臨時停車
おいで、ロザリン。お母さんが、イェラガンドへのお祈りのやり方を教えてあげるわ。
目を閉じて、胸に手を当てて、心の中でイェラガンドの名前を呼ぶの……
そう、いい子ね、上手よ。
ロザリン。あなたはお父さんとお母さんにとって、何よりも大事な宝物なの。
誰に何と言われようと、お母さんはあなたを産んだことを後悔なんてしないわ。
イェラガンドのご加護があらんことを……
リェータ
イェラガンド像って、近くで見るともっとでっけーなあ。
しかし、イェラガンドってこんな見た目だったのか。
んー……
イェラガンドへの、お祈り……
あの時、母ちゃんはほかにも何か言ってた気がするんだよな。んんん……何だったっけ?
ダメだ、頭痛くなってきちまった。ま、三歳になる前のことだし、思い出せなくても無理ねぇか。
とりあえず、お祈りしとこうかな――
まずは目を閉じて、それから手を……どうすんだっけ。
???
右手を開き、胸にその手のひらを置く。
老修道士
イェラガンドの御前にて、我らの真実を見通せぬ眼を閉じ、そしてあまりに傲慢な頭を垂れるのだ。
心中の雑念を払い、黙したままイェラガンドの名を讃えなさい。
さあ、私と共に。
リェータ
……おう!
リェータは再び目を閉じた。
視界は遮られ、周囲は暗闇に閉ざされたものの、自身の感覚は一瞬で広がったように思えた。
背後にいる老修道士は、しわがれた声でイェラガンドへの讃美の言葉を唱えている――
我らが主、イェラガンドは、渇き満たす泉と飢え満たす果樹を我らにお与えくださる。
我らが主、イェラガンドは、天災をも凍てつかせる風雪を我らにお与えくださる。
我らが主、善良にして慈悲深きイェラガンドは、我らを、イェラグをお守りくださる。
祈りの声が響く中、風が頬をかすめる感覚は次第に強くなり、風雪が耳元でびゅうびゅうと音を立て始めた。
どこからともなく湧き上がる懐かしい感覚が、再びリェータを思い出の中へ引きこもうとしている。
リェータ
(イェラガンド……)
(私はあんたの信徒じゃねぇから、あんたの加護も必要ねぇ。)
(だけどもし、あんたがマジで信徒を守ってくれるんなら、母ちゃんのことをしっかり守ってやってくれ。)
(私は、母ちゃんの頼みじゃなけりゃ来なかったはずだから。)
……
んー、ダメだな。これじゃ足りねぇや。
老修道士
何を……?
リェータ
イェラガンド!
イェラガンド――!
うちの母ちゃんのこと、守ってやってくれよ!! 母ちゃんはあんたの信徒だから!!
その母ちゃんが言ってたんだよ!! イェラグはいいところだ、ってさ!! だから私は、ここがどんなにいいところかを自分の目で確かめに来たんだ――!!
驚く観光客
なんか叫んでるぞ……!?
興奮する観光客
お祈りしてるんじゃない? あれがイェラグ式だとか?
リェータ
ふぅ……
よし、これでバッチリだな。
老修道士
そこなお嬢さん、おぬしは一体どういうつもりなのだ?
リェータ
そんなん聞くまでもねぇだろ! 気合い入れて祈ってたんだよ!
絶対声に出して叫んだほうがいいと思ってさ。黙って心ん中で祈っても、イェラガンドに届いてなかったら困っちまうだろ?
老修道士
それは……
リェータ
せっかく来たからには、悔いを残したくねぇしな!
そういや、さっきは教えてくれてありがとな。
老修道士
はぁ……まあよい。イェラガンドもそんな些末なことはお気になさらぬだろうしな。
礼には及ばぬが、受け取っておこうか。
リェータ
はははっ、気にしねぇでくれるってんなら、イェラガンドは話がわかるやつなんだな。
爺さん、あんたもだぜ。
少女はずっと胸に当てていた手を下ろすと、最後に、目の前の大きなイェラガンド像を見上げてから、身をひるがえして階段を下りていく。
少女が振り返った瞬間、老修道士はようやく彼女の顔をはっきりと見た。
日光が、眼前の少女の目鼻立ちをなぞる。
頬の角度、鼻筋の通った顔立ち、そして唇の形……
――それを目にした時、老人は一瞬、形容しがたい馴染み深さを感じた。
老修道士
――
お、おぬし……
……
リェータ
ん? どうした?
