新たな秩序
???
本当にありがとうございます、若旦那様!
あなたとベッローネファミリーがいなければ、この先どうすればいいかと途方に暮れていたところでした。
レオントゥッツォ
……よしてくれ、エリオおじさん。俺は大したことはしていない。
エリオ
いやいや、あなたとベッローネファミリーの名があればそれだけで十分ですし、特別何かをしていただく必要などありませんよ。
この前も、大家が家賃の取り立てに来ていた時に、ちょうどあなたが訪ねてきてくださったので、あなたの顔を見て大家が少し考え直してくれたんです。
あなたがお帰りになったあと、大家は「家賃の支払い期限を二週間引き延ばす」と言ってくれましてね。おかげで、なんとか用立てる方法を考える時間ができました……
レオントゥッツォ
だが、なぜなんだ? どうしてこんな状況に……果物屋はどうしたんだ?
エリオ
はは……とっくに売りましたよ。
うちのエマが、夏に高熱を出しましてね。熱は下がったんですが、そのあと急に足が動かなくなってしまったんです。
幸い、ディミトリが腕の良いお医者様を紹介してくれまして……その先生いわく、それは子供が夏によくかかる重い病気で、ちゃんとした治療を受けないと一生立てなくなってしまうのだとか。
そこで私は屋台を売り、親戚からお金をかき集めて、ひとまず治療費の一部をお支払いしました。残りはこの先、分割で先生にお返ししていこうと思っています。
ともあれ、おかげであの子は助かりました。今のエマは、足を少し引きずっている以外は元気いっぱいです。家賃や、お医者様への返済は……まあ、なんとかなりますよ。
レオントゥッツォ
……エリオおじさんは、ずっと街角のあの場所に屋台を出していただろう。俺もディーマも……子供の頃から、あの屋台のオレンジが大好きだった。
隣人同士、長い付き合いなんだから、もっと早く相談してくれたら金を貸すくらいできたのに。そうすれば、屋台を売る必要は――
エリオ
いやいや、そうはいきませんよ。とんでもない金額でしたから、仮にそう言っていただいたとしても、受け取れません。
それに、あなたからお金を借りても、その場しのぎにしかならないでしょう。結局家賃は毎週払わなければならないわけですから。
ですが、今はベッローネの庇護下に入れていただいたおかげで……大家も「家賃を払えないならすぐに出ていけ」とは言わなくなりましたし、パン屋もツケで食べ物を分けてくれるようになりました。
レオントゥッツォ
……だが、おじさんはずっと……ファミリーに関わるのを嫌がっていただろう。
普通の人間は、ファミリーに関わる必要はないし、関わるべきじゃないといつも言っていたのを、俺は覚えている。真面目に働いて、自分の暮らしを大切にするのが一番だ、と言っていたはずだ。
エリオ
ははっ! それは私があまりにも世間知らずで考えの甘い人間だったからですよ。
ファミリーの存在意義というのは、争いや殺し合いのみにあるわけではないのです。その事実を、私もこの歳になってようやく理解したのですよ。
レオントゥッツォ
……
エリオ
ですが、ご安心ください。私も恩知らずではありませんので。
ベッローネファミリーに助けていただいたからには、この先私でお役に立てることがあれば、何でもするつもりですよ!
レオントゥッツォ
……
……わざとこうしたんだな、ディーマ?
この前、最近エリオおじさんの屋台を見かけない理由をお前に聞いた時、「おじさんは家族を連れて故郷の親戚の葬儀に行っている」と答えただろう。
だが、本当はエマが重い病気にかかったことを知っていたんだ。
一昨日急に、このレストランでピッツァを買ってきてくれと俺に頼んできたのも……エリオおじさんがここを通った時、俺に気付くはずだと思ったからだな。
ディミトリ
今回のことは良い対応だったと思うぞ、レオン。
レオントゥッツォ
お前に誘導されるがままにやったことが対応と呼べるものか。もっと早く知っていれば――
ディミトリ
知っていたとしても、何もできなかっただろうな。あの人の人生にこの先どんな困難が訪れるかなんて予測することはできないし、個人で与えられる助けには限界があるんだから。
レオントゥッツォ
だがそれでも、おじさんに望まぬ選択を――ファミリーとの関わりを強要せずに済んだはずだ!
ディミトリ
今この瞬間、彼を助けられるのはファミリーだけだった。
レオントゥッツォ
俺はそうは思わない。ファミリーの名を借りて虚勢を張ることが、あの人にどれだけ大きな代償を支払わせることになるか……それにファミリーがいつまであの人の後ろ盾になれるというんだ?
あの人にとって本当に必要なのは、仕事上のチャンスだ。加えて俺たちは――シラクーザという国は、制度で市民の生活を保障すべきだ。ファミリーの力に頼っていては、根本的な解決にはならない。
ディミトリ
俺がこの件を通してお前に学んでほしかったことは、善意による施しでもなければ、他人への思いやりでもない。
お前はいずれベッローネファミリーを継ぐ跡取りだ。
適切なタイミングで援助すれば、人はその恩を忘れない――これは優れたドンであれば誰もが知っているようなことだ。こうして貸しを作っておけば、いずれ必ず役に立つからな。
レオントゥッツォ
随分冷たい言い方だな。それならどうして、エリオおじさんに裏でこっそり医者を紹介するような真似をしたんだ?
単に人に恩を売ることを覚えさせたいだけなら、その役目は俺にやらせればよかったはずだ。
思うに、お前はその時点ではエマの病気がそこまで深刻だとは思っていなかったし、おじさんが果物屋を売る羽目になるとは思っていなかったんだろう。
となれば、その時はただおじさんを助けたいと思っていただけで、そこにファミリーは関係なかったはずだ。
ディミトリ
結局のところ……俺たちは、自分の力の及ぶ範囲のことしかできない。そうだろう?
