往昔を念はず
客桟の番頭
おいおい、急に入ってきたと思ったら、店を一回りして行っちまったぞ。あの男は一体何がしたかったんだ?
客桟の店員
番頭、もしかして巡防営の人たちじゃないですか? 私服で、うちが密輸犯をかくまってないかこっそり見に来たとか。
客桟の番頭
ないない。奴の様子を見ただろ、そそっかしいうえに辺り構わず動き回って、あんな目立ってちゃ私服着てる意味がないじゃないか。
客桟の店員
なら、単純に面倒事を起こしに来た野郎ですね。俺が捕まえてきますよ。
客桟の番頭
お前で追いつけるものかって。あっという間にあんな所まで行ってしまっただろう。明らかに鍛錬した軽功の使い手だ。
がたいのいい男
今のが最後の客桟だったが、いない。
あの娘は都市を出たいと言っていたが、城門の方にもいなかった。
重傷だったから、用いたのも一番良い薬だ。連れ帰ることができなければ、俺が薬代を請求されるかもしれん。そしたら一大事だ。
必ず連れ戻す。
ユーシャ
リーさんの例えは、よくわかりません。
リー
不適切な例でしたか。
おれが龍門であの小さな事務所を開いたのは、とりあえずおまんまを食うためで、まさかこの商売がうまくいくとは思ってなかったんですよ。
つまるところ、龍門にゃウェイさんや近衛局の手をすり抜けるどうでもいい些事や汚れ仕事がいくらでもあるってことです。
リンさんのような、有志の市民に手伝ってもらう必要もあるでしょうねぇ。
ユーシャ
仕方のないことです。
リー
確かにその通りだ……で、龍門がかくの如くあるなら、玉門だってそれを外れやしません。
玉門が年中北部辺境を巡航しているのは、様々な危険を炎国の外へと遠ざけるためです。
けどちーとばかり昔、源石技術がまだまだ今ほど発展していなかった頃は、玉門のような移動要塞を正常に稼働させるためにゃ、何倍もの人力が必要でした。
幸いなことに、その時は国のために尽くそうという志ある江湖の者たちが玉門へと集まりました。彼らは正式に軍に入ったわけではありませんが、玉門のために、多くの悩みを解決してくれたんです。
信使の護衛に、移動都市の進路の調査、さらには戦地で軍と肩を並べて……玉門百年の安定は、彼らと切っても切れやしない。こうした者たちは都市において、当然人々から敬意を払われたもんです。
ユーシャ
朝廷と民衆が、心を一つにしていたのね。
リー
まさしく。玉門はかつてそういう都市でした……二十年前の出来事まではね。
ユーシャ
山海衆ですか?
リー
その通り。今回とおんなじで山海衆が原因です。
モン・ティエイー
ほかに用はねぇさ。
平祟侯の仕事の邪魔になってなけりゃいいんだがな。でなきゃ、この首をいくつ差し出しても足りない。
ズオ将軍
……
私が許さないことは、わかっていただろう。
短い笛の音が鳴り、城楼の軍用源石照明システムが突然落ちた。二人の会話は暗闇に遮断された。
少しして、揺らめく明かりが遠くで灯る。
兵士たちが速足で位置についた。両隣までおよそ十歩。のろしを繋いだ線が、段々と遠くへ伸びていく。
――きっちり十七回、太鼓が打ち鳴らされた。腹の底を震わすような鼓の音は、高速で移動する玉門の夜気に溶け、どこまでもどこまでも響く。
モン・ティエイー
今日は望烽節の二日目だな。
望烽節の目的は、玉門人に過去を忘れさせないためだ。
この対面はもっと早くか、あるいはもっと遅くにすべきだったな。
そうであれば、平祟侯は思い出していただろう。
ズオ将軍
忘れたことなどない。
モン・ティエイー
平祟侯は、玉門のために犠牲になった烈士の中に、兵士じゃない奴がどれだけいたか覚えてるか?
彼らは玉門に借りがあったわけじゃない。あれは、当然の義務なんかじゃねぇんだ。
ズオ将軍
玉門も同様だ。いかなる者にも不義理はしていない。
モン・ティエイー
ズオ・シュアンリャオ!
