不正乗車の代償

あれは二十年以上も前のことだ。
あの冬は常より寒く、雪は降りやまず、風も強く、人が吹き飛ばされるのではというほどだった。
あんな天気の中、外に出ようとする奴なんざいない。
人々は家にこもり、昼夜を問わず暖炉を焚いて、いつでも熱い茶が飲めるよう暖炉の上にポットを置いていた。
冬になる前に補強された小屋の中で、駄獣たちは一か所に集まって眠り、一日中うとうとしていた。
あの年のイェラグは時間までもがゆっくり流れているように感じられた。やっと一日が終わったと思えば、次の日もまた吹雪。そんな冬だった。
当時まだ若造だった俺は、そんな日々に耐えられなかった。あの日は何人かを連れて、こっそり山へ狩りに向かった。
しかし、雪があまりにも強すぎて獲物は見つからず、おまけにほかの連中とははぐれてしまった。そこで俺は、必死で山頂に向かって歩き続けるしかなかった……
そして、ここで……
……タチアナと出会ったんだ。
アークトス
チッ、なんて天気だ!
獲物の毛一本見当たらん。これではまた親父に……
ん?
何の音だ?
ッ、何者だ!?
その時、アークトスの言葉に応じるかのように、頭上の枝から雪の塊が落ちてきて彼の頭に直撃した。
そして頭上から、女性の澄んだ笑い声が響いてくる。
???
あはは、当たりね~。
ふふっ、私はここよ。
どうして避けないの? でくのぼうさん。
アークトス
お、お前……!
???
私がどうかした?
それより、あなたって面白い人ね。こんな天気の中、山に登って狩りをしようだなんて……本気で獲物が獲れると思ってたの?
その綺麗なお顔に免じて忠告してあげるわ、お坊ちゃま。
早くおうちに帰りなさい。
アークトスは顔を上げた。
吹雪は次第に弱まっていき、枝が絡み合う双子の木の間を明るい日差しが抜けて、彼の顔にまばらな影を落とした。
細い雪の向こうに、女の姿が見え隠れする。
彼女の動きに合わせるように雪がひらひらと舞い落ちる。若きタチアナは笑みを浮かべて下を見やり、樹下の青年と視線を合わせた。
アークトスはふと、目尻の乾きを覚えた。
とうに見慣れた雪の色が、この時急にまぶしく感じた。
あの日の日差しは、あまりにもまばゆかった。
スキウース
巫女様、ご覧ください!
こちらのイェラガンド像の主要部は我がブラウンテイル家が建設を担当いたしました。全高約三十メートルの像全体が硬い素材でできており、少なくとも今後百年破損のリスクはございません。
造形の調整にはプロの職人と自ら志願した数百名の敬虔な信徒が携わり、研究を重ねてイェラガンドの雄姿を最大限再現したこの形へと完成させました!
途中で一度、イェラガンドを人の姿で表現すべきかどうかで論争が巻き起こりまして……アークトスのバカが喧嘩を始めそうにもなりましたが……
私が保証いたします! この像は間違いなく、これから先のイェラグで最も注目を集める名物となりますよ!
エンヤ
わかりました。皆様、今日まで本当にご苦労様でした。
こほん……このイェラガンド像は、イェラグが対外的に打ち出していく、国内最高のシンボルです。これほどの出来栄えとなったのもひとえに皆様の努力あってこそ。
イェラガンドもきっと、大いに満足されていることでしょう。
スキウース夫人、特にあなたと、あなたの姉君は――
像の建設のため、片時も現場を離れず相当尽力されていたとか。本当にご苦労様でした。
スキウース
ふっ、ふふふっ……
このくらい、何でもないことです。当然のことをしたまでですから苦労などとは思いませんよ。
無理やり勉強させられるより、こっちのほうがずっと楽ですし……
エンヤ
勉強……?
スキウース
ああいえ、何でもありません。
こほん! では巫女様、詳しくご案内をさせていただきますね。
どうぞこちらへ!
