一清二白

若い声
私に何を見せたいのですか?
しっかりした声
急げ、もうすぐ着く。
リン・チンイェン
渓流にて雪を踏み、老梅の香りを楽しむことができる場所は確かに得難いものでしょう。しかし、山の下でも体験できぬわけではありません。
となれば、この山の頂から望む都市の人々の営みこそが、わざわざ遠回りして山を登った理由でしょうか。
ユー・チェン
街の営みの何が面白い? 麟青硯(リン・チンイェン)、お前に見せたいのはこの松の木だ。
リン・チンイェン
……勁松、寒さを経てなお、その翠は損なわず。
ユー・チェン
否、そのような誰もが口にしそうな中身のないことを言いたいわけではない。
この松は私が百灶に赴任する前、この手で植えたものだ。その時、心に思っていたことは恐らく今のお前と寸分違わぬだろう。
あれから長い時が経ち、私はすでに当時の私ではなく、この木も最早、当時のあの木ではない。
リン・チンイェン
私には何を仰りたいのか……
ユー・チェン
構わん。今はただこの木を見て、記憶しておけばそれでいい。
チンイェン……大理寺はお前に合っている。お前はこの先、優れた少卿になり、ひいては大理寺卿の責を担うことになるだろう。
大理寺に回ってくる案件はお前にとって何ほどのことでもない。お前が真に考えるべき問題はただ一つ――
お前は真相の重みを担えるのか?
リン・チンイェン
……
私には分かりません。
ユー・チェン
構わん、今はっきりと定まっている必要はない。今後、お前は折に触れてこの松の木を思い出すだろう。そして十分に思い出した時、自ずと得心することもあるであろう。
私が死んだ時、お前がこの木を切り落とせ。この木で私の棺を作ってくれ。
リン・チンイェン
ユー・チェン殿……
ユー・チェン
行こう、高処は寒きに勝(た)えざらん。帰るとしよう。
ユー・チェン、あなたは何の罪に当たるのでしょうか?
リン・チンイェン
……
シエ・ジェン
(軽いいびき)
ごほごほっ……!
うっ……今、何時でしょう? 容疑者は自白しましたか?
リン・チンイェン
解真(シエ・ジェン)御史、このような厳粛な場においては言動によくよくご注意くださるようお願いします。
シエ・ジェン
これは大理寺内の内輪揉めでしょう。本件に係る粛政院の同席はどこまでいっても形式的なものでしかなく、重要ではありません。
しかし今日のこの審理の様子はなかなかに興味深いものでした……あの温厚な大理寺卿が、これほどまで怒り心頭に発しているのは見たことがありませんよ。
チェン・チョー
ユー・チェン! かつて大理寺の官として、あなたもこの銅鏡の下で誓ったはずです。
この大理寺の決院は、あなたが勝手気儘に振舞っていい場所だとでも!?
ユー・チェン
まったく、とんだ濡れ衣だ。大理寺卿は問うべきことを全て問われた。私も自白すべきことは全て自白した。これでも私を勝手気儘と言うのか? まだ従順さが足りないか?
先月の十五日、丑二つ時、大理寺文書保管庫南区が何者かに放火されたという件、その火は私がこの手で放ったのだ。
チェン・チョー
出任せを! 火災の発生時、あなたは拘禁され審理を待っていました。放火などできるはずがないでしょう。
もし本当にあなたが放火を画策したというのなら、共犯者は誰なのです?
ユー・チェン
共犯者などいないさ。助手……
いや、助羽の羽獣なら一羽いるがな。
あの晩、怪我をした羽獣が私の独房の窓辺に降り立った。それで少しの米と水を与えてやったのだ。
羽獣は賢く、恩人である私の願いを聞いてくれた。私は羽獣に火のついた藁を持たせ、文書保管庫へと飛ばした。
シエ・ジェン
ぷっ――
こほこほ……おっほん……
チェン・チョー
ユー・チェン、あなたの戯けた話に付き合う暇のある者は決院にはいません!
ユー・チェン
私とて出任せを言う勇気はない。大理寺卿が問われたことに答えているだけだ。
チェン・チョー
……いいでしょう。そこまで頑なに自分が火を放ったと言うのであれば、詳細を述べてください。
それはどういった種類の羽獣だったのですか?
ユー・チェン
生憎羽獣の種類の見分けなどつかん。ただ全身が混じりけのない黒……世の人心と同様に黒かったのは覚えている。
チェン・チョー
藁を用いて火を起こしたと言いましたが、独房に閉じ込められたあなたがどこから藁を調達したんです?
