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ヴィクトリア兵A
ぐはっ……
ヴィクトリア兵B
ごほっ!
ヴィクトリア兵C
気を付けろ――!
デーゲンブレヒャー
次。
ヴィクトリア兵D
……
ハアッ――!!
ヴィクトリア兵
報告します!
ハロルド大佐のご支援により、重傷を負った数名の救出が完了しました!
ですが現状では、敵方に有効打を与えることは困難と思われます!
老練の兵士
まとまれ、突撃するぞ!
向こうは一人だ、武器を使って取り囲め!
ヴィクトリア兵
ですが……
ですが上官、彼女を避けて動くべきではありませんか?
仰る通り相手は一人です。戦線を広げさえすれば、単騎では守り切れないと思うのですが。
老練の兵士
……バカ野郎!
そのくらいのことに、気付かないとでも思うのか?
ヴィクトリア兵
でしたらなぜ……
老練の兵士
周りをよく見てみろ!
重傷を負って危うくイェラガンドの顔を拝みかけてた連中は、お前と同じ発想で別の場所から防衛ラインを突破しようとした奴ばかりだろうが!
それ以外の動きを取ってた連中で、重傷負った奴なんかいたか?
ヴィクトリア兵
……
ということは……
老練の兵士
わかるだろ――避けろ!
ヴィクトリア兵
ぐっ……!
デーゲンブレヒャー
今のはやりすぎたわね。
内緒話はもう終わり?
老練の兵士
お前、いつの間にここへ……!?
デーゲンブレヒャー
今来たところよ。
何十人か立たせておけば私を止められるとでも思った? だとしたら考えが甘すぎね。
老練の兵士
チッ、本当のバケモンだな……
だが、数十でダメなら数百、数千人でかかればいい。
お前ひとりで軍隊に対抗することなんざ――
デーゲンブレヒャー
歯を食いしばりなさい。
老練の兵士
……なに?
デーゲンブレヒャー
私にやられるときは口を開かないで。
舌を噛んでしまうから。
その言葉と共に、冷たい強風が襲いかかる。
二千人を相手に、たった一人。数の上では絶対的な劣勢にあるにもかかわらず、その金色の眼には揺らぎなど微塵も存在しない。
彼女はまぎれもない捕食者であり、この戦場の支配者なのだ。
デーゲンブレヒャーを相手取る以上、彼女の脅威を少しでも軽んじれば、それはすなわち侮りとなり――
――同時に、自らの命を軽んじることにもなる。
老練の兵士
――!!
ハロルド
どうぞ手加減願います、デーゲンブレヒャー殿!
私の部下が失礼を申し上げたようなら、彼に代わってお詫びいたしますゆえ。
デーゲンブレヒャー
へえ?
代わりにお詫びを?
あなたにどれだけその人たちを守れるでしょうね。
ハロルド
はっはは! 私が戦死するまで、と言ったところですかな。
ッ……
いやはや、何たる威力でしょう。どうやら、貴方と正面からやり合うにはやはり実力不足のようです。
時に、貴方のお名前がご本名かと伺ったことを覚えておいででしょうか?
できれば今、その答えをお聞かせいただきたいのですが、いかがですかな?
デーゲンブレヒャー
私に時間を稼がれてもいいの?
ハロルド
ちょっと、シーッ!
戦場で認め合った者同士が、少しばかり言葉を交わすというのは至極当然のこと……よくある話ではありませんか!
デーゲンブレヒャー
……
元々の名前なんてほとんど覚えてないから、最初からなかったものと思ってくれて構わないわ。
リターニアの朽ち果てた通りには、名前も行き場もない人くらい、いくらでもいるものだしね。
ハロルド
……貴方がリターニアご出身であることは存じておりましたが、よもやそのような過去がおありだとは。
リターニアにお帰りになられた際には、民衆からもてはやされ、貴族による招待も受けたという報道を目にしたものですが。
デーゲンブレヒャー
駄獣に優勝トロフィーを持たせてやれば、あいつらは私の時と同じように喜んでもてはやすでしょうね。
ともあれ、そんなの意味のないことよ。
ああいう場所では、名前があるかどうかなんて関係ない。廃水と一緒に下水道に流されていく人が何て名前かなんて、誰も気にしないもの。
ハロルド
ですが貴方は今……とても力のある名前をお持ちでしょう。
デーゲンブレヒャー
力?
