登山鉄道

ずる賢い兵士
おう、戻ったぞ。
老練の兵士
……
ずる賢い兵士
何きょろきょろしてんだ? リスバーン。
老練の兵士
何でもねぇよ。
ずる賢い兵士
あー、そっか。トゥリエルさんちの娘さんが厨房で料理してるんだもんな。抜け出す口実でも探してるんだろ?
仕事を利用してお近づきになろうって魂胆か。
老練の兵士
言っとくが、別に俺が呼びつけたわけじゃないからな。元々近くのホテルでシェフを務めてんだから、手伝いを頼まれるのも普通のことだろ。
ずる賢い兵士
そうかい。まあ、それはともかく、どうしてまだ料理が出てこないんだ?
おーい、ご老人。何かトラブルでもあったのか?
従業員
いやはや、申し訳ない。
一番の理由は料理の予定量が多いことなのです。手伝いは大勢呼んでいるのですが、それでも少々手が回らず。
老練の兵士
そういうことなら、俺も手伝うぜ!
ヤエル
それには及びませんよ。
ずる賢い兵士
あんたは……
ヤエル
巫女様のそば仕えをしております、侍女長のヤエルです。お初にお目にかかります。
ずる賢い兵士
ああいや、俺たちはヒラの兵士ですから、お辞儀なんてしなくていいですよ。
ヤエル
リヤ。
侍女
はい。
ヤエル
お供してきた侍女たちを何組かに分けて、交代で厨房をお手伝いしてちょうだい。
宴が一切滞りなく進むようにね。
侍女
かしこまりました。
老練の兵士
そ……そんなの恐れ多いですよ!
ヤエル
どうぞお気になさらず。
この宴は子爵様が開いてくださったものですが、ここがイェラグである以上、巫女様にとっては皆様こそがお客人ですので。
子爵様が巫女様をお招きくださったからには、我々が使用人として皆様をお手伝いするのも当然のことです。
加えて……恐れながら少々ぶしつけなことを申しますが、皆様のお手は武器を持つことにこそ慣れていらっしゃるでしょうし、お皿を運ぶとなりますと、悲しい事故が起きる可能性が高いかと。
老練の兵士
う、ううむ……
ずる賢い兵士
ほらリスバーン、侍女長さんの言う通りだ。俺たちが手伝いなんかしたら、皿を何枚割るかわかったもんじゃない。
老練の兵士
……そうだな。
ただ、もし肉体労働が必要になったら、侍女長さんも遠慮せず言ってくださいね。
ヤエル
ああ、そういえば今、厨房で食材を運ぶのに人手が足りないようなので、よろしければ……
老練の兵士
行くよ、行かせてくれ!
ずる賢い兵士
……お気遣いに感謝します、侍女長さん。
ヤエル
どういたしまして。
さて、問題も解決したことですし、私もこれで失礼しますね。
侍女
……ただ今戻りました。
ヤエル
リヤ、もう一つ頼みたいことがあるの。この食材が揃っているかを見て、もし足りそうならもう一品頼んできてほしいの。
そう……フルーツとチーズのラップサンドをね。
侍女
そんな家庭料理でよろしいのですか?
しかし、巫女様は普段その手のものを口になさらないはずですが。
ヤエル
いいのよ、とにかく言う通りにお願い。
カランド貿易の社員さんたちも続々と到着してるわね。
侍女
はい。子爵様は、巫女様とエンシオディス様のみならず、蔓珠院の長老方やカランド貿易の従業員もお招きになられましたので。
さすがはヴィクトリアの子爵といいますか、気前の良い方ですね。
それにあの方、かなりのやり手と存じます。ホテル・バーデンピークで料理長を務めるあのトゥリエルさんをお招きできるとは……
あの方は気難しい方ですから、お金だけでは雇えないんですよ。
ヤエル
彼らがイェラグに来てからの一ヶ月で、イェラグの民と良い関係を築いてきたことの裏付けともいえるわね。
あら?
弱った兵士
さあ、どんどん飲もうじゃないか!
カランド貿易職員
ヒック――おうとも、飲もう!
ぐぅ……
弱った兵士
悪くなかったぜ。あんたら雪山の人は結構いける口だが……
やっぱり俺の勝ちみたいだな。へっへっへ。
そーら、次はどいつだ!
侍女
わあ、あの方たちこんな場所でも飲み比べをなさってますよ……
しかも、もう何人も酔い潰れているみたいです。
ヤエルさん、どうしますか?