ユー・チェン
敷物の中から取り出した。
チェン・チョー
あなたの独房の敷物の素材は綿です。
ユー・チェン
はて。では私の記憶違いだったかな……敷物から取り出したのではなく、羽獣が巣を作っている時に落ちたものかもしれない。
チェン・チョー
事件後に担当者があなたの独房を入念に調べています。羽獣の巣なんてものは影も形もありませんでしたよ。
ユー・チェン
世の悪人が悪事を働いた後に痕跡を残す者ばかりであったなら、大理寺と刑部は何のためにある?
まったく人のように賢い羽獣だったな。相手の事情を慮る心があるのだから。
チェン・チョー
貴様……
ユー・チェン
そうそう……それと火事の原因となった火種は――この鉄枷を独房の手すりに叩きつけて起こしたものだ。全部で八百六十三回。大理寺が設立された年数と同じだ。
これが私の放火の委細だ……説明は十分だろう?
大理寺卿、ほかにご質問は?
シエ・ジェン
どうやらユー殿は退官してからこれまでの間、随分と説話を聞いてきたようですね。
リン・チンイェン
冗談はやめてください……
シエ・ジェン
大理寺卿もですよ。よくも彼のすっとぼけた話に付き合うものです……
今のやり取りも記録するのですか?
リン・チンイェン
……もちろんです。
シエ・ジェン
面白い……
ユー・チェンも大理寺浩然閣の少卿に抜擢されたことがあるお方。多くの汚職官吏や巨悪が彼の手によって失脚しました。
しかし引退後、証拠捏造の罪でリン少卿が彼を処罰し、今や彼はこの体たらくです。
こうして思い返すと、リン少卿は当時の選択を後悔しているのではないですか?
リン・チンイェン
法律には功罪相償うなどという道理は存在しません。シエ御史、故意に敵対心を引き出そうとするのはおやめいただきたい。
シエ・ジェン
それにしてもユー・チェンの行動は本当に理解し難い。当時証拠捏造を告発された際には、公文書に一切関心を向けなかったというのに、事件が終わり判決が下された今になって火を放つとは。
リン・チンイェン
これは、おかしいです……
……私も聞きたいことがあります!
チェン・チョー
リン少卿?
ユー・チェン
……ふん。
リン・チンイェンは紙と筆を置き、ユー・チェンと真っすぐに視線を合わせた。これまでずっと、惚けてのらりくらりとしていた囚人も、今は彼女を正眼にしている。
彼女は見定めたいと考えていた。それによって見定められることを恐れてはいなかった。
ユー・チェンはリン・チンイェンの反応にどこか満足したかのようだった。目を閉じ、見るに堪えない笑みを浮かべる。
チェン・チョー
リン少卿、書記官代理として、あなたは記録をしているだけでいいのです。
リン・チンイェン
チェン・チョー様、一つあなた様が尋ねていないことがあります。容疑者のユー・チェンは文書保管庫を焼いたと主張していますが、その動機とは何だったのでしょうか?
チェン・チョー
容疑者の供述は明らかに戯言です。動機など尋ねる必要がありますか?
ユー・チェン
はははっ……文書保管庫は本当に私が燃やしたのだ、それは信じていい。
なぜ燃やしたのかというと……
チェン・チョー
ユー・チェン!
南区にある七万四千の記録文書! 六十年の長きにわたる維持の苦労は、大理寺二十四名の少卿が注いだ心血は、あなたにとって本当に燃えかすのごとく軽いものなのですか!?
ユー・チェンは突然うつむき黙り込んだ。大理寺卿は目を据えて、彼の動作一つ一つを凝視している。
ユー・チェン
何を惜しむものがある……
あれらの文書に書かれているのは取り繕うための嘘ばかり。見れば目が汚れ、思うと心が汚れる。
ならばいっそ燃やしてしまうのがいい。それで綺麗になる!
リン・チンイェン
綺麗……?
チェン・チョー
あなたは一体何が言いたいのですか……
ユー・チェン
私が何を言いたいか? もし大理寺卿に興味がおありなら、語り合おうではないか。焼き払ったあれらのものが、果たして綺麗であるかどうか――
シエ・ジェン
大理寺卿、どうやら容疑者はいくらか精神が不安定なようです。時間も遅いことですし本日の審理はこの辺にしてはいかがでしょう?
