まだ響かぬ音
パオラ
ああ、この照明、完璧ね。あなたの瞳がエメラルドみたいに輝いて見えるわ。私ってなんて幸運なのかしら。こんな綺麗な目をした素敵な娘を持てるなんて。
リーゼル
別に私が指揮するわけでもないのに、何言ってんだか……
でも、確かに幸運ではあるかもね。ステージも、オケの事務やスケジュール管理も、全部完璧にこなしてくれる娘がいるんだから!
パオラ
ふふっ、そうね。じゃあ、私の自慢の娘に、明日街角に新しくオープンするショッピングモールとの打ち合わせもお願いしちゃっていいかしら?
新曲のアイデアをいくつか思いついたから、今日のワインコンクールが終わったら、時間をかけてじっくり編曲したいの。
リーゼル
もちろん大丈夫だよ。安心して、任せといて。
ほら、それじゃもうステージに上がらないと。もうすぐ本番だよ。
今日をきっかけに、私たちシュヴァルツァーフォーハン管弦楽団は一気に有名になるはず。そうなったら、忙しくなるんだからね。
ステージの照明が、幕の隙間から舞台裏まで差し込んで、指揮棒を握るキャプリニーの角を照らした。
その時、彼女に見えたのは、ある人影だけだった。
地下貯蔵庫には、天井に取り付けられた明かりが斜めに差し込んでおり、グラスに反射したきらめきが、揺れ動く人影に合わせてちらついている。
リーゼルはその人影に近付こうとした。その人は、建物の中で迷って貯蔵庫に入ってしまったのかもしれないし、それなら案内をしてあげようと思ったのだ。
だが、彼女が一歩踏み出した途端、その人物は足音を聞きつけたかのように身をひるがえすと、軽やかに棚の間を通り抜けていった。
すれ違った瞬間、ライトの明かりがその人影をかすめて、フードを被ったその頭に大きな角があるのが見えた。
リーゼル
角? キャプリニーの……?
パオラ
……失礼。
ごほっ、げほ、ごほっ……!
劇場内の照明は明るすぎるほどに明るく、そのせいで、パオラが倒れた床の上で広がっていくワインは鮮血のように赤く見え、その色は目に焼き付いた。
つい先ほどまで、自分を褒めてくれていた、優しく微笑んでいた養母の唇は、いまや暗く不吉な赤色に染まっている。
リーゼルの視界は揺れ始めた。だが、これほど明るい中にいても、見開かれたパオラの瞳には、少しの光も宿っていなかった。
リーゼル
パオラ……おばさん……?
おばさん!!
???
――リーゼルさん?
リーゼル
……はい?
チャレク
先ほど申し上げた通り、今後の提携とお支払いにつきましては、契約書の記載内容通り進めさせていただきますが……
ご理解いただけますよね?
リーゼル
あっ、すみません、少しぼーっとしてしまって……
チャレク
大丈夫ですよ、無理もありません。あのようなことが起きたばかりで、こうして楽団を支えねばならないのですから、さぞご心労がおありでしょう。
いやはや……パオラさんのこと、改めてお悔やみを申し上げます。
あれほど美しく優秀な音楽家がこの都市から失われたことは、大きな損失であると言わざるを得ません。
私ですら胸が痛むのですから、ご家族であるリーゼルさんにはなおさらのことでしょう。
リーゼル
ありがとうございます……
チャレク
どうか、早く元気を取り戻せますように。楽団の方々へのお見舞いの品も用意しましたので、後ほどお持ち帰りいただき、皆様にお分けいただけますと幸いです。
リーゼル
お気遣い痛み入ります。あなたとお仕事ができたことを、私たち楽団としても誇らしく思っております。
あの、演奏料の件ですが……
チャレク
ご心配なく。こちらが事前にお支払いした保証金につきましては、ご返還をお願いすることはありません。
ですが、先ほども申し上げました通り、今後弊社はそちら様との契約を更新しないことを決定いたしました。
楽団の皆様が悲しみを乗り越え、この難局を切り抜けられるようお祈りしております。
リーゼル
ま、待ってください、契約を更新しないって……!?
チャレク
ええ。パオラさんという輝かしい宝石を失ったことは、そちらの楽団にとって柱を失ったも同然でしょう。となれば、演奏の水準がすぐに元のレベルに戻るとは思えないのです。
我々はあくまで商人であり、慈善家ではありませんので――失礼、少し言葉選びが率直すぎたでしょうか?
リーゼル
で、では、予定されていた明日明後日の公演は――
チャレク
中止になりますね。本来なら、この劇場であと二日間公演を行い、ヌオバ・ウォルシーニ市民の皆様にもワインの試飲会にご参加いただく予定でしたが。
こんなことが起きてしまっては、シティホールによって劇場が封鎖され、捜査が行われることでしょう。イベントの続行も不可能となりました……
はぁ、こちらとしても損失は大きいのですよ!
