歴史の中より来たる

「シーボーン」
お前は、長きにわたってこの大地を歩いてきた。であれば、空の急激な変化にも気付いているはずだろう。
シーボーンがわずかに顔を上げる。すでにその顔に目がなくとも、かつての習慣が残っているかのように。
ドームの上、果てしない海水の上、はるか遠くの何かがそれの注意を引きつけているかのようだ。
「シーボーン」
教えてくれ。引き裂かれ生まれたあの穴は、塞がるまでにあとどれほどかかる?
ケルシー
……そういうことか。
エーギルの判断は正しかった。シーボーンが海への未練を捨て、陸へ大挙して進み始めたのは、明確な目的合ってのことだったのだ。
君たちは阻隔層の変化に気付いたからこそ、来たのだな。
「シーボーン」
海岸にいる大群の目が、そこで見たものを伝えてきた。
空にさざ波が立ち、不変の膜が引き裂かれたと。
ケルシー
その「生存」本能が、環境のあらゆる変化を……そしてその変化が示す危険を捉えよと君たちを駆り立てるのか。
「シーボーン」
危険。その通りだ。
やはり。ケルシー、お前は鋭いな。そのプログラムは、滞りなく動き続けている。
我々の交流は、とても有意義なものとなるだろう。
ケルシー
……
「シーボーン」
テラの上に懸かる厄災、我々を見つめる目は、空の異常をも垣間見るのか? あるいは、すでに……
ケルシー。お前はテラを、そしてテラが直面している危機を理解している。
お前ならばできる。すべきことがある。大群の理解と進化の一助となるのだ。
クレメンティア
ケルシー医師。今の話は、あなた方の間に何らかの合意があるということではなく、このシーボーンの一方的な願望によるものであることを願います。
ケルシー
執政官閣下。今はこのシーボーンの話を聞きましょう。
「シーボーン」
最後のチャンスは、過ぎ去ろうとしている。テラの海は、狭すぎるのだ。
より多くの知識を、養分を、空間を。大群は加速を、助けを必要としている。
翼を生やすことは、難しくない。だが、それでは遥かに足りぬ。空を突破するには、種の本質的な変化が必要だ。
ケルシー。お前は、十分な知識を有している。大群がすべてを理解する力となってくれれば、我々は厄災を逃れられる。
ケルシー
特殊な起源を持っていても、シーボーンは結局のところ、本能に突き動かされるばかりの非知的生命体でしかない。他方で、深海教会はシーボーンに妄想を押し付ける愚者の集まりに過ぎない。
だが、君の知ることはその二者に触れられる知識を遥かに超えている。一体どういうことだ?
「シーボーン」
我々は同じだ。ケルシー。群れとお前は、同じ使命を持っている。
ケルシー
質問を変えるべきか……
シーボーンはなぜ、今のような姿に進化した? 君と紺碧の樹の暴走の間には、どのような関係がある?
「シーボーン」
それは、お前にとって重要な答えなのか?
ならば、私の身に起きたすべてを、話しても構わない。それで、私の来訪目的を理解できるというのなら。
クレメンティア
……二百年以上遅れての質疑というわけですか。
あの失敗に終わった観測任務の真相を話してください。あなたはなぜ、今の姿になってしまったのですか?
「シーボーン」
失敗? 否。あれは最大の成功だ。
我々は当時、初めてマントル遺跡群の最下層へと足を踏み入れた。
先史人類は岩層全体をくりぬき、迷宮のような複合施設を建設していた。改造の痕跡は下部マントル層にまで到達しており、我々が数千年にわたって進めた発掘ではその外周にしか至れていなかった。
エーギル文明の原点である、マントル遺跡群。我々はその深部にさらなる遺産が、秘密が、答えが隠されていると思っていた。
だが、我々が期待したようなものは何もなかった。深部に隠されていたのは、ほんの小さな希望だけだったのだ。
ケルシー
……続けてくれ。
「シーボーン」
私は途中で隊員たちとはぐれてしまい、私が、私だけが、道の果てへと辿り着いた。
その地で、見たのだ……
あの巨大なものを。巨大な生き物が、紺碧の樹の影で眠るのを。
あまりの大きさに、全容を見ることはできなかった。触手のほんの一部だけでも、私の視界すべてを埋め尽くすほどに大きく――
アレの触手は、透明なカプセルの壁に張り付いたまま、その姿勢を維持し続けていた。接触を待っていたのか、あるいは……
気付けば、私はアレの前に立ち、手を伸ばしていた。
カプセルの壁は冷たかったが、アレの体温が感じられた。その後、潮のような光景が四方から押し寄せて、私を飲み込んだ。
ケルシー
巨獣が視界を共有したのか。君は何を見た?
