とある事故
あれから長い間、エイレーネは一人でトラックを運転するたびに、あの晩自分が躊躇したことを思い出さずにはいられなかった。
トラックを裁判所広場の端に停めた時には、空はもうすっかり暗くなっていた。彼女はすぐにはエンジンを切らずにおり、その振動はハンドルを通して手首に伝わって、少しずつひいていった。
エイレーネは、ここへ来る途中でラヴィニアに電話をかけ、相談したいことがあるとすでに伝えていた。
エイレーネ
ふぅ……
どう切り出すべきか……「ラヴィニアさん、もうどうにもならないんです……」
運転席に座ったまま、エイレーネは何度も同じセリフを繰り返していたが、そこに「あなたに頼るしかないんです」という一言を続けることだけはできずにいた。
本当に、ほかに方法はないのだろうか? そこまで考えたところで彼女は苦い表情のまましばらく黙り込む。雨がトラックの窓の隙間から入って、彼女の頬を打つ。
やがてエイレーネは手を伸ばすと、エンジンを切った。
サンドロ
今回の仕事一つで、この半月必死に走り回って稼いだ金よりたくさん給料もらえたよ。
カジミエーシュ人は本当に太っ腹だな。
ルッジェーロ
おいおい、自慢か?
こっちは今週、例の違約金だけで、仕事一回分の稼ぎが消えたとこだってのに。
カジミエーシュの連中はこんな調子で、罰金も容赦なく取ってくるだろ。
サンドロ
ははっ、先月は違約金を立て替えてくれてありがとうな。ちょうど給料入ったから、ちゃんと返すよ。いくら借りてたっけ?
ルッジェーロ
そんなのいちいち気にするなよ。俺たちは兄弟みたいなもんだろ。困った時はお互い様だ。
サンドロ
いいのか? じゃあ、ちょっとは貯金しておくよ。今度誰かがまた罰金を取られた時には、俺も助けにならなきゃいけないしな。
ルッジェーロ
少しは節約するんだぞ。最近また源石燃料が値上がりしてるみたいだからな。さっき燃料スタンドに行ってきたんだが、跳ね上がってくメーターを見てるだけで胃が痛かったよ。
だけどそこで偶然、レオッティ薬局の店員に会ったんだ。あいつ、いい奴だな。燃料スタンドの割引カードを使わせてくれてさ。
今度、店の前を通った時に、タバコでも差し入れにいかないとな。
サンドロ
本気か? エイレーネにバレないようにしろよ。でないと誤解されるぞ。またファミリーの人間と裏で――
エイレーネ
裏で、なんだよ?
サンドロ
おお、何でもないって。
しかし久しぶりだな、エイレーネ。こっちはあとちょっとで、お前の通算配達数記録を塗り替えられそうなくらいだぞ。
エイレーネ
それもいいんじゃないか。そうなったらご褒美として、運送管理局の書類仕事はあんたに任せてやるよ。
サンドロ
はは、勘弁してくれよ。っと、そろそろ次の注文の引継ぎ地点に行かないと。またな、エイレーネ。
ルッジェーロ
にしても、確かに最近野営地じゃ見かけなかったな。随分痩せたんじゃないか? 忙しくても身体には気をつけろよ。さもないと、ソマーに顔向けが――
エイレーネ
話を逸らすな。さっきは何の話をしてたんだ?
ルッジェーロ
本当に何でもないって。
エイレーネ
はあ……
あんたもサムも、本当に懲りないな!
あいつはどうしていないんだ? 野営地を一周見て回ったけど、どこにも居なかったぞ。スケジュールを確認しても、今日からしばらく何の予定も入ってないじゃないか。一体どこへ行った?
ルッジェーロ
サムの奴、具合が悪くてな。何日も熱が下がらないし、吐いたり腹下したりしてるんだ。昨日配達を終えたあと、そのまま帰って寝込んでる。今日の配達分も、全部ジャンニに代わってもらったんだ。
お前もわかるだろ? カジミエーシュ人との契約のせいだよ……休んだ時の違約金がきつすぎるから、それなら手の空いた奴に代わってもらうほうがマシなのさ。
エイレーネ
……
わかった、もういい。はぁ、あとで医者に連絡して、具合を診てもらおう。
ルッジェーロ
しかし、どうしたんだ? サムに急ぎの用事でもあったのか?