正確性に欠ける表現ね。
――あれは晴れた日のことだった。
巡回の憲兵が、行き場のない人を追い立てていてね。その憲兵の一人が、切っ先も刃もない、初めて見るような変わった武器を持っていたの。
優れた戦闘技術も、高度なアーツの理論も必要なく――
特別なことなんて何もない、一番単純な打撃によって、抵抗を試みた人の頭が打ち砕かれるのを見たのよ。
その瞬間にわかったの。自分の持っているものが何なのか。
ルールでも、信念でも、技術でもない。そういう聞こえの良いものなんかじゃなかった。
これは暴力だったのよ。
だからあの日、私は自分に名を付けた。刃なくして骨をも砕く、純粋な力に特化したものとして。
私は鐧――デーゲンブレヒャーなのよ。
ハロルド
……
ミノスにこんな言葉があります。「暴力と勝利は兄弟姉妹であり、不可分にして互いに不可欠である」と。
貴方を見ていると、これは真実であると思わされます。
しかし、仮に貴方が本当に暴力の化身であるとして、自らが得た勝利をどなたに捧げるおつもりなのでしょうな。
最後にもう一つ、些細な質問をさせてください――実のところ、大した意味のない問いだとは思いますが。
当時、貴方に気付きを与えたその憲兵は、常に勝利を収めていたのでしょうか?
デーゲンブレヒャー
さあ。私は彼の持っていた鐧が気に入っただけだから。
ただこれ、使い心地は悪くないけどすぐに壊れてしまうの。
あなたみたいにね、クレイガボン。
その腕、もうじき使い物にならなくなるわよ。
ハロルド
おおっと、事実とはいえ、そう容赦なく口にしないでいただけますかな。
私も一応軍を指揮する立場ですから、少しは面子を保たせていただかなくては……
あと三十……いえ、二十歳ほど若ければ、私もきっと今より嬉々としてお相手を仕ったことでしょうに。
認めたくはないことですが、まぎれもない現実として――私は老いてしまったのでしょうな。
デーゲンブレヒャー
そうは見えないけど。
ハロルド
おお、貴方もそう思われますか!?
ならば前言撤回です! 私も正直なところ、自分はまだまだ活力に満ち満ちていると思っているのですよ!
ただ、雨の日になると義足と足の継ぎ目のあたりに少々痛みが出ましてな……
デーゲンブレヒャー
……
本当、お喋りね。
それで、あとどれだけ耐えられそう?
ハロルド
私がどれだけ耐えられるか、ということより――
貴方がどれだけ耐えられるか、ということのほうが重要ではありませんかな?
デーゲンブレヒャー
……
だったら、やってみなさい。
ノーシス
双方、すでに行動に出ている。
今のところ、デーゲンブレヒャーはまだ耐えられそうだ。ハロルドは全力を出していないし、向こうの榴弾射手も術師も、ただうろついているだけにしか見えないからな。
あの酒は無駄ではなかったのかもしれないぞ、エンシオディス。
エンシオディス
そうか。ヴァイスとマッターホルンの方はどうなっている?
ノーシス
チェゲッタに捜索させている。
これまでの報告からして、彼らは襲撃を受けていたようだ。
エンシオディス
クレイガボン子爵は道理をわきまえた人物だ。彼らの命を危険にさらすことはないだろう。
ノーシス
そうであればいいんだが。
ひとまず、すでに部下を駅で待機させている。客人を迎え次第、こちらに連絡が入る手はずだ。
エンシオディス
その客人が予定通り到着することを願おう。
ノーシス
先ほど君に連絡してきた商人たちにはどう対処する?
エンシオディス
しばらくは、彼らがでしゃばってくることはないだろう。
巫女様にはこう伝えてくれ――
エンヤ
ご伝言は結構です!
身共はここにおりますので、仰りたいことがあれば直接どうぞ。
エンシオディス
……巫女様。
この場にて不慮の事態が起きましたのは、シルバーアッシュ家の手落ちでございます。式典が終わり次第、蔓珠院へと伺って巫女様にお詫びをさせていただきます。
しかし今は、恐れながら式典自体をしばし中断とする必要があるかと存じます。
エンヤ
もちろん、ご意見を頂かずとも理解しております。
それより、身共にできることがあるのなら、最初から遠慮なく仰ってください。
……身共が我慢しきれず話しかけてくるとわかっていながら、それを待ち、黙っているのではなく。
エンシオディス
巫女様の寛大なお心に感謝いたします。
ですが、巫女様及び蔓珠院の修道士方におかれましては、軽率な行動はお控えください。巫女様がこの場で式典をお続けくだされば、民の心も安らぎます。
加えて、デーゲンブレヒャーの実力に疑う余地などございません。彼女は滅多なことでは約束をしませんが、一度交わした約束は決して破りはいたしませんよ。
思うに、彼女を信頼するべきかと。
エンヤ
あなたの仰る信頼は、彼女なら一人で千の兵士を相手取れるだろうという信頼ですか? それとも、彼女ならあなたの計画が成功するまで、命を顧みず戦ってくれるだろうという信頼ですか?