リーゼル
……では、これまでの公演の費用はどうなりますか? ワインコンクール告知用に行った数日間の演奏は、特に問題はありませんでしたし、反響もとても良かったと思いますが……
チャレク
事前に交わした契約書に明記されているはずですよ。「不可抗力によって公演が中断、または中止された場合、甲は相応の残金を支払う義務を負わない」と。
これは、全公演が無事に終了して初めて、残りの報酬を支払うという意味です。
悲しみのあまり、リーゼルさんはこの契約内容を失念されていたのですね。
リーゼル
いえ、私は……
チャレク
はぁ、こんな出来事は誰も望んでいなかったはずですし、こちらとしても大きな損失を被っておりますので、どうかご理解ください。
ほかのことで、何かお手伝いできることがあれば遠慮なく仰ってください。できる限りお力になりますので。
リーゼル
……
……わかりました。
もし今後、オーケストラの演奏が必要になった際は、ぜひご連絡ください。
チャレク
ええ、もちろんです。
ですが、パオラさん抜きで、これまで通りのご活動は実際可能なのでしょうか?
ティンパニ
リーゼル、やっと戻ったか!
ティンパニはリーゼルを引っ張るようにして練習室のソファの真ん中に座らせると、自分もその隣に腰を下ろして、ぎこちなく彼女の肩を叩いた。
彼は背筋をまっすぐに伸ばし、気丈に振舞おうとしていたが、その目は赤く充血していた。
ティンパニ
はぁ、しかしチャレクさんも融通利かないよな。契約の相手はパオラだったから、パオラがいなくなったなら、その娘と話をするのが筋だとか言っちゃってさ。
こっちは、その話は俺たちが引き受けるって言ったのに。パオラが居なくなって一番つらい思いをしてるリーゼルに、こんな時に仕事の話をさせるなんて、どういう神経してるんだ?
ファゴット
本当にな。あいつは、君たち親子の絆を少しもわかっちゃいないんだ。俺たちには、その目を見れば、君が昨晩隠れてどれだけ泣いていたか、すぐに理解できるっていうのに。
トロンボーン
もういいから、リーゼルは座ってて。何も心配しなくていいから、数日は全部私たちに任せてちょうだい。
はぁ、あなたったら、これまで節約のためとか言って、掃除なんかの雑用も全部やってくれてたけど、こういう時くらい休んでいいのよ。こんな小さな手なのに、タコができちゃってるじゃない……
リーゼル
えっ? あ、ううん、大丈夫だよ、このくらい……
それより、みんなこそ、雑務なんていいから、安心して練習して。みんなが集中できるなら、それで十分……
ティンパニ
そういや、この先の公演について、チャレクさんはなんて言ってたんだ? 予定通りの曲をやるのか? それとも新曲を?
トロンボーン
だけど、パオラの新曲は完成してないし……
リーゼル
それは……
今後の公演は……全部取り消しだって。
しかも、チャレクさんが言うには……契約書には全公演が終わってから支払いを行うって書いてあるらしくて、だから……
ティンパニ
なんだって!? あの*リターニアスラング*なクソ野郎! *リターニアスラング*が!
トロンボーン
(小声)ちょっと、ティンパニ!
ティンパニはまだ何か悪態をつこうとしていたが、トロンボーンがこっそり彼の腕をつねり、リーゼルに配慮するよう目で訴えた。
ティンパニ
いてっ! ごめんな、リーゼル。おじさんは君に怒ってるわけじゃないし、怖がらなくていいからな。
チャレクのやつ、子供をいじめやがって! 人情の欠片もないのか……!? ワインコンクールが終わってまだ少しも経ってない今、リーゼルは立ち直れてないだろうに!
トロンボーン
ねえリーゼル、部屋に戻って少し寝たらどうかしら。昨日からほとんど眠れてないでしょう?
あなたの部屋に、ホットミルクを置いておいたの。少し飲んで――ああでも、もう冷めちゃってるかしら。温め直してくるわね。
リーゼルは口を開いて、何か言おうとした。だが、目の前にいる皆は、目を赤く泣きはらし、疲れ切った顔をしていた。
それを見た彼女には、結局何も言えなかった。リーゼルはただ、力なく首を横に振り、トロンボーンの申し出を断ると、立ち上がってその場を去った。
練習室から廊下に出ると、リーゼルは壁にもたれかかった。楽団の皆が、小声で何か話しているのが、微かに聞こえてくる。
ファゴット
はぁ、これからどうすればいいんだ?