ヤエル
巫女様、明日の準備も整ったことだし、カランドへ戻りましょう。
エンヤ
あなたは口うるさくなりましたね、ヤエル。
せっかく山を下りたのですから、もう少し居させてください。
それとも、あなたまであの長老たちのように、巫女ならばああしろこうしろとしつこく戒めるつもりですか?
ヤエル
そんな嫌われるようなことしないわよ。
だけど近頃は巫女様もますます威厳が出てきたし、今じゃあなたが山を下りると決めたら止められる人なんか誰もいないじゃない。
昨日もエンシオディス様と会うために下山してたけど、以前なら長老たちは飛び上がって反対してたはずでしょ。
エンヤ
彼らは、巫女である私がどこか一方へ偏ることを恐れているだけなのです。
けれども、己を縛る者がいないからこそ、私はより一層、偏ってはいけませんし……そうするつもりもありません。
イェラグの民であれ、そのほかの者であれ、彼らの目に映る巫女――つまり私は、特定の勢力や一族ではなく、全イェラグの代表者でなければなりませんから。
ヤエル
巫女様……
エンヤ
たとえ、私とエンシオディスの間には、実のところ多方面にわたり意見の対立がそれほどなく、イェラグに関する問題の多くで合意に達せるのだとしても……
私たちが再び親密な関係に戻れるということではありません。ましてや兄妹として接するなど無理な相談です。
私にとっても、彼にとってもそれは同じことなのですよ。
こう断ずるのは……私個人の感情に起因する部分もありますが、決してそれだけではありません。
ですから、昨晩私のためにあの料理を用意してくれたことには感謝しますが……
今後は、あのようなことをする必要はありません。
ヤエル
エンヤ……
本当にこのままでいいの?
今でこそあなたがイェラグの代表者だけど、まだカランド貿易のことしか知らない人も大勢いるわ。シルバーアッシュ家はイェラグの各方面に関与し始めているし、今後も力を強めていくでしょう……
エンヤ
……
それについては、私にも考えがあります。
今、最も重要なのはイェラグを迅速に発展させること。ですが、それゆえにやむを得ずあえて放任している部分もいくつかあります。
結局、我々にはカランド貿易のような存在が必要ですから。
それに、エンシオディスの示した態度を思えば、私も当面はまだ受け入れることができるでしょうし……
ヤエル
だけど、このままでは危険でしょう?
エンヤ
だからこそ、私も自分なりの準備をしているのです。
ヤエル
んー、それってこの数年あなた主導で新しく建てた学び舎だとか、蔓珠院内部で進めている改革のこと?
エンヤ
ふふっ。
幸い、そのおかげで我々には知恵ある同胞があれほど大勢いたのだということに気付けました。
巫女やシルバーアッシュ家の声ばかりが重んじられるイェラグなどよりも、イェラガンドの民すべてのものとして、多くの声が飛び交うイェラグのほうが良いではありませんか。
まさしく、祈りがそうであるように……あなた自身が前に言っていたでしょう。心の中で祈るよりも、願いを口に出すほうが、イェラガンドの耳にも入るかもしれない、と。
私は、もっと多くの人々に、イェラグへの期待を声に出す機会を得てほしいと思います。
これが、私からイェラガンドへの願いなのです。
ヤエル
……うん、素晴らしい願いね。
イェラガンドにもきっと聞こえていると思うわ。
エンヤ
それは何よりです。
ヤエル、あなたも手伝ってくれますか?
ヤエル
もちろん。約束したでしょう?
私はあなたの侍女長だもの。
エンヤ
ありがとうございます。
ヤエル
そこまで感謝してくれてるなら、お礼として……
……ん?
……
あらあら、こっちに向かってるみたいね。
エンヤ
ヤエル?
誰か来ているのですか?
ヤエル
ええ、すごい勢いよ。
かなり速いし……完全にこっちを目がけてきてるわ。んー……今にも争いが始まりそうね。
エンヤ
イェラガンド像の近くで争いが起きてしまったら、問題にならないでしょうか?
