深まる疑惑
シルヴィア
……こんな遅い時間に、まだ街に人がいるなんて。
あれは……ジェシカさん?
シルヴィア
ジェシカさん、こんな時間に銀行へ何のご用ですか?
ジェシカ
あのっ……ハァ、ハァ……あなたたちにちょっとお話が!
シルヴィア
と、とにかく……中に入ってからにしましょう。
銀行支店長
シルヴィアさん、どういうことですか? 夜は正面玄関を開けないようにと言いましたよね。ここ数日はBSWの人が外で……
ああ、ジェシカ様でございましたか。
こんな遅くに何かご用でしょうか?
ジェシカ
み……みなさんを追い出さないでください!
銀行支店長
追い出す? わたくし共が誰を追い出すというのです?
ジェシカ
負債を抱えた住民たちです。彼らをBSWに追い出させるのはやめてください!
銀行支店長
……それは誰のお考えなのでしょう。ミスタークリフですか?
ジェシカ
わたしの、わたし自身の考えです!
銀行支店長
わたくしの聞き間違いではないですよね、ジェシカ様? 冗談にも程がございますよ。
ジェシカ
冗談なんかじゃありません! 借金なら、わ、わたしが肩代わりをしますから、出て行かせるのは冬が終わってからにしてください。いま開拓地に行かせるなんて、死ねと言ってるのと同じですよ!
銀行支店長
銀行が信用するのは、傭兵の寝言ではなく、金券でございます。
ジェシカ
寝言じゃありません、金券ならありますよ! 肩代わりすると言ったらしますから!
銀行支店長
申し訳ございません、銀行は妄想症患者の対応はできかねますので――
ジェシカ
わたしはバーニー・ブリンリーの娘です! ……レイジアン工業の責任者であり大株主の、あのバーニー・ブリンリーです!
その言葉を口に出してすぐ、ジェシカは呆然とした。BSWに入って以来、彼女はどんな挫折や困難に直面しても、自らの父親や一族を頼ることはなかった。
それは彼女の一貫した矜持だった。自らの姓によって特別な扱いを受けることを彼女は決して望まなかったからだ。
しかしたった今、彼女は父の名を、一族の紋章に刻まれる姓を口にしてしまった。
銀行支店長
バーニー・ブリンリー?
これはこれは。お見それ致しました、ジェシカ・ブリンリー様。
ジェシカ
……皮肉を言う暇があるなら教えてください、一体いくら必要なんですか?
銀行支店長
そうですね……わたくしの方ですぐに正確な数字を出すことはできません。しかしご安心ください。ここにシルヴィアさんがいますので。彼女は数字にはめっぽう強いのです。
何をぼうっとしているのですか、シルヴィアさん。早くブリンリー様にお伝えしなさい。
シルヴィア
……ジェシカさん、その……
銀行支店長
シルヴィアさん、気後れする必要はありませんよ。この方はあのブリンリー家のご息女なのですから。こんな数字は彼女にとってなんてことない数字のはずです。
シルヴィア
こ、こんなのダメです……
銀行支店長
お伝えしなさい、シルヴィアさん!
シルヴィア
現時点で……デイヴィスタウン全員の負債総額は約……二億七千六百万です。来年の春までという話であれば、合計返済額の概算は……
ジェシカ
いくらですか?
シルヴィア
二千八百四十五万です。
ジェシカ
二千……八百万?
銀行支店長
この程度の金額で、皆さんが三ヶ月の間は安心して区画で暮らせるというのであれば、お安いものでしょう、ブリンリー様?
なぜ黙っておられるのですか?
ジェシカ
い、今は手元にそこまでのお金はありません。ですがあ、あるだけの分を引き出しますので……
銀行支店長
2845万……どうやら家族信託基金を持つお嬢様でも、一度にこれほどの大金はご用意できないようですね。
なるほど、勉強になりました。
ジェシカ
わ……わたし……あの……
シルヴィア
ジェシカさん……
ジェシカ
シルヴィアさん、わ、わたし……
シルヴィア
あなたは……デイヴィスタウンの人間ではありません。彼らのためにそこまでする必要は……本当にないんです。
ジェシカさん、聞いてください。今日のところはとりあえずお引き取りを……た、たとえ今回はお金で助けることができたとしても、その次は、さらにその次は……どうするのですか?
ジェシカは唇を震わせながら、一言も発することができなかった。
彼女はわかっていた。シルヴィアは皮肉を言っているのではなく、ただただ事実を述べているだけであると。
自分の口座に並ぶ数字は、自身の一生涯の安定を保証できても、この区画に住む者たちの一ヶ月の生活すら保証することができない。
不意に父がかつて丁寧に忠告してくれた言葉を思い出した。「物事を行う際には利害を天秤にかけ、実力に見合うことをしなさい。」
いつまで経ってもそれができない自分だから、何も成し得ることができないのだろうか。
秘書
ミスタークリフ、いらっしゃいますか?