エイレーネは少し苛立った様子で、手に持っていた箱を軽く振る。その中からは、瓶に入った液体が揺れる音がした。
その梱包を見ただけでも、ワインボトルが入っているのだろうとわかるうえに、その包みにははっきりと、サルッツォ酒造のロゴが貼られていた。
エイレーネ
サルッツォ酒造が……どうしてこの野営地にワインを送ってきたんだ?
受取人のところにサムの名前が書いてなければ、誰かが配送用の荷物を置き忘れたのかと思うところだった。
ルッジェーロ
ああ、たぶんサムのいとこの引っ越し祝いだな。
エイレーネ
引っ越し祝い?
ルッジェーロ
ああ。あいつのいとこの家がヌオバ・ウォルシーニに引っ越してきたばかりの時に、ディミトリさん――じゃない、ディミトリの奴が家探しで力になってくれたんだと。
その時に、引っ越しが終わったらお祝いのワインを送るとか話してたはずだ。
エイレーネ
……
ルッジェーロ
なあエイレーネ、たかがワイン一本だぞ……それに、この酒はサム宛ですらない。知っての通り、あいつはもう酒はやめたんだ。
エイレーネ
わかってる。でもそのディミトリ「さん」が、どうしてそのいとこの家の事情を知ってたのかが気になるんだ。
それと、ルッジェーロ。前にあんたが借りてた小さいスーパー、この間買い物に行ったら、サルッツォ酒造のワイン専門店になってたんだけど。
いつの間に奴らと親しくなったんだ?
ルッジェーロ
あー、あいつらに又貸ししたんだよ。思ったより管理が大変だったから、スーパーのオーナーは向いてないなあと思ってさ。早めに手放して、トラック運転手に専念することにしたんだ。
エイレーネ
何か事情でもあるのか? あたしには言えないけど、ファミリーの連中になら言える事情だとか?
ルッジェーロ
そんなわけないだろ、エイレーネ……
エイレーネ
……
いつになったらわかってくれるんだよ。小さなことでも借りは借りなんだぞ。それはいつか必ず返すことになるし、その代償だって、あたしたちが想像してるよりずっと大きいものになる。
ルッジェーロ
それでも、とりあえず今のところは、ただ俺たちを助けてくれてるだけだろ。
エイレーネ
バカ言うな。ワインコンクールまであと数日って時に、サルッツォ酒造がわざわざ「引っ越し祝い」を贈ってくる意味が、本気でわからないって言うのか?
現状は「たかがワイン一本」でも、その次は何が贈られてくると思う? ファミリーの金か、あるいは名ばかりの地位か……また前みたいに、ファミリーのために働くつもりなのか?
ルッジェーロ
あの時みたいなことが起こらないか心配してるなら、絶対そうはならないって保証するよ。
それに、今のヌオバ・ウォルシーニの秩序のもとなら、大した真似はできないはずだし……俺のことが信じられなくたって、市長とラヴィニア裁判官のことは信じなきゃだろ、エイレーネ。
エイレーネ
あの人たちを信じてないわけじゃない。ただ……
もういい。あんたたちが、カルネヴァーレで起きた出来事を忘れてないならそれでいいんだ。
ファミリーの人間とは、あまり関わるな。一見してただの店員や従業員にしか見えなくても、あいつらの行動は全部、ファミリーの意向が関わってるんだから。
ルッジェーロ
あの時の出来事が、お前にも、俺たちにも、大きな傷を負わせたことはわかってるよ。
だけど、サルッツォの社長も変わったし、「次代のヴェネツィア」もいなくなったんだ。あの時とはもう違――
着信を知らせる音がルッジェーロの言葉を遮った。エイレーネはそれ以上言葉を続けず、ただ首を横に振って、その場を離れようとした。
だが、ルッジェーロが電話に出た瞬間、端末の向こうからは切羽詰まった声が響いた。
ジャンニ
もしもし、ルッジェーロか! サムと連絡がつかないんだ。あぁ、どうしよう!?