ヤエル
どうかしらね。
ひとまず、巫女様は避難してちょうだい。スキウース夫人のほうにも人をやって知らせましょう。
万が一にも、誰かに危害が及ぶ事態は避けないと。
エンヤ
わかりました。
ヤエル、あなたは?
ヤエル
私は残るわ。
何かあったら……そうねえ、もし何か起きてイェラガンド像が壊れてしまったら大変だから。
ここは私に任せて。絶対に、イェラガンド像に「大きな問題は」起きないようにするから!
エンヤ
……
ヤエル……
待ってください、あなたまさか……
ヤエル
――!
あらまあ、もう来てるわよ! お喋りしてる暇はなさそう! 私が彼らを見ておくから、それじゃあね!
エンヤ
ちょっと、ヤエル!
……行ってしまいましたね。
……
まさか、この期に及んで隙を見てイェラガンド像に手を加えようとしているわけではないわよね?
そんなにこの像の顔が不満なのかしら……?
リェータ
この辺は木が少ないから、さっきより歩きやすいな。
気をつけろよ、この先はかなり雪が深そうだ。
……あのさ、あんたって……本当に私の父ちゃんなのか?
でもさ、母ちゃんが言うには……
アークトス
タチアナが俺のことを何か話してたのか!?
あ、あいつは何と……?
リェータ
そんな詳しくは聞かされてねぇよ。私も成人するまでは、父ちゃんがいることなんて知らなかったし……てっきりもう死んじまったもんだと思ってた。
母ちゃんが父ちゃんの話をしてくれないのも、私が物心ついた後ですらイェラグの話をほとんどしないのも、そのせいだと思い込んでたんだ。
そうして、これまで何年も、ずっと二人で生きてきたのにさ。まさかだったよ……
アークトス
そうか……
そうだろうな。あいつは……やはり俺を恨んでいたんだろう。
それも当然だ! あの時、俺はお前たちに申し訳ないことをした。あいつに恨まれてしかるべきだ。
どうやら俺がいなくなってからも、タチアナは悪くない生活を送れているようだな……
リェータ
……
ここに来る前、母ちゃんから聞いたんだ。イェラグの雪はウルサスとは違うし、山の上と麓でもまた別物だって。
母ちゃんが言うには……
イェラグも私の故郷なんだとさ。私はウルサス育ちだけど、生まれたのはイェラグだから。
アークトス
タチアナ……
確かに、あいつの言いそうなことだ。タチアナはこの山頂の雪が大好きでな。麓のものとはまるで違うと、いつも言っていた。
俺は粗野な男だから、当時は彼女の話を理解できなかったんだが。
リェータ
ははっ、私にも理解できねぇよ。
だけど、母ちゃんはこんなことも言ってたんだ。小さい頃のことなんて全部忘れてるかもしれないけど、その経験自体は絶対消えない……って。
それまでのあらゆる経験が、その人を形作っているんだって、いつも言ってたよ。
たとえ忘れちまっても、受けた影響自体はずっと残り続ける……
私が今の自分でいられるのは、生まれてから今までに経験してきたすべてのおかげだから、どんなに些細なことも大きな意味を持っていて、私を構成する重要な一部になってるんだってさ。
つまりさ、母ちゃんはここに来られなかったけど、私の中にはイェラグで形作られた部分もあるってことを教えたかったんだって。
だから、私は来たんだ。
アークトス
タチアナ……
……
お前の母親と出会ったあの時、俺たちは……互いに惹かれ合ったと言えるだろう。知り合ってから愛し合うまでに、さほど時間はかからなかった。
俺はタチアナを娶り、残りの人生をずっと一緒に過ごせたらと望んだ……その時まで俺はそうも強い望みを抱いたことはなかったし、心からそう願っていた。
しかし、当時のイェラグでは、それは容易なことではなかった。
リェータ
なんでだよ?