チェン・チョー
……
誰か。ユー・チェンを独房へと連れて行きなさい。
慚愧に堪えません。本日、粛政院にはお恥ずかしいところを見せました。
シエ・ジェン
いえいえ。難事でしょう。お察しいたします。
チェン・チョー
この件に関して、我々大理寺は必ずや粛政院に納得のいく説明をします。
シエ・ジェン
はぁ……まあ早く解決していただけると嬉しいものではあります。そうすれば何度も足を運ばずに済みますのでね。こちらの中庭は楠が多く、くしゃみが止まらなくなります。
では私はこれにて。リン少卿、また後日お会いしましょう。
チェン・チョー
あなたも下がるといい、リン・チンイェン。
リン・チンイェン
……
決院の大扉が推し開かれ、日差しが再び注ぐ。リン・チンイェンは木の影の向こうにのぞく七つの十八角形の尖塔を見た。
大理寺の文書保管庫は全てあの構造をしている。ここから見える七つの塔の先端はいずれも煙と灰に覆われているようだった。焼け落ちた南区の名残だ。
彼女が外へ出ようとした時、かすかな呼びかけが耳に届いた。
ユー・チェン
――リン・チンイェン、間もなくだ。
……ゆめ忘れるな。
リン・チンイェンは聞こえた声に些かの動揺も見せず、暖かさの欠片もない日差しの中へと一歩踏み出した。
シエ・ジェン
クシュンッ!
リン・チンイェン
シエ御史、まだいらしたのですか?
シエ・ジェン
君と話をしようと待っていたのです。中では都合が悪いですから。
もしリン少卿がまだユー・チェンをたす……ユー・チェンの事件の真相を詳らかにしたいのであれば、急いだ方がいいでしょう。
百珍宴の後、百灶に拘禁されている全ての罪人は移監されるか流刑に処されます。いずれにせよ、あと半月のうちに牢獄は空になります。
リン・チンイェン
半月……
シエ・ジェン
詔はすぐに君たちの手元にも届くはずです。私は耳敏いのでね、君に事前に一声かけたのですよ。
リン・チンイェン
シエ御史はこの件に関心がないと思っていました。
シエ・ジェン
私はひとまず無関心でいられますが、リン少卿にとってユー・チェンは単なる先輩ではないでしょう。
リン・チンイェン
大理寺において、私の師のような存在だと言えます……私が事の是非を明断できる大理寺少卿になるよう一つ一つ教えてくれたのは彼です。
汚職官吏を失脚させるために証拠を捏造した件については、道義のために手段を選ばなかったと考えることもできます……
ですが、彼が文書保管庫を焼き払うといった大逆無道な行いに及ぶなどとは、私には到底想像もできないのです。
シエ・ジェン
確かにそうですね。あの人は本当に真意が見えない……
リン・チンイェン
ところで……例年の百珍宴では、これほどの厳戒態勢がとられていなかったように思います。今年は何か特殊な事情があるのですか?
シエ・ジェン
関係者でなかったとしても、リン少卿ならば多少は耳にしていることでしょう。
年初に玉門が天災に遭い、夏には大荒城にて事変が起きました。
こうした出来事の背後にあった原因を一つ一つ考えると、その全てが一つのことを指し示しています。
リン・チンイェン
……歳獣。
この千年にもわたる因縁に、決着がつこうとしている……
シエ・ジェン
上意をみだりに量ることはできませんので、私も話せるのはここまでです。
リン・チンイェン
感謝します……
……シエ・ジェン御史、先ほどはなぜ審理を中断させたのですか?
シエ・ジェン
ああ……
「百聞は一見にしかず」と言うでしょう。人の口から出てきた言葉というのは、真偽が区別し難いものですよね。
リン少卿は、恐らく文書保管庫の火災現場をまだご覧になっていないでしょう。
リン・チンイェン
はい。
シエ・ジェン
やはり、ご自身で見に行った方がいいかと思います。
では、私はこれにて。
つい先ほどまで賑わっていた飯屋はこの瞬間静まり返っていた。
店の常連客たちはこれから起こる出来事が予測できているかのように、次々に外へと逃げ出した。ただし、誰一人お代を置いていくのを忘れる者はいないようだ。
短気な少年
ジャン、扉を閉めて。
ジャン
……はぁ。
ホァン
ん? どうしたの?
短気な少年
ジャン、彼女はこの桔紅酥(ジューホンスー)を食べたんだよね?
ジャン
そ、そうですけど……
短気な少年
お客さん、さっき私の作ったこの桔紅酥が本格的じゃないって言った?
ジャン
ち、違いますよ……このお客さんは「前食べたのと違う」って言っただけです。そう、単に違うだけだって……
(精いっぱい目くばせをする)
ホァン
確かに本格的じゃないって言ったよ、それに前食べたやつほど美味しくないってのも事実だし……
あっ、もしかして君がこの店の料理人なのかな。結構若いんだね。
小さな料理長
話をはぐらかさないで!