それに、エリオさんの屋台のオレンジは最高に美味かったからな。果物を見る目がある店主が、報われてほしいと思っただけさ。
チャレク
どうか、私のコンクールで殺人を犯したあのマフィアのボスを、法の下に裁いてください! 市長さんのお力を持ってすれば、このくらいは簡単なことですよね?
レオントゥッツォ
チャレクさん。ディミトリ……いや、ベッローネの裁判は本日午後に行われる予定だ。その結果を見るまでは、彼はあくまで容疑者にすぎない。
チャレク
ですが、彼以外の誰がやったと仰るのですか? 彼は私を競合相手とみなしていますし、裏で小細工を仕掛けてきたことも一度や二度ではありません。
現に、私のワインは貯蔵庫に保管したうえで、専用の警備員を雇って見張らせていたというのに、サルッツォ酒造のワインにすり替えられていたのですよ!
殺人事件の第一容疑者でありながら、あの男は会場から連行された後は、単に自宅に閉じ込められ、外出を禁じられる程度の制限しか設けられていません。
さらには、彼の元を慰問を理由に訪れる者や、後ろ暗い企みを持ち掛けに行く者は後を絶たぬ始末です!
今やヌオバ・ウォルシーニの人々は皆、彼は無実だと言っており、サルッツォ酒造の商品は飛ぶように売れています。
一方でこの哀れなチャレク・ラドスワフは、懸命に注力してイベントを開き、この活気あふれる新都市でささやかな商売を営めたらと思っていただけだというのに、何一つ得られずじまいでした!
レオントゥッツォ
だが、カジミエーシュで発行されている『ザ・レッドワイン』の国際ニュースでは、今回の殺人事件について大々的に報じられ、その結果あなたのコンクールも大きな知名度を得たと聞いている。
それに、あなたはすでに次のワインコンクールに向けて参加企業を募集し始めており、クルビアやリターニアからの参加希望者も現れているそうだが。
チャレク
しかし、私が本来手にするはずだった利益は、この程度で収まるものではなかったのです。現状はただ、損失を最小限に抑えようとしているだけなのですよ。
レオントゥッツォ
チャレクさん、確かに我々は『新都市管理法』に従い、公正にこの都市を管理していくことを約束している。だが、政府は特定の商人のためだけに存在しているわけではない。
あなたであれ、ほかの誰であれ、それは同じことだ。
チャレク
そうでしょうか? 聞くところによると、市長さんはベッローネさんと幼少期より共に育っておられたとか。そして今や、彼があなたのファミリーの名を継いで名乗っているそうですね。
レオントゥッツォ
俺はもうベッローネファミリーとは無関係の人間だ。
チャレク
ですが、彼がファミリーの一員であることに変わりはありません。さらに言えば、彼はどこよりも由緒正しきシラクーザのファミリーの一員なのです。
この新しい都市において商人の皮を被っていても、彼が何より信じ親しむ手法は、ファミリーのやり方でしかありません。
レオントゥッツォ
……彼を訴えるには証拠が必要だ。すべては正式な裁判のもとで判断されることになる。
チャレク
無論、ルールには従いましょう。
ですが、どうかお忘れなきようお願いします。
『新都市管理法』が公布されて以降、カジミエーシュ、クルビア、そしてリターニアから多くの商人がこの都市を訪れ、貿易に参加するようになりました。
我々が――少なくとも、商業連合会に属する商人が、シラクーザの中でもこの街を選んだのは、ヌオバ・ウォルシーニにファミリーは存在しないからです。かつてあなたはそう約束なさったのですよ。
商人が去った後も、レオントゥッツォはしばらくの間、その場から動けずにいた。
ラヴィニア
随分疲れてるみたいね。またあの商人に絡まれたの? それとも、ディミトリの件?
レオントゥッツォ
はぁ……
あの商人は、俺たちが公平な裁判を行わないはずだと思い込んでいる。だから後ろ盾である商業連合会のことを持ち出して、圧力をかけようとしているんだろう。
ラヴィニア
確かにサルッツォ酒造は、ディミトリの経営手腕もあってヌオバ・ウォルシーニでは確固たる地位を得るに至っているけれど……
地元の酒造会社という立ち位置は抜け出していないし、チャレクさんのゴールデン・プレーンに対抗できるほどの企業力はないわ。
それでも彼がディミトリを執拗に追い詰めようとしているのは、競争相手だからという単純な理由でもなければ、コンクールの一件があったからでもないのでしょう。
レオントゥッツォ
ディーマのことは……チャレクとその背後についているカジミエーシュ商業連合会が求める「きっかけ」に過ぎないんだろう。
ヌオバ・ウォルシーニの地元商人の多くは、かつては多少なりともファミリーとの関わりがあったからな。
仮に、ファミリーとの関係性という点が、地元商人を告発するに足る理由とされ、それがまかり通ってしまえば、ヌオバ・ウォルシーニの産業は強い圧力を受けることになる……
ラヴィニア
けれど、私たちには外国の資本家が必要だということも事実よ。
こちらは彼らから新しい技術を学ばなければならないし、彼らが提供してくれる資金や商品を必要としているもの。
レオントゥッツォ
言ってしまえば、彼らがもたらす競争すらも必要だからな。その圧力があってこそ、こちらの産業が発展していくことは確かだ。
そういったことは、すべてわかっている。
だが、今の状況は俺たちが当初思い描いていたものとは大きくかけ離れているだろう、ラヴィニア……
ラヴィニア
そうね。当初は、ただファミリーの存在しない都市を作ることを目標として、どの勢力にも偏らず、公平かつ公正に、この移動都市における事務をこなしていくことを目指していたから。