今すぐ第二埠頭の車両点検所に来てくれないか? 俺じゃ、カジミエーシュの奴に上手く説明できなくてよ! 違約金を上乗せするって言って聞かないんだ!
ルッジェーロ
なんだって……?
ルッジェーロの動揺を見て、エイレーネは軽く頷いてみせると、端末を受け取り電話を代わった。
エイレーネ
聞こえるか、あたしだ。何があった?
ジャンニ
え、エイレーネ! お前が来てくれるなら、すごく助かるよ!
熱を出したサムの代わりに俺が仕事を引き受けたんだ。配達先が、俺のルートの途中だったからさ。でも直前になってカジミエーシュの奴が納品場所を変更してきて、配達時間に間に合わなくて……
カジミエーシュの奴にそれを説明しても、俺の言ってることが通じてないのか、契約違反だって繰り返すばっかりで、さらに違約金を追加するとか言い出してさ!
と、とにかくすぐ来てくれ! 契約書にこまごま書かれてる言葉の意味なんて、俺には何もわからないし……!
エイレーネ
わかった、すぐに行く!
エイレーネ
……少し融通を利かせてもらえませんか? そちらが急に納品場所を変更することを、こちらで予測するのは不可能です。その変更が遅延の原因となったのに、運転手側の契約違反になるんですか?
カジミエーシュ商会代表
局長、注文はすべて我々のシステムに登録されており、こちらはスケジュールに合わせて調整を行っているだけです。運転手の独断でシフトを交代した場合には、その責任は本人が負うべきでしょう。
エイレーネ
ですが……
カジミエーシュ商会代表
契約書にも、その旨明記されておりますよ。仮にここで例外を認めてしまえば、今後同様のことが起きた際の判断にも響きますので。
それから、運転手さんのほうは、これ以上言い争ったところで双方得るものはないと思いますよ。今の道路状況とスケジュールを踏まえると、すぐにご出発いただかなければ……
おそらく、実質的な契約違反がもう一つ追加されるでしょう。その場合違約金は今回の収入の約15%にまで引き上げられますよ。
加えて、こちらは今月七回目の違反記録となります。
そうなると、今後の注文においても、時間の制限がさらに厳しくなるかと。
エイレーネには、その時気まずそうな顔をしつつも、無理やり微笑んで見せたジャンニに対して、自分がどんな表情をしていたのかがわからなかった。
そこに浮かんでいたのは、悔しさだろうか。あるいは、申し訳なく思う気持ちだろうか。
あるいは、彼女が反応を見せるより前に、商人の「親切な」アドバイスを聞くや、ジャンニは自分を急き立てるように何かつぶやき、そのまま出発してしまったのかもしれない。
どうあれ、この件をこのまま終わらせてはいけないと、エイレーネは心の中でつぶやいた。
ルッジェーロ
エイレーネ? もう戻ったのか。ジャンニの件はどうなった?
エイレーネ
……管理局にまだ持って行っていない契約書はある? 最初にカジミエーシュの奴らと締結したものを一部持ってきてほしいんだ。
ルッジェーロ
えっ? 一体どうしたんだ?
エイレーネ
契約内容に……違和感があるんだ。今まで運用してきて、不合理な点がいくつもあると思ってる。だから、向こうと話し合って見直さないと。
ルッジェーロ
……
ジャンニの件は、解決しなかったんだな?