エンシオディス
自分が行くと申し出てくれた彼女の考えは、私にもわかります。名の知れた人間である自分なら、仮に何かが起きてもイェラグと無関係な個人の問題にできると思っているのです。
エンヤ
彼女は……待ってください、彼女が自分で提案したのですか?
エンシオディス
彼女はイェラグの一国民として、この国の栄誉を守ろうとしているのですよ。
もしや巫女様は、私が彼女に一方的に命令を下し、そそのかしたとお思いでしたか?
……私から見ても、彼女は少し変わりました。ゆえに今回、彼女を信じて賭けに出ることにしたのです。
でなければ、あの愛想のいい子爵が「パニックに陥った観光客」の手にかかり命を落とす姿を見る羽目になっていたかもしれません。
私は、最良の結果に賭けたのです。
エンヤ
……
「賭け」、ですか。
エンシオディス
……私はかねてより、いかなることも成否を神に祈るのではなく、自分で掌握しなければならないと考えています。
隅々までを計算に入れ、すべてのチップをベットして、勝ち負けには責任を負い、決して結果に不平を零さぬようにして。
ですが……
エンヤ
エンシオディス様。
拳を緩めてください。血が滲んでおられますよ。
エンシオディス
……
巫女様。どうか、デーゲンブレヒャーのためにお祈りください。
マッターホルン
ヴァイス!
起きろ、ヴァイス!
ヴァイス
ん……
ヤーカの兄貴……?
ここは……ええと、確か……
――! そうだ、ヴィクトリア軍に不審な動きがあったんです! あれはそう単純な目的だとは思えません!
すぐに旦那様に知らせないと!
ッ――
マッターホルン
やめろ、無理に動くな!
さっき試してみたんだが、力だけでは抜け出せそうにない。……俺たち二人が制圧されてここに縛り付けられている以上、部下たちも似たような目に遭っているだろうな。
外が明るいのを見るに……どうやら一日経っているようだ。
ヴァイス
ヴィクトリア軍は?
マッターホルン
ここには誰も。
恐らく……今頃は、全員式典の会場だ。
ヴァイス
……
兄貴、一つお願いが。
マッターホルン
何をする気だ?
ヴァイス
僕の靴にカミソリを仕込んであるんです。
それを取って……僕のほうに投げてください!
マッターホルン
正気か!?
そんなもの、今のお前がどう使うつもりだ? 手が使い物にならなくなってもいいのか!?
ヴァイス
それでもやらなきゃダメなんです。
旦那様からこの任務を与えていただいたにもかかわらず、完遂できなかったんですから。
このせいで旦那様が先手を取られてしまったら、僕は……
もう手遅れなのだとしても、旦那様には必要のないことだったとしても、できる限りの挽回をして、失態の分を取り戻さないといけないんです!
マッターホルン
……
お前の言う通りだ。
マッターホルンは何とか身をよじり、ヴァイスの靴を指で探った。
そうして、ヴァイスの望みに応えることなく、自分の指でその薄い凶器を挟むと、懸命に力強く手首の縄を切り始めた。
指の隙間に挟まれたそれは、指の腹へと押し込まれ、赤黒い血が手首を伝い流れ落ちていく。
ヴァイス
兄貴!
手が!
マッターホルン
このくらい、どうということはない。
そもそも、お前も同じことをするつもりだったんだろう?
確かにお前の言った通り、旦那様がお待ちなのだから、長くお待たせするわけにはいかないしな。
そら、もうすぐ縄が切れるぞ!
ヴァイス
兄貴……
メンヒ
あの……
ヴァイス
――!
誰だ!
メンヒ
私は敵じゃない。
……ごめん、お邪魔した?
ヴァイス
メンヒ?
イェラグを離れていたはずじゃ?
メンヒ
その辺りのことは、後でちゃんと話すから。
スキウース様のご命令で、こちらの状況を確かめに来たの。そうしたら、あなたたちがヴィクトリア軍の兵営で拘束されてたわけ。
マッターホルン
ほかの者たちは?
メンヒ
全員解放した。
とにかく、今は急いでここを出て。ヴィクトリア兵はもう、銀心湖で戦闘に入ってるの。
なるべく早く現場に向かわないと。
アークトス
まずい、彼女も長くは持たんぞ!
このまま黙って見ているわけにはいかんだろう!
ラタトス
アークトス、戻ってこい!
私たちが好きで手をこまねいてるとでも思ってるのかい? 自分だけが正義の味方だと思い込んでんなら大間違いだよ! ちょっとは頭を使いな!
今あんたが手を出したら、それこそ大ごとになっちまうだろう!