ヤエル
……はぁ。
仲良くなるのはいいことだけど、良くなりすぎても面倒なのよね。
まあ、この件で頭を悩ませてくれる人はほかにいるでしょう。
ヴァレス
ノーシス様、チェゲッタ小隊は持ち場についておりますわ。
宴会に誰か紛れ込むことのないように、前後の出入り口を巡回させております。
ノーシス
そう警戒する必要はない。
ヴァレス、チェゲッタを一部隊連れて厨房の手伝いに行ってくれ。
ヴァレス
かしこまりました。
ノーシス
この瓶を一気に飲み干してみようと思うのだが、君もどうだ? できそうか?
弱った兵士
本気か? あんたみたいな奴が? そ、そいつは一番強い酒だぞ。
ノーシス
できないのか?
弱った兵士
ははっ、いいぜ、あんたの度胸は買った。飲んでやるよ!
ノーシス
もう一本。
弱った兵士
ようし!
あんた……なかなか、やるな……
ノーシス
……酔い覚ましのスープはあるか?
ヤエル
リヤ。
侍女
どうぞ。
ノーシス
感謝する。
カランド貿易職員
あ、あれ!? ノーシスさん……!?
ノーシス
目は覚めたか?
カランド貿易職員
は、はい!
あの大酒飲みの兵士は……もしやあなたが酔い潰したんですか!?
ノーシス
ああ。
カランド貿易職員
……すごいですね。
ノーシス
これ以上飲むな。もう帰って休め。
カランド貿易職員
は、はい、ありがとうございます!
ノーシス
……
ヤエル
まさか、カランド貿易の最高技術責任者がこんなにお酒が強いとは思わなかったわ。
あんなに強いお酒を二本飲んでも顔色一つ変えないなんて意外ね。
ノーシス
若い頃身に着けてしまった、何の役にも立たない特技さ。
ヤエル
それじゃあ、若い頃もこういう場所に出入りしていたのかしら?
ノーシス
……君には関係のないことだ。
まもなく宴が始まる。カランド貿易の社員たちにも準備を手伝わせるとしよう。
ヤエル
ノーシス様は話し合いには参加しなくていいのかしら?
ノーシス
……
ひと先ずその必要はない。
今は彼らの時間だ。
エンヤ
……
エンシオディス
……
ハロルド
ええと、お二人とも――
エンヤ
エンシオディス様におかれましては今日は何やら寡黙でいらっしゃいますが、何か心配事でもおありなのでしょうか? あるいは、宴会へのご出席で気分を害されたのですか?
普段の巧みな弁舌はどちらへ行ってしまわれたのでしょう?
エンシオディス
お気遣いに感謝いたします。
巫女様と同席が叶ったことに恐縮してしまうあまり、巫女様より先に口を開くのがはばかられていたまでのことですよ。
エンヤ
その仰りようを聞くに、エンシオディス様は非常に敬虔な方のようですね。となると身共が思い違いをしていたようです。
エンシオディス
恐れ入ります。
エンヤ
ふっ、あなたが「恐れ」を抱くような物事がこの大地に存在したとは驚きですね。
ハロルド
いやあ、はっは……本日は大変お日柄もよく、宴席にはもってこいの日ですなあ。
さて、お二人とも――
エンシオディス
過分なお言葉です。私にも恐れはございますよ。
直近のことだけでも、明後日の落成式のような重大な案件にあたっては、カランド貿易も無論一致団結せねばならず、少しのミスも許されないと心得ておりますので。
エンヤ
であれば、エンシオディス様はもっと慎重になられてもよろしいかと存じます。
イェラガンド像の完成はイェラグにとって重大な意味を持ちます。そのうえ此度はヴィクトリアより「お祝いに駆け付けて」くださった方々もおられますので、用心に越したことはないでしょう。
エンシオディス
仰せの通りでございます。
巫女様が神事に精通しておられるおかげで、式典における数々の準備が十全かつ周到に進められておりますことは、イェラグにとって誠に喜ばしきことです。
その他の業務につきましては、どうぞご安心ください。カランド貿易が蔓珠院に代わって進めて参りますので。
ハロルド
いやあ、ご両人ともまだお若いのに実に将来有望ですな! 心より敬服いたしますよ!