パオラはもういないし、公演の報酬もなくなってしまった。
このワインコンクールで知名度を上げて、次の仕事に繋げるって算段だっただろう。今から新しい契約を取りに行くのは簡単じゃないぞ……
トロンボーン
練習場所を借りるにも、楽器をメンテナンスするにもお金がかかるものね。それに、生活だってあるし。
パオラは少しでもお金が入ったら、みんなに分けてくれてたから、貯金もほとんどなかったし……
ティンパニ
それでも、みんなの金を集めれば、多分十日は持つだろう。
ファゴット
だけど、パオラがいなくなった今、誰が指揮者をやるんだ? 指揮者がいなけりゃ、満足のいく演奏は届けられないだろう?
トロンボーン
なんでパオラが……あのループス、ベッローネとかいうところの人らしいけど、どうしてパオラを殺したの?
全然意味がわからないわ。ファミリーのことなんて、私たちには関係ないじゃない。
ファゴット
パオラが邪魔だったとか?
それか、俺たちがここで仕事を受けたことが、あいつらのルールに反してたとか?
ティンパニ
知るかよ! シラクーザのファミリーなんてみんな同じだ。どいつもこいつも人の心ってものがないんだから。
トロンボーン
シティホールは調査中だと言っているけど……まともな結果なんて出るのかしら。
ティンパニ
出るわけないさ。ここも結局はシラクーザの都市なんだぞ。あのシティホールだって、どうせ形だけだ。
だから、パオラを殺された恨みは、俺たち自身が胸に刻まなきゃならない。
今度ベッローネの人間に会ったら、絶対に痛い目に遭わせてやる!
トロンボーン
……バカなこと言わないで。相手はパオラを容赦なく殺せるような人たちなのよ。その気になれば、私たちを踏み潰すのだって簡単でしょう。
私たちはみんな、パオラと同じでリターニア出身だけど、あの人たちもしかして、リターニア人を狙ってるんじゃ……
ファゴット
……さすがに考えすぎだろ……
トロンボーン
だけど……そうでもなきゃ、説明がつかないじゃない。どうして、パオラみたいな優しい人が……
ティンパニ
ああもう、シラクーザのファミリーの連中にはうんざりだ! いっそここを離れてヴィクトリアとか、あるいはもっと遠くなるけど、クルビアに行くのはどうだ?
ここ以外なら、音楽活動を諦めることになっても、適当な力仕事で食いつなげばなんとか生きてはいけるだろ。パオラと出会う前みたいにさ……
トロンボーン
そうね……リーゼルも連れて行きましょう。
ティンパニ
当たり前だろ。俺はたとえ一日にパスタ一皿分しか稼げなくても、半分はあの子に食べさせるつもりだ。リーゼルを飢えさせるわけにいかないからな!
楽団の人々はそのあとも何か話し合っていたが、リーゼルにはよく聞き取れず、聞く気力自体も残っていなかった。
彼女はただ、強い頭痛を感じていた。目の奥がじんとして、身体は重たく、できれば今すぐ……パオラおばさんの腕の中へと倒れ込みたいと思っていた。
扉の軋む音が響く。
リーゼルは自室には戻らず、パオラの部屋の扉を開けた。
ワインコンクールの日、彼女は窓を閉め忘れたまま出たらしい。あの晩降り続いていた雨が、窓辺に積んであった楽譜を濡らしていたようで、また一日経った今、紙はすっかり波打ってしまっていた。
リーゼル
パオラおばさん、また窓を閉め忘れてたんだ。
毎回私が言わないと忘れちゃうんだよね。音楽のことに夢中になると、ほかのことは全部頭からすっぽ抜けちゃうんだから……
パオラ……おばさん……
うぅ……
楽団の皆に心配を掛けないように、そしてカジミエーシュの商人と今後の話をできるように、無理やり押し込めていた涙が、今になって堰を切ったようにあふれ出す。
リーゼルは窓辺に置かれていた楽譜を集め、一枚一枚しわを伸ばしていく。だが、彼女には自分の指先さえも、雨に濡れた音符と同じくぼやけて見えた。
きっと、今の自分はひどく滑稽に見えることだろう、と彼女は思った。だが、パオラおばさんが今の彼女を見たならば、きっと一緒に涙してくれるに違いない。
昔パオラが両親の墓参りに付き添ってくれた時も、同じようなことがあった。彼女は、ある墓の前で異郷の曲を奏でている見知らぬ女性の演奏を聞いて、呆然と立ち尽くして涙を流したのだ。
トロンボーンを吹いていたその女性は、目を真っ赤にしたパオラを見て驚いていたが、やがてはこの家族の一員になった。それはファゴットも、それよりもっと前に家族になったティンパニも同じだ。