老修道士
い、いや、何でもない……
観光客ならこれまでたくさん見てきたが、おぬしのように振舞う者は初めて見たな。
リェータ
そうか? 別に大したことしてねぇと思うけどな。
老修道士
……お嬢さん、名を教えてはもらえぬか?
リェータ
ロザリン。私はロザリンだ。
老修道士
……ロザリン……
年はいくつになる?
リェータ
もうすぐ二十歳だけど。
老修道士
……
おぬし、イェラグ人か?
リェータ
爺さん、わかるのか?
老修道士
その顔を一目見て、面影を感じたのだ……
ま、まさしくおぬしは……
リェータ
へえ、一目で見抜いたわけか。確かに、私はイェラグ生まれだぜ。
だけど、ずっと母ちゃんとウルサスで暮らしてたから、イェラグに来るのはこれが初めてなんだ。
だからそう思うと……ギリギリ半分イェラグ人ってとこだな!
老修道士
ウルサスで育ったのか?
……そうか……
ウルサスもまた、良きところだな。うむ。
時におぬし、イェラグへは何用で参ったのだ?
ラタトス
そうか、わかった。あとは引き続き自分らの仕事をしてな。
いいや、もう十分だ。やりすぎると怪しまれるからね。
あの子のことか? 話すと長くなるし、後にしな。食事の時にでも聞かせてやろう。じゃ、切るよ。
これで満足か?
デーゲンブレヒャー
ひとまずはね。
ノーシス
それで、「グレーシルクハット」は本当に、ほかのことには何も気付いていないんだろうな?
デーゲンブレヒャー
そんな大ごとみたいに言わなくていいわよ、ノーシス。
本当にあなたが心配しているような段階にまで事態が発展していたなら、あの公爵がじっとしているはずないでしょう。
山の麓に駐留している軍隊のことを忘れないで。クレイガボンは食えない奴よ。
ノーシス
だが、「グレーシルクハット」が車内に現れた以上……何かを嗅ぎつけたのは明白だ。
奴らとは以前接触したこともあるが、どれも上っ面だけの貴族の召使に見えた。しかし、実際には――
奴らは帝国が残した戦争の余燼を食って成長してきた連中、つまりは非常に厄介な手合いだ。
ラタトス
あんたらの日ごろの行いが悪いせいで、報いでも受けてるんじゃないか?
ノーシス
ハッ、報いだと? であれば君も逃れられまい。
ラタトス
そりゃあね。ヴィクトリアのスパイを釣るエサとして、あんな小娘を使ったんだから、私ら全員当然報いを受けるだろうさ。
「グレーシルクハット」は確実に釣れる。だからこそ、ヴィクトリア人にはあの子が「重要人物」だと信じ込ませておかないと。
ノーシス
君に忠告しておこう。イェラガンド像が完成し、まもなく式典が行われようというこの期間は、あらゆる人間の視線がここに集まる。
ゆえに、お互いより慎重を期す必要があるだろう。
ラタトス
ご忠告いただくまでもないさ。
ま、安心しな。私はヘマなんぞしない。何せこれはおままごとなんかじゃないからね。今さらこっちが手を引こうたって、そうはいかない状況だ。
いや、というよりは……
心変わりした、なんてぽろっとあんたに漏らそうもんなら、明日には私が「事故」に遭うことになるんじゃないか?