ホァン
ちょっとちょっと。デザートのお菓子を食べて感想を言っただけでしょ。そんなマジにならないでよ。
それにこの桔紅酥以外は、どの料理もそれなりに美味しいと思ったよ。
小さな料理長
誤魔化されないよ! 家には家の決まりがあるように、店には店のルールがあるんだ! 私の作った桔紅酥の一体どこに問題があるのかを言わない限り、絶対に帰らせないからね!
ホァン
感じたことをありのままに言っただけだってば……ここの桔紅酥は前に食べたのと味が違うんだよ!
小さな料理長
いつどこで食べたの?
ホァン
大体……十年以上前かな? ヴィクトリアにいた時に家の人が送ってくれたことがあるんだ。
小さな料理長
……
わざと嫌がらせしに来たんだね? ジャン、つまみ出して!
ジャン
ダメですって。お客さんをつまみ出すお店がどこにあるんですか……
お客さんお客さん、思い出してほしいんですけど、具体的にどう味が違ったんですか? 誤解だったりしませんか?
ホァン
そうだな~……前に食べたやつは君が作ったのよりも甘かったと思う。うん、多分君のは砂糖が足りないんだよ!
小さな料理長
桔紅酥に? 砂糖をもっと入れろだって? はははは……
どこの美食家なのかと思ったら、なーんだバカ舌じゃないか。あんたとこれ以上言い合うことはないよ、さあさあ、帰った帰った!
ホァン
バカ舌だって? 人のことバカ舌とか言ってるけども、どう見ても君の料理の腕がお粗末なだけでしょ?
小さな料理長
……!
ジャン
――!
お……終わった……
小さな料理長
私の料理の腕がお粗末?
冗談はよしてよ! 私の料理の腕は……私の――
よし。じゃあいいよ、賭けをしようじゃないか。この店から出て、街を回ってきなよ。私が作ったものより美味しい桔紅酥を見つけ出せたら、お詫びにこの店あげる!
ジャン
(小声)料理長ぉ、考え直してくださいよぉ。ダメですって……
小さな料理長
だけど、もしも見つからなかったら、窓際の卓に座って、通りに向かって百回叫ぶんだよ。
ホァン
何を?
小さな料理長
私への謝罪に決まってるでしょ!
ホァン
でも、この店をもらったところでどうしようもないよ。
いっそこうしよう。もし見つけたら、このお店の食事代一ヶ月無料にして、私にいくつか美味しい炎国料理の作り方をタダで教えて!
小さな料理長
……えっ?
ホァン
何が「えっ」なの? 炎国の古い言葉にも人に鱗獣をあげるより、釣り竿をあげようってあるでしょ。
このお店は持っていけないけど、作り方を学べば帰ってから家族や友達に振る舞ってあげられるからさ。
小さな料理長
だけど、あんたさっき私の料理の腕が駄目だって言ったじゃないか……
ホァン
ほかの料理は美味しいって褒めたでしょ。
小さな料理長
……
ま、待ってよ! それで誤魔化せると思わないことだね! 桔紅酥の件はちゃんと説明してもらわないと!
ホァン
いいよ、じゃあその賭けは受けるよ。こんなに広い百灶で、私が前に食べた桔紅酥が見つからないなんて信じないもん。
小さな料理長
ふん……
ん? 何か変な臭いしない?
ジャン
厨房の方からする気が……
ホァン
この臭いはよく知ってるよ、何かが焦げてるんでしょ。
小さな料理長
あぁ、煮込んでたスープが!
ジャン
お客さん、ほんとにごめんなさい……うちの料理長はああいう性格で。失礼なことしちゃいましたけど、悪気はないんです。なにとぞ大目に見てもらえると……
またのお越しをお待ちしてます……
ホァン
変な奴……
上品な女性
腕の良い料理人はどなたも少し変わり者だと耳にしたことがあります。
先ほどの小さな料理長も、ご自身の作った料理にあそこまでの執心がなければ、料理の腕を上げることもなかったでしょう。
お気づきになられましたか? 貴殿が頼まれた五つの豆腐料理は、料理によって豆腐の大きさと形が異なります。しかし、一皿の内に用いられている豆腐は寸分違わず同じ形に揃えられていました。
刀工一つを取っても、この域に達する厨師は百灶にいくらもいないでしょう。
ホァン
あれ、私たちの言い合いを聞いてたの?
上品な女性
はい。申し訳ございません、盗み聞きするつもりはありませんでした。
ただ、先ほどそちらの卓で料理を分け合って賑やかに食事をされていた際に、貴殿が持っていた桔紅酥ですが、あれはわたくしが注文したものだったので……
ホァン
あっ……! ごめんごめん……
私ったら何やってるんだろうね……人の料理を間違って取っちゃって、しかも喧嘩まで……
ちょっと待ってて、もう一皿頼んでくるから!
