勝肉火方
ニン・シュー
友達はもう帰ってしまったのか? 夕飯を食べていってもらえばよかったろうに。
ニン・イン
はい……彼女にはほかに用があって、長居できなかったようです。
ニン・シュー
そうか。お主は幼い時分から友達を家に招いたことはなかったのでな。初めてのことであるから、その友達と顔を合わせてみたいものだと思っていたのだが。
ニン・イン
もしかしたら、友達とは呼べないかもしれません……
気を落とすニン・インを見て、老人は何か言おうとしたが、ついに口を開くことはせず、ただ手を伸ばして彼女の肩に落ちていた葉を払い落とした。
ニン・シュー
ここを発つ日も近いが、お主にはまだ心残りがたくさんあることだろう。
ニン・イン
……お爺様もですか?
ニン・シュー
はは、少し前までは早く帰りたくて仕方なかったが、いざ本当にここを離れるとなると、草木一本一本を見ているうちにまた名残惜しくなってのう。
覚えているか? 昔はこの東屋で砂を敷き、棒を拾って、一画一画お主に字を教えたことがあっただろう。
あの時お主は、翌年この屋敷で慶事の際に門柱へと貼る対聯(ついれん)は、全て自分が書くと言っていた。二ヶ月付き合ってやったが結局練習は続かなかった。
だが蓋を開けてみれば、明くる年、お主は本当に対聯を贈ってきたな。
「花は好(みめよ)く月は圓、食すること飽くるを得、天は長(とこしへ)に地は久しく……
ニン・イン
そんなことを、まだ覚えていらしたんですね。
ニン・シュー
忘れられようか……また中秋の時節が巡ってきたな。時が経つのは本当に早いもんじゃ。
こうして、じじとまごで話すのも随分と久方振りじゃったか?
ニン・イン
……ええ。近頃わたくしは家を留守にしておりましたし、お爺様も来客の対応でお忙しかったので、会う機会も少なかったですから。
ニン・シュー
此度の一家を挙げての離京は、随分と苦労をかけるな。
じゃが琅珆に戻れば煩わしいことなど何もなくなる。道すがら四方山話をする時間も大いにあるじゃろう。
お主がずっと心血を注いでおった本も、ようやく完成かのう?
ニン・イン
……
お爺様、わたくしは……お爺様と共に琅珆へは戻れないかもしれません。
ニン・シュー
……いつ、そのように決断をしたんじゃ?
ニン・インは微かに首を横に振り、数歩後ずさった。
ニン・イン
お爺様の此度の帰郷は、葉の落ちて根に還ることですから、自然極まりないものです。家の者もそれは皆よく承知しております。しかし遠く離れた地への旅立ちでは心残りが生まれるのもまた道理。
ニン家は炎国を支える重要な人材を輩出し、皆さんがこの国にとって欠かせぬ務めを果たしております。そうなると、お爺様の帰郷に付き添う者としては、わたくし以上の適任はいないでしょう。
考えてみれば、わたくしも元々は琅珆の遠縁の孤児であり、お爺様の情けのおかげで、このニン府にて数十年暮らすことができた身です。
今琅珆へ向かうことは、わたくしにとっても両親が生前住んでいた場所へと帰ることです。
ニン・シュー
あの時お主が自ら付き添いたいと申し出たのは……そうした考えがあってのことか?
ニン・イン
……はい、元々はそう考えていました。
合理的で、反論すべき点もないような考えですから、あと少しで自分もこれに身を任せてしまうところでした。
ですがここ数日、『百灶食珍録』の仕上げのために、わたくしはこれで最後だと惜別の挨拶をする思いを抱いて再び百灶中を巡りました。
……そこで気付いたのです。わたくしの記憶は、この都市にまつわるものばかりだと。
庭のあの柿の木がいつ植えられたか、どの時期の果実が最も酒造りに適しているかを、わたくしは覚えています。
街のあちこちにある料理屋の料理人たちがどのような性格で、同じ料理にどれだけの異なる調理法があるか、それもわたくしの頭にはハッキリと入っています。
百灶を巡る中で、ニン府の屋敷よりも、この都市の方がわたくしの家であると気付いたのです。
ニン・シュー
はぁ……
……わしのせいだ。お主の考えを、もっと早くに聞いてやらんかった。思い返せば近頃は全てわしの一存で決めていた。
ニン・イン
お爺様。お爺様は、わたくしの唯一の家族です。
申し出た時には確かにお爺様と共に故郷へ帰りたいと思っていました。今、百灶に残ると固く決めたのも……お爺様が理由です。
ニン・シュー
わしが?
ニン・イン
……はい。
太史閣に入ったばかりの頃、史書の編纂に携わった時にどうしても理解できないことがありました。
炎国数千年の歴史において、ある時点から突然文字の使用が広くすすめられ、教育が普及し始めました。いくつかの研究用の碑文も、その時代にまで遡ることができます。
わたくしは、こうした変革を推進した方があの当時必ずいたと考えています。しかしほぼ全ての資料に目を通したのにもかかわらず、僅かな手がかりさえ見つかりませんでした。
わたくしは不思議な感覚に捉われているのです。炎国の史書から、誰かが欠けているようでなりません。
ニン・シュー
……
ニン・イン
そんな時、とある棋院にて奇妙な方に出会いました。彼はわたくしに「その人」のお話を語ってくれたのです。
初めは、彼のことは訳の分からないことを言う講談師だと思っていましたが、その後の研究を続けるうちに、彼が語ったお話がどれも真実であるという証が次々出てきたのです。
彼の語る「彼女」は優しく、民草のために多大な心血を注いだ方でした……なぜそのような善人が、史書に名を残すことなく終わったのでしょう?