ノーシス
……ありえないことを想定する必要はない。
これがイェラグの今後に関わることである以上、初めから我々は退くことなどできない。進み続けるしかないんだ。
ラタトス
わかったよ。だが、ずっと隠し通すわけにはいかないからね、ノーシス。
これだけ大きなプロジェクトともなると、影響範囲が大きすぎる。
「グレーシルクハット」が今日あの娘に遭遇しなかったとしても、明日には別の少年に会うこともあるかもしれない。
いずれは嗅ぎつけてくるさ。
エンシオディスがもう算段をつけてることを祈ってるよ。でなきゃたとえ巫女様が全イェラグを代表して矢面に立ったとしても、あいつを庇いきれんだろう。
いや、それどころかヴィクトリアはカランド貿易をより重視して調べを入れてくるかもしれない。そうなったら、いよいよ打つ手がなくなっちまうよ。
デーゲンブレヒャー
いずれにせよ、巫女様とエンシオディスが立場上対立しているのは私たちの誰にとっても良いことでしょう。
ラタトス
……はぁ。
明日は家族そろって食事をするつもりだったんだが、この分じゃそんなこと言ってられそうにないね。
ノーシス
いつからそんなに家族を大事にするようになったんだ?
ラタトス
イェラグはずっとそういうものを大事にしてきたはずだろう? 家族だの血統だの、ちと古臭くはあるが……
巫女様とエンシオディスだって、もともとは兄妹じゃないか。
老修道士
そうだったのか……
では、お母上はイェラグでおぬしを産み、その後幼いおぬしを連れてこの地を離れ、ウルサスに居を定めたのだな。
そして、今回おぬしが遠路はるばる戻ってきてまで、イェラガンド像の前で祈り、雪山を登らんとしているのは、すべてそのお母上の願いを叶えるためだった、と。
そう……だったか。
リェータ
うん、まあそんな感じだよ。
老修道士
おぬしは良い娘だ……まっこと、出来た子よ。
知勇を備え、利発で聡明、そのうえ見目も凛々しい……
リェータ
え、へへ……私、そんなにすげぇかな?
老修道士
もちろんだとも。
おぬしほど出来た子がどこにいるというのだ。これはきっとイェラガンドのご加護であり、前世で積んだ功徳の結果であろう……!
リェータ
へへっ、そーだろ!
あ、待てよ、ちげぇな。徳積んでんのは母ちゃんだろ。
いてもいなくても変わんねぇ父ちゃんのほうは、まるで関係ねぇけどよ。
老修道士
おっほん……
おぬしの、お父上の……ことについてだが……
リェータ
爺さんでも、誰も思い当たらねぇのか?
は~あ……
おっかしいなあ、んなはずねぇのに。
父ちゃんはイェラグでも指折りのイケメンで、私は結構父ちゃん似らしいから、見つけるのはそんなに難しくねぇと思ってたんだけどなあ。
まさか……
老修道士
……
リェータ
母ちゃんの目にはイケメンに見えてただけで、実は父ちゃんってフツメンなのか?
老修道士
そっ……んなわけがなかろう!
リェータ
うわあっ!? なんだよ爺さん、急にでかい声出すなって。ビビったじゃねぇか。
にしても、そこまで言うってことは、この線はナシか。これ以外説明つかねぇと思ったのに。
老修道士
……やれやれ、難儀なことだな!
リェータ
ま、しゃーねぇか。別に急ぎじゃねぇし、あとでいいや。
爺さん、ここの修道士なんだろ。だったらこの辺には詳しいよな?
老修道士
知り尽くしているとまでは言えぬが、多少はな。
リェータ
そんなら知ってそうだな。
隣にあるあの山、どっから登ればいいのか教えてくんねぇか?
聞いた話じゃ、山頂はカップルに人気の観光スポットらしいけど、登るならチケットとか買わなきゃダメなのかな?
老修道士
無論そんなものは必要ない。
巫女様がおわす、この地でも特別な意味を有する山であるカランドを除けば、イェラグの山々はどれも、イェラガンドの民のものなのだからな。
はぁ……以前なら、イェラグでこんなことを聞く者もいなかったのだが。
かつてのこの地は、今よりずっと静かであったな。
あの頃は、観光名所もなければ目新しげな物もなく、観光客もさほど訪れず、誰もが信仰を抱いて山や湖を敬愛していた。
だが今や、シルバーアッシュ家は開放ばかりを主張し、巫女様もそれを止めようとなさらぬ。ゆえに、このような有様に……
リェータ
開放するとなんかマズいのか?
老修道士
……それはもはや、この老骨に判ずることはできぬことだろうな。
して、お嬢さん。山には今日登るつもりなのか?
リェータ
んー、今から登るにはちょっと遅ぇし……
とりあえず一晩休める場所を探して、明日の朝一で登ろっかな。
なあ、この近くにオススメの宿とかないか?