その時、パオラは埠頭に立ち、まるで金鉱でも見つけたような声色で、杭を打つ彼に向けてこう言った。「あなた、リズム感がすごくいいわね。私の楽団でティンパニをやらない?」
リーゼルは以前、なぜパオラのような素晴らしい指揮者がリターニアを離れることになったのか、彼女に聞いたことがあった。
するとパオラは、少し戸惑ったように首をかしげて、「私にもよくわからないの」と答えた。
そして彼女はこう続けた。「私はただ、好きな音楽を奏でていたいだけなのに、どうしてこの国の人たちはそれすら受け入れてくれないのかしら。」
リーゼル
この楽譜、全部おばさんの大好きな曲だ……
それに、こっちの塗装が剥げたメトロノームって、パオラおばさんがリターニアから持ってきたものだったよね。
あっ、このイヤリング……引き出しの裏に落ちてたんだ。パオラおばさん、なくしたと思ってあんなに落ち込んでたのに。
……
このステージ衣装も、何度も直してたけど、結局仕上がらなかったし……明後日の公演では、これを着てステージに立つって言ってたのに。
リーゼルは深紅のドレスをそっと手に取ると、襟元の金糸を指でなぞった。その布地は少し古く、端は白く擦り切れていたが、ドレスに施された刺繍は今も見事なものだ。
そのドレスを掛けていたハンガーの隣には、アーツユニットが一つ静かに立てかけられていた。
リーゼル
おばさんのアーツユニット……まだ、教わってないことがたくさんあるのに、どうして……
どうして、パオラおばさんがこんな目に遭わなきゃいけないの?
窓の外では街灯がともっており、時折行き交う車のライトが、涙で滲むリーゼルの視界に差しこんでくる。
光。照明。明滅するライト。
グラスに反射する光。
不意に、リーゼルの指が止まった。曖昧な記憶の断片が、急にまとまりを得て、一気に溢れ出してくる。
あの時見た人物はフードを被っていた。痩せた体つきのその人は、並んだ棚の影に身を潜めており、その姿にライトが当たった時、その手にはグラスが握られていた。
ライトに照らし出されたのは、その大きな角だった。
リーゼル
あの時は、迷い込んだお客さんかと思ったけど……
今思うと、キャプリニーだったよね……
それなら、ベッローネの人なわけない。だってループスじゃないんだから……一体どういうことなの!?
トロンボーンさんも言ってたよね。そもそも、ファミリーの争いなんて私たちには関係ないって……
もしかして……ベッローネは無実なのかも。真犯人はあの人じゃないんじゃ……?
だけど、どうして……よりによって、キャプリニーなの……
リーゼルは顔を上げ、パオラのベッドサイドに飾られた集合写真を見つめた。
それは、シュヴァルツァーフォーハン管弦楽団の皆で、ある公演後に撮った集合写真だ。そこに写っている十数人の団員のうち、数名のエラフィアを除けば残りは全員がキャプリニーだった。
昔リーゼルは冗談で、パオラに尋ねたことがあった。シラクーザ中のリターニア人を全員オケに入れるつもりなのか、と。するとパオラは笑って、「素敵な考えね」と言った。
リーゼル
あのキャプリニーは、知らない人じゃなくて……オケの誰かが変装してたんだとしたら?
――!
わ、私、なんてことを……自分の家族を疑うなんて。
だけど……
犯人を見つけなくちゃ。パオラおばさんを殺した犯人を突き止めないと……!
……
アーツを教えてくれた時に、おばさんは言ってたよね。真実は誰かを傷つけることもあるけど、炎と同じで暖かくて力のあるものだって。
いつも真実を語り、正しいことをしなさいって、そう教えてくれたよね……
だけど、その通りにして、結果的にこの家を焼き尽くしてしまったら……
その先の言葉はどうしても口に出したくなかった。リーゼルは唇を噛んで言葉を止めたが、その考えは頭から離れず、どうしても消えてくれなかった。
連日の疲労と衝撃、悲しみと恐怖で、リーゼルは今にも押しつぶされそうになっていた。
涙はすでに止まっていたが、身体はひどく冷えていた。
ティンパニ
もう何日か待って、あの人殺しのベッローネの判決が出たら、リーゼルを連れて、こんなところからは出て行こう。
ファゴット
……
チッ。
ティンパニ
なんだ、どうしたんだ?
ファゴット
見ろよ、通りの向こうにある高級ホテル。
どこに行ってもあいつらのやってる会社ばっかり目に入って、腹が立つな。
ティンパニ
えっ? あれってヌオバ・ウォルシーニで一番高くて、全然予約が取れないとかいうホテルだよな? あそこもあいつらが経営してるのか?