エイレーネ
うん……
でも、解決してみせるよ。
ルッジェーロ
はぁ、そうだよな……実はこれまでにも、あいつらに掛け合った運転手は何人もいたんだ。もちろん正式な形じゃないけどな。まあ、結果はご想像の通りだよ。
さっきも、お前が出ていったあと、ジャンニの違約金をどう補填するかをみんなで話し合ってたとこなんだ。
あいつんとこは双子が生まれたばかりだし、爺さん婆さんも具合が良くないから出費が多くてな。だけど幸い、ディミ――
……
彼がなぜ黙り込んだのかを、エイレーネは追及しなかった。そこで口を開けば、自分ですら今知ったジャンニの事情を、ファミリーのドンがなぜ知っているのかを尋ねてしまいそうだったからだ。
エイレーネは、自分が執務室で過ごした時間が長くなりすぎていたことを悟った。気付けば、二年前のあの時のように、彼女には家族のことすらよくわからなくなっていた。
エイレーネ
……契約書を持ってきてくれ。
大丈夫。あたしがなんとかしてみせる。
外部の人間が向けてくる、代償の見えない好意なんて、運送管理局傘下のドライバーには必要ないんだ。
カジミエーシュ商会の応接室の照明は、街頭や運送管理局の執務室のそれよりもずっと柔らかいものだった。厚手のカーペットの上を歩けば、それは足音をすべて吸い込んでしまう。
テーブルに完璧な配置で用意された水と書類からは、これが正式な会合なのか、あるいは礼儀として用意された交流の場なのかを読み取ることはできなかった。
カジミエーシュ商会側の代表は約束の時間より少し早く到着しており、視線を下げて書類に目を通していた。そして、エイレーネが入室したのを見ると、彼は書類を置き、立ち上がって礼をした。
エイレーネはそれに挨拶を返すこともなく、そのまま席についた。
エイレーネ
運送管理局とカジミエーシュ商会の契約に関して、何点か内容の調整をできればと思っています。
ドライバーは機械ではありませんし、すでにできる限りの対応をしています。現在、契約違反が頻発していることには、確かに一部、ドライバー側の問題もあるでしょうが……
多くの場合は、契約内容と現実的な運用の間に齟齬があることが原因です。
……この契約書には、不合理な規定が数多く含まれています。
エイレーネは契約書の束を取り出すと、それを軽く押し出した。何度も読み返したためにページの角が折れたその束には、付箋がびっしりと貼られている。
エイレーネ
こうした規定は、一つ一つを見れば、合理的に思えるかもしれません。
ですが、すべてを同時に適用すると、その負担がすべて現場の人間にのしかかってしまうような内容です。
そこで商会側の代表はようやくその契約書に手を伸ばし、視線を落とした。彼はひどく丁寧に目を通して、ページによっては数分読み込んで、文言をしっかりと確かめているように見えた。
しばらくして、彼は契約書を置いた。
カジミエーシュ商会代表
そちらのご懸念は理解しております。実際、近頃の輸送に混乱が生じていることは、こちらも把握しておりますので。
しかし、この契約内容は当初の時点で明確に提示されており、そちらもご納得いただいたうえでサインをされたと認識しております。
エイレーネ
ええ。ですが、当初はこの規約に書かれたような状況が、これほど頻発するとは誰も想定していなかったと思います。
カジミエーシュ商会代表
とはいえ、規約自体には矛盾はないと考えています。現在の運用状況が、当時の想定より多少ひっ迫しているだけかと。
局長のご要望をうかがってもよろしいでしょうか?
エイレーネ
少なくとも当面の間は、こうした特殊な状況に対しては、より柔軟な対応を取っていただけたらと思います。少なくとも、この規約を適用するかどうかについて、裁量の余地を残してほしいのです。
今後、双方の協力関係をより良いものにしていくためにも。
それを聞いた代表は、しばらく沈黙していた。
その時、エイレーネはふと、この沈黙は迷いゆえではなく、この言葉に応じる必要があるかどうかを見極めるための沈黙にすぎないのではないかと思った。
だが、そんな考えも一瞬で通り過ぎていった。
カジミエーシュ商会代表
個別の例外処理を注釈で足し続けていくと、管理が非常に煩雑になりますので、いかがなものかと思います。
ですが――
直近の数件について、一旦保留とすることは可能です。
エイレーネ
「保留」というのは?