けれど、現実にはこの都市は、シラクーザに入ろうとする者を無防備に受け入れる玄関口のように扱われ、様々な思惑を持つ外部の人たちを招き入れるに至ってしまった。
真っ先に『新都市管理法』の抜け穴を突いてきたのは、カジミエーシュ人だった。
チャレクさんとその仲間たちが推進している、競合製品の取り扱いにまつわる排他的な契約だけでも、地元の幅広い産業や商品に大きな打撃を与えているわ。
レオントゥッツォ
それに、物流契約もだ。高額な違約金を設定して、地元の運送業者たちを追い詰めている……
ラヴィニア
そうね。エイレーネが現状について話してくれたけれど、おそらく商業連合会は、政府の運送管理局を形骸化させるつもりなんでしょう。
それに、他部署からの報告を見るに、運送以外にも、エネルギー産業や医療産業にまで介入しようとしている兆しがあるわ。
レオントゥッツォ
……シティホールの先月のデータでは、サービス業を営む多くの地元の店舗が立ち行かなくなり、製造業の発展も厳しい状況に追い込まれているのが見える。
外国資本の企業や店はかなり増えているが、彼らは自国の労働者を雇う傾向が強いからな……このままでは、ヌオバ・ウォルシーニ市民の雇用機会が減っていってしまうだろう。
物価についても、俺たちのほうで高騰を抑制する手立てを打ってはいるが、それでも上昇傾向だ……
ヌオバ・ウォルシーニの市民の暮らしは、豊かだとは言えない。
ラヴィニア
そんな中で私たちは、カジミエーシュ人にクルビア人、そして――
シラクーザ全土から、あるいは様々な目的のために故郷を出てやってくるリターニア人とも向き合わなければならない。
レオントゥッツォ
ああ。彼らからすれば……
俺たちが追い求めてきた公平と公正は、今なお意味あるものなのだろうと、俺は信じている。
だが、その理想を叶えるために、ヌオバ・ウォルシーニ市民の生活を犠牲にせねばならないとしたら、俺たちの言う公平と公正は形だけのものでしかない。
ラヴィニア
……そうね。
レオントゥッツォ
ずっと考えていたんだが……前にも話した通り、『新都市管理法』は改正が必要なのかもしれないと――
ラヴィニア
改正案はまとめてあるわ。確認する?
レオントゥッツォは、ラヴィニアが差し出した改正版の草案を受け取った。
たった二枚の紙に書かれた内容を読み終えるのに時間はかからないはずだったが、レオントゥッツォは何度も目を通してからようやく顔を上げた。
レオントゥッツォ
外国製品への関税の引き上げ……
運送、金融、エネルギーといった中核産業を外国企業に支配されないよう、かつてファミリーに属していた勢力による、自治体や公共団体への関与にまつわる制限緩和……
一部のファミリーが運営している企業に、フランチャイズのライセンスを発行する……
これは……少しやりすぎじゃないか? 時代に逆行した内容だ、政府がファミリーへの利益供与を認めている、と世間からの批判を受けてもおかしくないぞ。
改正を提案したのは俺だが、この内容では受け入れられない。
ラヴィニア
そう思うのも無理はないわ。
あなたは誰よりも、ヌオバ・ウォルシーニにファミリーを関わらせたくないと思っているでしょうから。
レオントゥッツォ
それを知っていてなお、外国資本に対抗するためにファミリーの力を引き入れようというのか。
ラヴィニア
ヌオバ・ウォルシーニの政府……私たちの権力は、結局のところミズ・シチリアの一時的な承諾の上に成り立っているに過ぎないことは、お互いわかっているはずよ。
悔しいけど、今のシラクーザにおいて、人々をまとめ上げるに足る力を持っているのが、依然としてファミリーであることは事実……
私たちにできるのは、ファミリーの勢力拡大を制限し、彼らが争い合って力を浪費しないようにさせ、そして何よりファミリーに属さない一般市民の利益を侵害させないようにすることなのよ。
これは簡単な決断ではないし、私自身、この草案を今のタイミングで提出するのは不適切だと思うわ。
大多数のヌオバ・ウォルシーニ市民は、外国資本がもたらした雇用機会と安価な最新商品の恩恵を享受している。
カジミエーシュ人のビジネスのやり方に多少不便さを覚えている人はいても、それすら、かつてファミリー同士の抗争がもたらしていた混乱に比べれば……
大した問題だとは思っていないでしょう。
執務室に沈黙が落ちる。
ラヴィニアの言うことはすべて正しいと、レオントゥッツォにはわかっていた。というのは、彼自身同じようなことを思っていたからだ。
それでも、決断を下すことは容易ではなかった。
レオントゥッツォ
あんたの言いたいことはわかる。
だが、チャレクや商業連合会が、ディミトリの裁判という「きっかけ」を必要としているように、俺たちにも、自分自身とこの都市の人々を納得させるだけの「きっかけ」が必要なんだ。
ラヴィニア
ええ。おそらくそれは、すぐに訪れるわ。
ある午後、法廷の傍聴席は満席となった。この裁判が、多くの人々の関心を集めているのは明らかだ。
傍聴席にはこの都市のシラクーザ人のみならず、チャレクのカジミエーシュでの取引先や、リターニア人の楽団員、さらにはクルビアの商人の姿まであった。
そして、その全員の視線は、被告席に座るディミトリ・ベッローネに注がれていた。
ラヴィニア
『新都市管理法』に基づき、ヌオバ・ウォルシーニ刑事裁判所はこれより、パオラさん殺害事件に関する被告ディミトリ・ベッローネに対する公訴、事件番号01452の審理を開始します。
ディミトリ
……
ラヴィニア
では始めに、トマゾ・エスポジートの証人尋問を行います。
エスポジートさん、あなたはサルッツォ酒造のマネージャーで、同社の貨物輸送の調整を担当していますね?