「シーボーン」
墜落した都市、垂れ下がる空、燃え盛る大地、消えゆくスターゲート、砕けたスターリング、断裂した航路網……
ケルシー
それは……先史文明の滅亡か?
「シーボーン」
そうだ。エーギルは先史文明が滅びた原因を長らく証明できずにいた。しかしその瞬間、破滅の光景は私の眼前で再現されたのだ。
だが、それだけには留まらなかった。光景は絶えずあふれ出て、私の認知の限界を遥かに超えていった。
永遠に散逸した粒子と、もはや波のない砂の海……
冷たく光なき荒野と、果てしない暗闇……
燃え尽き崩壊した星々と、無限に拡大するブラックホール……
そこには一つとして見慣れた要素はなく、私はすべての感覚を失った。あるいは、私に視界を共有していた巨獣にすら、自身の存在が感知できていなかったのかもしれないが……
あれはまったく未知の場所だった。生命も、意味も、情報もない――
シーボーンの言葉が突然止まった。その透明な頭蓋越しに、不気味な色合いをした核状の物体が集まっては散っていくのが見えた。
その核の移動の軌跡は、何やら考え込む様子でいるシーボーンの思考の過程を表しているようだった。
「シーボーン」
ケルシー。お前ならば、その光景が含む意味を理解できるはずだ。
ケルシー
……その光景が示した危機は、かつてすべてを滅ぼした。具象化することもできなければ、現存する言語の中にそれを表現できる言葉もありはしない。
「シーボーン」
それは先史文明の結末であり、テラが直面しようとしている厄災でもある――すべての終点だ。
私が手を離せば恐ろしい光景は去っていき、その代わりに別の光景が見えてきた。壊れ砕け、曖昧で、混沌とした光景が。
アレとその子孫はすべての生命を飲み込んで、すべての星と月を分解した。生者も死者も皆アレの養分と成り果て、アレは時間の果てにある暗闇の中で呟いていた――
「存続」と。
繰り返し繰り返し、呟いていた。
ケルシー
「混沌」「呟いていた」か……その巨獣は目覚めてはいなかったのか?
「シーボーン」
アレは深く夢を見ていた。夢の停滞、変化の停滞、使命の停滞――アレは紺碧の洞窟の中に閉じ込められていたのだ。
ゆえに、呼び覚ます必要があった。
アウィトゥス
……カシア!
カシア
アウィトゥス先生。
アウィトゥス
君とその仲間たちが急に姿を消したのは、海巡隊の防衛が一番薄くなる時を狙って、内部から都市を徹底的に破壊するためか?
カシア
すぐに避難してください、先生。
アウィトゥス
海巡隊は君に気付いている。彼らは君に目を付けているんだ。
カシア
そこまでわたしを気にかけてくださるのは、私が保育室に残したあの小さな胚が、過去を思い出させるからですね?
少し気になったのですが、先生は当時の決定を後悔していらっしゃるんですか?
アウィトゥス
今はそんな話をしている場合ではない。
シーボーンはすでにミリアリウムへ侵入してしまった。もうやめるんだ、カシア。都市全体が壊滅してしまうぞ。
カシア
もう手遅れだとは思わないのですか?
アウィトゥス
どうして……
カシア
どうしてエーギルを裏切ったのか、と?
お話しした通りですよ。シーボーンの災いが、エーギルの根底にある弱さを明らかにしたのです。人々は生存意欲を取り戻す前に、価値の崩壊に押しつぶされてしまうのですよ。
あんなにも意欲に溢れた学者だったあなたも、今ではこの通り。この都市で、これまで何をしていらっしゃいましたか?
私の正体には、とっくにお気付きでしたでしょう? 事態がここまで進んでしまう前に、阻止する機会はいくらでもあったはずです。あなたはいつでも、海巡隊に私のことを告発できたのですから。
それなのに、あなたは何もしなかった。ただ待って、すべてが起こるのを傍観していたのです。まるで盲いた鱗獣のように、渦の中をぐるぐると回り続けて……
あなたはミリアリウムに、ただその破滅を見届け、自らの絶望を検証するために来たのですか?