上品な女性
ふふっ、いえ、構いませんよ。
今日は元々評価のためにこのお店へ来たのです。お客様が食事を楽しんでいたのを拝見するに、あの料理人の腕もきっと悪くはないのでしょう。
ですが少し興味があります。貴殿の言う「本格的な」桔紅酥とは一体どのようなお味なのでしょうか?
ホァン
えーっと……具体的には説明できないんだよね。でもちゃんと覚えてるよ。前に家族が送ってくれた桔紅酥の方がね、確実にもっと美味しかった。
上品な女性
その点心の名は確かに桔紅酥だったのですか?
ホァン
間違いないよ!
当時、家の人が百灶に住んでて、よくこういったお菓子を送ってくれたんだよ。記憶違いなんかじゃない……絶対間違いじゃないよ。
上品な女性
そうですか……では不躾ですが――
どうかわたくしも、貴殿の桔紅酥探しに同行させていただけないでしょうか?
ホァン
いいよ! 君は百灶の地元の人だよね? ちょうど道案内がいなくて悩んでたんだよ!
でも今日は遅いから、明日の正午にまたここで会うのはどう?
上品な女性
ありがとうございます。問題ありません。
ホァン
そうだ! いちいち貴殿なんて呼ばないでさ、ホァンって呼んで。私は……えーっとヴィクトリアから来た観光客だよ。君の名前は?
上品な女性
恥ずかしながら、わたくしは普段から美食と作文を好んでおりまして。
シィンズゥ
文字書きに用いる名は「行箸散人」と申しますので、どうぞ行箸(シィンズゥ)とお呼びください。
リン・チンイェン
八方を総攬(そうらん)し、万巻に帰して蔵す。
そのような文書保管庫が……よもや灰と泥の塚となるとは。
薄暗い空間にはいまだ鼻をつく臭いが残っている。傾いた木の梁からは、汚れた雨粒が垂れ落ちようとしていた。
巻宗や綴じられた書籍が入れられていた鉄の箱は烈火でひしゃげ、紙と墨はその中で灰となり、ぼんやりとした字の跡だけが残っている。
チェン・チョー
長居は無用ですよ。火事の後に雨にあい、空気が汚れています。
リン・チンイェン
現状出ている調査結果はありますか?
チェン・チョー
人為的に引き起こされた火災だと断定はできました。
ふざけたことに、調査結果によると、火災の起きた時刻、そして火元の位置は、ユー・チェンが供述した内容と相違ないそうです。
文書保管庫は大理寺の中でも重要な場所ですから、常日頃から厳重に警備されています。それなのに事件発生前、当日の夜の警備は誰も異常に気づきませんでした。
実行犯は武術に優れているだけでなく、大理寺の事情にも相当に詳しい。そのうえユー・チェンと早くから繋がっていたはずです……
リン・チンイェン
……大理寺内部の人間だと疑っているのですか?
チェン・チョー
……今は結論を出せません。
リン・チンイェン
損害はどれほど深刻なのですか?
チェン・チョー
焼かれたのは全て古い事件に関するものですので、現在の仕事にはさして支障はありません。ただ、将来再審査をすることになっても証拠がなくなってしまいました。
これらの事件は、ほぼすべてユー・チェンが責を負っていたものです。
リン・チンイェン
チェン様、文書保管庫に火を放ったのがユー・チェンだと本当に信じておられるのですか?
チェン・チョー
……いいえ。あり得ません。
彼がどれだけ惚けようと……獄中に身を置く限り、自らの手で実行するのは不可能です。
けれど、この事件がユー・チェンと無関係だというのもあり得ません。必ずや何者かが彼と共謀しているはずです。
リン・チンイェン
しかし彼はなぜ……ここに置いてある書物は全て「汚い」と言ったのでしょう?
チェン・チョー
あなたは何を疑っているのですか?