好きなら一緒にいりゃいいだろ。簡単なことじゃねぇか。
アークトス
ああ……それこそ一番単純で、一番簡単なことであるはずだった。
だがなロザリン、お前はイェラグを理解していない。少なくとも、二十年前のイェラグのことはな。
当時の俺たちは、まだ大地の片隅でのんきに暮らしていて、基本的には外界との関わりを一切持たなかった。
というのも、イェラグには天災がなく、それはイェラガンドのご加護のおかげだと誰もが信じていたからだ。災いの絶えない外界に比べればイェラグは唯一の楽園だと、皆がそう思い込んでいた。
あの時は俺も、イェラグは安らかで平和な場所だと思っていた。
けれども今となっては、当時の俺たちは閉鎖的で……盲目的だったと認めざるをえまい。
当時この地で営まれていた生活には、畑仕事や放牧、イェラガンドへの祈りくらいしか存在しなかった。
街でよその人間を見かけることはほとんどなく、見かけたとしても皆友好的とは言えない態度を取っていた。
リェータ
……
それで母ちゃんは……
アークトス
母親の性格は、お前が一番よくわかっているだろう。
タチアナは情熱的で華やかでさっぱりしていて、他者との違いを隠そうとしなかった。
そんなあいつに、俺はすっかり惹かれていた。
だが同時に、それは当時のイェラグからすればあまりに異質で、受け入れがたいことだった……
リェータ
チッ。
で? まさかそれで尻込みしたなんて――そんだけのことで、異国の女と結婚するのが怖くなっちまったなんて言わねぇよな?
だとしたら私は何なんだよ!? あんたは母ちゃんと結婚もせずに子供を作ったわけか!?
冗談じゃねぇぞヒゲジジイ!
アークトス
違う! そんなわけないだろう!
だからそう興奮するな……! 誤解だ! それを下ろしてくれ!
リェータ
だったら本当はどうしたんだよ?
アークトス
俺はっ……もちろん、お前の母親と結婚したさ!
確かに抵抗は大きかったが、完全に不可能だったわけではない。当時は、シルバーアッシュ家の当主も外国から夫人を迎えていたくらいだ。
その頃のペイルロッシュ家にとっては悩ましいことではあったが、それでも俺は親父を――つまりはその時の当主を何とか説得した。
お前もあの人には会っただろう。昨日、親父がお前を連れて帰ってきた時、俺はひどく酔っていたから、すぐにお前が誰かを気付いてやれなかったが……
リェータ
……それって……あの爺さんが……
私の爺ちゃんってことか!?
アークトス
ああ。
その当時、親父は俺の結婚については沈黙を貫き、邪魔をせずにいてくれた。俺はそのことに感謝しているんだ。
しかし、大きな心残りもある。タチアナとの結婚式に、あまり大勢の人を招待できなかったことだ。
だがそんな時、タチアナは俺を慰めてくれた。二人が互いに愛し合いしっかりとやっていけるなら、それ以外のことは重要じゃない、と言ってな。
そして……お前が、生まれたんだ。
お前たちと共に過ごした数年間は……俺に想像しうる中でも、最高の日々だった。
リェータ
……
アークトス
だが、そうした日々も長くは続かなかった。お前が生まれて間もない頃、シルバーアッシュ夫妻が事故に遭ったんだ。
当時のイェラグは、シルバーアッシュ夫妻の改革によって動乱していて、彼らを目障りに思っている者も多かった。
多くの者には、三家の当主に面と向かって歯向かう勇気などない。だが、異国から来た女を陰で攻撃するくらいなら容易いことだ。
シルバーアッシュ夫妻が命を落としたあの事故も、表向きは単なる事故とされているが……実のところ、そう単純なものではない。
リェータ
……私はあんまり詳しくねぇけど、ドクターからペイルロッシュ家は保守派だって聞いたことあんな。
ってことはつまり、当時は改革反対派だったんだろ?