アウィトゥス
違う……私にはまだ、君を止めるチャンスがあるはずだ。
カシア
人の命というのは、ひとたび特定の価値観に紐づけられてしまえばいずれ無意味に崩壊する定めにあります。本来は生命の存在それ自体が、生存の理由を構成するには十分なものだというのに。
ゆえに我々は、人々が自然に備えているはずの生存の欲求を呼び起こし、彼らがこれまで崇敬し続けてきた価値というものを見つめ直すよう迫らねばならないのです。
そうすることでようやく、エーギルにはこれ以上絶望する人が、これ以上……あなたのような人が、現れなくなるのですから。
アウィトゥス
私は……
???
危ない!
シーボーン
(興奮気味にうなるような高い音を発する)
セクンダ
……
くっ……カシアは逃げたか。
ジョディ
この連動装置、やはり破壊されています。道理で中央制御室の操作システムが反応しなかったわけです……!
あの、指揮官さん。ここは、僕に任せてください。
セクンダ
しかし、シーボーンがこちらに近付いていますよ。
ジョディ
裁判所に入ってから、師匠に少し、アーツを教わっているので大丈夫です……この方面の才能は大してありませんけどね。
それでも、あの女性が設備管理所の局員なのであれば、都市ユニットのフレームを破壊する方法はよく心得ているはずですから……
セクンダ
貴殿の勇気に感謝します、ジョディ殿。このエリアの制圧にはすぐさま人員を配備しましょう。カシアのほうは、小官が捕らえます。
シーボーン
(慌ただしげに翼膜をはためかせる)
ジョディ
わっ、こ、こんなに早く!?
アウィトゥスさん、いつまで地面に転がっているおつもりですか?
教え子は姿を消しており、アウィトゥスは突如現れた眼前の若者に目を向けた。ジョディの眼差しには明らかに恐怖の色が見えたが、それでも彼は震えながら、手にした灯りに火をともした。
アウィトゥス
ジョディ君……
ジョディ
先ほどの話、聞かせていただきました。
あなたは……決して悪い人ではないと思います。それでも、僕はあなたに失望しています。とても。
アウィトゥス
……
ジョディ
あなたは、ミリアリウムが二度と戻れないと思っていたから、この都市と共にここへ来たんですか?
だとしたら、一体何を期待していたんです? 死ぬことですか?
アウィトゥス
君は陸に戻るべきだ、ジョディ君。
周りを見てみなさい。シーボーンはすぐにでも、都市ユニット間の障壁を越えてくる。すべては終わる定めなんだ。まるで……
ジョディ
あなたはずっと、僕の質問に真面目に答えてくれていませんよね!
確かに僕は、エーギルを離れ、かつてエーギルに抱いていた憧れや想像を捨てることになるかもしれません。でも、それは決して……エーギルが滅びようとしているからではありません。
ご存知の通り、僕は『生活の死』を読みましたが、あの本は僕の疑問に答えられはしませんでした。
たとえ、あなたの予感が現実になり、いずれ未来で、僕たちがあの饒舌な男性のように、自分の故郷があの本に書かれていたような結末へと向かうのを見ることしかできなくなるとしても……
一つの文明の破滅は、一つの都市や、家庭や、一人の人間が目の前で破滅していくより重いことなんでしょうか?
僕にはわかりません……どうしたって、理解できません……
アウィトゥス
……
ジョディ
ずっと考えていたことがあるんです。言うべきかどうかはわかりませんが……
あなたは、自分の「知己」が子供の養育計画を放棄し、最後には絶望を抱いて亡くなったと言いましたよね。ですが、彼女を失望させたのは、エーギルの未来でしょうか? それとも……
あなたでしょうか?
アウィトゥス
……
若きエーギルがありったけの力を込めると、灯りは彼の前で激しく揺れて、明滅する炎がシーボーンを追い払っていく。
彼の息は荒く、玉のような汗が頬を伝っていく。アウィトゥスは彼の腕が震えていることに気付いたが、この瞬間、自分はそれよりさらに狼狽えているということも感じた。
アウィトゥス
……横から来るぞ、気を付けなさい!
ウルピアヌス
自らの身体を都市外壁に塗り付け、兵器の攻撃軌道に沿って侵入したのち、再び成形した、か。フンッ、その奇妙な身体は実に便利なものだな。
シーボーンよ。
シーボーン
(ゼラチン質の体を嬉しげに震わせる)
(興奮気味に微細な触手を揺らす)
こコに、いタのか。
巣穴、見タ。オ前、巣穴ヲ去ッた。理解不能。
Ul-pianus、同胞。コこで、我らヲ、待っテイた。
Ul-pianus、Ul-pianus、モう、迷い、なイか?