巡防営守備軍
……
ズオ将軍
下がれ。
モン・ティエイー
二十年前、確かに俺のうかつさによって、江湖の連中に扮した賊どもに都市に入られて、民間人を傷つけさせちまった。俺を恨んでいい、命で償えと言われても文句はない!
だが罪を問うなら、その相手は俺か、あるいはお前自身のはずだろうが!
ズオ将軍
一切の責任は、当然この私一人が担う。
モン・ティエイー
どう担った? こんなに長い間、玉門のために血と汗を流した江湖の兄弟たちを遠ざけて、あいつら全員を追い出そうとしやがって。これが担ってるっつーことなのか!?
ズオ将軍
……
モン・ティエイー
玉門は、あいつらに納得のいく説明をする必要がある!
ズオ将軍
玉門は炎国の玉門である。玉門が行うあらゆることは、億千万の大炎国の民の安全を守るためにある。これが私からの説明だ。
お引き取り願う。
リー
「山海衆」っつーのは、知る人ぞ知る名です。
あれを誰かの不注意だと責めることもできません。当時は外の敵に備えるだけで、玉門に危害を加えようとする敵が、内にも潜んでいるなんて思いもしなかったんですから。
鏢師、拳師、武器職人……こうした玉門の江湖の連中は、常々守備軍と共に戦っていたんで、玉門内を自由に行き来していたんです。間が悪いことに、山海衆はそこをついた。
都市内は守備が薄く、どこも反応が一歩遅れました。都市の動力源を破壊するっつー山海衆の計画こそ阻止できましたが、死傷者はそれなりに出ちまった。
その後……
ユーシャ
亡獣補牢には、まだ遅くはないってところですか?
リー
むしろ、「角を矯めて瘤獣を殺す」と言うべきでしょうねぇ。やりすぎたんですよ。
平祟侯が都市管理の制度改変に着手しましてね、それから一切の物事について江湖の者に頼ることはなくなり、人の移動もかなり制限されたんです。
この地に残る人には、軍に身を投じた者もいれば、刀を箪笥にしまい込んで一般市民としての日々を送ってるのもいます。そこいらの客桟の料理人が、著名な剣客だったなんてこともあるでしょうね。
二十年って月日は……都市が何度か姿を変えるのに十分だ。
ユーシャ
龍門のダウンタウンはいつの日か消えてなくなり、鼠王も必要なくなると、父もいつも言ってます。
この都市がいつまでも荒野を巡行することがなくなったら、当然誰もが武器を身につける必要もなくなるでしょう。
リー
時代ってなぁ結局変わるもんですよ。押したい人もいれば、引きたい人もいるが、最後には、みんなが取り残されちまう。
さて、おれが聞いた昔話はこんなもんだ。どれだけユーシャ嬢ちゃんの役に立てるかはわかりませんけどねぇ。
ユーシャ
……とても助かりました。
ありがとう、リーさん。
モン・ティエイー
うまく探れたか?
江湖の者
やはり十人部隊、一刻ごとに交替する編成でした。排砂溝の方には他の守備軍はいません。
モン・ティエイー
よし、俺が見たのと同じだな。
お前らにもう一つ頼みがある。
明日の晩の酉の刻、排砂溝近くで騒ぎを起こしてくれ。
あまりやり過ぎるなよ、巡回隊をおびき出すだけでいい。
江湖の者
それは……
モン・ティエイー
まだ俺を信じてくれるなら、何も聞かないでほしい。
江湖の者
……わかりました。
さっき城楼へは、ズオ・シュアンリャオに会いに行ったんですか?
モン・ティエイー
ああ、会ってきたよ。
チュー・バイ
ますます暑くなってきました……
昨日の晩に何者かがウェイ殿の暗殺を試み、玉門の軍営を桃の花まみれにしてくれたせいで、一面泥臭くてかないませんでした。その刺客は、あなたですね。
あなたが至る所では常に気候が異常を起こしています。これはアーツですか、それとも別のからくりですか?
山海衆首領
……
ズオ・ラウ
信使を殺して天災データを奪い取るのに失敗したと思えば、朝廷の要人を立て続けに暗殺するなんて。
山海衆め、あなたたちは玉門を何だと思っているのですか!?
