荒波再び

ブリキ
ふぅ……慣れ親しんだ下水の臭いに、街灯の光が届かない見慣れた場所……
こういう路地は本当にどれも同じようなものですね。
都市のすべてがこれほど短期間に荒野から生まれ出てきたせいで、都市計画の策定者もそう多くのアイデアが思い浮かばなかったのでしょうから仕方はありませんが。
唯一の問題はといえば、歩き続けていくうちに目新しい景色が恋しくなってくることでしょうね。
そうは思いませんか、親愛なる部下よ。上からこの街を眺めるのも時には良いものでしょう?
無人の路地に一陣の風が吹く。
吐き出しきっていなかった煙の輪が、金属の隙間に戻される。ブリキはこの状況なら、幾度か咳き込んでみせるべきなのかを悩んだ。
そうしてタバコの火が消えてすぐ、ライターが彼の前へと差し出された。
???
こんな歴史のない街からすれば、「オリジナリティに欠ける」というのは悲しい評価でしょうね。
ブリキ
……ホルハイヤ。
連絡が予定より三日遅れていますよ。
ホルハイヤ
あら? 私のイメージでは、あなたも時間を守るような人じゃないと思っていたけれど。
ブリキ
ここは騒音が凄まじいですね。なぜこの場所を指定したのですか?
ホルハイヤ
お忘れかしら? ここが十三区の工場のすぐそばだってこと。
ブリキ
あの日落ちてきたものを見つけたと?
ホルハイヤ
ええ。だけど残念ながら、欠片しか残ってないのよね。星の……欠片だけじゃ、迷える人を導くことなんてできないわ。
ブリキ
では、クリステンの行方については?
ホルハイヤ
んー……
ブリキ
空を見ているのですか?
ホルハイヤ
この辺りはまだビルが建てられていないから、星空が綺麗に見えるわね。
クリステンがどこかの星に隠れてるなんて可能性はないかしら? もし仮にそうだとしたら、彼女を見つけることなんて誰にもできないわよね。
ブリキ
……ホルハイヤ。二ヶ月前、図書館に行きましたね。
ホルハイヤ
私は歴史学者なのよ? 図書館に行くのも仕事のうちでしょう?
ブリキ
私が言っているのはマイレンダーの「図書館」です。
そのような行動を許可した覚えはありませんよ。
ホルハイヤ
ご存知の通り、私はすぐ好奇心を抑えきれなくなるタイプなの。
ブリキ
まさしく今のように、というわけですか……
ホルハイヤ
ねえブリキさん、一つお願いがあるんだけど……ずっと気になっていたことがあるの。質問してもいいかしら?
ブリキ
何をでしょう?
ホルハイヤ
……その煙のことよ。
吐き出した煙はともかく、あなたが吸い込んでいる煙は……一体どこへ行くのかしら?
ブリキ
それが……私の胸に尻尾の先を押し当てている理由ですか?
ホルハイヤ
あなたの身体からは……私の大好きな歴史の香りがするの。
できることなら、じっくり……じーっくり、あなたの身体のパーツを一つ一つ調べ上げてみたいんだけど……一体どこから始めるべきかしら? 頭? 胸? それとも手足?
ブリキ
……ホルハイヤ。
あなたは本気で、マイレンダー基金を裏切ることが正しい選択だとでも思っているのですか?
ホルハイヤ
もちろん……そんなこと思ってないわ。
マイレンダーはこの国で一番多くの秘密を握っているし、クルビアにおいて、秘密は富と交換できて、人殺しの武器にもなるもの。
私は丸三年を費やして歴史協会に入る資格を得て、そしてまた三年を費やしてあなたの信頼を得てきたけれど……
私にとって六年という時間が何を意味するかはおわかりかしら? マイレンダーのエージェントとして過ごした時間は……私の人生の七分の一にあたるのよ。
ブリキ
ならばなおさら、余生を獄中での暮らしや逃亡生活で無駄にするべきではないでしょう。
ホルハイヤ
ええ、わかってる……よーくわかってるわ。
でも……残された時間では、私が心から望む秘密を手にするのに十分でないのなら、あと十年生きても、あと一分しか生きられなくても同じでしょう?