――
(苦しげに身体をよじる)
ウルピアヌス
……
シーボーン
苦しム、必要ナい。
個体ノ消滅、永遠。群れノ生存ハ、永遠。
Ul-pianus、オ前を、導ク。お前ヲ助ケる、新たナ個体、誕生すル。私ハ続く……
ウルピアヌス
グレイディーア。
グレイディーア
ごほっ……ッ、ウルピアヌス。
グレイディーアの顔はなおも無表情のままだ。彼女は矛を斜めに持つと、無意識にその先端を地面に当てる。
その小さな動作だけでも、身体の奥深くから湧き上がり続ける疲労を和らげるには十分であり、それは久方ぶりに会う僚友と向かい合う支えとなってくれた。
グレイディーア
あなたの「お仲間」はもう、不潔な粘液と化しているけれど、今されていた質問には答えてもらわなくてはね。
……
スペクター
このダンスパートナーたちときたら、本当に風情ってものを知らないのね。突っ込んでくるばっかりで……
はあッ――
ダンスは優雅さを求められる芸術なのに、数の暴力で圧倒しようとするなんて、興ざめしちゃうわ。
グレイディーア
これでも貫けないとはね。
ここは元々、シーボーンに作り変えられた珊瑚だったのでしょうけれど、今ではどれほどの厚みかもわからないほどの「壁」と化しているわ。
都市からの警告と言い、シーボーンの異様な動きと言い、手術の異常な結果と言い……すぐにもここを突破して、ミリアリウムの状況を確かめなければならなくてよ。
スペクター
ここへ来た時使った入り口は消えちゃったのかしら?
グレイディーア
いいえ。私たちが方向感覚を失っているのよ。
スペクター
殻化によって、菌鞘も、孵化していない卵も、波さえも……周りのすべてが固まっちゃったわね。
このままだと、いくらもしないうちに、巣穴全体がこいつらの栄養を蓄える厚い殻になっちゃいそう。そうなれば、隙間の一つも残らないでしょうね。私たち三人だけじゃ、どうしようもないわ……
そのうえ最悪なのが、この停滞していく環境が、私たちの眠気を増幅させていくことね。
スカジ
二人とも……
グレイディーア
後ろよ、気をつけなさい――
優しいシーボーン
(柔らかく唸るような音を発する)
スカジ
気色悪い。
優しいシーボーン
巣穴、完璧ニ、なル。スぐに、海モ、すべテが。
オ前は……同胞ダ。害ハ、受ケナい。
群レは、お前ヲ、受ケ入れル。群れハ、オ前を、守ル。
こコ、栄養豊富。眠レ、たダ、眠れ。
スカジ
……
戦いによって抑え込まれていた眠気が、身体の隅々にまで広がっていく。
分厚い殻が波を固め、すべてが停滞する。狩人たちは、意識が底なしに沈んでいくのをおぼろげに感じていた。彼女たちには歌声が聴こえる――
それは耳元から、それぞれの体内から響いていた。
「Ishar-mla。」
「我らが苦難は永遠なり。」
「我らが望みし生は永遠なり。」
スペクター
スカジのほうから……
その時、いななきが聞こえた。
頭上からかすかに響いてきたと思えば、強烈ないななきが耳元に届く。静止していた海水が、再び流動し始めた。
果てしない海ですら、重たい繭に束縛されうるものである。ならばその繭を打ち砕く力は、どこからやってくるのだろうか?
陸。月。小麦の香り。遥かなる故郷。
その力はすでに伝説となり、山を砕き、死と時間を砕き、有形無形のあらゆるものを打ち砕いてきた――
彼は決して縛られない。
ロシナンテ
(甲高いいななき)
最後の騎士
――!
シーボーン
オ前、群れ、似テイる……
どコ、カら……
グ、ガ――
最後の騎士
大波は、お前たチによっテ作ラれ、お前タちによッて固メられタ。
こノ、場を……地面ニ、変エる、気か?
許しハ、シナい。
そノ意味ヲ、反転さセル、なド。荒野、山河、麦畑、陸地ハ陸地、デしかナい。
私ハ、探し、叱責シ、粉砕、すル。
グレイディーア
彼、以前ウルピアヌスと同行していた……
スペクター
ふぅ……騎士さん、お久しぶりね。
シーボーン
オ前、同胞でハ、ナい。
最後の騎士
(怒り狂った咆哮)――――!
シーボーン
(柔らかな触手を興奮気味に開閉する)
(ひだのような翼膜を興奮気味にはためかせる)
アイリーニ
どきなさい!
ジョディ
アイリーニさん!