老修道士
ふむ。手狭ではあるが、風雨をしのげる部屋くらいなら私の家にもあるぞ。
おぬしが嫌でなければの話だが……
リェータ
嫌なわけねぇだろ! 厄介にならせてくれ!
あんたってマジで良い奴だな! 母ちゃんが、イェラグの人は人情深いって言ってたけど、あれってほんとだったのか!
老修道士
こ、これおぬし!
二つ返事にもほどがあるぞ! そんなに不用心ではいかん!
相手に何か良からぬ企みでもあったら、どうするつもりなのだ!?
リェータ
爺さんが言い出したことなのに、なんで怒ってんだよ……
まあほら、安心しろって。
私もウルサスじゃ散々苦労してきたし、そう簡単にやられっぱなしにはなんねぇよ。そもそも、誰が勝つかなんて、やってみなきゃわかんねぇだろ!
老修道士
屁理屈を言うな!
相手がおぬしより強かったら、いかにして身を守るつもりだ?
リェータ
私もそこまでバカじゃねぇっての……
もういいだろ、爺さんが心配してくれてるのはわかったからさ!
正直、自分でも理由はわかんねぇんだけど、なんとなくさ……
老修道士
何を口ごもっている?
リェータ
や、なんでかはよくわかんねぇんだが……
あんたなら、ぜってー私を傷つけたりなんかしねぇと思うんだ。
身軽なチェゲッタ
どうだ? ターゲットは見つかったか?
闘志みなぎるチェゲッタ
いいや。望遠鏡で見てみたが、湖上の島にはそもそもほとんど人がいなかった。
身軽なチェゲッタ
だろうな。相手は変装のプロだし、簡単に見破らせちゃくれないはずだ。
闘志みなぎるチェゲッタ
だったらどうして見張らないといけないんだよ。
身軽なチェゲッタ
万が一に備えてってことさ。
とにかく、俺たちの任務はあの子のそばについておいて、危険から遠ざけることだ。もちろん、気付かれずにな。
「グレーシルクハット」
チェゲッタの隠密技術にはまだまだ改善の余地がありそうだ。
だが、あの娘がペイルロッシュ家のご隠居と出会い……
チェゲッタまで姿を現したとなると……
ん?
何だ――
闘志みなぎるチェゲッタ
何の音だ?
身軽なチェゲッタ
俺が見てくる。
「グレーシルクハット」
(駄獣の鳴き真似をする)
身軽なチェゲッタ
なんだ、野良駄獣か。
「グレーシルクハット」
……何が役に立つかわからんな。芸は身を助くとはこのことか。
くっ……腰が……!
ヤエル
ほら見て、エンヤ。
もっとよく見てちょうだい!
この像……
やっぱりおかしいわよね。イェラガンドには全然似てないわ!
エンヤ
そうですか?
私はなかなか良いと思いますが。
ヤエル
ちっとも良くないわよ!
せめて顔をもう少し細くして、スタイルも……
エンヤ
ヤエル、もういいでしょう。
これはイェラグの人々が選んだことなのです。此度建設されたイェラガンド像は、彼らの心の中にある、最も神聖なイェラガンドのお姿なのですよ。
わかっているでしょう。それを大きく変えることなどできません。
ヤエル
はぁ……
エンヤ
ため息をつかないでください。
それよりヤエル、先ほどの少女の言葉は聞こえましたか?
ヤエル
ああ、あの声の大きなお嬢さんよね?
もちろん聞こえたわ。彼女、なかなか面白い子ね。言い分にも結構筋が通っていたし。
あの子の言う通り、さすがのイェラガンドも心の中の祈りまでは聞くことができないもの。
エンヤ
ヤエル……
ヤエル
そもそも、人の心は複雑なものなんだから、願いを口にせずに察してもらおうだなんて到底無理な話じゃない?
エンヤ
それはそうですね。
ヤエル
だから……
ねえ巫女様、あなたの侍女のささやかなお願いを聞き入れてくださらない?
この像の――
エンヤ
却下します。
ヤエル
エンヤ、ねぇエンヤってば~。
エンヤ
駄々をこねてもダメですよ。