ベッローネの奴ら、つくづく*リターニアスラング*なボロ儲けっぷりだな。
こんなことしてる金持ちなら、有罪判決が出たところで、そこから逃れる方法くらいあるんじゃないのか?
*リターニアスラング*……仇ってのは自分の手で取らなきゃ意味がない。いつか絶対、奴をこの手で刺してやる……!
ファゴット
やめておけって。トロンボーンに言われたことを忘れたのか? それに、お前の足じゃ人を刺しても逃げられない。警察に捕まるのがオチだぞ。そうなったら、またリーゼルが悲しむだろ。
ティンパニ
そうだな。あの子をこれ以上苦しめるわけには……だけどやっぱりこのままじゃ気が収まらない!
ファゴット
わかったわかった。じゃあ、あのエントランスあたりまで行ってツバでも吐いてくるか?
ティンパニ
よし来た! ――いや、でもツバだけじゃ足りないだろ。一発ぶん殴ってやらないと!
ファゴット
ははっ……お前ってやつは。本当に、楽団一の頑固者だな。
わかったよ、俺も付き合ってやる。
リーゼル
えっ!?
ティンパニさんとファゴットさんが拘留された……!?
ベッローネが経営する施設で……トラブルを!?
あ、いえ、私はパオラじゃなくて……その、リーゼル・メミンガーです。連絡先は、こちらで大丈夫です。
はい、はい、すぐに向かいます……
やっとのことで浅い眠りに落ちていた彼女は、耳障りな電話の音でたたき起こされてしまった。
電話で伝えられた内容と、頭の中で形を成していく最悪のイメージのうち、どちらのほうがショックなのかは、リーゼルにはもうわからなかった。
心臓の激しい鼓動を感じながら、リーゼルは上着を掴むと家を飛び出した。
しかし、夜も更けていたせいか、あるいはこの近辺でつい先日恐ろしい殺人事件が起きたせいか、タクシーは一台も捕まらない。彼女は焦って、警察署に向けて全力で走り出した。
夜風が耳を打つ中、リーゼルは必死に走ったが、頭の中は霧で覆われたようにぼんやりとしていた。なんとか落ち着こうとすればするほど、雑音はうるさく聞こえて来た。
リーゼル
二人は、本当にベッローネの人たちのところへ行っちゃったの?
だとしたら、暴力をふるっちゃったとか?
私の代わりに……パオラおばさんのために、行動を起こしちゃったのかな?
風の中を走るうちに、目は痛んだが、その足取りはさらに速まり、今にも転びそうになっていた。
だから、パオラを殺された恨みは、俺たち自身が胸に刻まなきゃならない。
リーゼル
ダメ、そんなのダメだよ……!
――今度ベッローネの人間に会ったら、絶対に痛い目に遭わせてやる!
リーゼル
ティンパニさん、ファゴットさん……!
う、ううん、二人がそんなことするはずない……!
はあ……っ、げほっ、げほっ……
リーゼルはひどく息を切らしていた。袖口から吹き込む夜風に、身体の震えが止まらない。
前方にいる何人かの通行人は、様子のおかしい人間でも見るような目で彼女を見ていた。
だが、リーゼルはその視線を気にせず、ただ速く、もっと速くと先を急いだ。
けれども、警察署に近付くほど、灰白色のその建物が、巨大で無感情な舞台の幕のように、夜の闇から少しずつ迫って来るように感じた。
それに比例するように、リーゼルの足取りは少しずつ重くなり、ついに彼女は街角で立ち止まった。そこからは、明かりのついた警察署の入り口で、一人の警官がタバコを吸っているのが見えていた。
その瞬間、彼女は踵を返して逃げ出しそうになった。
リーゼル
私が頼りにならないせいで、二人はこんな方法で私を守ろうとしてくれちゃったのかな?
だけど、二人が本当に何かやっちゃってたらどうしよう?
それに、オケの誰かが犯人なんだとしたら……?
私が突き止めようとしている真相が、私にも、オケのみんなにも耐えられないようなものだったとしたら……
彼女は、家族を疑ってしまう自分を憎らしく思った。
「ベッローネ」と「拘留」という言葉を一度に聞いた瞬間、心臓が止まるような感覚と共にあの大きな角のことを思い出してしまい、咄嗟に彼らを弁護できなかったことが恨めしかった。
リーゼル
私、どうすれば……
パオラおばさん……
あなたは私の自慢の娘よ。リーゼルがいなかったら、このオケはこんな結果を出すことはできなかったでしょう。本当にありがとうね。
そうよ、私だけじゃなく、オケのみんなだって、あなたを頼りにしてるんだから。
ああリーゼル、私の自慢の娘、あなたは私の誇りよ……
いつかあなたが、私の代わりにこのステージに立つ日が来るわ。
――いいえ、私のためじゃない。リーゼル、このすべては最初から私のためなんかじゃないの。
いずれあなたは、ヌオバ・ウォルシーニで、いいえ、シラクーザで一番の指揮者になるの。
風が止んだのを感じた。
リーゼルは重い足を引きずって、ゆっくりと、しかし確かな決意を胸に、灰白色の建物の中へと入っていった。
リーゼル
……
つ、つまり……
ティンパニさんはあなたたちを殴ったわけじゃなくて……
そこのクルビア商人二人を殴ったってこと!?