カジミエーシュ商会代表
現段階では評価の基準として用いない、ということです。少なくとも、今の多忙な期間が終わるまでは、ですね。
エイレーネ
では、ドライバー個人の違反記録は……
カジミエーシュ商会代表
現段階では、個別で問題視はしないこととします。ですので、局長は全体の運行状況を整えることに集中していただけたらと。運用が円滑化すれば、多くの問題は自然と深刻化しなくなるでしょう。
我々としても、ビジネスパートナーが常に緊張状態にあるようなことは望んでいません。
それに、今はワインコンクールが近いですから、運送依頼の件数が普段に比べて大幅に増えていることも、この特殊な状況に陥った原因でしょう。もうしばらく、ご苦労をおかけしてしまいますが。
エイレーネ
そうですね……運送管理局も、すでにキャパシティのほとんどをワインコンクール関係の案件に費やしています。だからこそ、そちらにも、ドライバーの現状を理解していただきたいのです。
カジミエーシュ商会代表
今後、双方の協力関係をより良いものにしていくためにも……ですね。
エイレーネ
……
はい。私のほうでも、スケジュールやドライバーのコンディションを調整していきます。あなた方が大きな利益をもたらしてくださることは……こちらも承知しておりますので。
エイレーネは立ち上がると、テーブルの向こうの相手と握手を交わした。彼の手には力みがなく、その表情も、入室した時と変わらぬ礼儀正しさを保っていた。
カジミエーシュ商会代表
この多忙な期間を越えましたら、次段階の検討を行っていきましょう。
エイレーネは頷いた。
テーブルに置いた契約書を手に取り、応接室を出た時、その足取りは不思議なほど軽かった。
譲歩せず、意見を汲んでもらうことができた。その実感が、ここへ来る前に感じていた緊張を大きく和らげてくれていた。それと同時に、次々と後悔の念もこみあげてくる。
もっと早くドライバーたちのために動いていれば。最初に契約を結ぶ時に、内容をもっと精査していれば。とは言え、今やすべては解決に近付いた。少なくとも、状況を立て直す余裕は生まれたのだ。
交渉後、エイレーネは丸一日かけて、野営地にいるドライバーほぼ全員の契約違反を整理し、運送管理局の運用可能な予算と、自分の貯蓄までもを計算した。
さらに彼女は、その日のうちに、もう違約金のことで悩まなくてもいいと皆に伝えるためだけに、野営地へと戻った。
最近のヌオバ・ウォルシーニは晴天続きだ。それと同じようにすべては良い方向に向かっていると、エイレーネはそう思っていた。
薬局を出たサムには、体調がだいぶ落ち着いてきたように思えていた。
彼の金銭事情からすると、三日も休んでしまったのだから、いい加減に回復しなければ困るというものだった。
サム
いつまでも仕事を代わってもらうわけにもいかないし……はぁ、明日にはスケジュールの相談に行って、さっそく仕事にかからないとな。
ん? こんな時間に誰だろう?
もしもし?
えっ、トマゾか? サルッツォ酒造の?
風邪薬と解熱剤、ありがとうな! 本当によく効いたよ。今、薬局でも同じ薬を探してたところなんだ。何箱か買いだめしておけば、また熱が出ても安心だしさ。
いやいや! あの配送だって、急がなくていいって言ってくれたけど、やっぱりそっちの商売に支障が出たら良くないからと思って届けただけなんだ。
まさかその報酬に、薬二箱を入れといてくれると思わなかったよ。そういえば、受け取りに行った時は見かけなかったけど、あんたが入れてくれたんだよな?
あんたらサルッツォの人間って、本当いい奴――
ああ、すまんすまん! ベッローネの人間だったな。っと、そういやトマゾ、こんな遅くに何の用事だ?
一大事じゃないか! だが、ちょうどよかった。一つ角を曲がればあんたらのワイナリーだし、そのワインは俺が届けに行くよ! バイクに乗ってるからすぐ届けられるさ!
いいんだよ、配送料なんて。ご近所同士助けあうのは当然だろ! わかったわかった、とにかく言われた通りに届けるから、報酬の話はまたあとでな!
サム
しかし、大きな会社でもこういうミスがあるんだなぁ、ははっ。
トマゾのやつ、俺に連絡して正解……あれ? そういや、あいつに俺の番号なんて教えたっけ……?