アークトス
他人の背に隠れて生き延びるなどという卑怯なやり方は、我らペイルロッシュ家にはできん!
もう我慢ならんぞ!
ラタトス
我慢できなくても我慢しろ!
今この中で一番苦しんでるのは、絶対あんたじゃないんだよ。
アークトス
……デーゲンブレヒャーがイェラグへ来てから、もう十年は経つだろう? そんな彼女を、捨て駒にするつもりか?
今日のこの場に収拾を付けられなければ、エンシオディスがこの先どれほどの偉業を成そうと、イェラグにどれだけの利益をもたらそうと、俺は奴の言葉を一言たりとも信じられなくなるだろう。
このアークトスには、お前たちのように大それたことを成し遂げる力もなければ、そうも冷静でいることもできんのだ!
ラタトス
……何言ったってもう遅いんだよ。
こうなった今は、あんたも私も、あいつを信じてやるしかない。
ノーシス
その手の傷は、すぐには手当できない。必要とあらば手袋をして隠すといい。
それと、チェゲッタの報告で君も感じ取っているだろうが……
デーゲンブレヒャーは、恐らく長くは持たないぞ。
エンシオディス
彼女はすでに、攻撃を避けなくなっている。
あれはカジミエーシュで試合をしていた頃の癖だ。
あの癖は本来……
ノーシス
君を連れて追跡を逃れる際に、改めていた。
彼女がそうしていなければ、君のほうが先に命を落としていたことだろう。
エンシオディス
……そうだな。
それで、向こうはまだ連絡がつかないのか?
ノーシス
ああ。
調査に向かわせた人員は戻っている。例の客人は、確かに銀心湖行きの列車に乗っているそうだ。本来なら式典の終了直後にあたるであろう時間に、ちょうど到着すると聞いた。
つまりは、まだ駅に着くまでしばらくかかるということだ。
エンシオディス
そうか……
ノーシス。私は、どんな賭け事も恐れたことはない。
過去から現在に至るまで、私の歩みの一つ一つ、すべてが大きな賭けだった。
無論、今回もそれは同じことだ。
ノーシス
わかっているさ。
エンシオディス
準備は周到に整えてきたと思っていたが――
どうやら私は、自分で思うほど辛抱強くはないようだ。
ノーシス
……本心を打ち明けてくれたことに感謝しよう。君が聞きたがっている言葉はわかっている。
黒騎士の命を救いたければ――あるいは彼女が最後まで生き延びると信じられないのなら、今すぐ命令を下すべきだ。今ならまだ成功する確率は残っている。
我々が集めた弓使いと術師は、いずれも一流の腕前だ。湖面を爆破させ、混乱を引き起こし、民間人とヴィクトリア軍を諸共に全員冷たい湖底へ沈めることはできるだろう。
決定権は君にある。
いずれにせよ、君の選択を私は支持しよう。ただし、相応の結果を背負うことになる。
そしてそれは、単なる政治的駆け引きの範疇に収まるような結果ではなく、君に耐えられるとも限らないと私は判断した。
エンシオディス
もう一つ聞かせてくれ。お前ならどうする?
ノーシス
今頃、寒中水泳大会を眺めることになっていただろうな。
エンシオディス
フッ。
――デーゲンブレヒャーを信じよう。
彼女は決して倒れないと、そう信じるんだ。
いつの間にか、彼女の身体には一本の傷が走っていた。
二の腕についた傷の周りは服が裂け、ほとんど気付けない程度に血が滲んでいる。
しかし、とうに慣れた以前のような傷に比べれば、このくらいは取るに足らないものだ。
デーゲンブレヒャーがそばにいた兵士を数名なぎ倒す。微かな痛みで彼女の表情は凄みを増し、その動きは激しさを増した。
二つ目の傷は、アーツによるものだった。
本来、通常のアーツであれば、彼女相手には役に立たない。だが、数的優位性はアーツの効果にも質的な変化をもたらした。
隊列の中の術師が人間の壁の後ろからアーツを放つと、炎と氷、雷が一斉にすさまじい勢いで押し寄せてきた。
デーゲンブレヒャーはその時、手にしていた武器を投げ、術師の一人の肩を貫いた。そして自分はアーツの攻撃範囲を強引に突破し、術師たちを黙らせた。
三つ目の傷は、砲兵数名から三度目に狙われた時に負ったものだ。
相手が完全武装していようが、デーゲンブレヒャーは恐れない。ただ手足の自由が利かない時や、バリスタのような厄介な得物の数が多い時は、必然的に対処も少し面倒になる。
回避し損ねた砲弾が、彼女の腹部に焦げ跡を残した。
一瞬で皮膚が焼けたおかげで、ほとんど血を流さずに済んだのは幸いだった。
デーゲンブレヒャーは、自分が負けるなどとは思っていない。
ただ、自分にあとどれだけ血が残っているかはわからなかった。
四つ目、五つ目の傷は……
……
もはや覚えていない。
数えるのも面倒なくらいだ。
デーゲンブレヒャー
まだまだ……
さあ、来なさい!