アイリーニ
探したわよ、ジョディ。
ジョディ
ごめんなさい、僕……
アイリーニ
クレメンティア執政官からの通信は受け取った? ケルシー先生たちは港に向かっていたはずだけど、さっきまた急に連絡がつかなくなって……
とにかく、すぐにイベリアの眼に戻らないと。ここで起きたすべてをカルメン閣下にお知らせして、裁判所と懲罰軍が防衛線を張るのを支援しないといけないわ。
ジョディ
すみません、もう少しだけ待ってもらえませんか?
アイリーニ
どうして?
ジョディ
現状、都市に侵入したシーボーンのほとんどは、ビーコン塔付近で押さえ込まれています。ですからその、ビーコン塔が置かれている都市ユニットを切り離せば……
ミリアリウムは陥落を免れ、効果的な反撃も可能です。
でも、切り離しを邪魔しようとした深海教会の人に、連動装置が壊されてしまって……
アイリーニ
海巡隊は今このエリアのシーボーンの排除に当たっているの。私たちも、目の前の連中を逃がすわけにはいかないわ。
奴らには私が対処しましょう。その連動装置とかいうものは……あなたの技術でなんとかできる?
ジョディ
……
はい!
直せます!
アイリーニ
そう、ならあなたの言う通りにしましょう。
私があなたとアウィトゥスさんを守るわ。修理を終えたらすぐに陸へ戻るわよ。
イベリアの眼の時やったみたいに、上手く連携できるように願ってるわ。
ただ、このシーボーンたちは深海からきた連中で、前に陸で相手していた奴らとはまるで違うから、どれだけ持ちこたえられるかはわからないわよ。
ジョディ
アウィトゥスさん、こちらの話は終わりました。もし体力が残っているなら、手伝ってください!
アウィトゥス
……
わかった。
アイリーニ
急いで、ジョディ!
ジョディ
そうだ急げ、ジョディ・フォンタナロッサ!
グレイディーア
ビーコンを通じて私たちに警告したのはあなたね……それに、私たちが眠りに飲まれかけた瞬間、大灯台にも現れたあの奇妙な騎士が殻を壊してくれたのだけれど。
彼のことも、あなたの差し金かしら?
ウルピアヌス
あいつは我を忘れた狂人だ。海を、規律と化したすべての異常を、自分自身を敵と見なしている。
あの手の存在を利用できる者などいない。以前はただ、偶然同行していただけのことだ。
戻ったのはお前ひとりだけか?
グレイディーア
二人はまだこちらに向かっている最中よ。
ウルピアヌス
巣穴の殻を破り、シーボーンの波を越えてすぐさま引き返してくるとは……お前の速さはやはり驚嘆に値する。だが、それでもなお遅かったな。
ミリアリウムの急変は見ての通りだ。大群はエーギルを利用し、この都市はシーボーンの陸上侵略の足掛かりになろうとしている。
グレイディーア
急変ですって?
港まで戻った私が最初に知ったニュースは、アビサルハンターウルピアヌスがビーコン塔の中央制御室へ侵入し、航路計画の技術顧問を殺害したというものだったわ。
ブランドゥスの死体があなたの後ろに転がっているのが、その確たる証拠となっていてよ。
ウルピアヌス
……
グレイディーア
沈黙を選ぶのね。
ブランドゥスの件に言及すれば、痛烈な憎まれごとでも言うと思っていたけれど。
ウルピアヌス
その反応を見るに、お前もあいつのことはある程度把握していたようだな。
だが今は、堕落した一人の裏切り者について語る時間はそうないだろう……俺たちにとってあいつが、かつては最も親しい僚友であったとしても。
あの若造、やり遂げたようだな。
連動装置は復旧した。となれば――
グレイディーア
ビーコン塔を都市から切り離そうとしているのね……賢明な判断だわ。
どうやら、あなたはまだ救いようのない状態ではないようね。
ウルピアヌス
数分後には、ここは海底へと沈む……感じるか? あのにおいを。
狂ったように飛び散る臭気……上にいるシーボーンが、この塔の変化に気付いたのだろう。奴らは最後のチャンスとばかりに封鎖を突破し、他の市街地を蝕もうとするはずだ。
今すぐに、ここを離れろ。グレイディーア。
グレイディーア
エーギルに戻りなさい、ウルピアヌス。これがまさしく最後のチャンスよ。
ウルピアヌス
まだ解明できていないことがあるのでな。これまでの努力を無駄にはできん。
先史文明の幻想と終焉、シーボーンの群れの由来とその行方、眼前に迫る災いと天外に懸かる破滅……
状況を覆すには、それを大まかに知っているだけでは不十分だ。より詳細な情報を掴まなくては。
仮にシーボーンに記憶というものがあるのなら、細部に至るまで奪取せねばならない。
グレイディーア
その判断は否定しないわ。けれど私たちは海へ、エーギルへと帰ってきたのだから、真相に近付く機会はたくさん残されていてよ。
ウルピアヌス
それはお前のやり方だろう。その判断は認めるが、より多方向かつ多角的な方法があってこそ、俺たちの勝算も上がる。
お前が言っていたように、俺はすでに別の道へと身を置いているんだ。
それでもなお、俺を止めるか?