まあいいか。それよりも、今はワインコンクールのことだからな。やっぱりヌオバ・ウォルシーニのワインに優勝してほしいし。
カジミエーシュ人にワイン造りなんてわかるのかね。まあ、わかったとしてもシラクーザのワインにゃ敵わないだろ……
さてと、会場までは……あと信号二つ越えたら――
な、なんだ!?
はあ……はあ……
し、死ぬかと思った……ワインは……無事だな。……しかし、突っ込んできたトラックのほうは大丈夫か?
うわ、横転しちまってる……多分、居眠り運転だな。赤信号に気付かなかったんだろう。運転手が無事だといいが……とにかく警察に通報して……
――!
うそだろ……ジャンニか!?
おい、誰か手伝ってくれ! 仲間が怪我してるんだ! そこにいるのは――トマゾか? あんたもここにいたのか!
とにかく、ジャンニをトラックの下から引っ張り出すのを手伝ってくれ! っと、それに救急車も呼ばないとだな……!
……もしもし、救急か! こ、交通事故が起きて……運転手が意識不明なんだ! は、早く来てくれ……!
サム
……それで、トマゾからは、サルッツォ酒造のオーナーがジャンニの治療費と、トラックに積んであったワインの代金を負担してくれるって話が来てるんだ。
「あの時、自分たちがサムに配送を頼まなければ、ジャンニは事故に遭わなかっただろうし、カジミエーシュ商会の荷物も破損せずに済んだだろうから」って……
エイレーネ
……
それで?
サム
えっ? それでって、トマゾから言われたのはこれで全部だけど。
今回は甘えておこうぜ。オーナーの善意を無下にするのも良くないし。トマゾが言うには、事故のあともすごく心配してくれてたらしいぞ。こんな大事故になるとは思わなかったって言ってたそうだ。
それに、病院にいるジャンニにはこの金が必要になるしさ……
ルッジェーロ
エイレーネのほうは、この件でカジミエーシュ商会と話し合ってきたんだろ? 向こうはどう考えてるんだ? 貨物の損害は俺たちの弁償になるのか? それともサルッツォ酒造が責任を取る感じか?
エイレーネ
カジミエーシュ商会は、あの貨物の代金は支払わなくていいと言ってた……
そこまで話したところで、エイレーネは喉に何かがつかえたかのように黙り込む。
そして、彼女の視線は、野営地の端に置かれた、壊れたままの空のトラックへと向けられた。荷台に残ったガラスの破片が、陽光を反射して輝いている。
エイレーネ
要するに、特定個人に責任を負わせるつもりはないってことだ。
サムは一瞬、あっけにとられていた。そうして数秒経ったあと、ようやくその言葉の意味を理解したように、大きく息を吐き、その肩からは力が抜けた。
ルッジェーロ
それで……ジャンニのほうは?
エイレーネ
同じく、個人の賠償責任はない。
今回の件は契約不履行として記録されるけど、損失は内部で補填するそうだ。リスクは共同で負担すべきだとか、ビジネスパートナーに無理をさせる気はないとか、聞こえのいいことを言ってたよ。
サム
そうか、本当に良かった……!
今の状況で賠償金まで背負わされちまったら、ジャンニの奴、本当に押しつぶされちまうところだったよ。
はぁ、あいつ最近は仕事詰め込みすぎだったし、きっとかなり前から過労気味だったんだろうな……
エイレーネ
……
とりあえず、そのトマゾってやつに返事しといてくれ。手助けは必要ないってな。ジャンニの治療費は、運送管理局の保険で一部は賄えるし、残りはあたしが何とかするから心配しなくていい。
サム
おう、わかったよ。治療費なら俺も出すからな! 昨日の事故のあと、ジャンニのために金を出し合おうってみんなで話してたんだ。
あっ、それよりまずは、トマゾに返事をしないとな。い、今電話するよ――
エイレーネ
はぁ……
ルッジェーロ
にしても、カジミエーシュの連中がそんなお人好しだとは思えないけどな。「聞こえのいいこと」については聞いたが、聞こえの悪いことはなんか言ってなかったのか?
エイレーネ
ああ……はっきり言われたよ。今回の「対応」は、あくまで例外的なものだってな。これは、あたしたちとの関係を考慮したうえでの特別対応だそうだ。
ルッジェーロ
どういう意味だ?