老練の兵士
ぐうっ!
ハロルド
リスバーン!
チャールズ! リスバーンを後方へ!
まずは止血を! その後は私の手当てを待て!
デーゲンブレヒャー
……
ごほっ……
ヴィクトリア兵E
向こうはもう持たないぞ!
ヴィクトリア兵F
今だ、突撃!
デーゲンブレヒャー
フッ。
小指の一本でも動かせれば……
ヴィクトリア兵
ぐああっ!
デーゲンブレヒャー
あなたたちの相手くらいは務まるわ。
ハロルド
デーゲンブレヒャー殿!
貴方もそろそろ限界なのではありませんか!?
もしも本気で我々とやり合うおつもりだったなら、今のような状況では済まなかったはずです!
このまま続けていては、いずれ死傷者が出るのは避けられませんぞ……!
デーゲンブレヒャー
これはヴィクトリアお得意の挑発で始まった戦争でしょう?
いつもと唯一違うのは、相手が私一人ってことくらい。
あくまで、あなたは軍人で――
私は、あなたの敵なのよ。
ハロルド
……はっはは、鋭いご指摘ですな。
しかし、貴方がおわかりでないとも思えません。
カランド貿易が秘密裏に進めていた計画が「グレーシルクハット」に嗅ぎつけられた以上、公爵様もそれを見逃すわけにはいかないのですから!
デーゲンブレヒャー
げほっ……それは、エンシオディスの仕事よ。
ハロルド
これは、エンシオディス殿に残された最後のチャンスなのですよ!
彼のほうから公爵様に歩み寄り、頭を下げて少しばかりの利益を差し出しさえすれば……
それがこちらの提案の三割程度であろうとも、私が公爵様を説得してご覧に入れます!
この戦争は、そもそも必要のないものなのですから!
デーゲンブレヒャー
笑わせるわね。
あなたはそれを、どういう立場から言ってるの?
参列者? 観光客? あるいは駄獣のお医者さん?
しばらくのんびり暮らしていたせいで、仮初めの自分に染まり切ってしまったのかしら?
ハロルド
……
デーゲンブレヒャー
――いいえ、違うわね。
あなたは、自分が何者かを忘れたことなんてない。
それでいて、本当に戦争を嫌っている。
だから自分の手中にあった実権を一部手放してまで、自分と同じような境遇の部下を連れて、イェラグへ逃げてきたんでしょう。
戦争なんて起きないだろうと思い込んでいたこの場所へ。
だけどあなたは、結局のところヴィクトリア人なのよ。
なんて……
私に言われるまでもないことでしょうけど。
ハロルド
……貴方の仰る通りかもしれませんな。
私はヴィクトリアの一軍人です。
戦いを嫌うことも、逃げることもできますが、その定めゆえに――
国家の利益を損なうことだけは決してできないのですよ。
デーゲンブレヒャー
そう、いいわ。
私もそれは同じだから。
果たして、本当に同じなのだろうか?
実際には、二人は大きく違って見える。
彼女はリターニアに生まれ、カジミエーシュで育ち、最後にイェラグへやってきた。
人々は彼女の名を知る必要などなく、ただ彼女が天性の武者であることを、騎士競技の勝者にして唯一の三連続チャンピオンであることだけを知っていた。
さらに遡るのなら、彼女はアーツと無縁の異常者であり、リターニアに居場所のなかった人間だ。
こうした立場を得るのも、捨てるのも、実に簡単で――
どれもくだらないことだった。
しかし今、彼女には捨てがたく、そして捨てるつもりもないものができていた。
それゆえに、今の二人は確かに「同じ」だった。
デーゲンブレヒャー
くだらないお喋りは……ごほっ、ここまでにしましょう。
ハロルド
それは大変残念です。
事ここに至ってしまったことは大変不本意ですが、お望みとあらばそれを尊重するとしましょう。
最後にもう一度お伝えさせてください。私は本当に、貴方のファンなのです。対戦相手を華麗に倒す貴方のパフォーマンスはいつも、極めて鮮烈でした。
この言葉に嘘は決してございません。どうか信じてくださいませ。
デーゲンブレヒャー
フッ。
覚えておくわ。
ハロルド
光栄です。
手負いの女は再び鐧を持ち上げた。
初めに彼女が現れた時と同じように、鐧の先端が氷を打ち付ける。
銀心湖に未だ残っていた薄い霧が消え、彼女に向かい合う者の心に鈍く重い音がのしかかる。
ドゴン。ドゴン。
氷の砕ける音が響いて、耳をつんざくように感じる。
デーゲンブレヒャー
終わりにしましょう。
ハロルド
――! 全員、聞け!