このたび我々がお伺いいたしましたのは、お祝いのためのみならず今後の協力についてお話しするためでもあるのですが――
エンヤ
あなたは相変わらず弁が立ちますね。そのご様子を見るに、すでに成算があるようにお見受けします。
聞くところによると、近頃大層なご活躍ぶりとか。滅多に山を下りることのない身共の耳にすらも、カランド貿易関連のニュースは数多く届いております。
ですがどうかお忘れなきように。我らの故郷イェラグが今日ある姿へと発展を遂げられたのは、これまで千年、何代にもわたって継がれた勤勉と実直の賜物であり、功利や冒険の結果ではありません。
エンシオディス
イェラガンドが民に賜った訓戒を、シルバーアッシュが忘れることはございません。
しかしながら、巫女様も恐らくおわかりでしょう。イェラグの人々は勤勉にして実直である一方で、高き峰を踏破せんとする冒険精神をも併せ持っていることを。
対外的な発展という点においては、まさしくそうした鋭気が必要なのですよ。
エンヤ
その鋭気がご自身を危険へと導かぬよう祈っております。
ハロルド
はっはっは! 若者というのは鋭気に溢れているものですが、巫女様の仰る通り、時には落ち着きも大切にしたいところですな。
私がお二人をお招きしたのも――
エンシオディス
巫女様がそれほどまでにお心を砕いてくださるとは、感激の至りでございます。
ですが、どうぞご安心ください。決して巫女様を失望させぬよう、首尾よく対応いたしますので。
もとよりイェラグのすべては、最終的にはイェラガンドのご意思に是非を問わねばならぬもの。
仮に信仰が許さぬものならば、私は一歩も進めずにいるはずではありませんか?
エンヤ
……
エンシオディス
……
エンヤ
……あなたの底意地の悪さはほんとに相変わらずね!
エンシオディス
お互い様ですよ。
ハロルド
えー、お二人とも、気にかかることがおありでしたらまずはよく話し合いましょう。なにも穏やかな空気を壊す必要はないはずです。
それでは、協力の件にお話を戻しまして――
エンヤ
エンシオディス様は実に頑固でいらっしゃいますね。その頭の固さと言ったら、最高純度の源石氷晶さながらです。
エンシオディス
それは巫女様こそ、でしょう。久方ぶりに……飾らない言葉でお話ししてくださいましたしね。
エンヤ
あなたほどではございませんが。
それにしても、我らがエンシオディス様は幾年経とうと、元手を残すということを学ばれないようですね。
エンシオディス
それはどういった意図のお言葉ですか?
エンヤ
あなたときたら、悪い癖を抑えきれずに、またも何一つ顧みずすべてを賭けてしまったのでは?
エンシオディス
リスクとリターンは常に比例するものですので。
エンヤ
ならば、あなたが自らのご決断を後悔する日が来ないよう願っておきましょう。
何しろ、枕の下にこっそりお小遣いを忍ばせてくれる人などもういないのですから!
エンシオディス
……確かに、もうそんな人はおりませんね。
おかげで私は、硬貨の硬さで眠りを妨げられることも、利息分を含めその小遣いの三倍返しでキャンディやスナックを買って返す必要もなくなりました。
エンヤ
誰も返せとは言っていないでしょう!
ハロルド
お、お二人とも……
二人
失礼、少々お待ちになっていてください。
エンヤ
……
エンシオディス
……
ハロルド
はぁ……ええと、それでは私、お先に一人で乾杯させていただきます……
ハロルド
お二人のプライベートなお話に口を挟むつもりはございません。
ですが、巫女様。貴方にもイェラグの現状にまつわるお考えがおありなのであれば……
公爵様の期待にお応えいただくことこそ、貴方にとって最良の選択となるかと存じます。
エンヤ
と仰いますと?
ハロルド
私がイェラグにおいて最も印象深く感じた光景について、お話しさせていただいてもよろしいですかな?