ブリキ
マイレンダーは、触れられるべきでない情報に誰かが触れることを許しません。裏切った元エージェントはこの「誰か」の最たる例です。
あなたがその最後の時間に目にしたのが、私だけであることを残念に思います。
ホルハイヤ
それなら、星に願うとしましょうか。死人が口を開きませんように……ってね。
ブリキ
では、もう一つ別の質問を。
――本気で私を殺せると思っているのですか?
ホルハイヤ
やってみないとわからない……でしょ?
ブリキ
ッ……?
あなたが空気を操ったところで、私に影響などあるはずが……なるほど、これはククルカンの力ではないのですね。
ホルハイヤ
私のことをよくわかってくださってるのね。
でも幸い……私のほうも、あなたのことは何も知らないわけじゃないわ。通常のアーツでは、あなたの行動に影響なんて与えられないのは確かだけれど……
ブリキ
……呪術、ですね。
これはサルカズ最古の巫術の力、魂を閉じ込める呪術です。
ホルハイヤ
こういう目に遭うのは相当久しぶりなんじゃない?
サルカズ王庭の遺跡を調査するために、ボーンヤードの奥深くへ立ち入った時、我らがマイレンダー基金で最も優秀なエージェントが前例のない重傷を負い命の危機に瀕した、と――
ブリキ
マイレンダーがまだその資料を残していたとは。
ホルハイヤ
まさか、私がマイレンダーの極秘資料庫にリスクを冒して忍び込んだのは、すべてクリステンのためだなんてお思いじゃないわよね?
ブリキ
事の大小にかかわらずあらゆることを記録するのは、良い習慣とは限らないと彼には言っておいたのですがね。
ホルハイヤ
あら、そう言わないでちょうだい。そんなに長く記憶を保ち続けられるのは長命者だけなんだから、ほかの人があなたみたいに多くの知識を掌握するためには、別の方法に頼らないといけないのよ。
そうでなかったら、私たちみたいに短命の種族が、どうやってあなたみたいな人の支配に抗うの?
ブリキ
ふぅ……はぁ……
この身体を完全に破壊するには、少し時間がかかるでしょう?
ホルハイヤ
私にだって、それくらいは待てるわ。
ブリキ
ならば、私に一目会いにくるつもりもないというわけですか……
……そちらのバンシーさんは。
???
——
ホルハイヤ
あなた、姿は見せたくないって自分で言わなかった?
ナスティ
君が上司を殺すところを見る気はないと言ったんだ。
しかし、彼は単に君の上司というだけの人物ではないからな。
ホルハイヤ
へえ? もしかして古い知り合い?
ナスティ
そういうわけでもない。
だが、私の血は彼を知っている。
ホルハイヤ
ふうん、本当に面白いわね。何度も確かめてみたけど、このご老体からは……サルカズらしい匂いなんてしないのに。
ああ、彼の小細工には気を付けてね。ようやく仕留められたのに、その場ですぐに生き返られたら困るもの。
ナスティ
今後の計画を邪魔させはしないさ。
ブリキ
確かに……私にはできそうもないですね。
非常に巧妙な罠でした。ホルハイヤが上空に何か仕掛けているところまでは予想できましたが、工事現場の騒音の中にバンシーの呪術を隠してくるとは思いませんでしたよ。
ナスティ
私の血が、私に言葉の力を教えてくれたんだ。それに加えて、機械の衝突や摩擦で生じる音は、私が何よりも頻繁に耳を傾けている言語だからな。
ブリキ
実に素晴らしい才能です。私を騙し、こうも上手く一杯食わせられるバンシーは、王庭の者を含めてもほとんどいないでしょう。
あなたの生まれは、カズデルですか? それとも、バンシーの谷ですか?