アークトス
……そうだ。
あれこれと理屈を並べるつもりはないが、お前には知る権利があるだろう。
当時のペイルロッシュ家には、シルバーアッシュ家を押さえつけることが有益であり、その決定は俺個人の意思で変えられるものではなかった。
というのも、その頃の三家はこう定義づけられていたからだ。……ペイルロッシュは、イェラガンドの最も敬虔な信徒にして守護者。ブラウンテイルは、常に賢明な判断を下す聡明な追随者。
そしてシルバーアッシュは、信仰を破壊しようと企み、イェラグを危険に追いやる不埒者。
これこそが、当時のイェラグの実態だった。
ゆえに、ペイルロッシュ家の次期当主である以上、俺は一族の利益を損なうような真似はできなかった。
俺にできることは多くなかったんだ。
リェータ
……それで母ちゃんと私を見捨てたのか。
アークトス
違う!
お前を、ましてやタチアナを見捨てられるわけがないだろう!
だが、あの手の奴らがたった一つの「事故」だけで満足すると思うのか!?
シルバーアッシュ夫妻は死に、一方で俺は……ウルサスの女を娶っていた。
奴らはタチアナがどれほど素晴らしい女性かを知らず、そして彼女がどれほどイェラグを愛していたかなど気にもかけなかった。
当時の状況において、多くの人間からすれば彼女は単なるウルサスの――外国の人間であり、それはイェラグの破壊を象徴する、排除すべき存在に過ぎなかったんだ。
ロザリン、俺は戦士だ。これまでに多くの血を流してきたし、恐れるものなど何もない。
だが、あの時は夜も眠れなかった。
恐怖というものを初めて知った。
俺は怖かったんだ……
リェータ
……
…………
アークトス
あの時、俺に取りうる最善の選択は、お前たちをこの地から遠ざけることだった。
離れ離れになり、二度と会うこともかなわず、そばで守ってやることができなくなるのだとしても――
少なくとも、お前たちがどこかで普通に、穏やかに暮らしているだろうことがわかっていれば十分だと思っていたんだ……
そうすれば、タチアナとお前がいつか、俺の目の届かぬ場所で――あるいは俺のそばで、思わぬ災いに見舞われるようなことはない。
それが「事故」の二文字で片づけられてしまうようなこともな……
リェータ
……あんた……
アークトス
これが俺とタチアナの過去だ。
ロザリン。俺は夫として、父として、お前たちのためにするべきことを少しもしてやれなかった。その事実から逃れるつもりは決してない。
雪上へと武器が落ちる、くぐもった音が響く。
アークトスが身に着けていた斧を外し、それを自らの娘の前へと投げたのだ。
日差しの下、冷ややかな刃が鏡の如く父娘の顔を映し出す。
アークトス
恨まれても、憎まれてもいい。俺はそれだけのことをしたんだ。
罵っても気が済まないと言うのなら、その斧を俺に振るってくれればいい。俺は絶対に避けたりしない。
だが、その後でいいから……どうか、もう一度チャンスをもらえないか?
リェータ
……
アークトス
お……お前を困らせるつもりはない!
ただ、お前に知ってほしいだけだ。俺はまだ、お前たちを愛していると。これまでも、これからも。
お前の母にも、お前に対しても、俺の気持ちは今も変わらない。
だから……
もし、できることなら――
もう一度、父ちゃんと呼んではくれないか?
リェータ
……
父ちゃんと呼べ、だと……?
……
あのな……
アークトス
ロザリン……
リェータ
いい加減にしろよ! 寝ぼけたこと言ってんじゃねぇ!!
アークトス
――!?
ろ、ロザリン!?
リェータ
グダグダくっちゃべって言いたいことはそれだけか!?
あぁ!?
困らせるつもりはねぇとか言っといて、こんなボロ斧放り投げてきやがって! 一体どういうつもりだよ! マジでぶった切られることはねぇだろうとタカ括ってたわけか!?