トマゾ
はい、そうです。
ラヴィニア
二週間前、ゴールデン・プレーン酒造が主催するワインコンクールの前日、あなたは運送管理局のサムに電話をかけましたね。
そして、彼にサルッツォ酒造のワインを二本、会場へ運ぶよう依頼したはずです。
トマゾ
ええ。あの時期はすごく忙しくて、コンクールに出すワインを会場に送り忘れていたんです。
はぁ、商売が繁盛しすぎるのも面倒ですね。
ラヴィニア
サムはバイクでワインの運搬を行っていた際、同じ運送管理局のドライバーであるジャンニのトラック事故に遭遇しました。当時ジャンニは、ゴールデン・プレーンの貨物を運んでいました。
偶然にも、ジャンニが運んでいたワインも、ゴールデン・プレーンがコンクールの決勝のために用意していたものであり、奇妙なことに、あなたもその事故現場に居合わせていたそうですね。
トマゾ
奇妙ってほどでもないでしょう。誰だってギリギリになるまで仕事を放っといてることくらいあるもんですし、俺が通りかかったのもそれだけの理由ですよ。
俺は会場にいるオーナーに、頼まれごとは全部順調に進んでると報告しに行くところで、あの事故に出くわしたんです。目的地が同じなんで、通りかかっても不思議じゃないですよね。
ラヴィニア
あなたは事故現場でサムと協力してジャンニを救急車に乗せ、その後二人のドライバーに代わって後処理を引き受けたそうですが――
ここで重要なのは、あなたがサルッツォ酒造のワインを二本、ゴールデン・プレーンが会場へ送る予定だったワイン用木箱の中に入れたということです。
トマゾ
……ゴールデン・プレーンの連中が、ドライバーを探して手配するとか言ってたんで、ついでに運んでもらおうと思ったんです。どうせ目的地は同じなんで。
ラヴィニア
ですが、単についでに運んでほしかっただけならば、箱に入っていたゴールデン・プレーンのワインを取り出すことまでする必要はなかったはずです。
その結果として、コンクールの会場に届いた、ゴールデン・プレーンだと思われていたワインは、サルッツォ酒造のものにすり替わっていたわけですが。
トマゾ
それはあいつらの確認が甘いからですよ!
もう少しちゃんと確認していれば、こんな間違いが起きることもなかったはずです。裁判官もそう思いませんか?
ラヴィニア
……質問は以上です。
では、続けてレティツィア・マローニの証人尋問を行います。
マローニさん、あなたはヌオバ・ウォルシーニの警察学校に勤めている毒性学の専門家であり、法医学者でもありますね。
今回の殺人事件において、あなたはパオラさんの遺体解剖及び、事件に関連する食器類とワインの鑑定を担当されたと聞いています。
レティツィア
はい。
ラヴィニア
結果を簡潔に述べてもらえますか。
レティツィア
承知しました、裁判官。
解剖の結果、パオラさんの死因はシアン化合物中毒であることが判明しました。
また、彼女が使用していたワイングラスからはシアン化合物が検出されましたが、中のワイン自体からは検出されませんでした。
ラヴィニア
つまり、犯人はサルッツォ酒造のワインに毒物を混入させたわけではなく、グラスにシアン化合物を塗布していたということでしょうか。
レティツィア
現時点の物証からすると、そのような推測になるかと。
ラヴィニア
では次に、リーゼル・メミンガーの証人尋問を行います。
小柄なキャプリニーが、彼女を囲む楽団員の中から歩み出て、ゆっくりと、しかし確かな足取りで証言台へと向かっていく。
ラヴィニア
メミンガーさん、あなたはシュヴァルツァーフォーハン管弦楽団の団員で、被害者のパオラさんの養女ということで間違いありませんね?
リーゼル
はい。
ラヴィニア
ワインコンクール当日、あなたは、コンクール出品用のワインや食器が保管されていた貯蔵庫を確認しに行ったそうですね。
リーゼル
はい。
ラヴィニア
そして、貯蔵庫の中で、あなたは警備員でもなければ、コンクールの関係者でもない人物とすれ違ったと。
リーゼル
……はい。
ラヴィニア
その人物が貯蔵庫で何をしていたのかは見ましたか?
リーゼル
ええと……その人が、グラスを手に取ったのを見ました。でも、その時はちょっと変だなと思っただけだったんです。
貯蔵庫の様子に変わったところはありませんでしたし、うっかり迷い込んでしまったお客さんかなと思っていました。
ですが、もし……その人が何をしたのかを知っていたなら、絶対にその場で止めていました。そうしていれば、パオラおばさんも……
リーゼルの声はわずかに震え、次第に小さくなっていった。彼女はうつむき、身体を縮こまらせたが、やがてもう一度背筋を伸ばすとまっすぐに立った。
ラヴィニア
お悔やみを申し上げます。
その人物の顔は、はっきりと見えましたか?
リーゼル
すれ違ったのが一瞬だったので、ちらっと顔は見えましたが、はっきりとは。
ラヴィニア
その人物が誰なのかはわかりますか?
リーゼル
いいえ、まったく知らない人でした。服装もごく普通に見えましたが、後から思うと、うちの団員に変装して警備員の目をごまかそうとしていたのかもしれません。
正体はわかりませんが、一つ確かなこととして、その人は……シラクーザでよく見かけるようなペッローやループスではありませんでした。
その人の頭には、キャプリニーの大きな角が生えていたんです。
静かな水面に一石が投じられたかのように、法廷にざわめきが広がる。
ラヴィニアはさらにいくつか質問を重ねていき、リーゼルはほかの団員のアリバイを証明するために、当時彼らがどこで何をしていたのかを、一人一人詳細に説明していた。
しかし、そのすべてに耳を傾けている者はもはやいなかった。
短気な陪審員
やっぱりベッローネは犯人じゃないんだな。最初から、彼が犯人だと決めつけること自体、筋が通ってないと思ってたんだ。
ワインコンクールで優勝した彼が、指揮者を殺して何の得がある?