「クリップ」クリフ
ああ、なんだ?
秘書
あの方がお見えになりました。お会いになりますか?
「クリップ」クリフ
……
秘書
ミスタークリフ?
「クリップ」クリフ
ああ、聞こえている。中に通して構わん。
ヘレナ
ジェシカ、どうしてここに? BSW本艦へは戻らなかったの?
ジェシカ
……ヘレナさん、ウッドロウさんは……帰ってきましたか?
ヘレナ
まだよ。昔の知り合いが来てるから、会いに行くって言って出てったきり……
あなたなんだか様子がおかしいけど……どうかした? ウッディに……何かあったの?
ジェシカ
いえ……ウッドロウさんは、恐らくBSW本艦へわたしたちの社長に会いに行ってるはずです……二人は旧友同士なので、もしかしたら社長に考えを改めさせることができるかもしれません……
ヘレナ
BSWの社長? ウッディにそんな友人がいたなんて、聞いたことがないわ。
ジェシカ
ウッドロウさんは、彼ら二人ともう一人――サンクタの方と写っている写真を持っていて……
ヘレナ
あー、あの写真ね。でも確かずっと引き出しにしまっていて、鍵までかけてたはずだけど、あなたそれをどこで見たの?
ジェシカ
そ……それよりも、重要なのは写真の中の三人が楽しげに笑っていたことです。そうでしたよね?
ヘレナ
……ウッディは本当に写真の人物に会いに行ったのね?
ジェシカ
……ヘレナさん、何か知ってるんですか?
ヘレナ
独立戦争中にウッディが経験したことについて、あたしも多くは知らないし、あの写真に写ってる人のことも、軽く聞いただけなんだけど……
当時、あなたの社長が下した選択によって、ウッディともう一人が敵の捕虜になって、クロスキャンプに幽閉されたそうよ。
ジェシカ
……クロスキャンプは……捕虜収容所だったんですか?
ヘレナ
知らなかったの? それもそうね、あれは随分と昔のことだもの。政府もその件についてあえて言及しようとはしないし、あなたたち若者はきっと知らないわよね。
クロスキャンプは、クルビア独立戦争中にヴィクトリア軍によって建てられた捕虜収容所でね、当時どうやら……恐ろしい捕虜虐待が起きていたそうよ。
ジェシカ
捕虜虐待……!?
ヘレナ
そう。十人が入れられて、出てこられるのはたった一人。
自分をそんな場所に陥れた人のことを、古くからの友人だなんて誰が思うのかしら……
ジェシカはあの褐色の身分証明書を思い出した。
そしてふと思い至る――あれは元々褐色の紙だったわけではなく、血が乾いてあの色になったのだと。
???
上官、いらっしゃいますか?
曇った顔色の傭兵
ああ、なんだ?
???
あの方がお見えになりました。お会いになりますか?
曇った顔色の傭兵
ああ、中に通して構わん。
やつれた顔の男
……座ってもいいか?
曇った顔色の傭兵
もちろんだ。
椅子ならそこにあるぞ、ウッディ……
やつれた顔の男
……すまんが、ここ数年で地べたに座るのに慣れちまってな。忘れていたよ、今は椅子に座っても……殴られることはないってのを。
曇った顔色の傭兵
……
1019年秋 クルビア クロスキャンプ
やつれた顔の男
……俺を呼び出したりして、何か話したいことでもあるのか?
曇った顔色の傭兵
てっきり、再会したらたくさん訊きたいことがあるのはお前の方だと思っていた。
やつれた顔の男
いや、俺が訊きたいのは一つだけだ。
三年前、なぜ助けに来なかった?
曇った顔色の傭兵
それはお前が行った後で状況が急変したからだ。右翼の敵軍の包囲網が突然狭まってきてな、戦力を温存するために元々の救出計画を放棄するしかなかった。
やつれた顔の男
……そんな簡単な説明で終わりか?
お前が救出計画を定め、敵の注意を引くため俺を送り込んだ。だがお前はあいつを助けに行かなかった。
曇った顔色の傭兵
状況は切迫していた。私は部下の兵士たちに対し、責任を負う必要があった。
やつれた顔の男
他人事みてぇなツラしてんじゃねぇ!
曇った顔色の傭兵
なぜ私の表情をそんなに気にするんだ、ウッディ? ここに入ってからずっと、私の顔を凝視して表情を読み取ろうとしているが。
サンクタ同士で気持ちを確かめるのに……そういうことをする必要はないだろう? 一体どうしたんだ?