陽気なファミリー構成員
はぁ……
冷静なファミリー構成員
そうだよ。
陽気なファミリー構成員
まぁ、俺も殴られたっちゃ殴られたけど、あれは事故だからな。気にしてないさ。
ははっ、このおっさん、足を引きずってるくせに、腕力すげえのなんのって!
ティンパニ
まあ、俺はプロの打楽器奏者だからな!
冷静なファミリー構成員
まさかこのおっさんが二発目を繰り出した時、あのデブのクルビア人がよろけて偶然避けるなんてな。
警察
こほん。
ひとまず、経緯をご説明しますね。我々は、街中で四名が騒ぎを起こし、その後六名が入り乱れての乱闘騒ぎになっているという通報を受けて、現場に向かいました。
現場に着いて話を聞いてみると、こちらのクルビアの方々は、ベッローネの経営するアルドール・ホール・ホテルで、ファミリーの構成員――いえ、従業員たちとトラブルになったそうで。
その後、従業員たちに連れられ、クルビアのお二人はホテルを後にしたそうですが、通りに出た途端、クルビアのお二人のほうから急にまた手を出してきたんだとか。
そこへ通りがかったシュヴァルツァーフォーハン管弦楽団のお二人が仲裁に入ろうとしたのですが、結果としてクルビアのお二人と揉めてしまったそうです。
冷静なファミリー構成員
そうさ、全部あのデブが悪いんだ。酒のにおいをプンプンさせたまま、うちのホテルの受付嬢に嫌がらせを――
腹の出た商人
い、嫌がらせなどしていない!
私はただ、金を払って普通にホテルを利用していただけなのに、いきなり殴られたんだぞ! 言っておくが、この件は絶対に許さないからな!
冷静なファミリー構成員
ハッ、「許さない」なんてよく言えたもんだな。
事の発端は、酔っ払ったお前らがロビーのど真ん中で、「どうして列に並ばなきゃならないんだ」だの「一番広くて高級なファミリーの幹部っぽい部屋を用意しろ」だの大声で騒いだことだろうが!
何が「ファミリーの幹部っぽい部屋」だ。うちは真っ当なホテルなんだぞ。バカなこと言いやがって!
陽気なファミリー構成員
おかげで並んでチェックインを待ってたゲストが全員怖がって出て行っちまったじゃねえか! どう責任取ってくれるんだ?
ティンパニ
まったくだ! 俺は入り口で全部見てたが、受付の女の子は怖がって泣いてたぞ!
ファゴット
(小声)おい、少し黙ってろって!
ファゴットはそう言ってティンパニを思い切りつねった。すると、ティンパニは思わず痛みに声を上げ、反射的に顔を上げて、そこで青ざめたリーゼルと目が合った。
リーゼル
……
ティンパニ
……
その、すまん、リーゼル……こんな夜中に呼び出すことになって……
ファゴット
実は、俺たちの身分証に書いてある緊急連絡先は、リーゼルの番号になっててな……昔、パオラにそうするように言われたんだ、それで……
いや、俺も悪かった! 何が何でもティンパニを止めるべきだったんだ!
ティンパニ
リーゼル、な、何か言ってくれよ。黙られると怖くなってくる……
リーゼル
……
つまり二人は、無関係なのにわざわざ首を突っ込んでおせっかい焼いてこうなったの?
ティンパニ
えっ? あー……そ、そういうことになる、みたいだな……
その場にいるベッローネの二人とクルビア商人たちは互いに睨み合うばかりだ。その光景を見て、リーゼルは不意に言葉を失った。
ティンパニとファゴットは、雨に打たれた羽獣のように真ん中で小さく縮こまって座り、許しを請うようにリーゼルを見つめていた。
リーゼル
ああ、もう……
こんなふうに呆れて言葉も出なくなったのは、いつ以来だっけ……
初めに埠頭でパオラの誘いを受けた時、「ティンパニ」になる男は少し困惑しつつも首を横に振り、再び杭打ちの作業に戻った。
その音がリズミカルに響く中、リーゼルは、パオラが不意に背筋を伸ばして襟元を軽く整えるのを見た。
パオラ
現場監督さん、この方の代わりに、私のほうから退職の申し出をさせてください。
この方は今後、私と共に美しい音楽の可能性を広げていく予定ですので、ここで杭を打っているわけにはいかないのです。
それでは、失礼しますね。
ティンパニ
えっ?