エンヤ
どうぞ。
ハロルド
一度、ある牧畜民の方――レオン殿のもとへ診察に向かった際に、彼の牧場の幼獣が、放牧中にいなくなってしまったことがありましてね。
私はすぐさま、捜索を手伝いましょうと申し出たのですが、彼が言うには、「焦る必要はない」とのことでした。
さらにレオン殿は、「ひとまず夕方まで待つと良い、ついでにうちで夕飯でも食べていけ」とまで言ったのです。
そこで私は、言われた通り待ちました。
診察を終えたあとは、レオン殿と草原で鍋を用意し火を起こして。彼が持ってきてくれた上等なチーズが、鍋の中でぐつぐつ音を立てていました。
椅子に腰かけ待ちながら、なおも幼獣のことを考えていると……遠くから幼い鳴き声が聞こえてくるではありませんか。
これは、イェラグの方からすれば見慣れた光景かもしれません。
ですが私にしてみれば、夕焼けの中を未熟な幼獣が一歩一歩牧場へと歩みを進め、母親のそばへと帰ってきて、互いに身体をこすり合わせているのを見た瞬間の感覚は――
言い表しがたいものでした。
レオン殿のお話では、駄獣は家族の匂いをかぎ分けることができるとか。特に幼獣は、母親の匂いに非常に敏感なのだそうです。
それゆえに、たとえはぐれても、匂いをたどって母親を探し出すことができるのですよ。
思うにこの血の繋がりというものは、イェラグの方が自らの土地を想う心に似ています。
まさしく――エンシオディス様がヴィクトリアでの栄華を捨て、最後にはイェラグへと戻られたことが表すように。
エンヤ
いささか、エンシオディス様を買いかぶりすぎておられるのでは。この方がこれまでに多くを成されたことは間違いございませんが――
当時の彼が、その幼き駄獣のように「イェラグ」という名の「母」恋しさにこの地へ帰ってきたと仰るのなら、それは冗談にしか聞こえません。
ハロルド
しかしながらカスター家がカランド貿易に資金援助を行ったのは、エンシオディス様の故郷への想いに感銘を受けたからこそです。
加えて、公爵様は信じていらっしゃるのです。エンシオディス様がご自分に流れるイェラグの血をそれほど重視されている以上、恐らく残り半分の血――
つまりカスターの血も、軽視されることはないはずだと。
先ほども申し上げました通り、私は争いを起こすために来たわけではありません。
ただ、かつてカランド貿易が歩み始めた折には、カスターがエンシオディス様に手を差し伸べたことは事実です。
そして、エンシオディス様がご自分の価値を証明された今、公爵様は利息の一部を回収すべき時が来たとお考えなのです。
エンヤ
どうやら、今回の利息はいくつかのキャンディ程度では収まりそうにありませんね。
エンシオディス
……
ハロルド
とはいえ、そう複雑なお話ではありません。公爵様がお求めになっているのは誠意なのですから。
公爵様は、エンシオディス様の、カランド貿易の、ひいてはイェラグの誠意を目にしたいとお考えです。
カスター公爵への、そしてヴィクトリアへの誠意をね。
それさえあれば、この先の協力関係はさらに緊密なものとなるはずですよ。
エンヤ
では、もしその誠意がない場合は?
ハロルド
……
ハロルドは食器を置き、窓際へゆっくり歩み寄ると、窓を開けた。
すると、氷雪の混じる冷たい風が部屋の中へと流れ込む。室内には暖炉が焚かれているが、その寒さまでは防げなかった。
そうしてすぐ、彼は窓を閉めた。
ハロルド
はっは、いやいや申し訳ない。
巫女様のご質問が少々手厳しかったもので、思わず部屋の空気を入れ替えたくなってしまいましてね。
この暖かな室内におりますと、外がこれほど寒いということを忘れてしまいますな。
エンヤ
……
ここまでお話を伺った限りでは、子爵様がおもてなしになるべきはエンシオディス様のみのようですが、なぜ身共まで?
ハロルド
いやあ、実は私、おかげさまでこの地ではよく食べよく飲ませていただいておりましてね。今朝受けた健康診断でも、血糖値こそ少し上がっていましたが、血圧は下がっていたくらいなのです。
ゆえに、あと一年はここに住まわせていただいても、と思うのですが――
公爵様の厳しい催促には耐えきれそうもありませんもので。
今やカランド貿易はイェラグを支える柱へと成長しました。一方で巫女様とエンシオディス様の間には血縁関係がおありと存じます。
そこで、腹を割ってお話しすべく、お二人をお招きする機会を伺っていたのですよ。
巫女様、どうかお願いいたします。エンシオディス様の説得に力を貸していただけないでしょうか。
エンヤ
……まずは正直にお話しいただいたことに感謝します、子爵様。
ですが、何事も事の初めと結果の両方を見ることが肝要なもの。
今にちのイェラグがあるのは、確かにカランド貿易のおかげです。しかし、巫女である身共がその一切について何も知らないなどと言えば、それは単なる責任逃れになるでしょう。
あなたが身共をこの国の指導者とお認めになるのなら、イェラグの現状についての責任は身共にもございます。
ゆえに、これまでの道が間違っていたと言うことはできかねます。
エンシオディス様は常々、イェラグのために今の道を選んだのは自分であるという自負をお持ちのようですが――
今日に至るまで、イェラグのすべてはイェラグの民が共に下した決断によって進んでおり、身共もまたその一人にすぎません。
エンシオディス様ご自身にも、現在のイェラグを否定する権利はないということです。
無論、身共も同様に。
ハロルド
……わかりました。
どうやら、まだ食欲があるうちに、イェラグの料理をもっと味わっておかねばならないようですな。
お二人とも、こちらへどうぞ。
エンシオディス
本日はおもてなしを頂きありがとうございます、子爵殿。
エンヤ
ラップサンド? チーズに、フルーツまで入っている……
エンシオディス
……これはまさに、地元の家庭料理ですね。
ハロルド
ささ、ご遠慮なさらずお召し上がりください。
エンヤ
エンシオディス様、どうぞ。
エンシオディス
……ではお言葉に甘えて。
……あの味だ。
エンヤ
まだ覚えておられたのですか?