やつれた顔の男
……あいつが死んでから、これが習慣になったってだけだ。ここには俺とあいつ以外、サンクタがいなかったからな。
曇った顔色の傭兵
あいつは、いつ死んだんだ? 書類には「死亡」の印が押されているだけで、ほかは記録になかった。
やつれた顔の男
具体的な日付は覚えていない……カレンダーも時計もなかったしな……恐らく去年の春先……いや、もう夏だったか。あの日、俺は鉄格子の向こうに三色スミレを見たから。
曇った顔色の傭兵
何があった……?
やつれた顔の男
初めは……ひどい高熱が出てな……ずっとうわ言を呟きながら、目を大きく見開いていた。そして何か伝えたいことでもあるのか、俺の袖をきつく握ってきたんだ。
だから俺は、あいつに顔を近づけ、何て言っているのか聞き取ろうとした。
曇った顔色の傭兵
あいつは何て……
やつれた顔の男
聞こえなかったよ……言葉が出るより前に、奴の手は袖を放した。その時、目はまだ大きく見開かれていて、瞳孔は広がり……真っ暗だった……周りのすべてを吸い込むんじゃないかと思うほどにな。
曇った顔色の傭兵
ウッディ……
やつれた顔の男
何でなんだ、どうして……お前は来なかった?
男は顔を動かして、視線を再び傭兵の顔へと向けた。その目はひたすらに虚ろだった。
いつしかその瞳孔から漆黒の色が広がり、流れ出し、回り出した。まるで周りのすべてを飲み込まんばかりに。
傭兵は自分がその黒い渦の中に勢いよく引きずり込まれていくのを感じた。相手の虚ろな視線の中、どこからともなく伸びてきた鉤で足を掴まれたかのように。
「クリップ」クリフ
……
ウッドロウ
名を変えたらしいな、今のお前を何と呼べばいい?
「クリップ」クリフ
好きに呼べ……もう少し早く来ると思っていたよ、ウッディ。
ウッドロウ
昨夜の一件で、やることが山積みになってな。友人たちの手伝いもしなければならなかった。
「クリップ」クリフ
もし助けが必要なら何でも言ってくれ。金だろうと人手だろうと。
ウッドロウ
感謝するよ、ミスタークリフ。だが、その必要はない。助けというのはまだ間に合う時に使う言葉だ。それに対し、お前の助けは……いつも一足遅い。
「クリップ」クリフ
そうだな、何事も適切なタイミングでなければ。
ウッドロウ
お前はここへ何をしに来た?
「クリップ」クリフ
旧友に会って、挨拶もなしか?
ウッドロウ
……「旧友」という単純な一言で俺たちの関係を言い表すことなどできない。お前は、俺たちが再会するだけで、昔のようなやり取りができるとでも思ったのか?
「クリップ」クリフ
では、どんなやり取りを望んでいるんだ?
ウッドロウ
やり取りしなくて済むならそれが一番だ。
「クリップ」クリフ
ウッディ、私たちはもう老いた。そう言葉にとげを持たせなくともいいだろう。
この十数年の間で、多くの友人が相次いで体を壊し、葬儀も何度も行われた。いまだ健在な奴であっても、たまに会うことさえ簡単ではない。
お前だってこんな遠くに住んでいる。新聞でお前の訃報を見つけることはないだろう。だからこの目で見に来るしかなかったんだ。
ウッドロウ
その必要はない。俺が死んでも、葬儀にお前は呼ばんからな。
「クリップ」クリフ
それは残念だ。ずっと昔、どちらが先に死んだ時には、残った方が弔辞を述べようと約束したというのに。
ウッドロウ
そこまで葬儀にご執心なら、お前に何かしら言ってほしいと思う奴は大勢いるだろう。俺は……ごめんだがな。
「クリップ」クリフ
ウッディ、私は葬儀が好きなわけではない。葬儀に出席するのは、ただ棺の中で眠る者が私の友人だからというだけだ。
ウッドロウ
そういう葬儀で、どの席に座るんだ? 親戚や友人の間か?
「クリップ」クリフ
そんなことはめったにない。多くの場合、親族の要求がなければ、私は葬儀が終わるまでただ遠くから眺めているだけだ。
ウッドロウ
なぜだ? 彼らの悲しみを受け止めきれなくなるのを恐れてでもいるのか?
「クリップ」クリフ
他種族の葬儀において、遺族の悲しみとはプライベートなものだ。結局のところは自分自身で対処するしかないと思うが。
ウッドロウ
綺麗ごとを言うのはよせ。単刀直入に聞く。俺はあいつを捕虜収容所の裏山に埋めた。お前はその後そこを訪れたことはあるか?