現場監督
――いや、ちょ、ちょっと待ってくれ!
退職だって!? こいつを連れて行っていいなんて、誰が言ったんだ?
パオラ
あら、ダメでしたか?
現場監督
あ、当たり前だろ! 臨時で雇った人間とはいえ、杭打ち作業は終わってないし、今シュラーガーを連れて行かれたら進捗に遅れが出ちまうだろ!
パオラ
まあ! そうだったのですね。
では、このくらいお金を出せば足りますか? これで、この未来のティンパニ奏者さんと同じくらいのスキルを持った職人さんを雇ってもらえたら、作業に遅れは出ませんよね?
現場監督
えっ……?
現場監督は、パオラの言動に言葉を失っていた。立て続けに飛び出してくる突飛な発言に、「ティンパニ」になる男も杭を打つ手を止めて、その場で呆然と立ち尽くしていた。
パオラの後ろに立っていたリーゼルは、笑い半分、怒り半分で、懸命にパオラの裾を引いた。
幼いリーゼル
(小声)パオラおばさん、それ、私たちの一週間分の食費だよ。
パオラ
あら、そうだったの?
一瞬、何とも言えない空気が流れたが、パオラの気が変わるのを恐れたのか、現場監督は慌てて、差し出された金を掴むと、「ティンパニ」に向けて手を振った。
現場監督
おーい、誰か! もう一人杭打ちを見つけてきてくれるか――
現場監督は振り返ってそう叫ぶと、足早に三人の元から去っていった。
ティンパニ
……え?
幼いリーゼル
はぁ……
パオラ
ごめんなさい、リーゼル……やっぱり、お金の管理はあなたに任せておいたほうがいいみたいね。
こうなったら――この三人で今から、街頭で即興演奏してみましょうよ! 夕飯分のお金くらいはきっと稼げると思うから!
あの日見た燃えるような夕日が、リーゼルの記憶の中で、再び鮮やかな色を取り戻した。
夕暮れの中で呆然とする「ティンパニ」と、満足そうに笑っているパオラ、そして呆れて首を横に振る自分。すべては、美しい未来を思い描いた時のような温かさに包まれていた。
リーゼル
……ふふっ。
うちの家族って、みんなほんとにバカだなあ。
パオラおばさんも、ティンパニさんも、ファゴットさんも、トロンボーンさんも、みんなみんな……もちろん私は、一番どうしようもないバカだけど。
自分の家族を疑うなんて……あんなこと、みんながするはずないのに。
ティンパニ
なあリーゼル、大丈夫だからな! カッとなってやっちまったおじさんが悪いんだし、その代償は受け入れるよ。だから心配するな!
何日か捕まることにはなるんだろうけど、食うに困ってた貧乏暮らしの頃を思えば――
リーゼル
ティンパニさん、それよりちょっと、ビートを刻んでもらってもいい? なんでもいいから、好きなリズムで叩いてみて。
ティンパニ
それって、どういう……
ティンパニは「自分の行いの責任くらい自分で取る」と力強く宣言するつもりで言葉を続けていたところだったが、リーゼルの急な頼みに思わず言葉を飲み込んだ。
そして、ファゴットと顔を見合わせて、その後、両側に座っているベッローネの構成員とクルビアの商人とも、目を合わせた。
しかし、それでもリーゼルの声には不思議と揺るがぬ説得力があった。そこで、ティンパニは我知らず、鉄格子をリズム良く叩き始めた。
そのリズミカルな音を背景に、リーゼルはすっと背筋を伸ばして、襟元を軽く整えると、腹の出たクルビア商人に向き直った。
リーゼル
こほん! まずは改めて自己紹介をさせてください。私はシュヴァルツァーフォーハン管弦楽団の責任者、リーゼルと申します。
我々は、ヌオバ・ウォルシーニで随一のプロ・オーケストラなのですが、それはこのティンパニ奏者による完璧な即興演奏をお聞きいただけば、きっとご理解いただけることでしょう。
実のところ、その隣にいるファゴット奏者も優れた演奏技術を持っているのですが、今は楽器がありませんので、この場でお聞かせできないことが残念でなりません。
腹の出た商人
……
リーゼル
さて、ご挨拶はこの辺りにして――まずは、本日のトラブルにつきまして、心よりお詫び申し上げます。
楽団の人間があなたに暴力をふるったことは紛れもない事実ですので、彼らに代わり、私のほうから謝罪させてください。
あなたははるばるクルビアからいらした商人さんなのですよね。今はヌオバ・ウォルシーニで、高級商業施設「ピアッツァ・パラゾータ」の開業に向けて準備を進めていらっしゃると聞いております。
あなたがこの都市をお選びになったのは、その潜在能力や、秩序の在り方、そして将来的に形成される文化的な雰囲気に期待なさったからではありませんか?