ナスティ
私の出自など重要ではない。私の血は純粋とは言えず、大きな出来事を経験したこともないしな。
今の私は単なるエンジニアとしてクルビアで暮らし、やりたいことをやっているだけの人間だ。
ブリキ
ごほっ……は、はは……ではクルビアが……第二の故郷になったということですか?
ナスティ
……
あなたはどうなんだ?
ブリキ
ああ……瞬きの間に、長い月日が過ぎ去ってしまったものですね。
この二百年の間に、あの二人の若者……テレシスとテレジアが、ついにカズデルを移動都市として作り上げたと聞きました。
そのカズデルが、今どうなっているかはわかりませんが。
市内の通りには今なお人がひしめき合っているのでしょうか? 都市の壁にはやはり、千年前の旗が掲げられているのでしょうか? 不滅の炉は、まだ熱く燃えているのでしょうか……?
……
タバコに火をつけてもらえませんか、お嬢さん。
ナスティ
この程度の火では、魂に残された温もりをとどめておくことはできないぞ。
ブリキ
わかっていますよ。ただ……もう少しここにとどまって、あなたとお話ししたいだけです。
クリステンの夢の中に、あなたは何を見たのですか?
ナスティ
……未来だ。
ブリキ
よもや、彼女はあなたに……サルカズの命運を変えると約束したのですか? この一万年誰にも成し遂げられなかったことが、彼女にならできると信じているのですか?
ナスティ
いいや、彼女は可能性を見せてくれただけだ。
私自身が持つ……可能性をな。
ホルハイヤ
エンジニアさん、悪いけど尊敬すべき私の上司に聞いてもらえるかしら? 遺言はそれで十分か、って。
ナスティ
この火はもう消える。
ブリキ
私のような年寄りには、時間が過ぎるのがあまりにも早く感じるものですね。
ナスティ
最後の質問は、私からさせてもらう。
過去より来たりし古の者よ。それほど多くのカズデルの破滅を見届けてきたのなら、あなたは考え、探し求めてきたはずだろう――
(サルカズ語)サルカズの約束の地とは、一体どこにあるんだ?
ブリキ
約束の……地、ですか……
あぁ……
ホルハイヤ
時間よ。
強い風を伴って振るわれた銀と緑にてらつく尻尾が、ブリキの嘆息を打ち砕いた。
吸い殻が地に落ちた瞬間、最後の火が消える。
骨笛の音が鳴る。
トリマウンツの上空でこうした音が鳴ったことはない。深い眠りにつく住民たちも、徹夜で仕事をする会社員も、誰一人として、今起きたことに気付く者はいなかった。
骨笛の音に気付いたのは、彼との約束のために、そこを訪れた者だけだった。
ロスモンティス
ん?
うん。私の端末にも、Logosはすごく忙しいって書いてある。もう長い間練習に付き合ってもらってないから、私も訓練で力を出し切れずにいるんだ。
わかってる。
ロドスの船室と同じで、私の装備は一度壊れちゃうと、Mechanistとクロージャが時間をたくさんかけて修理しないといけなくなるしね。
うん。
ブレイズもSharpも、訓練に付き合ってくれるたびに、任務に出るより疲れるって言ってるよ。
そういえば、本艦を離れる前にRaidianが言ってた。Logosはもうすぐアーミヤと一緒に帰ってくるって。
私も、アーミヤに会いたいな。すっごく、すっごく会いたい。
この任務が終わって、ロドスに帰れば、みんなに会えるかな?
ドクター、そろそろ着いた?
路地は深く、暗く、静かだった。
カラン、カラカラと、何かが路地の奥に広がる影の中から転がってきた。
それは硬すぎるせいなのか、地面にぶつかるたびに空転する歯車のような音を発している。反響する音は夜に長く引き伸ばされ、薄気味悪く聞こえた。
そうしてそれは路地の入り口まで転がって、光と影の境界へと姿を現した。
転がり出てきたのは、金属製の頭だ。
かつて、その頭の上半分は帽子に隠れていて、下半分についた口はタバコを咥えて煙の輪を吐き、時には鋭く、時には突拍子もない言葉を放っていた。
しかし、それが今ではタバコも帽子もコートもなく、さらには本来首が繋がっているはずの胴体すらも見当たらず――
ただ、頭だけがそこに転がっていた。
???