「クリップ」クリフ
……
残念だが、行ってはいない。時間が取れなくてな。
ウッドロウ
……やはりお前はちっとも変わらんな。
ヘレナ
だからわからないのよ。ウッディはどうしてその人に会いに行ったの……?
ジェシカ
わたしのせいです……わたしがウッドロウさんに頼んだんです……
ヘレナ
なんですって!? あなた……!
ジェシカ
わたしはてっきり……社長がウッドロウさんと友人で、昔のよしみで区画のみなさんのことを……大目に見てくれるんじゃないかって……
ヘレナ
どうしてあなたはそんなに考えが甘いの? ジェシカ……ウッディはね、彼は……
ジェシカ
わたしは、なんてことを……
……
ヘレナ
まあいいわ。ジェシカ……こうなってしまった以上、もう隠す必要はないわね。
あたしはここを出て開拓地へ行くつもりよ。
ジェシカ
ヘレナさんまで……
ヘレナ
そうね。常連のお客さんたちが一人また一人と追い出されていき、残されたのはあたしたち老いぼれだけ。こんな状態でレストランを続けたとして、何の意味があるの?
それに昨晩の騒動で壁までもボロボロになっちゃったし、さすがにもう修理する気にはなれないの。そんな気力もないしね。
このお店のために、何年も頑張ってきたけど、もう……十分よね。
ジェシカ
ごめんなさい、ごめんなさい……
ヘレナ
あなたはなぜ、いつもそうやって謝るの? 何もしてないのに。
ジェシカ
だってわたし、何もできなくて……ごめんなさい、本当に……
ヘレナ
自分を責める必要はないわ。区画がここまで落ちぶれたのは、よそから来たあなたの責任じゃないもの。さあ、もう仲間の所へ帰りなさい……
あなたには自分の生活があるんだから、あたしたちのためにこんな大変な思いをする必要はないのよ。
あの時の小切手……やっぱり返すわね。
ジェシカ
ですが……これはわたしにできる数少ないことなんです……
ヘレナ
いいから、持って行きなさい。
ジェシカ
……ヘレナさんは、いつ発つ予定ですか?
ヘレナ
そんなに急ぎじゃないわ。離れる前に、ちゃんとお別れをしないといけないもの。
レストランの扉を閉め、ジェシカはその前でぼんやりと立ち尽す。彼女の手にはくしゃくしゃになった小切手が握られている。
突然、彼女は道端の雪を思い切り蹴り飛ばした。舞い上がった雪が頭にかかり、雪で湿った毛先が額にくっつくと、彼女の火照った額の熱が少しだけ下がった……
彼女はバッグからテープレコーダーを取り出してそれを巻き戻し、何度も聞いてきた録音データをまた初めから再生した。
「……分別のつかないお嬢様でしかないわたしに、これ以上何ができるというの?」
そう呟きながら、彼女はゆっくりと黒い巨艦へ歩みを進める。
???
誰か聞こえてるか?
助けてくれ……サ、サルカズたちが急に区画にやってきて……
人がたくさん死んだ。俺は残った人たちと市庁舎の地下室に隠れている……ジジッ……ジジッ……
ロンディニウムの駐屯軍と連絡を取ろうとしてるんだが……
誰からも応答がない……誰からも……
誰でもいいから、もしこのメッセージを受け取ったら、どうか助けに来てくれ……
俺たちが頼れるのはこの通信しかないんだ……
ジジッ……ジジッ……
わたしはなぜ傭兵になったの?
他人の命どころか、生活も助けてあげられないのに。
フランカ
ジェシカ、今日一日どこ行ってたの? 連絡しても繋がらないし。
ジェシカ
わたしは……いえ、ただ歩き回ってただけです。
リスカム
一体どうしたの?
ジェシカ
隊長、わたし……わたしは……今回の任務の意味が完全にわからなくなってしまいました。
フランカ
ジェシカ……あなた何か見たの?
ジェシカ
……わたしたちの同僚が借金を抱えた住民たちを家から連れ出し、開拓地行きの輸送車に連れて行くところを見ました。
フランカ
何ですって!?
リスカム
……
フランカ
ちょっと、優等生サマ? 通信機とにらめっこしてる場合じゃないでしょ!
ジェシカの話が聞こえなかったの!?
リスカム
聞こえたよ……その上でさらに馬鹿げた知らせがある。
上層部からの命令だ。今後銀行の警備業務はわたしたちがやることになった。二十四時間体制で周辺を警備する必要がある。具体的なシフトは自分たちで決めろと。
フランカ
なっ……銀行の警備ですって!?
リスカム
そうだ。
ジェシカ
……
フッ……
……ほんと……「クソ」ばかばかしいですね……笑えてきちゃう……
リスカム
ジェシカ……