山海衆首領
ここは目的地を間違えた一都市にすぎん。
間違えたなら、これ以上進むべきではない。
ズオ・ラウ
玉門が帰国した目的を知っているのですか……
山海衆首領
想像に難くない。
ズオ・ラウ
家父からは三日以内に三つのことを成すよう言われています。私は宗師の剣を取り戻し、刺客を捕らえ、都市内に潜む山海衆を探し出さねばなりません。
が、まさか、そのすべてがこの小さな鋳剣坊に揃うとは思いもしませんでしたよ。
山海衆首領
お前は一つとして成せないだろう。
チュー・バイ
下がってください。この人の実力は底が知れません。私たちでは相手にならない。
山海衆首領
お前はあのフォルテの男ほど強くはないが、あいつよりも少し聡いようだ。
チュー・バイ
やはりタイホー殿を傷つけたのはあなたですね。
山海衆首領
先ほどの一太刀を、お前は躱した。なら次は、躱すのか、それとも受けるのか?
チュー・バイ
……
躱しもしなければ受けもしない。
あの人はよく彼女にこう言う。復讐のためにしろ、身を立てるためにしろ、武を学ぶなら、徒歩で高みに登る覚悟を持つべきだ。及ばぬ力を自覚するほどに、確固たる精神を持つべきだ。
彼女は仇敵に会うと同時に、頂の見えぬ高山にもまみえた。だから彼のそばに、丸々五年間もいた。
勝てない戦いなら、負けぬことを求めろ!
山海衆首領
攻めを以て守りと為すか。
些少の知勇はあると言える……
しかし、あまりにも見落としが甘いな。
チュー・バイ
――
刃が交わったその瞬間に、自分の決断がどれほど軽率であったのか彼女はようやく気付いた。
己が今まさに対面しているのもまた、高山だ。
寒々とした光が顔を撫で、相手の刃の水滴が鼻先にぶつかる。いやにはっきりと自分の鼓動が聞こえた。
もし録武官がこの場にいたなら、演武場で見せた技をチューバイが再現したことに感心していただろう――
急降下し、一息で勢いを収め、死の光に触れる瞬間に折り返す。まるで川の上で波に飲み込まれそうになった羽獣のように。
チュー・バイ
(うめき声)
山海衆首領
また躱したな。
ズオ・ラウ
させません!
山海衆首領
お前ごときが?
チュー・バイ
ズオ・ラウ、避けろ!
ズオ・ラウはチューバイに襟をつかまれ、後ろへと勢いよく後退させられた。
彼の目には敵が影のように動き、三太刀目を振るう姿が映った。中庭全体が突然いくらか明るくなった。
鋳剣坊に三月の大暑が訪れる。うねるような熱気が立ち上り、夜空までも白んだ。
そして彼らの背後にあるのは一本の槐樹の老木だけだ。もう逃げ場はない。
ジエユン
……
剣。
ドゥ
動かないで!
この期に及んでまだ剣を奪うつもりなの? あの女の刀に斬られにいく気!?
モン・ティエイーの行方を教えてもらってないのに、死ぬなんて許さない。この*尚蜀スラング*!
中庭に突として屈強な男が現れた。
男は瞬きの間に拳で刀の峰を打ち、少女を守る。すさまじい早業である。
男の登場は、さながらその場の熱気に盛大に冷水をぶちまけたようなものだった。全員がたまらず後ろへ引く。
暑気が消えた。
がたいのいい男
探したぞ。
ジエユン
放して!
がたいのいい男
お前は危うく命を落とすところだった。
医館で養生しろと言っただろうが、なぜ逃げた? 傷が悪化しただろうが。
ジエユン
……
チュー・バイ
武術狂いのワイ殿、あなたはまだ玉門にいたのですか?
ワイという名の男
あぁ、なんだお前か。
お前の師は、職を辞した後でないと俺と心行くまで勝負をしてくれんのでな、ここで彼を待つのは当然だ。
チュー・バイ
この三年間、どこへも行かなかったのですか?
ワイという名の男
行ってないな。
これより重要なことなど何がある? もし彼が玉門を去ったら、俺はどこであれほどの相手を探せばいいんだ?
チュー・バイ
あなたの目の前にいるのは、また別の手練れですよ。相手を探したいなら、まずは彼女と一戦交えてみたらどうですか?
