだの奪い合いだのに手を染めるなんて、私がこれまで何を教えてきたと思っているのです……
人になりたくば、まず一歩一歩、人の人間性から、良識から学び始めることです。さもなくば、たとえ人の肉体を得たとして、それは人とは呼べません。人の姿をしただけの獣です!
あなたたちが興味を持っていた書物も、先ほど見たでしょう。あんなものはただの夢幻に過ぎません……
まだ塾へ戻る気がある者は、私についてきなさい……
プーはリン・チンイェンに気づくと遠くから深々とお辞儀をした。謝意を示しているようだ。
そのまま身を翻し、去っていく。慌てて来たせいで、山道で足を挫いたのだろうか。足を引きずるようにして歩いていた。
器鬼たちはしばらくうろうろした挙句、次々に元の姿に戻ると、ぐねぐねと続く長蛇の列を成して老いた師の後に続き、そのまま山を下りていった。