もし私があなたの立場だったら、今は軽々しく動かないようにするでしょうね。
だって、そんなことしたら次の瞬間には、あなたの首まで地面に落ちて私の可哀想な上司とご一緒することになるかもしれないもの。
ホルハイヤ
それなら早速。
二つ伝えることがあるの。まずは一つ目、ロドスのトリマウンツ散策はこれでおしまい。それともう一つ、ご覧の通り、マイレンダーの工作員を束ねる「ブリキ」の死には犯人が必要よ。
そうねえ、ひ弱なあなたじゃ信憑性には欠けそうだけど……
ロドスの人目を引かない立ち回りと、それなりに謎めいているところは、マイレンダーが一定期間の調査対象とするには十分でしょうね。
これ以上探りを入れてもいいことないわよ?
隙を見て仲間を呼ぼうとでも思ってるのかしら?
それなら下をご覧なさい。ね? 私の尻尾が許さないわよ。
お得意の交渉術で、私があなたに手を出せない理由でも列挙してくれるのかしら?
残念だけどトリマウンツはトカロントじゃないし、あなたが相手してるのも悪徳製薬会社なんかじゃないのよ。
トリマウンツに踏み入ってきた時から、あなたのことはずっと見てたわ。
この件は元々、あなたにも……ロドスにも関係ないでしょう。
あなたたちがサリアみたいに、火の中を駆け回るヒーローを演じるのがお好きなんだとしたら、何故あのメカニックさんみたいな人をもっと送り込んでおかなかったのかしら?
もしも言いたくないのなら……あなたの胸を切り裂いて、心の底に隠れた秘密を覗いてみるのもよさそうね?
銀と緑の色を持つリーベリが寄りかかってくる。
彼女の耳羽がフードをかすめて、柔らかくも耳障りな音がした。
ホルハイヤ
私は元々、あなたも頭のおかしい科学者たちみたく、クリステンの研究から未来に関わる啓示を見つけ出そうとしているんだとばかり思っていたの。
何しろ……私たちは限られた寿命に、飽くなき野心を抱いた、ばかばかしい人種だから。
自分の短い人生では多くを追い求めることなんてできないと気付いた時、私たちは少しの間その傲慢さを手放して、誰かに近道を請い求めることさえ厭わないわ。
だけど、あなたからは……すぅ……はぁ……欲望の香りがしないのよね。
あなたの夢はなあに? あなたの過去はどんなもの?
なんだかあなたに興味が湧いてきちゃったわ、「ドクター」。
でも、残念なことに私の同僚たちがもうすぐ到着しちゃうのよね。
ひとまずは、お友達の首をしっかり抱えて、この国のトップレベルのエージェントたちがあっと驚く瞬間を見てきてちょうだい。
今の質問については、尋問の時にまた答えてくれればいいわ。
え……
……どうしてあなたが?
ミュルジス?
ふふっ。フードを被ってるからといって、同一人物だなんて思いこまないことね。
ホルハイヤ
……水の分身。
チッ。可哀想なエルフさんは、いつもそればっかりね。
まあいいわ。Dr.{@nickname}……またすぐ会えるのを楽しみにしてるわ。
ロスモンティス
ドクター、人がたくさんあの路地に集まってるよ。
ミュルジス
あなたが切れ者でよかったわね。あたしの分身を「借りて」約束の場所に行かせてなかったら、本当にあの嫌な女の罠にはまっちゃうとこだったわ。
あの女の言ってたことはあなたも全部、通信機越しに聞いていたわよね? あたしたちは今、軍とマイレンダーを同時に敵に回したってこと?
あー……あはは……本当に、冗談ってわけじゃないのよね?
ドクター、何かブリキさんと示し合わせた計画があるなら、今すぐ教えてほしいんだけど。
待って、ここで黙るってことは……まさか、ブリキさんに……
あの空き缶頭にクールなコートで超謎だらけなスーパーエージェントさんの身に、本当に何か起きたってこと!?