グレイディーア
私の観察通りなら、先ほど殺したシーボーンはあなたのために進化した個体でしょう。
これはシーボーンがあなたを受け入れようとしている証左であるのみならず、あなた自身が……
ウルピアヌス
そうだ。
グレイディーア
ならば、急激に孵化する巣穴に身を置くことが、あなたにとって何を意味するかはわかるはずよ。
エーギルとしてのあなたに問うわ――その頭にはどれだけの理性が残っているの?
もはやそこには、死を選ぶ理性すらも残っていないかもしれなくてよ。
ウルピアヌス
だがこれは、あのクズどもの信用を得るには避けて通れない道だ。
グレイディーア
あなたは優秀な狩人で、本職の科学研究員でもあるけれど、だからといって自分の意志でシーボーン化のプロセスをコントロールできるなどと驕らないことね。
「接部自動調節点」手術の時のような想定外の出来事が、いつでも起きるわけではないのだから。
私は、あなたが破滅に向かうのを黙って見てはいられないわ。
ウルピアヌス
……お前の体力はすでに限界だろう。
俺たちはいずれも、暴力の専門家だ。今やり合えば、お前は死ぬ。
グレイディーア
そうかしら?
矛が冷たい弧を描いた。ウルピアヌスが鎖を振ると、巨大な錨がグレイディーアへと向かっていく。その重い一撃を躱すべく、彼女はその場で跳躍せざるを得なかった。
一瞬のうちに、金属のぶつかり合う音は沈みゆく建物の轟音にかき消され、シーボーンが混ざった海水が中央制御室に流れ込む。
最後の瞬間グレイディーアが目にしたのは、昔日の僚友が、消えたホログラフィック海図の前に佇み、色彩に満ちた大波に飲み込まれるのを静かに待つその姿だった。
ケルシー
君の説明には多くの疑問点が存在する。
体内で独立した生態系を育む巨獣の特性を利用し、巨獣を生きた箱舟へと改造する――この技術の実現可能性は、タロスがすでに実証している。
プロジェクトに用いられる技術は成熟していたということだ。
そして、そのプロジェクトの置かれた複合施設はマントルの奥深くにあり、この星の心臓から汲み上げられるエネルギーは、施設が計り知れないほどの時間にわたって稼働するうえで支えとなる。
必要エネルギーは十分に確保できていたはずだ。
ならばなぜ深海の下のプロジェクトは、君が言う「停滞」に陥り、突如暴走し、凄まじい勢いでシーボーンを生み出したのか?
「シーボーン」
巨獣の本質は内向的なものだが、アレは万物を存続のための養分として受け入れようとしたのだ。そしてアレには、巨獣にあらざる意味と、名前――Ishar-mlaという名が与えられた。
アレらは、実質的にお前の言う「生きた箱舟」を超越していた。より大胆で、誇張的で、野心的で、絶望的な改造を施されたのだ。
しかしその後、アレらの行動が、既定のプログラムに従うことはなかった……その原因はわからない。
ケルシー
つまり、プロジェクトは当初の予定通りには進められず、それでいて新たな方向に進むことも中断したと?
「シーボーン」
完全なる中断ではないがな。アレは、アレらは、自らの体内で新たな子を育み続けたのだ。
しかし、巨獣の体内に閉じ込められた弱き命は、世代交代が遅く、進化があまりに遅かった。
子供らは解放され、巨獣の身体を離れ、より多くの環境に適応し、さらなる養分を奪い取ってくる必要があった。
より多くの養分を巨獣に還元して初めて、巨獣は進化を加速させられるのだから。
ケルシー
基本的には、巨獣の体内で育った生命が巨獣の身体を離れることは難しい。しかしながら、シーボーンが巨獣の身体の外で見せている侵略性を思うに……
その巨獣たちが受けた改造は、これまでの認識を覆すもののようだな。
クレメンティア
ならば、マルトゥス。シーボーンを海へと引き込み、災いの種を蒔いたのはあなただということですね?