そうであれば、私のほうから、一つご提案がございます。今回の件のお詫びとして、演奏をさせていただきたいのです。
我々シュヴァルツァーフォーハン管弦楽団が、「ピアッツァ・パラゾータ」のオープンセレモニーに合わせて、特別公演を行うというのはいかがでしょう。もちろん費用はいただきませんので。
腹の出た商人
と、特別公演?
リーゼル
はい。そちらのご都合の良いお時間に会場へ伺い、フル編成のオーケストラが、名曲の数々を演奏いたします。照明や舞台進行も含めて、コンサートホールに引けを取らないクオリティで。
指揮を執るのは、パオラ・メミンガーの娘である私です。指揮者としての技術は、高名な母に劣らないと自負しています。私は母から直々に指導を受けた弟子であり、その誇りたる娘ですので。
仮に公演のあと、我々とその後の契約を結ぶ価値はないとお感じになられたとしても、セレモニーの注目度は高まるでしょうし、そちら様に損はさせません。
そして、我々の演奏に価値を見出していただけたのなら、きっとこうお思いになるはずですよ――「ピアッツァ・パラゾータ」を、この都市初のオーケストラが常駐する商業施設にしてみたいと。
このお話をいたしましたのは、ヌオバ・ウォルシーニで投資価値のあるオーケストラといえばただ一つ、シュヴァルツァーフォーハン管弦楽団であるという事実を知っていただきたいからこそです。
腹の出た商人
……
困惑している商人
あのー、社長……もしかすると……悪くないお話なのでは?
腹の出た商人
……確かに、損はしなさそうだな。
冷静なファミリー構成員
おいおい! まずはきっちり話し合って、どっちが悪いかをはっきりさせるべきじゃないか?
腹の出た商人
まあそう言うな……このお嬢さんがここまで言うからには、白黒つける必要もなかろう!
我々も、わざとトラブルを起こしたわけではないし……
冷静なファミリー構成員
よく言うな。
腹の出た商人
ひっ!
リーゼル
ご結論はいかがでしょうか?
腹の出た商人
……良いだろう! 公演の段取りはすべて君に任せるぞ。オープンセレモニーの時には、君たちの演奏で宣伝をしてもらうとしよう。ただし――
うちは高級路線で売り出すからな……決してがっかりさせないでくれよ。
リーゼル
ええ、もちろんです。
そんなやり取りがされる中、ティンパニとファゴットは石像のように固まっていた。
そして、事態の収拾がついたのを見た警察が、呆れたように手を振りほかの人々を帰らせたところで、ようやく二人は我に返り、呟いた。
ティンパニ
リーゼル……さっきの君は、パオラそっくりだった。
ファゴット
いや、それどころかパオラより……どう言ったものかな。パオラよりパオラらしかったよ!
リーゼル
だって私は、パオラおばさんの娘で――
シュヴァルツァーフォーハン管弦楽団の指揮者、リーゼル・メミンガーなんだからね。
舞台を終えたのち、リーゼルは楽屋に座っていた。その周りでは、楽団員たちが楽しそうにおしゃべりをしている。
リーゼルの手元には、少し黄ばんだ楽譜が何枚か広げられていた。それはパオラが残した、まだタイトルもつけられていない四重奏の譜面だ。ページの端には、書き直された跡が何ヶ所か残っている。
パオラが一番気に入っていたあの曲は、つい先ほど、クルビア人が用意した華やかな舞台の上で、会場いっぱいの拍手を浴びたばかりだった。
リーゼルは手を伸ばし、色褪せたインクの跡をそっとなぞると、立ち上がって団員たちへと向き直った。
リーゼル
みんな、オーケストラに残ってくれてありがとう。
ここまでは……本当に苦しくて、理不尽なことばかりの数日だったけど、それでも私たちはこの公演をやり遂げたし、これからも数え切れないほどの公演をやり遂げていくんだと思う。
パオラおばさんの想いと、シュヴァルツァーフォーハン管弦楽団の名前と一緒にね。
だからこそ、みんなにどうしても話しておかなきゃいけないことがあるんだ……
事件の日、私はパオラおばさんを殺した真犯人を見たの。
だから、必ずその人を見つけ出して、法の裁きを受けさせないといけないと思ってるんだ。
その人は……ループスじゃなかった。だから多分、ベッローネの人じゃない。
私が見たのは、キャプリニーだったの。