疑り深い陪審員
裏に何か、我々の知らない事情があったのかもしれないだろう?
それに、彼ならキャプリニーを雇って実行させることだってできるはずだ。
チャレク
あの男の部下は、我々の会社が買収したワイナリーを故意に破壊してきたことすらある。奴は常に我々の商売の邪魔をしてきたんだ!
ラヴィニア
静粛に!
では、エリオ・ファブリの証人尋問を行います。
レオントゥッツォは、旧知のその人へと驚きと共に視線を向けた。
彼には、なぜエリオがこの場にいるのかがわからなかった。
そもそもレオントゥッツォは、エリオがこの都市に来ていたこと自体知らなかったのだ。
ラヴィニア
ファブリさん、あなたはサルッツォ酒造の従業員として、同社のワイン生産ラインで使用するブドウを調達する業務に従事なさっていますね。
エリオ
はい、裁判官。
ラヴィニア
三週間前、あなたは仕入れのため、ヴェルディ醸造所に連絡を取ったかと思います。
エリオ
ええ。カジミエーシュの企業が進出してきて以来、ヴェルディ醸造所の経営は苦しくなっていましたが、それでもあの会社のブドウには、素晴らしい香りを生み出すに足る潜在能力がありますので。
弊社はヴェルディ醸造所と長く取引をしておりまして、あちらが自社生産で使い切れない余剰の原料を以前から仕入れさせてもらっていたのです。
今回のご相談も、通常業務の一環でした。
ラヴィニア
ですが、その相談の過程で、あなたはもうじきゴールデン・プレーン酒造がヴェルディ醸造所を買収するということを知りましたね。
エリオ
……はい。
ラヴィニア
そこで、あなたはヴェルディ醸造所の従業員ニコロと共謀し、ワイナリーの生産設備を破壊するに至った。
さらに、あなたは単独でワイナリーの給排水設備までもを破壊し、その結果ゴールデン・プレーンはワイナリーを引き継いだあと、多額のメンテナンス費を負担せざるを得ませんでした。
エリオ
……はい。
ラヴィニア
あなたは、ご自身のその行いが不正競争に当たることを理解していたはずです。加えて、それは『新都市管理法』の関連条項にも違反しています。
なぜそのようなことをしたのですか? あなたの行動はサルッツォ酒造のオーナーであるディミトリ・ベッローネの指示によるものですか?
彼は、ゴールデン・プレーンの真っ当な商業活動を妨害する意図を持っていたということですか?
エリオは、すぐには答えなかった。
傍聴席に座っているカジミエーシュの商人たちはすでに静かになっており、その表情には再び余裕が戻っている。
一方で、レオントゥッツォには、被告席にいるディミトリの穏やかな表情の下にある感情を読み取ることができなかった。
エリオ
あれは誰の指示によるものでもありません、裁判官。
私があんなことをしたのは、ヌオバ・ウォルシーニ市民として、そしてシラクーザ人として持つ誇りと不安ゆえなのです。
ゴールデン・プレーンが我々の競争相手であることは確かですが、だからこそ私は、このカジミエーシュ企業のやり方をよく知っています。
彼らは一時的に価格を落とした商品を用いて、地元の小さな酒造の活路を閉ざし、立ち行かなくなった地元企業を次々と買収していくのです。
しかし、その買収後、彼らがそのワイナリーを真剣に経営することはなく、ましてや個々の会社が持っていた独自の伝統醸造技術や商品を守ることもありません。
彼らは利益と効率だけを理由に元居た従業員を解雇し、形だけの経営をしばらく続けたのち、生産を止め、ブドウ園を放置して、荒れ放題にしてしまうのです。
ヴェルディ醸造所以前にも、彼らはトリプティック酒造や、パッサディ・ヒルズ酒造、そしてドリズル酒造といったワイナリーを買収していますが……
どのワイナリーも、そうした扱いを受けています。
これが、カジミエーシュのビジネスのやり方なのです。
彼らは、私たちがブドウの枝の手入れに費やしてきた苦労も、伝統的なワインに混ざる酸味の中にこもった日常や思い出も、まるで気に掛けてはいません。
ただ単に、こうした方法で弱った競争相手を次々に潰して、この都市の商品棚を自分たちのワインで埋め尽くすことしか考えていないのです。
いずれ我々は、選択の機会すら奪われることになるでしょう。そうなった時、今は安価で売られている商品が、果たして安いままなのかということが疑問に思えてなりません。
ラヴィニア
……そのご意見には一理ありますが、それは違法な手段を用いる理由にはなりません。
エリオ
はい、承知しております。
こんな行動を取ったとて、ワイン産業はもちろん、ほかの産業においても、カジミエーシュ人の進出を止められないことも理解しています。
それでも何かせねばと思ったのです。もちろん、然るべき罰を受ける覚悟もできております。
傍聴席では再び議論の声が沸き起こり、それは次第に大きくなっていく。
ラヴィニアは手にした木槌を持ち上げたが、しばらくの間、それを打ち下ろすことはしなかった。
ディミトリ
裁判官殿、少し発言しても?