湖面の破壊を断固阻止せよ! 陣形を整え、「カジミエーシュの黒騎士」を迅速に打倒するのだ!
ここではない。
この個室でもない。
そしてここでもない、か。
となれば、残るは……
乗務員
お客様、当列車は速度を上げて運行しておりますので、ご移動の際はお足元にお気を付けください!
そういえば、お客様にはまだお土産品をお受け取りいただいていませんよね? どちらがよろしいでしょうか?
予定を狂わせてしまったお詫びとして、ただいま無料で進呈しております!
「グレーシルクハット」
結構だ。
乗務員
ですが、本当に無料で……
「グレーシルクハット」
ならば、そのお土産品はあなたに差し上げるとしよう。
乗務員
えっ、ですがそれは……
「グレーシルクハット」
どうか受け取っていただきたい。
では、これで失礼しても?
乗務員
は、はい!
「グレーシルクハット」
感謝する。
乗務員
すぅ……はぁ……
うぅ……な、なんでかな。
足に力が入らなくなっちゃった……
「グレーシルクハット」
(次が最後の個室だな。)
(やれやれ、この数日の出来事には本当にくたびれた。)
(引退……は、無理だろうな。ロンディニウムの一件もまだ完全に落ち着いたわけではないし、公爵様はお認めにならないだろう。)
(しかし、この扉の向こうには何が待っているんだ?)
(イェラグの秘密の輸送ルートよりさらに奥深くへ隠されていた切り札か……)
(その正体が何であれ――)
残念だったな。これで、シルバーアッシュの切り札は彼の元へ辿り着きはしない……
……
銀の甲冑の騎士
ん?
どうなさいました?
申し訳ない、この個室は満員でして。お手数ですが、ほかの個室を当たっていただけますか。
スーツの男性
あの、お困りでしたら私、ここをお譲りしますが……
「グレーシルクハット」
……
…………
銀の甲冑の騎士
おや、まだ何か御用でも?
しかし、ご覧の通り本当に満員なのですよ。身体の向きを変えるのも大変なくらいで。
スーツの男性
いやいや、だから言ってるじゃないですか! 私が出て、外の一般席に座ってもいいですよと!
というか、どうしてあなたたちと同じ個室に座らないといけないんですか!?
銀の甲冑の騎士
代弁者殿、そう仰らずに。あなたも我々と同じく、招待を受けていたからこそ、こうしてご一緒したのではありませんか。
それに、この個室であれば我々もちょうど全員座れますし、道中の面倒を見合うこともできるでしょう。
我々がついていれば、安全面の心配はご無用ですしね。
スーツの男性
それはそうですけど……
これのどこが「ちょうど」なんですか? あなたたちは椅子に座れてますけど、私はサイドテーブルに座るしかないんですよ!
「グレーシルクハット」
……申し訳ない、失礼した。
「グレーシルクハット」
……
なるほど、わかったぞ……私はまだ夢を見ているんだな。
まさか、カジミエーシュの征戦騎士が、商業連合会の代弁者と同じ列車に乗っているとは……
これがシルバーアッシュの切り札か。
確かに、あの当主らしい大胆なやり口だ。
公爵様、お許しください……私は決して、力を尽くさなかったわけではありません。
これが私の責務であるとはいえ、征戦騎士数名を敵に回すのはあまりにも難儀なことです。
???
確かにそれは難儀だな。
お前の仕事も楽ではなさそうだ。
「グレーシルクハット」
――!?
Sharp
落ち着け。
俺は単なる通りすがりだ。
「グレーシルクハット」
その制服……
……驚いたな。
ロドスの人間がなぜここに?
Sharp
俺の上司に聞いてくれ。
「グレーシルクハット」
ますますもって驚いた。まさか本人にお会いしようとはな。
しかし、ロドスとイェラグの提携は「企業間の協力」に限った話ではなかったか?
私の記憶違いだとは思えないのだが。
久しぶりだな……「ドクター」。
こちらもロドスのオペレーターか? どうやら情報の通り、我々はロドスの全容を把握しきれていないようだな。
だが今は、そんな話など置いておこう。ここであなたに出会えたことは嬉しい驚きだからな。
今回のこれは、誓って嘘ではない。何しろ、顔を見せずとも私だとわかってもらえたのだから。
あなた方は――
???
ドクター! 早く来て、手伝って!
ミュルジス
あら、どうしたの?