リン・チンイェン
覚えておられますか……当時、ユー・チェンが退官する前に調査していた最後の事件を。
チェン・チョー
……忘れる方が難しい。
四十年前、刑部尚書が路上で刺殺された事件ですね。犯人は気がおかしくなった老いた浮浪者でした。
大理寺はあらゆる手段を使い、下手人の身元を調査しましたが、何も収穫はありませんでした。
この事件は最終的に衝動的な殺人行為として結論付けるしかなかった。
リン・チンイェン
しかしそれから三十年近くが経ち、ユー・チェンは……当時の礼部尚書であった寧述(ニン・シュー)が事件の犯人であると指摘しました。
チェン・チョー
私はユー・チェンと長年仕事をしてきました。かつての彼が一体どういった人物であるかは、よく知っています。
しかし彼が大理寺にいた最後の数年、私は彼が理解できなくなっていました。
彼は感情的になり、私情に囚われ、調査をする際も手段を選ばなくなっていました。挙句の果てにまるで理屈の通らない証拠を持ち出して、かつての事件を掘り起こしてきた。
リン・チンイェン
もし本当に理屈が通らない指摘なのであれば、あの時ニン尚書はなぜ辞任したのでしょうか?
チェン・チョー
つまり?
リン・チンイェン
グー・チュエンという人を……覚えておられますか?
リン・チンイェン
グー・チュエンが、宣礼使としてヴィクトリアへ向かう途中で亡くなったことがきっかけです……
ユー・チェンはニン尚書が刑部尚書を殺害しただけでなく、三十年後にあの事件の鍵となる参考人も殺害したと考えています。
チェン・チョー
それこそがふざけている点でしょう。あの宣礼使は官職に就いて数年と経っていませんでした。なぜ三十年前の事件と関係があると?
そのうえ彼はヴィクトリア辺境付近で川に落ちて死亡しています。死因はこれ以上なく明確です。はるか遠くの百灶の礼部尚書がどのように手を下せるというのですか?
リン・チンイェン
ではグー・チュエンの死に関して、大理寺が記録する文献は……
チェン・チョー
あなたの目の前の、この塵と灰の山のどこかにあります。
リン・チンイェン
……
チェン・チョー
なぜその二つの事件について言及したのですか? いずれも大昔のことですが、あなたはその事件が文書保管庫の火災と関係していることを疑っていると?
リン・チンイェン
臆測にすぎませんが……
ユー・チェンが自首をして注意を引きつけているのは、火災の背後で何者かが更なる謀略を巡らせているからでしょう。問題は放火の実行犯が誰かだけでなく、その犯人の目的……
この事件は私に任せていただけ――
チェン・チョー
なりません。
リン・チンイェン
なぜです!?
チェン・チョー
ユー・チェンは審理の記録の作成者としてあなたを指名しました。これが今あなたがここに立っている原因であり、これ以上関与させられない理由でもあります。
ユー・チェンにどんな計略があるにせよ、あなたは必ずその中に組み込まれているんです。
ユー・チェンを師のように思っていたのは知っています。晩節を汚す様を見るのは忍びないでしょう。しかし火災の調査は他の者に任せます。必ず結果は出るので安心してください。
リン・チンイェン
では彼がかつて調査していた事件はどうするのですか?
チェン・チョー
忘れなさい。
あなたが何を調査したいにせよ、今は相応しい時ではありません。
リン・チンイェン
それはまたなぜ……
チェン・チョー
リン・チンイェン、あなたは大理寺の少卿であって、地元の警官ではありません。あなたの扱う事件は全て、一人の人間や一つの事柄に影響するだけには留まらないのです。
あなたの思う正義の行いが、邪心を抱く者が握る小刀になる可能性は十分あるのですよ。
リン・チンイェン
……
この事件が、背後で何に関わっているかは知っているのですね?
チェン・チョー
ユー・チェンの事件から手を引きなさい。これは提言です。どうか命令にさせないでください。
最後に一つ忠告しておきます……
時勢を見ることを学びなさい。過去のことが今現在のことよりも重要であるなど、永遠にあり得ないのです。
年若き大理寺少卿はいまだその場に立っている。
前に来た者が作り出した道に沿って、彼女は傾いた梁の下を歩く。馴染み深い書類はかつてそこに置かれていた。
リン・チンイェン
放火犯の目的は明確です。これらの書類を二度と他人に見られたくなかったことにほかならない。
チェン・チョー様の言うユー・チェンが偽計を弄していようがなかろうが、二つの事件が唯一残す手がかりは、いずれもニン・シューを指しています。
しかし礼部尚書ともあろう者が、一体どんな理由で、自分と同じ一品の位にある官吏に容赦なく手を下したのでしょう?