ラヴィニア
……どうぞ。
ディミトリ
ここまでの証言で、私がパオラさん殺害に関与していないことは十分に証明されたと思います。
とはいえ、エリオ・ファブリがうちの従業員であることに変わりはありません。
加えて、私の指示ではないとはいえ、彼がゴールデン・プレーンの事業に対して『新都市管理法』に抵触する行為をしたことも事実です。
確かに、彼の行動の理由は、私のみならず、傍聴席にいらっしゃる市民の皆さんにも理解できるものであるとは思います。
しかし、違法行為は違法行為ですし、法廷に対して情状酌量を求めるつもりはありません。
彼の雇い主として、私が代わりに相応の処罰を受けましょう。罰金であれ、懲役であれ。
議論の声は、木槌の音でも抑えきれないほど大きくなっていた。傍聴席の後方では、自社へと連絡を取るために新聞記者たちが次々と席を立っている。
ラヴィニアは審理の終了を宣言した。その判決は、陪審団と検討したうえで、後日改めて言い渡すことになった。
混乱のさなか、レオントゥッツォはディミトリが自分を見つめていることに気付いた。
ディミトリは手を上げると、人差し指と中指を揃えてレオントゥッツォのほうを指し示し、それから自分のほうを指した。
それは二人が子供の頃から使っていた合図だった。「会って話がしたい」という意味だ。
だが、レオントゥッツォがそれに応えることはなかった。
警備員
はい、ベッローネ邸を監視している部隊にも確認しましたが、パオラさんの事件のあと、エリオ・ファブリがディミトリ・ベッローネの家を訪れたことはありませんでした。
加えて、両者が電話で連絡をしていた記録も見つかっていません。
レオントゥッツォ
……つまり、彼が法廷で述べた内容は、すべて自発的なものだったということか。
警備員
現時点では、そのように見えます。
陪審団はまだ結論を出していませんので、当面はベッローネ邸の監視を継続し、ファブリについては一時的にここに拘留することになります。
レオントゥッツォ
彼と二人きりで話をさせてくれ。
警備員
ええ、どうぞ。
レオントゥッツォ
……エリオおじさん。
あなたもヌオバ・ウォルシーニに来ていたなんて、知らなかった。
エリオ
そうなのですか? 市長さんとラヴィニア裁判官が、ベッローネ関係者の移住申請を厳しく審査していた時に、私の名前も見ているものとばかり思っていましたよ。
レオントゥッツォ
……気付かなかった。おじさんはどうして、まだベッローネにいるんだ? 俺はてっきり……
親父を亡くしたベッローネは完全に勢いを失ったから、そのタイミングでファミリーを抜けることもできただろう? おじさんはもともと、ファミリーのやり方をよく思っていなかったはずだ。
エリオ
抜けたところで何になりましょう。果物屋を売り払ったあとも、エマには病気の後遺症が残り、薬が必要ですから、私は必死に足掻いていたのです……
ディミトリの旦那が酒造会社に私を誘い、原料の仕入れの仕事をくれていなければ、どうやって生きて行けばいいのか、見当もつきませんでしたよ!
レオントゥッツォ
ヌオバ・ウォルシーニは、自らの手で未来を切り開こうとするすべての人に、働く機会を与えるに足る場所だというのに……
エリオ
そうでしょうか? カジミエーシュ商人の圧力の中で、個人が小さな商売を始めたとして、本当に生き残れると思いますか?
レオントゥッツォ
だが、あなたのした破壊行為は、かつてのファミリーのやり方と同じだ。
エリオ
確かに、その言葉を聞くと、あなたも私も、そしてヌオバ・ウォルシーニの誰しもが、思い出したくもない過去を連想するものでしょう。
無論、自分の行いが誇れるものではないこともわかっています。ですが幸い、ラヴィニア裁判官は法廷で自分の考えを述べる機会を与えてくださいました。
レオントゥッツォ
……ラヴィニアが……彼女があなたを証人として呼んだのか?
エリオ
はい。
人生には、選択の余地もなく、自分の力の及ぶ範囲のことをするしかない時がありますから。そうでしょう?
レオントゥッツォ
……
エリオ
先ほどあなたはお尋ねになりましたね。なぜ私が、まだディミトリの旦那のために働いているのかを。
それは、あの人が今なお、ファミリーというものの最初の根幹たる信条を――
弱い者同士が集まり、互いに助け合って、もっと大きな力に飲み込まれないようにするということを、大切にしているからです。
そういえば以前、あなたの就任演説も聞きに行きましたよ。あれは確かに、正義感に満ちた、胸を打つものでした。
あなたは当時、問いかけていましたね。ヌオバ・ウォルシーニをどう思うか。シラクーザのみならず、他国の人々は、この若き都市をどう見るか。我々を、新たな可能性として見てくれるだろうかと。
今その問いに答えるならば、彼らは実際、新たな可能性として見てくれたのでしょう。自分たちが利益を得るための可能性としてね。
確かに私は、ディミトリの旦那のために働いています。
ですが、私が気にかけ、守ろうとしているのはベッローネの事業だけではありません。
私は、私たち自身の産業を、そして旦那が与えてくださった、大商人たちに対抗すべく団結する機会をも気にかけ、守ろうとしているのです。
レオントゥッツォ
……
チャレク
ようやく殺人犯の汚名をすすぐことができましたね、ベッローネさん! おめでとうございます!
ディミトリ
おや? てっきり、私が逮捕される姿をこの都市で一番見たがっているのは、あなただと思っていましたが。
チャレク
いやいや、とんでもない! すべては誤解だったのですから!
裁判においてあなたの無実ははっきりと示され、それどころか都市の誰もがあなたの度量を目にしたのです。
確かに、コンクールではハプニングもございましたが、あなたのワイナリーの優勝自体は動かぬ事実です。
今やサルッツォ酒造は、ヌオバ・ウォルシーニのワイン業界で最も知名度が高い会社だとすら言えるでしょう。実に羨ましい限りですよ!
ディミトリ
それもあなたのお陰ですよ。
チャレク
……やれやれ。
時に、次回のコンクールにも参加をなさいますよね? 連続優勝となれば、さぞ話題になることでしょう!
ディミトリ
機会があれば考えましょう。
ですが、あなたの仰る通り、サルッツォ酒造は今や、ヌオバ・ウォルシーニのワイン業界のトップとなりました。
となれば、商品価値を高めるためにもう一度コンクールに参加する必要はないかもしれないと、そうはお思いになりませんか?