さっきの音は骨笛だったの?
っていうか、バンシーって……サルカズのバンシー?
クリステンのためにやったってこと? まさか彼女が……
……
ミュルジスは突然沈黙した。そしてそのまま、トリマウンツの空を見上げる。
そこには無数の星が広がるばかりだ。
あなたは思わず、ホルハイヤの質問を思い出していた。
自分はなぜ、トリマウンツに来たのだろうか?
イフリータ
早く! こっちだ!
サイレンス
うん……
警報が……もしかして、ヤラ主任に何か起きたんじゃ……
イフリータ
サイレンス、大丈夫か?
サイレンス
私は大丈夫。それより、サリアが……
イフリータ
一緒に支えるよ。
なあサイレンス、顔が汗まみれだぞ。サリアが起きてくれねーと本当に追いつかれちまうかもしれねえ!
サイレンス
……でも、それはサリアのせいじゃないでしょう。
イフリータ
だけどさ……サイレンスだって顔色が……
サイレンス
大丈夫だから。ただ、さっきのことを思い出しただけなの。
サリアが目の前で倒れたとき、私は心配でも驚きでもなく、真っ先に後悔を感じたんだ。
イフリータ
それは……サリアに対して怒ってたからか?
サイレンス
うん。もしあれが本当に、彼女に対する最後の言葉になってしまったらと思うと……サリアには、私が彼女を責めているなんて思ってほしくなくて。
本当は、一度だって……私はただ……
自分の言葉が誰に届くのか、もうわからないんだよ。
イフリータ
だったら、仲直りすりゃいいだろ。
サイレンス
……え?
イフリータ
サリアが目を覚ましたら、みんなで一緒に帰ろうぜ。
サイレンス
……
だけど、彼女は目を覚ましたら、またここに戻ってくるでしょう。
サリアはそういう人だから。
イフリータ
……まあいいや、なんとなくわかったよ。二人ともまだロドスに帰るつもりはないんだな?
サイレンス
……うん。
イフリータ
それなら、二人で協力すりゃいいんじゃねーか?
サイレンス
協力?
イフリータ
うん。だって、サイレンスは新しい装備を使ってても医者には変わりねーだろ。こうやって追い回されたら怪我しちまってもおかしくねーし、下手したら死んじまうかも。
で、サリアはすっげー強えけど、いつも単独行動してるだろ。チームワークの重要性はオレサマだって知ってるのに。
さっきもオレサマたちがいなかったら、サリアは今頃もっと危ない目に遭ってたと思うんだよ!
でも、二人ともオレサマを連れて行くのは渋るだろ。だったらせめてサリアと一緒に行動するって約束してほしいんだ。
そうしてくれなきゃ、オレサマも二人のことが心配なんだよ! 二人がオレサマを心配してくれるのと同じでさ!
サイレンス
……イフリータ。
イフリータ
もしそうするって約束してくれるなら、オレサマはドクターのとこに戻ったって構わねー! だから、約束するか、しないか、答えてくれよ!
サイレンス
私は……
イフリータ
それにさ、一緒に行動すれば言いやすくなることだってあるだろ?
サイレンス
そんなこと、どこで教わったの?
イフリータ
ドクターが教えてくれたんだ! 直伝の交渉術ってやつだぜ!
サイレンス
……わかった。考えておく。
イフリータ
よっしゃ!
ん? サイレンス、それ何だ?
サイレンス
伝達物質だけど……どうして今動いたんだろう?
イフリータ
なんか動いてるな。銀色で、すっげーきれーだ!
サイレンス
触らないで!
この物質は……危険なの。
イフリータ
危険? オレサマの火より危ねーのか?
サイレンス
これもライン生命の実験が生み出したものだから。
イフリータ
マジか、じゃあ今すぐ燃やしてやるよ!