アークトス
そ、そんなつもりは……!
リェータ
あんたがどういうつもりかなんざ知ったこっちゃねぇ!
聞こえのいい言葉ばっか並べやがって! 黙って聞いてりゃ家の連中を説得して母ちゃんと結婚しただの、お前たちを遠ざけるのが最善の選択だっただの……
ハッ、私のことバカにしてんのか?
あんたの話聞いてりゃ、当時の母ちゃんの境遇くらい想像つくぜ。
そうやって母ちゃんを周り敵だらけの中一人で何年も頑張らせて、そのくせ子供は生ませて育てさせたわけだろ。
それでも、母ちゃんは死ぬかもしれない危険に置かれることだって厭わなかったんだぞ。なのに結局追い出されなきゃなんねぇなんておかしいだろ。
母ちゃんがただウルサス人だからってだけで、どうしてイェラグでそんな扱いに耐えなきゃなんなかったのか、あんたは考えたことあんのか!?
アークトス
俺は……
リェータ
母ちゃんは冒険好きで、新し物好きで、色んなところに行くのが好きで、同じ場所に長くいることなんかできねぇタイプなんだ。
そのうえ、友達を作るのも好きだし、買い物も、色んな場所の美味いもんを食べるのも好きなんだよ。
あんたの語った二十年前のイェラグってのが、母ちゃんの好きなもんの一つでも与えてくれたことがあったか?
そういうことを、あんたちょっとでも気にかけてやったことがあったか!?
あんたの話に出てくる母ちゃんには、あんたしかいねぇし、ほかに何にもねーじゃねぇか!
情熱的で華やかだったとか言ったが、あんたの話聞いたところでそれがタチアナ・エフゲニエヴナ・ラリーナのことだとはちっとも思えねぇんだよ!
あんた、私らと過ごした日々は最高だったとか言ったがよ……
ハッ。
よくもまあヌケヌケとそんなこと言えたもんだな!
アークトス
タチアナ……
俺が……俺が悪かった……
リェータ
今さら泣きっ面見せてんじゃねぇよ。おせぇんだっての。
ウルサスでの私らの生活がどんなもんだったかわかってんのか?
私らが今もどこかで穏やかに暮らしているだろうって、そんなふうに思い込んで勝手に自己満足してたわけだろ?
ふざけんじゃねえ!
母ちゃんが一人子連れでどんだけ陰口叩かれてたか知ってるか?
知るわけねぇよな。
それに私は、おかげさんでガキの頃から父なし子だ。そういう奴が学校でどんだけ「人気者」になるか、あんたわかってんのか?
アークトス
まさかいじめを受けていたのか!? その連中、よくも――!
リェータ
父親ヅラすんじゃねぇよ。
私をいじめられるほど根性のある奴なんざいなかったさ。
だが、それはあんたとは何の関係もねぇことだ。私が自分の拳で勝ち取ってきたことだからな。冬将軍の助けのほうが、いないあんたよりよっぽど役に立ってくれたよ。
父親がいないからには、頼れるもんは自分だけだってのは小さい頃からよくわかってた。口先だけの腑抜けどもは、拳で黙らせるしかないってこともな。
私がこれまでどんだけ喧嘩に明け暮れてきたかなんて、あんたは知るはずもねぇよな! ハハッ!
アークトス
ロザリン……! 俺は――
リェータ
ここで何言ったって無駄だぜ。
私が言いたいのは、あんたがどんな状況だったにせよ、どんな屈辱を味わって重荷を背負ったにせよ、私には関係ねぇってことだ。
十年以上ツラ見せなかったあんたには、今後も出る幕なんざねえ。
昔、まだ父ちゃんがいたらいいのにって思ってた頃にも、あんたは現れやしなかった。
今じゃそんなもん必要もねぇよ。
それなのに、私に許してもらえると思ってたのか?
まさかそれで、母ちゃんとの仲を取り持ってもらおうとか、母ちゃんにも許してもらえたらとか期待してんじゃねぇだろうな?