エンシオディス
ええ、もちろん。
……ところで、ノーシスが来ているはずだが、今はどこに?
カランド貿易職員
社長、実は先ほどヴィクトリア軍の方々が……
エンシオディス
ふむ……
……わかった。
ヴィクトリア軍の方々の前に、巫女様が直接お姿を現すとなりますとご都合が悪いでしょう。
エンヤ
……ご自由に。身共を気にかけていただかなくとも結構です。
ハロルド
でしたら、私もこれにて失礼いたします。
エンヤ
……
確かにあの味だわ。
ハロルド
はぁ……
これで、一万歩譲っても「グレーシルクハット」は私が何もしていないなどとは言えなくなるだろう。
仕事は済ませたわけだし、式典も目前に迫っていることだ。そろそろ帰りのことを考えねばな。
おっとそうだ、忘れずに時間を作って、妻と娘に買うお土産を見繕わないと。
それから――
……
うーむ。やはり、イェラグでの旅に悔いなど残すべきではないな。
デーゲンブレヒャー
……
チッ。
ハロルド
おお、こちらにいらしたのですか、デーゲンブレヒャー殿!
デーゲンブレヒャー
交渉がしたいなら、エンシオディスを当たりなさい。あるいはノーシスでもいいけど。
私はそういう話には興味ないの。
ハロルド
ああいえ、そういうことではないのです。
これほどの美食と美酒を前に、そんな話など興ざめでしょう?
ここは一杯お付き合いいただけませんかな?
デーゲンブレヒャー
結構よ。
ハロルド
おや、まさか貴方ともあろうお方が下戸だとは仰りますまい。
デーゲンブレヒャー
お酒より、それを勧めてくる人を処理するほうが得意なの。
どう、試してみる?
ハロルド
はっは、いやいや、ご遠慮しておきます。
そういえば、リリーの経過は良好ですよ。貴方の処置が非常に的確かつ迅速だったおかげでしょうな。
アフターケアはこちらでしておきましたので、子供たちもすこぶる元気です。
デーゲンブレヒャー殿に一匹名前を付けていただきたいと、レオン殿が言っていましたよ。
デーゲンブレヒャー
……そう、無事なら何よりね。
名前を付けるのはやめておくわ。そういうのは得意じゃないから。
ハロルド
ほほう、ならば私が代役を務めさせていただきましょう!
どうぞご安心ください。ヴィクトリアでは命名へのこだわりが強い方が多いものですから、私も少々心得があるのです。
あの子は女の子ですから、オリヴィア・ターンボトム・ミシェル・クレイガボンでいかがでしょう!
私の苗字クレイガボンに、妻の苗字ターンボトム、それに我が祖母の名も合わせることで、私の娘と同じく――
デーゲンブレヒャー
気が変わったわ。ドローと名付けましょう。
ハロルド
げっほ、ごほごほっ!?
で、デーゲンブレヒャー殿! まだご説明の途中で――
デーゲンブレヒャー
ドローにするわ。
ハロルド
しかし、オリヴィア……
デーゲンブレヒャー
ドロー。
ハロルド
……いいでしょう、いいですとも!
なるほど、ドローというのも可愛らしい女の子にはぴったりの名前です。「健康で丈夫に育つように」といった意味でしょうか?