「シーボーン」
「災いの種」か。否。当時の幼体はまだ弱く、当時のエーギルはまだ強かった。
自律的な生態モニタリングシステムが海底を覆い、藻を食らう幼体が繁殖するより前に、殲滅されてしまったよ。
だが、エーギルはそうして障害になるのではなく、援助を提供すべきだった。そんな中、幸いにも、人間社会における私の影響力はなおも利用可能なものだった。
クレメンティア
当時、展望研究所はすでに、マントル遺跡第四観測隊の訃報を発表していたはず……あなたが「蘇った」のは、ただ同胞を堕落させるためだと言うのですか!?
「シーボーン」
私は論壇にも立たず、講演も行ってはいない。ただ幾度か、真摯に話をしただけだ。私は、一部の人間が問題を見出し、回答を見つける手助けをしていた。
すると彼らは、シーボーンが生存の機会を切り拓くのを、喜んで手伝ってくれた。それだけで十分だった。大群は、自ら活路を見つけることができたのだ。
クレメンティア
この二百年間に起きた、生態系の崩壊や都市の陥落、同胞たちの離散……そのうちのどれだけが、あなたによって引き起こされたのでしょう?
今この瞬間起きている、航路計画への侵食や兵器システムの書き換え――この一連の出来事も、あなたがブランドゥスやその背後にいる深海教徒を扇動した結果なのですか?
「シーボーン」
(頭蓋内の核が回転する)
……お前たちの言う「深海教会」は、厳密に組織化されているわけではない。少なくとも、海ではな。
陰謀を巡らす者も、先導者も、必要ない。
クレメンティア
組織ではないと言うなら……まさか、あなたは単なる信仰と教義によって同胞の思想を蝕み、言動を操っていたと?
いかにして、曖昧な「神」の存在などを同胞の意識に植え付けたのですか? エーギルの社会には、そのような荒唐無稽な概念自体存在しないというのに。
「シーボーン」
原始宗教は文明によって完全に根絶されることはない。それは科学の果てで静かに待っており、いかなる時にも目覚める可能性があるのだ。
「深海教徒」と呼ばれるエーギル人たちは真相を知りはしない。だが、それぞれが独立した思想と理念を持ち、様々な謎と困難に直面している。
「利己と無私」。
「欠陥と完璧」。
「自然と文明」。
「合理と不合理」。
「力の強弱と血肉への束縛」。
「道徳の狭小さと人類の未来」。
「作られた真理と崇高なる循環」……
(頭蓋内の核が回転する)
欺瞞? 否。
原始宗教は生命存続の本能に端を発するものだ。
「教徒」たちが一人一人持っている思考の背後には、唯一の主題のみが存在している。即ち、「いかにしてより良く生存するか」だ。
「信仰」でも「教義」でもなく、あるのは存続への渇望のみ。
お前たちも同様に、存続のために足掻いているのだろう?
生命の存続だ。
文明の存続には常に、より多くの文明の消滅が伴う。それと同じように、生命の存続にも常に、より多くの生命の消滅が伴うものだ。
長きにわたり幼体が巨獣のために養分を凝縮していく中で、多くの種がその活動によって絶滅した。かつて私はその数字を記録していたが、忘れてしまった。
なぜなら、Ishar-mlaがついに目覚めた瞬間、そのちっぽけな数字は意味を失ったからだ。
生まれ来る者の産声と、死に往く者の泣き声が混じり合い……
歌声が、静謐をもたらした。
クレメンティア
……
あなたは初めから、「ファーストボーン」を目覚めさせればどうなるかを知っていた。海全体に、無数の種に影響する災いを引き起こすと知っていた。にもかかわらず、少しの後悔もしていませんね。
あまつさえ、犠牲者の数を心に刻むことをすら放棄するとは。その振る舞いをするのは、麻痺してしまうほどに、多くの命を奪ってきたからですか?
ですがそれは、罪を逃れる理由にはなりません。
執政官が歩を進める。彼女が手にした儀礼刀の美しく湾曲した刃がぎらりと輝き、シーボーンの向けてくる視線を断ち切った。
クレメンティア
この闘智場は、あなたが自らの手で設計し、無数の同胞に啓発を与えてきた場所です……私自身、大いにその恩恵を受けてきました。
ですが今、あなたは何の感慨もないかのようにここへ立ち、いかにしてエーギルを永遠の深淵へと突き落とすかを平然として語っている。
以前、あなたの記録映像を見たことがあります。大きな眼鏡をかけ直す動作が癖なのだろうその人は、優しく思慮深き観察者として映りました。
それに引き換え、今のあなたをご覧なさい。最も豊かな思考でさえも、細胞の粗末な変化によってしか伝えることができないその有様……
今なお眼鏡を首から下げているのは、あなたには偲ぶ資格のない故人を偲ぶためですか? あるいは、あなたがあざ笑うに値しない死者をあざ笑うためですか?