チャレク
……そうですね。しかし、エリオ・ファブリがワイナリーの給排水設備を破壊した件は、多少なりともあなたにも関係があるのでは? あれは我々の所有するワイナリーなのですよ。
あなたは、彼の代わりに罰金を支払うのみならず、刑期まで引き受けようと仰いました。その精神は高潔ですが、そこまでする必要もないかもしれません。
このような些事であれば、「事件」として扱われるかどうかは、私が起訴するか否かにかかっているでしょう。何もなかったことにもできるのですよ。
ディミトリ
はっきり言っていただいて構いませんよ、チャレクさん。
何が目的なんですか? 私との関係を修復したいと仰るなら、その程度の恩を売るくらいでは足りないことはおわかりでしょう。
チャレク
ははっ、率直な方は好きですよ。
出自や経歴がどうあれ、今の私たちは商人同士。ゆえにあなたと取引がしたいのです。
ゴールデン・プレーンから、サルッツォ酒造に出資いたします。強者同士が手を組めば、シラクーザの市場を席巻することも夢ではないでしょう。
長い目で見れば、我々のビジネスはシラクーザやカジミエーシュを越え、さらに遠くまで手を伸ばしていけるはずです!
ディミトリ
なるほど。
チャレク
あなたが現状、資金にも生産技術にも、さらにはこの都市での知名度にも困っていらっしゃらないことは重々承知しております。
ですがご存じの通り、私の背後にはカジミエーシュの商業連合会がついているのです。
我々と手を組んでいただければ、商業連合会の資源を――原材料の輸出入を含めた物流経路及び、私たちと繋がりのある宣伝メディアに至るまで……
すべて提供いたします。
あなたのような手腕も度胸もある若者が、自分の名すらも刻まれていないワイン事業の一つで満足されるおつもりではないでしょう?
こう思ったことはありませんか? いつの日か、「ベッローネ」の名を――いえ、「ディミトリ」の名を冠する商業帝国を築いてみたいと。
ディミトリ
……
実に興味深いお話です。
この裁判の結果が、貴社とあなたの判断にここまで大きな影響を与えるとは思いませんでした。
チャレク
あの裁判は確かに、私の酒造業にはいくらか影響を与えましたが、ゴールデン・プレーンの商品は依然として価格面では優位性を保っておりますよ。
ディミトリ
思うに、この取引を持ち掛けてくださったのは、商業連合会の意向によるものなのでは?
チャレク
……
我々商人というものは、利益の最大化を追い求めるものです。
ゆえに商談の場においては、最も良い結果を得るために、個人的な好き嫌いや価値観を脇に置いて考えることができるのですよ。
まさにこれが、あなたの従業員が言っていた「カジミエーシュのビジネスのやり方」というものです。
どうぞよくお考え下さい。焦って断るのはもったいないというものですよ。
ディミトリ
まさか、私が断るとお思いに?
レオントゥッツォがディミトリの住む邸宅を訪れたのは、深夜のことだった。
一日中降り続いていた雨は、今ではもう小雨程度に弱まっており、もうすぐ止むであろうと思われた。
けれども、彼の心は重く沈んだままだった。
ベッローネ邸の前にいた、撤収前のシティホールの警備隊が彼を中へと案内する。
彼は、自分を呼びつけたディミトリが出迎えるものだと思っていたが、その予想は外れた。
それどころか、ディミトリはファミリーの当主だけが座ることを許されたその椅子に腰かけて、静かにこちらを見つめていた。
薄暗く柔らかな照明が、彼の頭上から降り注ぎ、その表情を隠している。
その時レオントゥッツォは不意に気付いた。自分がもう長いこと、ディミトリの表情をはっきりと見ていなかったことに。
ディミトリ
来てくれたんだな。
レオントゥッツォ
……ああ。お前の出した合図のことは、今も覚えているからな。
ディミトリ
それじゃ、一杯どうだ? お前の好きなリンゴジュースをベースにして、アップルジンジャーフィズを作るよ。
今のヌオバ・ウォルシーニじゃ、昔ながらのやり方で絞ったリンゴジュースはなかなか手に入らないからな。お前も長いこと飲んでないだろう?
人に頼んで、少し取っておいてもらってよかったよ。
レオントゥッツォ
……昔話をするために呼んだわけではないんだろう。
ディミトリ
そんなに警戒するなって。
レオントゥッツォ
ここに着いた時、カジミエーシュ人を乗せた車が出ていくのが見えたように思うが。
ディミトリ
あれはゴールデン・プレーンの社長だ。
レオントゥッツォ
チャレク? 一体何をしに?
ディミトリ
サルッツォ酒造との提携を申し出て来たんだ。
承諾したよ。
レオントゥッツォ
なぜそんなことを……!?
ディミトリ
なぜって、お前たちシティホールはそれを望んでるんだろう?
外部の資本を引き入れ、その力を借り地元産業を発展させて、ヌオバ・ウォルシーニ、ひいてはシラクーザの商業を、もっと広い場所へと送り出すんだ。
チャレクは商業連合会の使いとしてこの話を持ち掛けてきた。彼らはこの上ない条件を提示してきたし、断る理由もないだろう。
レオントゥッツォ
……カジミエーシュの商人が、ただの親切でそんなことをするとは思えない。
ディミトリ
心配してくれるんだな。
レオントゥッツォ
……お前がサルッツォの事業を手に入れることに成功したのは事実だが、同じようなやり方でカジミエーシュ人からも利益を得られるとは限らないぞ。
ディミトリ
試してみなきゃわからないさ。
それに、シティホールは俺たち地元企業の利益を守ってくれるそうじゃないか。
『新都市管理法』の改正案がお前のデスクに置かれてることは知ってるぞ。あとはそれにサインするだけだろ。
レオントゥッツォ
……なぜそれを……?