エイレーネ
スケジュール組みやルート調整、それと、これまではこっちの判断で決めていたようなことも全部、今後はできる限り……向こうのシステムに従って決めてほしいんだと。
それに、契約違反は記録したうえで、評価対象には含めるそうだ。「内部的な参考記録であって、報酬が直接的に差し引かれることはない」とか、それっぽい言い方してたけどな。
ルッジェーロ
あの連中、前にもそう言ってたよ。
エイレーネ
具体的な規定については、ワインコンクールが終わってから、正式に交渉してくるよ。今度はもう、理不尽な内容を盛り込ませないようにするから……
とにかく、あのワインの件はこれで終わり、全部解決だ。だから、あれこれ聞いたり、悩んだりしなくていい。
ルッジェーロ
エイレーネ……
エイレーネ
あんたの言いたいことはわかるよ、ルッジェーロ。
あたしにも、あたしらにも、サルッツォの助けは必要ない。もう終わったんだ。
……
大丈夫、あたしがついてるから。何とか方法を考えるよ。だから、運送管理局の……
ううん、互助会のみんなも、きっと状況は楽になるはずだ。
その後長い間、エイレーネがその二回にわたる交渉を思い返すたびに、脳裏に鮮明によみがえったのは、相手の言葉ではなく、彼女自身の胸にあった異様に強い確信だった。
彼女は本気で信じていたのだ――
卓上にきちんと問題を並べて話し合い、規則と境界線を守りさえすれば、自分が触れたくないと思う力に頼らずとも、必ず解決できるはずだと。
エイレーネ
ちょっと待っててくれ。今はあんたの相手をしてる暇なんてないんだ――
伝言を届けに来たループスに向けて、エイレーネは苛立った様子でそう言うと、スーツ姿のクランタに向き直った。
彼女は焦り、うろたえていた。先ほど上げた手を、どこに置けばいいのかすらわからないほどに。
エイレーネ
あの日お約束したはずですよね……
カジミエーシュ商会代表
あの日の合意内容は、あの時点までの状況を前提としたもので、本日以降は状況が変化しますので、新しい条件を提示させていただいたまでです。
そう告げる彼の口調は穏やかで、確定事項を淡々と述べているに過ぎなかった。さらにそこには、必要とあらばもう一度最初から説明を繰り返してもいいという礼をわきまえた態度すら感じられた。
カジミエーシュ商会代表
当社は事故の責任について追及することはありませんし、関連機関の判断に影響を及ぼすつもりもありません。
ですが、覆せぬ事実として、貨物は損害を受けているのです。
加えて、毒殺事件のこともありますし……
考えてみれば奇妙な偶然です。本来、あの指揮者は弊社のワインを口にする予定だったのですが、いつの間にかそれは、サルッツォ酒造のワインにすり替えられており――
そのワインを届けたのは、よりによって、弊社のワインを運んでいたトラックが事故を起こす原因になった車両だった、と……
エイレーネ
運送管理局のドライバーは、毒殺事件には無関係です!
カジミエーシュ商会代表
ええ、もちろんですとも。それに、少なくとも私は――交通違反があったかというその一点においては疑ったことはありません。
エイレーネ
……「その一点においては」、ですか。
カジミエーシュ商会代表
しかし、くだんの運転手が交通違反をしていたかどうかには関係なく、彼が配送を行っていたことが、客観的に見て、弊社の物流に影響を与えたことは事実です。
これは、重要な局面において大きなリスクを生じさせ、最終的には契約不履行に繋がりました。
エイレーネ
だからって、実際には違反行為を犯していない人の責任を追及するつもりですか?
カジミエーシュ商会代表
「追及」したいとは一言も言っていませんよ。
我々はただ、法に基づいて損失の責任の関連性を確認しているだけですので。
クランタは一度言葉を切ると、さらに付け加えた。
カジミエーシュ商会代表
なお、今回の損失のうち、保険で補填できかねる部分につきましては、当事者に負担していただくことになります。
ビジネスというのは、こういうものですので。エイレーネ局長、どうかご理解ください。
エイレーネ
いいえ、理解などできません。こんなものはビジネスじゃない。明らかに人の弱みに付け込んだ行為です!