サイレンス
ダメ、今は待って。
小さな銀色の物質は試験管の中を動き回っては、ガラスにぶつかり続けている。
パルヴィスのもとを去って以来、それは中枢からの指令を失ったかのように方向を示さなくなっていた。
その様子は、彼女をパルヴィスの所に導くことまでが使命だったようにも見えていた。
サイレンス
先生は……パルヴィスは、無駄なことなんてしない人だ。
私と話すためだけに、あそこに現れたはずがない……先生が現れたことで終わりで、これ以上伝達物質について追っても無駄だと私に思わせるために、ああしたんだ。
もしかして……真相は初めから……
イフリータ
サイレンス、扉はこっちだ!
うおっ!
な、なんだ……? 見つかっちまったのか?
???
イフリータ、下がれ。
イフリータ
硬質化……!
サリア、目が覚めたんだな! よかった!
サイレンス
身体は……
サリア
問題ない。
サイレンス
私は医者だよ。そんな言葉じゃ誤魔化されない。
サリア
……お前たちが無事にこの場を離れるまで、扉を押さえ切れたら十分だ。よって、問題はない。
軍のパワードスーツはこちらへ向かっている。
この道はもう安全とは言えない。
サイレンス
ヤラ主任……
サリア
彼女は容易く情報を渡しはしないだろう。
ならば、残る可能性は一つだ。
フェルディナンド
……10分経ったか。
今頃彼女たちはブレイクの部下に遭遇していることだろう。
以前のサリアであれば、無傷で逃げおおせたかもしれないな。
だが彼女は重傷を負っていて、お荷物を二人抱えている。この状態で完全武装の特殊部隊相手にどれだけ持つと思う?
ヤラ
……
フェルディナンド
電話が鳴っているぞ、ヤラ。
ヤラ
……
もしもし。
ええ、もちろん。私はこれからも……クルビアに尽くします。
……ご忠告痛み入ります。
フェルディナンド
これで信じてもらえるだろう。私は確かに努力したのだとね。
この対話の機会を得るために全力を尽くしたんだ。もし、先ほど合意に達してくれていたら、我らが元警備課主任が命の危険にさらされることはなかっただろう。
だが、君は彼女らを例の道へ……マイレンダーのエージェントしか知らない隠し通路へと行かせてしまった。
サリアは君のせいで死ぬかもしれない。そしてこの次は、君が最も気にかけている人の番かもしれないんだ。
ヤラ
……
フェルディナンド
もう一度、よく考えて質問に答えてもらおうか。
クリステン・ライトはどこだ?
サイレンス
ヤラ主任が……マイレンダーの人間?
サリア
十数年前に彼女を調べた時には、何の情報も得られなかった。しかしブリキと出会い、ライン生命を去ったあとに、さらなる手がかりを得てようやく彼女の正体を確かめることができたんだ。
サイレンス
でも、彼女は長くライン生命に勤めてきたでしょう。
サリア
――彼女は私よりも早く、クリステンと知り合っていた。
イフリータ、左の窓を攻撃してくれ。
イフリータ
わかった!
クッソ硬えな、これ!
サイレンス
実験エリアのガラスはすべて強化されていて、通常の衝撃では壊せない。
それに、力ずくで壊したら、その音で下の階の兵士たちを引き寄せてしまうよ。
イフリータ
だったら、オレサマの炎でガラスを切りゃいいんだな!
もうコントロールが効くようになったし、できるはずだ。
イフリータ
(アーツの授業で、先生が言ってたよな。炎は暴れまわるだけのものじゃない、静かな怒りみたいに燃やすこともできるんだって。)
(この炎を剣に変えるんだ。)
(一筋にまとめて――)
イフリータ
ふんっ!
切れた……ちょっと切れたぞ!
サリア
うっ……ごほっ……
サイレンス
エナメル質に亀裂が入ってる!
イフリータ
もうちょっとだけ耐えてくれ、サリア!
あと半分なんだ! オレサマはできる!