それでも、オリヴィア・ターンボトム・ミシェル・クレイガボンのほうが良いとは思いますが……
きっと、レオン殿は気に入ることでしょう。イェラグの女の子らしい名前ですからな。
時に、無理を承知でもう一つお願いがあるのですが……私、ご覧の通り今回の公務は手ぶらで帰る羽目になりそうでして。
せめてプライベートの範疇で、記念になるものが欲しいと思っているのです。
そこで――駅でも申し上げました通り、私は貴方の筋金入りのファンなのですが、よろしければサインをいただけないでしょうか?
デーゲンブレヒャー
あなたは騎士競技に夢中になるタイプには見えないけど。
ハロルド
買い被りすぎですよ。私は俗物ですので、俗っぽいものに目がないのです。
騎士競技は戦場とは違うものですが、その優勝者ともなれば、各々傑出した点をお持ちですしね。
あれは確かに良い娯楽だと――おっと! 申し訳ない、今の言葉に悪気はないのです。ご気分を害されないといいのですが。
デーゲンブレヒャー
別に構わないわ。事実だから。
ハロルド
そうは仰りながらも、やはりこの哀れなハロルドが差し出したカードにはサインを書いていただけないのですね。
これは私がずっと大切にしてきたものなのです。貴方が初めて優勝なさった際に発売された、限定版のカード……これ以降あなたの騎士カードは一枚も出ていません。
貴方によく思っていただけなかったことは、大変残念に思います。
それはそうと、名前といえば、ずっと疑問に思っていたことがありましてね。無論失礼に感じられましたら、お答えいただかずとも問題ないのですが。
「デーゲンブレヒャー」というのは、ご本名ですか?
デーゲンブレヒャー
あなた、結構度胸があるのね。
ハロルド
私、不才の身ではございますが、度胸だけはいくらか自負がございまして。
デーゲンブレヒャー
本名だとしたら何?
ハロルド
いえ、ただ貴方のファンとして、少しばかりの好奇心を満たしたいだけのことですよ。
何しろ、騎士競技での初優勝以来、貴方にまつわるすべてのことは民の関心を惹くものですからね。黒騎士の出身もしかり、最後の所属先もしかり……貴方は注目の的なのです。
所属と言えば、貴方とカランド貿易の契約はまもなく切れるご予定では?
であれば、貴方をお客人としてヴィクトリアにご招待する光栄を賜ることはできますかな? 公爵様もきっと貴方のご訪問を歓迎なさることでしょうし、あるいは新たな協力関係を築くことも……
デーゲンブレヒャー
ふっ、結局言いたいことはそれ?
だったら、答えを聞いたらもうこれ以上ちょっかいをかけてこないでね。
私はイェラグで十年過ごしてきたの。
だから、私はイェラグ人よ。
これからもこの場所に居る。
これで満足?
ハロルド
ああ……まさしくお聞きしたかった答えです。
そう仰るだろうと思っていたのですが、実際に貴方の口から聞くと感慨深いものがありますな……そのスタンスで地元の人らしい服装をしていらっしゃらないからこそ、余計にそう感じますよ。
デーゲンブレヒャー
あなたのほうがよっぽどここに染まってるわよね。
そのファーなんて、どこで手に入れたの?
ハロルド
おお、これですか! お気に入りのお土産屋さんで購入したものでしてね、なかなか暖かいですよ。
さてと、それでは夜も更けてきたことですし、この宴もそろそろお開きにいたしましょうか。私も、これにて失礼いたします。
サインを頂けなかったことは残念ではありますが……
とても愉快なひと時でしたぞ、デーゲンブレヒャー殿。
ヤエル
エンシオディス様、足元にお気を付けて。
チェスター
迎えに来たよ、エンシオディス。
エンシオディス
ありがとう。
チェスター
屋敷へ戻ろうか?
ノーシス
いや……本社に、向かってくれ……
チェスター
エンシオディス、どうする?