もうすぐ駅に着きそうよ。機材をまとめるから手伝って……
あら? こちらは……?
リェータ
なあドクター、もっとスピード上げろって車掌を急かしに行こうぜ……
って、お前は!
「グレーシルクハット」
ロドスに、クルビアのライン生命か……なるほど、なるほど。
あなた方がここに現れたのは偶然ではないようだな。
ミュルジス
へえ。この人、あたしのことを知ってるのね。
ドクター、Sharpさん、リェータちゃん。この帽子の方はどちら様? 誰か紹介してくれる?
エンヤ
ヤエル、教えてください。イェラガンドは、この像のために戦う人をお守りくださるでしょうか?
たとえ彼女が生まれたのが異郷の地で、イェラガンドに対する信仰も乏しかったとしても……
ヤエル
ふふっ、答えは簡単よ。
「イェラグ人」というのは、イェラグに暮らし、この地を愛し、この国を居場所とする人を指す言葉。
だから、イェラガンドが認めるかどうかなんて関係ないわ。
心の底から自分はイェラグ人だと認めているのなら、それを誰が否定できるっていうの?
エンヤ
……
そうですね。
誰にも否定できないと思います。それが彼女自身であっても。
彼女はとうに、イェラグ人ですから。
――お客様に会いに行きましょう、ヤエル。
ヴィクトリアからのお客様が参列しに来てくださったのですから、私も巫女として礼を尽くさねば。
少なくとも、ご挨拶くらいしておくのが筋というものでしょう。
ヤエル
とても危険よ、と言いたいところだけど。
まあ……いいわよ、巫女様。
ユカタン
お義姉様!
スキウースが到着しました!
ラタトス
本当か!?
なんだってこんなに遅く……じゃない、今はできるだけ離れてろって伝えたはずだろう!
スキウース
どうして来ちゃいけないわけ?
ご招待したお客様だって連れてきてあげたのに!
ラタトス
こんな時に客だと?
何言ってんだこのバカ!
スキウース
……あたしはバカなんかじゃないわ。
エンシオディス
確かに、スキウース夫人の賢明な手回しは賞賛に値する。
ラタトス、お前は彼女を見くびりすぎだ。
ラタトス
……どういう意味だい?
メンヒ
スキウース様、先ほどお客様が無事到着されました。
スキウース
よろしい! さっさと連れてきて!
ノーシス
……
メンヒ
……
では、すぐに。
ヴァイス
旦那様!
お客様をお連れしました!
スキウース
なに言ってるの? あの人たちはあたしが招いたお客様よ!
征戦騎士
貴方がブラウンテイル家のスキウース夫人でいらっしゃいますか?
この度は、式典にご招待いただき誠にありがとうございます。
ラタトス
……これがあんたの言ってたサプライズかい?
スキウース
そういうこと!
それじゃ、ご紹介するわね。こちらは、カジミエーシュ監査会の征戦騎士の方々よ。あたしたちのイェラガンド像完成をお祝いに来てくださったの!
あたしが監査会に招待を送ってなんとかお招きしたんだから――
あたしのお客様なのよ!
エンシオディス
それは実に奇遇だな。
征戦騎士をお招きしたその手腕に賛辞を。そして、私がご招待したお客人もご紹介しよう――
ようこそ、商業連合会の代弁者殿。
代弁者モーブ
初めまして。あなたがシルバーアッシュさんですね?
お会いできて光栄です! 連合会を代表してご挨拶申し上げます。このたびはお招きいただき、ありがとうございます。
イェラグの景色の美しさには感動しました。貴社とは、双方に満足のいく合意に達することができるだろうと確信しておりますよ。
おっと、そういえば一つ気になることがありまして。こちらへ来る途中、凍った湖の上で激しい戦闘が繰り広げられていた気がするのですが……
中には、見覚えのある人影もありましてね。あの戦いぶりはどこかで見たことがあるような気がするのです。
あっ、申し訳ありません。お喋りが過ぎましたかね?
これは私の……ええと、前職での職業病のようなもので。こほん、とにかく我々の提携にとって無益な話は慎むように心がけますね。
エンシオディス
いいえ。今必要なのは、まさにあなたのその才能なのです、モーブさん。
代弁者モーブ
えっ? 必要……ですか?
エンシオディス
はい。
今、すぐに必要なのです。
どうぞこちらへ。音量を拡大させるアーツを使える人間を控えさせておりますので。
どうか大きな声で、宣言していただけませんか。
カランド貿易は、間もなくカジミエーシュ商業連合会傘下の企業と提携関係を結び――
イェラグは今後、カジミエーシュの信頼に足るパートナーとなることを。
……これは何の音だろうか?