ワイという名の男
この女のことか?
山海衆首領
……邪魔。
ワイという名の男
さっきの一撃を受けた時、妙な感じがした。
お前の刀は重いが、技を出す際に「形」がなければ「意」もない。この奇妙な力がどこから来てるかは知らんが、お前は決して武を極めた者などではない。
お前を相手にする気は起きん。
付近の遊侠
ジィンさん、この中の騒ぎを聞いてくださいよ。
あの若者ときたら、突然扉を突き破って入っていったんです、全く止める暇もありませんでしたよ。
ジィン
何をやってんだお主は。
ティエイーの兄貴にはこの工房しか残っていないんだぞ。普段からあれだけ世話になってるんだから、こういう時こそしっかり守ってやらねばならんのに。
機敏な山海衆メンバー
先生、お頭、江湖の者たちが来ました。
玉門の守備隊も後ろにいます。鋳剣坊前通り、苦井通り、長門通りの三方向から、全部でおよそ百人の部隊です。
山海衆首領
……
求める者がいない以上、時を費やすことはない。
突然の静寂が降りる。蝉の声など響いたことすらないような錯覚に陥る。
依然として三月。初春の寒気が服の隙間を通り抜け、全員が身震いした。
山海衆頭目
撤退だ!
ズオ・ラウ
待ちなさい!
……
付近の遊侠
ジィンさん、あいつです!
ジィン
お役人殿、どちらへ行かれるのか?
ズオ・ラウ
どいて!
ジィン
ダメだ。この中庭を見ろよ、塀しか残されていないではないか。説明すらせぬとは、そんな道理がまかり通ると思うか。
ズオ・ラウ
玉門軍が犯罪者を追跡しているところです、邪魔する者は厳重に処罰します。
ジィン
待て、お主は……ズオ・シュアンリャオの子か。
ズオ・シュアンリャオの奴は、この最後の鋳剣坊までも取り上げる気か。
ズオ・ラウ
無礼な!
千人隊長
公子。
ズオ・ラウ
来る道中で山海衆は見ましたか?
千人隊長
ご安心ください。すでに追跡に人員を割いております。
ズオ・ラウ
わかりました。この場の全員を軍営に連れて行ってください。
千人隊長
公子、数十人もいますよ、しかもみんな街の住民なんですが……
ズオ・ラウ
この者たちは賊の撤退時に計ったように現れて、追撃の邪魔をしました。徹底的に調査する必要があります。
ほかの人も、多かれ少なかれこの件と関係があります。
ドゥ
あの変な格好をした女の子は、騒動の前からずっと鋳剣坊に隠れていたのよ。きっとモン・ティエイーの行方を知ってるはずだわ。彼女を連れて行くなら、あたしもついてくからね。
ズオ・ラウ
元々そのつもりですよ。鋳剣坊と山海衆には、必ず繋がりがありますし、ドゥさんはモン・ティエイーとも関係がありますから。
ドゥ
……
ズオ・ラウ
そして、こちらの女性については。
ジエユン
……
ワイという名の男
無理だぞ。彼女は俺と医館に戻り、それから医療費の返済をしてもらう。これは決定事項だ。
ズオ・ラウ
ふざけないでもらえますか。
ジエユン
あ、あなたと戻ることはできない……
ワイという名の男
ふんっ、どうせあの剣が気がかりなのだろう。
ジエユン
ちょっ、あなた――!
ズオ・ラウ
――!
千人隊長、この人たちを軍営に連れて行き詳しく尋問を行ってください。私は宗師の剣を追います。
千人隊長
チューさん、大丈夫か?
チュー・バイ
かすり傷です。ズオ・ラウの言う通り軍営に戻りましょう。
千人隊長。この江湖の方たちですが、あまり酷く扱わないであげてください。
ワイフー
あの人は……
鋳剣坊の方から響く音には気付いていたが、ワイフーはそちらに向かうことなく歩みを止めた。
だが通りに面した屋根の上にほんの一瞬見えた人影は、その時にはもう消えていた。まるで一陣の風が吹いたかのように。
――ワイフーは黙って拳を握り締めた。
彼女は自分の見間違いではないと確信していた。