エンシオディス
彼の言う通りにしてくれ。私もまだ雑務が残っているしな。
エンヤ
お久しぶりです、チェスター叔父さん。
チェスター
巫女様。
エンヤ
こんな時くらい、名前で呼んでください。
チェスター
……元気そうで何よりだよ、エンヤ。叔父さんも顔が見られて安心した。
エンヤ
叔父さんの方こそ、お元気そうでエンヤは安心しました。
ハロルド
では、巫女様、エンシオディス様。私はお先に失礼いたします。
エンヤ
はい。
子爵様。
ハロルド
何でしょう。
エンヤ
何はともあれ、あなたがイェラグで楽しい時間を過ごせるようお祈りしております。
ハロルド
……感謝いたします。
エンヤ
ヤエル。
ヤエル
はい。
エンヤ
侍女たちに後片づけをさせてください。
ヤエル
ああ、その必要はないわ。
兵士たちが後片付けしてくれた上に、残った料理を全部持ち帰ってくれたの。宴会に参加できなかった感染者兵士たちへのお土産にするんですって。
エンヤ
……あの子爵様は確かに尊敬に値する方ですし、なんだか悪いことをしたように思います。
思うに、エンシオディス様はこの感覚によく慣れていらっしゃるのでしょうが。
エンシオディス
お褒めにあずかり恐縮です。
エンヤ
暗くなってまいりましたので、エンシオディス様もお気をつけてお帰りください。
エンシオディス
ええ、そちらもどうぞお気をつけて。
巫女様。
エンヤ
まだ何か?
エンシオディス
我々の間には常に隔たりがあるものの、イェラグはイェラガンドの名のもとに、つまずきながらも今日までを歩んできました。
もしイェラガンドが今のイェラグをご覧になれば、どうお思いになるでしょう。我々を叱責なさるでしょうか?
ヤエル
……
エンヤ
それを恐れておいでなのですか?
エンシオディス
無論、そうではありません。三年前のあの奇跡は、イェラグの民の心に永久に刻まれておりますし――
私ですら、イェラガンドがこの土地の基盤となっていることを認めざるを得ません。
我々は皆、主の御体の上で戯れる子供にすぎないのです。
エンヤ
ならば、その問いの答えは身共の手中にはございません。
あるいは、イェラガンドの手中にすらもないのかもしれませんが。
ノーシス
着いたな……もう大丈夫だ。
自分で歩ける。
エンシオディス
ほう、本当か?
ノーシス
……
……これは、少しつまずいただけだ。
だが待て、やはりしばらく休ませてくれ。
エンシオディス
いいだろう。
ノーシス
いや、正面玄関ではなく、脇の通用口に行こう。
エンシオディス
他人に見られるのを心配しているのか?
ノーシス
残業している社員がいるかもしれないだろう。
エンシオディス
こんな時間まで? 誰がそんなことをする。
ノーシス
私だ。
それに、君もな。
エンシオディス
未払いの残業代に対する恨み言か?
ほら、座れ。泥酔した最高技術責任者の見苦しい姿など、誰も見ていないのだから。
私に言わせれば、お前は自分のイメージを守ることにこだわりすぎる節がある。
ノーシス
君は酒が入るとお喋りになるな、エンシオディス。
それと、残業代で言えば、デーゲンブレヒャーへの借りのほうが大きいぞ。彼女への未払い分はもっとあるだろう。
デーゲンブレヒャー
そうね。命を救ってあげた貸しだっていくつもあるし。
今さら数え上げるのも面倒なくらいよ。
それで? カランド貿易の経営陣が二人して、夜中に本社の通用口で座り込んでるのは、未払いの給料の話をするため?
エンシオディス
ノーシスはお前に代わって会社への不満を訴えているんだ。
デーゲンブレヒャー
飲みすぎてどうかしちゃったの?
ノーシス
別に君の代わりというわけでは――うっ……
デーゲンブレヒャー
……
デーゲンブレヒャーがエンシオディスに目を向けると、彼は肩をすくめた。
デーゲンブレヒャー
情けないわね。
デーゲンブレヒャーが用意していた水のボトルをエンシオディスへ差し出せば、彼は手を伸ばし自然にそれを受け取る。
これまで十年の間にも、同じようなことは何度もあった。
エンシオディス
……ウォルトンを覚えているか?
デーゲンブレヒャー
誰のこと?
エンシオディス
お前が初めて、私とノーシスを担いで帰った――
あのパーティーだ。
デーゲンブレヒャー
ああ、あれ。
あの時のノーシスは酔っ払って気を失ってたし、あなたは意識こそあれどひどく悪酔いしてたわよね。
エンシオディス
そう思うと、ノーシスはあの頃よりずっと酒が強くなったな。
少なくとも今は意識を保てているのだから。
デーゲンブレヒャー
これで意識を保ててるって言える?
ノーシス
本人の前で悪口を言う暇があるなら――うっ……
酔い覚ましの薬をくれないか?