「シーボーン」
……
クレメンティア
あなたがエーギル人のマルトゥスであるならば、ここに堕落者への判決を下しましょう。
ですがあなたがシーボーンであると言うのなら、その手順は省くといたします。
シーボーンを取り囲む粒状の細胞小器官が展開し、クレメンティアの攻撃をいなすと、儀礼刀は珊瑚状の端末の光影の中に入り込む。
「シーボーン」
ウウ――グッ。
闘智場の端末への操作を遮断された、か?
Mon3tr
(高熱の炎を吐き出す)
(怒ったような雄たけび)
「シーボーン」
……
海巡隊隊員
緊急チャンネル、通信試行十回目――
シーボーンはビーコン塔を完全に占拠しています! 「営巣地化」が止まりません! ですが何者かが、該当の都市ユニットの切断プログラムを起動した模様――大きな成果です!
生体反応は急増し続け、各営巣地が拡大、それぞれの距離が急激に縮まっています……
警告、シーボーンの波が発生! 範囲は大陸棚全体! 繰り返す、シーボーンの波が発生! 範囲は大陸棚全体!
第十一次緊急通信――
クレメンティア
……
執政官クレメンティアより、ミリアリウム全域に通達いたします!
ビーコン塔の存在する都市ユニットを切り離し次第、ミリアリウムは陸地へと移動を開始、シーボーンの包囲網を脱します!
道中、都市ユニットのフレーム連動装置を再起動し、都市を再構築したのち、最大出力で人工力場を展開、シーボーンの波が陸へ押し寄せるのを食い止めます!
第八、第十軍団及び海巡隊は、都市の航行を援護すべく、運行可能な全艦船を交代制で出撃させてください!
先哲たちとエーギルが我らと共にあらんことを!
「シーボーン」
お前は常に可能性を探し続けているな……執政官よ。
実に気丈なことだ。
我々も……そうだ。かつては……皆がそうだった。
クレメンティア
……
ケルシー
……
裁判所事務員
航路を開通させようとしているのは、エーギルなのでしょうか? それともシーボーンなのでしょうか? 毎秒ごとに数値が跳ね上がり、シーボーンが絶え間なく……次々に押し寄せてきます……
もはや灯台システムの演算限界を超えるほどの数になりました!
聖徒閣下?
聖徒カルメン
わかっているとも。
前を見なさい。
海と空の境目に見える、あの濃い色をした点はすべてシーボーンの波だ。
風の音が弱まっている……今や、奴らの数と範囲を推測したとて無意味だろう。
経験はデータに勝るものだ。私はかつて、この目で似たような海を見た。
裁判所事務員
それは……お、大いなる静謐の時ですか?
聖徒カルメン
……
あとのことは、懲罰軍と審問官たちに任せなさい。
懲罰軍
ご、ご報告します!
二つの大方陣の配置が完了いたしました! 加えて現在は、エーギルのドローン部隊による防御構築支援を受けております!
聖徒カルメン
エーギルが……
裁判所事務員
聖徒閣下、海面に波が立っています……何かが浮上してきているような……
あれは……エーギルの都市?
心臓部を捨て、遥かな道のりを孤独に航行してきたエーギルの都市――ミリアリウムが、ゆっくりと海面に浮き上がってくる。
都市ユニットのフレームに支えられ、その身体は刻一刻と再構築されていく。目には見えない力場が海底と空に向けて伸び、都市全体が高い壁の如き巨大な構造物となっていった。
それは海面を突き破り、100メートルもの波を起こす。一方都市の反対側では、文字通り狂える潮流が一瞬にして訪れていた――
生ける波、様々な形のシーボーンが、海と一つに融け合っている。海の子は海そのものと化し、海の色すら変えていた。
深海より現れた都市と、這いずる潮流が同時にその身体を伸ばし、衝突し、押し合って、噛みちぎり合う。
尽きせぬ自然の力に対しても、文明が今この瞬間怯むことなど有りはしなかった。
シーボーン
……
ミリアリウム
……
そうしてすべては静寂に包まれ、目にした物事を伝えに吹き去る風すらもそこにはなかった。