彼らが水に落ちる音でも、それを救助する音でもない。
彼女は、誰かが大声で何か言うのを聞いたような気がした。それに合わせて、周囲の人間の動きがいくらか乱れている。
なんと大きな声だろう。しかし、何を言っているかははっきり聞き取れない。
視界がまたいくらか暗く狭くなる。耳に入る音もくぐもっていた。
彼女はすでに手足の感覚を失っていたが、今なお相棒を握りしめていることだけは確かだ。
相棒――即ち彼女の鐧を。
というのは、今も自分の身体が反射的に動いては、近付く者を一人また一人と打ち倒すのを感じるからだ。
ただ、先ほどからひどくうるさい。
うるさすぎる。どうしてこんなに大声で話している奴がいるのだろうか?
それになぜ、群衆が離れていくのだろうか?
まさか、防衛線を突破した者がいるのか?
いや、違う。
いくらか光を失っていた猛獣の金色の眼がふと輝く。
自らが立ち続ける限り――
――何人たりとも、通すわけにはいかない!
ハロルド
……デーゲンブレヒャー殿! デーゲンブレヒャー殿!
もう戦わなくていいのです……っ、これは!
貴方は血を流しすぎたのです! どうか気を強く持ってください!
デーゲンブレヒャー
……
ハロルド
おおおっと、ご勘弁を! これ以上戦っていたら二人仲良く水の中ですよ!
デーゲンブレヒャー
もう諦めたの?
ハロルド
それはもう、きれいさっぱり諦めましたとも!
いやはや、公爵様がどれだけイェラグの頬を叩きたいとお思いであろうとも、そのためにカジミエーシュに手を出すわけには……少なくとも、今のところはいきませんからな。
これがヴィクトリアとイェラグだけの問題であれば、まだ公爵様とシルバーアッシュ殿の衝突として解釈されますが、カジミエーシュまで巻き込めば状況はそう簡単ではなくなります。
しかし、かの国からの長距離移動をこの短時間で、ということは……カジミエーシュの大食漢の方々は、すでにそこまでカランド貿易を重視しているのでしょうか?
まったく、大した若者ですな。
デーゲンブレヒャー
……
ハロルド
ともあれ、これは大変良い口実でした。この状況であれば、公爵様も攻撃の手を止めた私の判断を咎めることはなさいますまい。
それにしても、うちの部下たちは半数近くが貴方の手で湖に沈められてしまいましたよ。どうにか引き上げたはいいのですが……
このまま戦い続けていては治療が間に合わなくなるところでした!
老練の兵士
今も間に合ってねえぞ……ごほっ。
ハロルド
血を流している人間に発言権はないぞ。
デーゲンブレヒャー
……じゃあ、もういいのね?
ハロルド
ええ、本当にもうおしまいです。
デーゲンブレヒャー
そう。
エンシオディスは成し遂げた。
彼女も、やるべきことをやり遂げた。
その事実を耳にした彼女は、ただ身をひるがえした。
ハロルド
おっと、デーゲンブレヒャー殿、少々お待ちを!
――人生というのは、思い通りにいかないことばかりです。
私などはずっと前から引退したいと思っていますが、報われない仲間たちを思うとこの仕事を続けぬわけにも参りません。
しかし今回ばかりは、私の願いが叶っても良いのではないかとも思うのです。
貴方の筋金入りのファンが全身傷だらけになったことへの見舞いとして……
どうか、サインをいただけませんか?
デーゲンブレヒャー
……こんな状況で、サインなんてねだる余裕があるの?
――このカード……ふっ。
ハロルド
どうなさいました?
デーゲンブレヒャー
最初に優勝したあと、あの人たちにしつこくせがまれてね。仕方なく写真撮影に同意したの。
だけどあまりにくだらなかったから、その後は二度としなかった。
ハロルド
おお、なるほど! 道理で、騎士カードが何弾発売されようと、黒騎士のカードはあの数ポーズしかなかったのですね。
デーゲンブレヒャーはハロルドからペンを受け取ると、自分の名前を書いてやった――「Degenbrecher」。
デーゲンブレヒャー
ほら、持っていきなさい。
ほかの物にもサインしろとか言い出さないといいんだけど。
ハロルド
おや、どちらへ?
私の治療はご不要ですか? 応急処置は得意なのですが。
デーゲンブレヒャーは顔を上げ、日が昇る方角へ目を向けた。
遠くから、二つの影がこちらへ向かってきている。まだはっきりとは見えないものの、彼女にはそれが誰なのかわかっていた。
巨大なイェラガンド像が、太陽と同じ高さから彼女を見つめているような気がする。
デーゲンブレヒャー
いらないわ。
もう帰らないと。
私を待ってる人がいるから。