くだらねえ夢見てんじゃねぇぞ!
アークトス
違うんだ! 許してくれと言う気はない!
ただ俺は、お前たちのために何かできたらと……
……いや、待てよ?
今何と言った? 「母ちゃんとの仲を取り持つ」?
だがお前の母は、タチアナは命を落としたはずなのだろう……!?
リェータ
はあ!? よくそんな縁起でもねぇことが言えるな!
んなこと誰から聞いたんだ? あぁ?
アークトス
お前が、タチアナの形見を持ってきたと聞いたのだが……
リェータ
そうだよ、「形見」を……
……「形見」?
あー、ちょっと待った。今調べてみっから。
……
……えっと、その……私が言いたかったのは、「形代」? ほら、母ちゃん本人が来られないから代わりになるものを持ってきたってことだったんだけど。
チッ、こんなんイェラグ語が難しすぎるせいだろが。確かにちょっと発音は違ったけど、完全な間違いでもねぇし……
アークトス
タチアナは生きているんだな? あ、あいつは元気なのか……!?
リェータ
すっげー元気だよ。出発前に転んで足の骨やっちまったせいで、結局ここには私一人で来ることになったけどな。
ただ、何年か前のチェルノボーグの件で……フンッ、あんたに言ってもわかんねぇよな。
とにかく、その時私はちょっとヤバい目に遭ってさ。結局は運よくロドスに救われたんだが、母ちゃんは私を探すために天災エリアまで駆けつけてくれて……そのせいで鉱石病に感染しちまったんだ。
アークトス
なんということだ……
それなら今はどこで暮らしているんだ? ロドスと言ったが……そうだ、あそこなら鉱石病の治療ができるだろう! お前たちはロドスで暮らしているのか? 周りには良くしてもらっているか?
俺もあそこのドクターとは知り合いなんだ! そ、そうだ、今すぐ連絡を取って……!
リェータ
何言ってんだか。あんたより私のほうがよっぽど、ドクターと仲がいいっての。
まあいい、この話はまたあとにしよう。話してると頭に血が上ってきちまうからな。
今はこの状況を切り抜けることのほうが重要だ。あのヴィクトリア人に好き勝手嗅ぎ回られるのは、あんたらにとっちゃ都合が悪ぃんだろ?
実はさっき、いい方法を思いついたんだが、それを話そうと思ったらあんたに遮られたからよ。
アークトス
なに? 登れそうなところでも見つかったのか?
リェータ
あそこだ。
あそこに立ってくれ。
アークトス
だが、ここには崖しか――
リェータ
知ってるよ。
リェータは、父親を名乗る男の背後に立つと足を上げ、その背を躊躇いなく蹴り飛ばした。
完全に無防備だったアークトスは、ただ驚いて彼女のほうを振り向くしかできないまま、崖から落ちていく。
アークトス
うおおおっ――!
ロザリン、気をつけろ――こっちは――うっ!
リェータ
ったく、マジで声がでっけえな……
そうやって叫ぶんじゃねぇよ。私があんたに何かしようとしてるみたいじゃねぇか……
落ちるとこくらい確かめたっつーの。大した高さもねぇし、下には雪が広がってるし、飛び降りても大ケガはしねぇよ。
やれやれ……イェラグ人ってのは雪に飛び込んだりしないのか?
あっ。
そうだ――
おーい! イケメンどころかだらしのねえヒゲジジイさんよ!
この十年以上分の養育費、ちゃーんと払ってもらうぞ! あとであんたんちに請求書送っとくからな!
……
ふぅ……スッキリした。
さてと……
一応、ここで起こったことをドクターたちに伝えとくか。
あーあ、せっかく観光に来たってのに、一体どうなってんだか。
おっ、繋がった。
もしもし、ドクター?
そっちももうすぐ着きそうか?
おう、こっちは平気だよ。でも、先に知らせときたいことがあってさ……