彼女は身をかがめ、焼け落ちた棟木をどかすと、灰の中から翡翠色が現れた。
一本の松の木、その葉は針のよう。
リン・チンイェン
ユー・チェン、まさか……
ユー・チェン
この松の木は私が百灶に赴任する前に、この手で植えたものだ。
私が死んだ時、お前がこの木を切り落とせ。この木で私の棺を作ってくれ。
ユー・チェン
リン・チンイェン、間もなくだ。
……ゆめ忘れるな。
ジャン
今月の水道代は二千、電気代は二千五百、食材は……
小さな料理長
ちょっとちょっと。勘定するなら向こうでやって、私の耳元でぶつくさ言わないでくれるかな。
ジャン
計算したところ……あと三千だけ何とかしてくれれば、この店が今月潰れることはないですね。
小さな料理長
どこにそんな金があるっていうんだ……
ジャン
方法ならありますよ。東家の王(ワン)大工は二ヶ月分のツケがあるし、西家の劉(リュウ)番頭からも先月やった葬儀の宴席の後払い分をもらってません。
こういった細かいツケを適当に集めるだけでも今月は乗り切れるでしょう。
小さな料理長
それは……あんまり良くないでしょ……
ツケにするお客さんはきっと何かしら困ってるんだから……返してくれって言いづらいよ。
ジャン
あーもう、これだから! お人よしを演じるなら、どうして毎回家賃の取り立てが来た時に僕が相手をしなきゃいけないんですか?
小さな料理長
ジャンは体がでかいからね! 相手がどれだけ怒ってきても、喧嘩にはならないんだよ……へへ。
ジャン
はぁ……もう一つ方法がありますよ。
はいこれ。鼎豊楼の人が今日も大会の招待状を届けに来ました。
鼎豊楼は百珍宴に備えて、料理人を募集してます。選抜大会の審査に合格すれば賞金だけでも相当な額がもらえます。それが手に入ったら、来年の家賃の心配もいらなくなりますよ。
小さな料理長
嫌だ! 絶対行かないからね!
私だってこの「余味居」の店長なんだぞ! 料理長なんだ! 人様のところに仕事に行くなんて、そんなの恥さらしじゃないか!
ジャン
ただの人様じゃないですって! 鼎豊楼の総料理長は弟子を一切取りませんが、そんじょそこらの厨師じゃ歯が立たないほど腕は確かです。彼の所で働きたいのに機会がない人がどれだけいるか!
それに百珍宴の料理も作れるんですよ。毎年百珍宴で出された料理は全部記録されて後世に伝えられるんです。これは多くの料理人の一生の夢なんですからね――
小さな料理長
そんなの行きたい奴が行けばいいんだ、私は行かない。
ジャン
……まさか怖いとかじゃないですよね?
小さな料理長
誰が! 怖がってるのはジャンだろ! ジャンの怖がりめ!
ふんっ……何が百珍宴だよ。どうせ爺さん婆さんが仏頂面で会議をする場所でしょ。
みんな政治のことでいっぱいで、舌を味わうために使う人なんていないよ。そんなの何の意味もない。
ジャン
随分と大きな口を叩きますね、まるで行ったことがあるみたいに。
小さな料理長
宴席の料理なんて山ほど作ったことあるよ。あんたは知らないだろうけどね。
ジャン
あれもダメこれもダメって、じゃあもうこのお店は潰れちゃえばいいんじゃないですか!
あーやだやだ、こんな店長に出会っちまったのが運の尽きですよ。さっさと別の道探さないとなぁ。
小さな料理長
まあまあ、たった三千ぽっちでしょ、月末まで毎日出前を多めに受ければ足りるって。
ジャン
はぁ……まったく。料理人として有名になろうとしないし、店長として店を大きくしようともしない。一体何のためにこの飯屋を開いたんですか。
小さな料理長
ご飯を食べたい人がいるなら、誰かがご飯を作らないといけないでしょ。私の料理を食べたい人がいるなら、この店はやり続けないといけないんだよ。
それに、待つって約束したお客さんはまだ来てないんだ。この店を潰すわけにはいかないよ……
ジャン
待つ待つって、ずっとそう言ってますけど、一体誰を待ってるんです?
小さな料理長
まだその時じゃないんだからね。料理だって材料を入れるタイミング、それと火加減っていうは誤っちゃいけないんだ。焦っちゃダメだよ。
焦っちゃダメなんだ……
ホァン
どういうこと、なんでどのチャンネルも受信できないの。ニュースが見たいのに……
おっ、おかえり。
リン・チンイェン
……ええ。
ホァン
何か分かった?
ご飯を包んでもらってきたよ。今日は街で小さい料理屋を見つけてさ、料理人は気の短い人だったんだけど、腕が結構良かったんだ。
そうだ、もう一つ面白いことがあるよ。ずっと昔に親父が送ってくれたことのある点心を見つけて――
リン・チンイェン
……誰が勝手に部屋を出ていいと言ったのです?
ホァン
え?
うそでしょ。もう三日連続で出前なんだよ。近くのお店にご飯食べに行くのもダメなわけ?