カジミエーシュ商会代表
ええ、ええ、そうお感じになるのも無理はありません。私としても大変遺憾に思います。
こうした事態に至ることは、弊社としても望んでいませんでした。
それでは、今後の取引につきましては、希望されるドライバーがいらっしゃいましたら、個別に説明資料を受け取りに来ていただけますと幸いです。
こちらとしては、理性的なご判断を歓迎いたしますよ。
エイレーネ
……
サム
な、なあ、エイレーネ、黙ってないで何か言ってくれよ……! この紙に書いてあること、俺一人じゃどうにもできないぞ!
こうなったら、やっぱりあの人に――
エイレーネ
ダメだ!
サム
ならどうすりゃいいんだ? お前があの時、外国の連中と契約なんか結ばなければ、あの夜の交通事故だって起きなかったし、ジャンニも入院なんかしないで済んでたんだぞ!
エイレーネ
あたしは……
サム
そりゃあ、お前がみんなに稼がせたくてそうしたことはわかってるさ。だけど今は、あいつらが、カジミエーシュ商会の連中が、俺を訴えようとしてるんだぞ!
こんな大金……これまでの人生で見たこともないような金額だぞ。払えるはずないだろ?
前にお前、言ってたよな。シティホールのシステムに組み込まれることになれば、俺たちドライバー互助会――いや、運送管理局のドライバーは、制度上の保証を受けられるって。
こうなったら……俺一人で背負わなきゃいけないような話じゃないよな?
エイレーネ
わかってる。あたしがなんとかするから……
サム
エイレーネ、お前が解決できないなら……
そっちにいる、ベッローネの伝言役の話を聞くからな。
エイレーネは咄嗟に、「ダメだ」と言いかけた。今までその話題が出るたびにそうしてきたように。だが、開いた口から言葉は出てこなかった。
少し遠くを見やれば、お手本のような笑みを浮かべたクランタの周りには、ぽつぽつとドライバーが集まりつつあった。
彼は資料を手に辛抱強くその場に立っていた。時々うなずいて見せたり、抑えた声で返事をしたりする姿は、何かを売り込もうとしているというより、彼らの話に耳を傾けているだけのように見えた。
ドライバーたちは戸惑った顔でクランタの説明を聞きながら、エイレーネに意見を求めるように、揺らぐ視線を彼女に向けている。
エイレーネ
落ち着け、焦るな……あたしが、なんとかするから……
エイレーネはもう長いこと、トラックで通勤していなかった。それどころか、この新しい都市でトラックを走らせること自体が相当久しぶりのことだった。
運送管理局のオフィスが入っているシティホールの建物前は、駐車スペースに余裕がない。
地元企業からの来客や、外国商会からの訪問者、運送管理局のドライバーたち、そして他部署の同僚たちなどの様々な車が停められては、また去っていく。
そこには、彼女のトラックを置いておくスペースなどなかった。
その午後、彼女は野営地からトラックを出すまでの短い間に、ドライバーたちが興奮と疑念の入り混じる声で、カジミエーシュ商会の資料の内容について話し合うのを聞いた。
彼らは、今期に違約とみなされた件数や、一件の仕事で得られる高額な利益のこと、そして自分たちの子供があの酒造や薬局、運送会社に就職できるかもしれない、といった話までもを口にしていた。
その資料は悪くない未来を描いており、それはかつて彼女がファミリーを拒絶し、外国人との取引を選んだときに見ていた未来とそう変わりないように見えた。
しかし、今や彼女は知っていた。その資料には、彼らが思うより多くの意味が込められていることを。
エイレーネは長いことトラックを走らせ続けた。そうして、空のほとんどが夕闇に染まる頃になってようやく、端末に登録されたとある番号に電話を掛けた。
エイレーネ
もしもし、ラヴィニアさん……エイレーネです。今からそちらへ、裁判所へ伺ってもいいですか。
すごく大事な相談があるんです。