階段に腰かけた男は頭も上げずに、悪友のいるほうへ力なく手を伸ばす。
するとデーゲンブレヒャーは片眉を上げ、ポケットから錠剤を取り出すとその手に押し付けた。
そうして、彼が慣れた手つきで錠剤を取り出し水で流し込み、しばらくしてやっと長い安堵のため息をつくのを眺めた。
ノーシス
……少しは楽になった。
ところでこの薬、以前飲んだものとは違うようだな。
デーゲンブレヒャー
でしょうね。それは酔い覚ましの薬じゃなくて――
私が作った毒薬だもの。
エンシオディスの命令で。ね?
エンシオディス
ああ、そうだ。
ノーシス
そうか、だったらなぜまだ死なずに済んでいるんだろうな。薬効が足りないんじゃないか。
くだらないことを言って……君たちは飽きないのか?
デーゲンブレヒャー
まあね。
本当に信じて吐き出そうとした時のほうが面白かったけど。
ノーシス
……
何年前の話をしているんだ。
エンシオディス
それで、薬は変えたんだな?
以前と同じには思えないぞ。
デーゲンブレヒャー
今回のはライリーからもらったの。
彼、最近はよくヴィクトリア人と飲み比べをしてるんだけど、こっちのほうが効くって言っててね。
ノーシス
エンシオディス、どうやら我々三人の中で一番イェラグ人からの人気が高いのは彼女のようだぞ。
君が気付いているかは知らないが、駅の駄獣たちが下げている看板広告には、どれも宣伝用に黒騎士のイラストが描かれているんだ。
しかも手描きでな。
デーゲンブレヒャー
何か文句でも?
エンシオディス
とんでもない。
この数年は忙しくしすぎて、色々なことをおろそかにしてしまっていたからな。
事が落ち着いたら、私もノーシスも、もっと出歩くべきだろう。
デーゲンブレヒャー
確かにね。
あまり姿を見せないと、あなたの私生活のことを勘ぐる人も出てくるわよ。
最近広まってる噂があるの。貴方が仕事に打ち込んでるのは、何か深い理由があって心にダメージを負ったせいじゃないか、ってね。
他にも色々バリエーションはあるけど、聞きたい?
エンシオディス
……
ノーシス
ふっ、あはは、ははははっあっはははは!! ――うっ……
エンシオディス
吐きながら笑ったりしてのどを詰まらせないようにな、ノーシス。
普段からそうして笑うことができれば、社員たちもあれほどお前を恐れはしないだろうに。
ノーシス
ごほっ、安心しろ……のどを詰まらせた時は、ちゃんと君の靴の上に吐いてやるさ。
ところで、今日の話し合いはどうだった。上手くまとまったのか?
エンシオディス
イェラグに関する問題については、もとより私と巫女の考えに大きな隔たりはない。
デーゲンブレヒャー
だったら、あなたとエンヤの間では?
エンシオディス
……話し合いに値するのは、解決できる問題だけだ。
何度繰り返そうと私の選択は変わらないし、彼女も決して納得することはないだろう。
私たちはそれを、心の中ではよくわかっているんだ。
ノーシス
心の中でわかっていても、面と向かってそうとは言わないんだな。
デーゲンブレヒャー
ノーシスだって同じようなものでしょ。
あなたたちは似たり寄ったりよ。
必要な言葉を必要な人に決して伝えないんだから。
ノーシス
……
エンシオディス
……
デーゲンブレヒャー
都合が悪いと黙り込むところもそっくりね。
夜も深まる中、会社にはなおも明かりがともされている。ホールの暖房は切られており、沈黙と冷たい空気だけが広がっていく。
そうして少し経ってから、ノーシスがえずく音が再び響いた。
ノーシス
もう少し薬をくれないか、デーゲンブレヒャー。
頭が痛くなってきた……
エンシオディス
……私にも分けてくれ。少し酔ったかもしれない。
二人は同時に彼女へと手を差し出す。
面倒を見てもらえると信じ切っているその態度を見て、彼女は二人の手を無性に叩いてやりたくなった。
解決すべき問題は今なお山積みだ。
しかし今この瞬間、この場においては、うわべを取り繕う必要も、強がる必要もなかった。
デーゲンブレヒャーは自分の気持ちに従って、二人の手を順番に叩いた。
ノーシス
っ……
エンシオディス
ん?
デーゲンブレヒャー
ほら、二人とも立って。酔ってるなら帰って寝なさい。
こんなとこで座ってないでね。
明日もやることがたくさんあるでしょ。
さあ、行くわよ。