リン・チンイェン
何度言えば理解するのですか! あなたは重要な参考人で、状況も大変危険なのです! このことを本当にきちんと分かって――
ホァン
レイズ! それって理不尽じゃないかな? 最初の約束三箇条の中に、外に出ちゃいけないなんてなかったよね?
私はロドスで楽しく暮らしてたのに君が突然訪ねてきたんでしょ。親父の死には疑わしい点があるとか、思わせぶりに言ってきたくせに具体的なことに関しては何も話そうとしないし。
やっと親父が昔住んでた百灶に来たのに、相変わらず何も教えてくれないじゃん! 毎日毎日私をこの狭い部屋に閉じ込めておいて、そのうえ当たり散らす気?
リン・チンイェン
そういうわけでは――
……申し訳ありませんでした……あなたに怒りをぶつけるべきではありませんでした。今の状況は当初想定したものと少し異なっているのです。
ホァン
どんな状況なの、私に手伝えることはある?
リン・チンイェン
分かりません。我々が百灶に到着する前に、ここでは予想外のことがたくさん起きています……
私の力になりたいのであれば、ここしばらくの間、危険に身を置かないようにしてください。
あなたの父の件については……数年前に偶然知ったのです……
元々は私の信頼する先達が調査していた事件でした。あなたの父は生前に何年も費やして、とある真相を追い求めていたようなのです……
彼の死には疑わしい点があり、どの手がかりも事件の背後には、大きな背景が存在することを指し示しています。ですが具体的にどれだけ大きいものなのか、今でも分からず、想像すらできません……
そしてあなたの存在それ自体が、最も鍵となる証拠なのです。
ブレイズ、約束しましょう。必ず真相を詳らかにします。一切が明らかになった時、全てをあなたに説明します……
ですがそれまでは信じてほしいとお願いするしかありません……私にはあなたの協力が必要なのです。
それで今、お父上がどうされたとおっしゃいました?
ホァン
親父が昔送ってくれたのと同じ点心を食べたんだよ。
リン・チンイェン
それで?
ホァン
食べたのが昔すぎるせいかは分からないんだけど、記憶してた味とは違ったんだよね。
こういうのって、炎国のことわざで「物は是にして人は非なり」って言うんだよね?
いや違った、物が変わって人もいなくなっちゃったのか。「人と物と皆非なり」が正しいかな。
リン・チンイェン
あるいは……「時移れば世易(か)わる」ですね。
時があまりにも多く過ぎ去った後、再び過去の痕跡を探すのは、どれほど難しいことでしょうか。
ホァン
でも、これは私が百灶見つけられる数少ない親父と関連のあるものだよ。
母さんと一緒にヴィクトリアで暮らしてた時、親父がたまにものを送ってくれたんだ。
あの時の私は、自分が病状を抑えて、理想をきちんと固める頃には親父もとっくにヴィクトリアに戻ってきてると思ってた。私の帰りを待ってくれてるだろうって無邪気に信じてたよ。
誰だってそういう結末を願うもんでしょ……
でも、本当に鉱石病を治療できる場所を見つけて、ウサギちゃんたちと一緒に色んなことを成し遂げた時には、親父はとっくにこの世からいなくなってた。
君が私の所に来るまで、親父は事故で亡くなったんだと思ってた。辛かったけど、どうしようもないことだって思ってた。
だけどもし親父の死に何か裏があるなら、それは全く別の話だよ。
私は真相を知りたい。親父のために、そして自分のために納得のいく答えを出さないといけない。
リン・チンイェン
……
実を言うと、あなたの父の件については、私の知り得ることには極めて限りがあります。かつての資料は多くが失われ、そこから取り出せる情報はごくわずかです。
彼が残した資料から判断するに、あなたの父は礼部にて十数年ほど奉礼郎として勤め、出世できなかったようです。この点から、彼は官吏に向いていなかったことが推測できます。
ですが、このような小さな官を十数年続けられたということは……彼はきっと良い人だったのでしょう。
ホァン
良い人か……良い人でも同じように死んでいくんだよね。
大理寺少卿は窓辺に向かい、目を閉じ、両のこめかみをもんだ。
遠くの賑やかな明かりが暮色の中でちらつく。漂泊の時代はすでに彼方へ過ぎ去った。
現在の人々は一つの生活からもう一つの生活へと向かい、都市は彼らのために道を指し示す。そして彼らに続いて駆け続ける。
多くの境界が曖昧になり、多くの壁が大通りへと変わり、人々の慌ただしい歩みがレンガの道を踏み越えていく。誰しもが、その過程で名を残す資格を持つわけではない。