ディミトリ
大きな声では言えないような、ファミリーの手札を使っただけさ。
一番利のある決断を下すには、多くの情報を握る必要がある。
お前を次期ドンとして教育していた頃に、それは教えておいたはずだが。
レオントゥッツォ
あれは……ただの草案だ。
まだサインすると決めたわけじゃない。
ディミトリ
だろうな。お前はまだ迷ってる。決断できずにいるんだろう。
人々からの批判が集まり、今までの成果が無駄になって、ヌオバ・ウォルシーニがかつてのファミリーのやり方に染まるのを恐れているんだ。
レオントゥッツォ
恐れるのも当然だろう。慣れ親しんだやり方に戻るのは容易である一方で、新しい火種はまだあまりにも小さいんだ。
ヌオバ・ウォルシーニの外では、あらゆるファミリーが俺たちの一挙一動を監視している。
わずかでも隙を見せれば、奴らはそれを逃さず俺たちを八つ裂きにするだろう。
ディミトリ
だが、お前はもう、ファミリーだけを相手取ってるわけじゃない。
『新都市管理法』の抜け穴を利用しようとするカジミエーシュやクルビアの商人のほかにも、この都市で影響力を広げようとしている連中はいる。リターニア人だ。
ワインコンクール開催の直前に、思いがけない情報が入ってな。
この地に亡命した反体制派の人物、パオラ・メミンガーを始末するため、リターニアからある人物が送り込まれた、というんだ。
かの「永遠なる恩寵」は、リターニアの外ですら、賛歌以外を響かせる人間を許さないらしいな。
レオントゥッツォ
……お前はそれを利用したのか。
ディミトリ
なにも手助けしたわけじゃない。ただ、そうなると知っていて放っといただけさ。
幸い、結果は悪くなかった。お前も『新都市管理法』を改正するうえで絶好の機会を手に入れたしな。
これぞ、お前たちが待ち望んでた「きっかけ」だろ?
思うに、ラヴィニアさんもそういう意図があってこそ、俺の裁判を手配したんじゃないか。
レオントゥッツォ
たしかに外国資本に対して制限をかけるつもりはあったが、それは決して――
ディミトリ
考えてもみろ。俺たちみたいな地元の商人以上に頼れる存在なんてどこにいる?
ファミリーとの関わりがあろうとなかろうと、俺たちは今ヌオバ・ウォルシーニにいて、お前のルールに従ってるんだぞ。
俺たちなら、お前を守ってやれるんだ。
レオントゥッツォ
……
口先だけの約束になど意味はない。
ディミトリ
お前がファミリーに対して疑念を抱いてることは知ってる。
それでも、お前だってわかってるはずだ。ファミリーってものが生まれた当初、それは、混沌としたシラクーザで弱者が身を寄せ合ってできた集団でしかなかったことを。
周りの人のために、自分のできることをする。そうして、いつか誰かがその恩を少しでも返してくれて、暮らしが楽になったらと期待する……
そうやって自分たちの家族を守るのが、シラクーザ人なんだ。これが俺たちの伝統で、俺自身がずっとやってきたことなんだよ。
だから、先代が亡くなり、お前が去ったあと、俺はベッローネのドンの座を引き継いだ。
ベッローネの皆を路頭に迷わせるわけにはいかなかったからな。
それは、シラクーザ人が外国の人間に何度も負かされるのを、お前が黙って見てられないのと同じことだ。
そうだろ?
レオントゥッツォ
……
ディミトリ
……お前は大きなことを成し遂げられる人間だ。
いつか本当に、お前の理想をこのシラクーザで実現できる日が来るさ。俺はいつでも、お前を信じてる。
レオントゥッツォ
前にも同じことを言ってくれたな……ディーマ。
「その時は俺の右腕になってもらう」と、当時言った覚えがある。今もその考えは残っている。シティホールで一緒に……
ディミトリ
遠慮しておくよ。俺はラヴィニアさんとはそりが合わないから。
それに、あの時お前は、こうも言ってただろ。「お前と彼女では、任せるべき内容が違う」って。
今がまさにそうじゃないか。シティホールにしかできないこともあれば、俺たちにしかできないこともある。
現実として、お前の理想だけじゃ、ヌオバ・ウォルシーニを支えるには足りない。かつての「ファミリー」の支えが必要なんだよ。
レオントゥッツォ
ずいぶんと言い切ってくれるな……
まさか、ミズ・シチリアに会ってきたのか。
ディミトリ
ミズ・シチリアがどういう人かなんて、お前ならよく知ってるだろう? あの人は、面白いアイデアを持った若者と会うのがお好きだからな。
レオントゥッツォ
……
ディミトリ
お前の作る規則が、ヌオバ・ウォルシーニのファミリーの行いを縛り、俺のやり方が、全シラクーザ人の力と心を結びつける。
それがいずれ、この都市の新たな「銃と秩序」になるんだ。
レオントゥッツォがその場を立とうとしたとき、ディミトリは手を差し出してきた。
協力を意味するその仕草に、レオントゥッツォは一瞬ためらってから、同じように手を差し出した。
かつて彼らには、肩を組み、ハグをし、笑い合うこともあった。しかし、こうして正式な握手を交わすのは初めてだった。
握り合った手が離れると、ディミトリは再びあの椅子に腰を下ろした。
そうして、彼の姿は、かつてのレオントゥッツォの父親のように、あるいはシラクーザのファミリーのドンたちのように、闇に溶けて行った。
外に出てみれば、雨は止んでいた。雨上がりの空は思いがけず澄み渡って、穏やかなものだった。
レオントゥッツォ
あの改正案……あんたは悔しくないのか、ラヴィニア。
俺たちは、シラクーザからファミリーの痕跡をひとつ残らず消し去りたいと、あれほど願っていたはずなのに。
ラヴィニア
私はベッローネの庇護下で十年以上過ごしていたのよ。
もう少し待つことくらい、構わないわ。
レオントゥッツォ
……そうか。俺も同じだ。