サリア
集中しろ、イフリータ。意識を散らすな。
サイレンス
……あなたが気を失っている時に、ヤラ主任から聞いたの。あなたでも、国に抗うことはできないって。
サリア
ああ。
サイレンス
だけど、仮にあなたの言う通り、軍とマイレンダーが何らかの合意に達しているのなら、私たちが立ち向かう相手は国全体ということになるでしょう。
サリア
そうだ。
サイレンス
今のあなたは心拍数も体温も限界に近づいている状態で、意識を保つだけでも身体に負担がかかっているはず。
サリア
かもな。
サイレンス
もう限界なんでしょう、サリア。
サリア
――お前のドローン、ヤラが改造を施した物だな。そのアイデアのプロトタイプは……見たことがある。
サイレンス
いつの間に……
サリア
そのドローンの耐荷重量を鑑みるに、短距離であれば大人二人は運ぶことができるだろう。
お前たちはそのドローンで、イフリータが開けた穴から出ろ。向かいのビルの屋上で降りるんだ。
すぐに行け。
お前たちを行かせたら、私はこの扉から出て追っ手を引きつける。だが、向こうの人数が多いから、あまり長くは時間を稼げない。
サイレンス
……サリア。
サリア
ん?
サイレンス
まだ質問に答えてもらってないよ。
サリア
……
あなたが本当の意味でライン生命に立ち向かうことができないのは――あなたの芯の部分が、あの人たちと……統括と同類だから?
サリア
……すまない、サイレンス。
真剣に考えてみたが、明確な答えは出せなかった。
クリステンの実験が揺るがしてはならない法則に触れたのなら、私は彼女を止めるだろう。この数年ライン生命が犯してきたあらゆる過ちが正されるべきであるように、それも正されるべきことだ。
私は力を有する者ほど、身勝手な行動など許されないと固く信じている。
しかし、仮に私が過去に――クリステンと出会ったあの時に、まだ何も起きてないあの時に戻れたとしても……
当時のクリステンを止め、ライン生命の誕生を阻止するようなことはしない。
そう、たとえライン生命が将来これほど多くの災いを引き起こすとわかっていても、クリステンやパルヴィス、フェルディナンドの野心が制御不能になることを予測していたとしても――
私は変わらず、彼らと共に立つだろう。
サイレンス
……
あなたの答えは……あなた自身が思うより、明確なものかもしれないね。
イフリータ
やった! 二人とも見たか? 開いたぜ!
サリア
行け、サイレンス。
まだ知りたいことがあるのなら、この件を片付けたあとにすべて答える。
サイレンス
……わかった。
イフリータ
サイレンス?
サイレンス
ん?
イフリータ
何ぼうっとしてんだ、早く行くぞ。
サイレンス
……
「これは君には無関係だ、哀れなリーベリよ。」
「あなたが求めているのは真実か、正義か、それとも安寧か?」
「君が知りたがっていることを教えても構わない。」
「だがそれを知ったとして、君に何ができる?」
――これは、私が求めていた答えじゃない。
サイレンス
ダメだ。
サリア
これは……ドローンの運搬ベルト?
サイレンス、何をしているんだ!?
彼女の背後でドローンの起動音がする。
廊下突き当たりの扉は、エナメル質の支えを失い、エネルギー武器の衝撃で今にも破壊されようとしていた。
飛び上がったサリアは片手でイフリータを抱き上げ、もう片方の手をサイレンスへと伸ばした。
しかし、サイレンスはその手を掴むことなく、今来た道を一歩一歩戻り始める。
サイレンス
……
サリア……もっと早くあなたと話すべきだった。
さっきふと、あなたに怒りをぶつけてしまう理由がわかったの。
私は、「炎魔事件」のせいか――
あるいは、あなたがそうやっていつも全部一人で背負いたがるせいだと思ってた。
でも、違った……私が本当に腹を立てていたのは、自分自身だったんだ。
あなたの行動が不十分だと責めてしまったのは……あなたに頼るのに慣れてしまっていたから。私はただ、あなたが統括を変えてくれたらと願うばかりで――
それは昔、先生がイフリータを救ってくれたらとか、統括がライン生命を変えてくれたらと思っていたのと同じだった。強い人たちが問題を全部解決してくれたらと望むばかりで何もしてなかった。
本当に臆病だよね。
すべてを操り、罪のない命を消耗品やデータと見なす権力者を憎悪しているのに……
その一方で、未来への希望をまた別の権力者の道徳心や良心に託していたんだ。
私は今この瞬間、事態が個人の能力の範疇を超えてはじめてわかったんだよ。他人のために、本当の意味ですべてを背負うことなんて誰にもできないんだってことが。
ここまで私を助けてくれた人たちは、ロドスもミュルジス主任も、ヤラ主任も、あなたも含めて……
みんな、私が巻き込まれないようにと望んでた。
仮にあなたが目の前で倒れてなかったら、イフリータが危険にさらされてなかったら……私は本当に、おとなしく諦めてたかもしれない。
だけどこうなった今――私は退かない。
これ以上、あなたに守られてる自分には耐えられないんだ。砲火が訪れた時、被害を受けた人々の前に立って無駄に両手を広げることしかできない自分なんて受け入れられない。
今度は私が、あなたたちより先に戦火へ足を踏み入れる番。
ドローンは二人を精確に隣のビルの下階へと送り届け、二人はサリアが割った窓を通って無事に着地した。
階下では今もフェルディナンドの部下が警備を続けているはずだ。しかし行動の余地さえあれば、自分なら包囲を突破できるとサリアは確信していた。
だが……
イフリータ
サイレンスは……何やってるんだ?
早くドローンでこっちまで飛んできてくれよ!
イフリータは焦り、向かいの部屋に向かって叫ぶ。けれどサイレンスは二人をじっと見つめたあとに背を向けた。
サリア
……
サイレンスが背を向ける瞬間、サリアは彼女の目を見た。
その眼差しには、申し訳なさも含まれていたが――
それよりも、決意のほうが強く表れていた。
クルビア兵
フェルディナンドさん、廊下で一人見つけました。
あなたに何か話したいことがあるそうです。
ヤラ
……サイレンス?
どうして……
サイレンス
すみません、ヤラ主任。でも、もう決めたんです。やるべきことをやり遂げるまで、逃げ出すわけにはいきません。
フェルディナンド
君のことは覚えているよ。パルヴィスの優秀な教え子だな。359号基地の時は、エレナと一緒に随分と面倒を起こしてくれたと記憶しているが。
サイレンス
……はい。私はサイレンスといいます。
あなたと取引したくて、ここへ来ました。
フェルディナンド
取引だと? サリアを見逃せと言うつもりじゃないだろうな?
それは君に決められるようなことではない。
サイレンス
いいえ。これだけは、私にも決められることです。
フェルディナンド
君が手にしているのは……359号基地の伝達物質か。
サイレンス
――
フェルディナンド
何をするんだ!? その伝達物質を体内に入れたところで機能はしないぞ。ドロシーの作った「メインコア」は、すでに破壊されたのだから!
サイレンス
新しい「メインコア」はクリステンのもとにあります。
フェルディナンド
ありえない。あれは私の実験なんだ、私とドロシーが……
サイレンス
少し前に、パルヴィス先生に会ったんです。あの人のラボには大量の伝達物質が保管されていました。本当はずっと前からわかっていたんでしょう? クルーニー主任。
あなたはそれを事実だと思いたくなかっただけ……自分はあと一歩でしくじったんだということにしたほうが、初めから統括の手の平の上で踊らされていたと認めるよりも楽ですから。
ですが、考えたことはありませんか?
明らかに彼女のほうが軍と密接な協力関係を築いていた上に、彼女であればあなたとドロシーの実験を初期段階で握りつぶす方法をいくらでも持っていたというのに――
――あの人はなぜ、わざわざあなたたちの実験が成功してから姿を見せたのでしょうか?
フェルディナンド
……
サイレンス
まだチャンスは残されています。
クリステンが伝達物質で何をしようとしているにせよ、それは現状まだ形になっていません。
クルーニー主任、私を彼女のところへ連れて行ってください。
伝達物質を取り込んだ私なら、クリステンを見つけ出すための道しるべになれるはずです。