その時、ようやく思い至りました。史書とは容器ではなく、ふるいなのだと――残せる物語は、限りなく少ないものなのだと。
お爺様……わたくしはお爺様の物語を記録したいのです。しかし、振り返ってみて気づきました。数十年を共に過ごしてきたというのに、わたくしはお爺様が……
お爺様がどういう人物であるのかを、文字にすることができないのです。
ニン・インがようやく顔を上げ、老人の目を真っ直ぐに見つめる。
彼女は老人からの答えを待った。彼女が口に出していない疑問に答えが与えられるのを期待した。
彼女は、長く待った。
大理寺官吏A
物音よ!
大理寺官吏B
どこだ?
大理寺官吏A
うっ……何か聞こえた気がするんだけど。
ここ数日奇妙な事件が続いてるせいで、いつ誰が飛び出してきて問題を起こすか分からないって気を張ってるせいかも。
大理寺官吏B
ここは大理寺だぞ、押し入ってくる愚か者なんてどこにいる?
訳の分からんことを言ってないで、この見張り番が終わったらさっさと帰れよ。
ホァン
まずは正面から入って、通報に来たって言って、そしたら待合室に行く途中で各階の地図を見つける。
昨日のあの待合室の窓は北向きだった。大理寺の正門は南向きで背後には高い壁がある。
リン・チンイェンの執務室は三階にあるから、窓から出て、消火管を伝って登れば気づかれないはず。
見つけたら、*炎国スラング*まずは一発お見舞いしてやる……!
誰!?
ホァン
レイズ!?
リン・チンイェン
ホァン!?
なぜあなたがここに!?
ホァン
君を連れて帰りに来たんだよ!
着替えたの? 官服は?
リン・チンイェン
大理寺を辞めました。
宿に戻ってあなたがいないのを見て、何か愚かなことを仕出かすのではないかと思いましたが、悪い予感ほどよく当たるものです。
……場所を変えて話しましょう。ついてきてください!
リン・チンイェン
つまり、長年の間グー・チュエンはずっとニン府にいたということですか?
どこからそのような情報を……
ホァン
気にしなくていいよ。それよりもこれが一体何を意味するか、はっきり教えてくれないかな。
リン・チンイェン
ニン尚書はグー・チュエンの一件に想像していた以上に深く関わっているようです。以前の彼の証言は明らかに何かを隠しています。
初めは彼が殺人の実行犯だと疑いましたが、モー・ブフーの証言通りグー・チュエンがかつての事件の冤罪を晴らそうとして死刑囚監獄に入り、ニン・シューがそんな彼を救い出した人物であれば……
ニン・シューにはグー・チュエンを殺す動機がありません。
そして、最も重要なことですが……ユー・チェンが早くからグー・チュエンと接触していたことはこれまでどこにも話が出てきませんでした。
この一連の出来事の背後にある繋がりは、私が想像しているものよりも複雑なのかもしれません。
ホァン
親父が、当時一人で百灶に戻ってきたのは一体何のためだったんだろう。やっぱりそこが気になる。
リン・チンイェン
はい、それこそ鍵となる問題です……
(ホァンはヴィクトリアに来る前、そして炎国に帰った後の父の人生を何も知らない……彼が当時の事件に巻き込まれた人物なら、なぜ十数年後に百灶へ戻り、自らを渦中に置くような真似を?)
(ニン・シューの立場、ユー・チェンの画策……これらの問題については糸口が掴めないままだ。)
(それに、どうやってホァンに伝えるべきか……)
ホァン
ねぇ、なんでまた何か言おうとしてやめた顔してるの?
それで私たちはこれからどうする?
リン・チンイェン
ホァン、昨日の件ですが……
ホァン
いいって。君たち「責務を負ってる」人って、何かというとおかしなことをするもんだし、一々言い争うのも面倒だよ。
もう二度と私の安全のためとか、一人で帰れとかバカなこと言わなければ――
リン・チンイェン
……
ホァン
なんで黙るの。まさか、まだ私を追い返すつもりでいる?
リン・チンイェン
ホァン、信じてください。この事件に関しては必ず徹底的に調べ上げます……ただ、あなたがこれ以上百灶にとどまることはできません。
前にも言ったように、数日のうちに百灶を去り、まずは龍門の事務所に向かってください。そこでも長居はせず、準備が整い次第即刻出発して迅速に炎国から離れて――
ホァン
絶対に嫌だ。
リン・チンイェン
私が調査を続けると信じていないのですか?
ホァン
それは信じてるよ。でも今の君は役職っていう後ろ盾もないし、地位もないでしょ。一人でどうやって調べるの?
リン・チンイェン
……どうにかします。
ユー・チェンは官吏の職を辞しても裏で調査を行えました。なら私も――
ホァン
一つアイディアがあるんだ。
もう徹底的にやっちゃおうよ。
リン・チンイェン
……どうするつもりですか?
ホァンが衣嚢から手紙を取り出した。
それはかつてモー・ブフーが彼女に与えた機会であるが、今となっては二人にとってまたとない機会と言えた。
ホァン
どうせそこら中を駆けずり回っても結果は出ないんだしさ。
いっそのこと百珍宴に行って、真龍に直接聞いちゃおうよ。
太傅
陛下、こちらが礼部の用意した百珍宴に出席する官吏の名簿です。
佳節を迎え、ヴィクトリア、リターニア、ラテラーノなどの国々も祝いの言葉を述べに使節を送り込んで参りました。
お目通しいただけますと幸いです。
太尉
ごほごほ……ごほごほごほっ……
陛下……兵部はすでに司歳台と協力して穴のない作戦計画を策定いたしました。
どうか……ごほごほ……お目通しのほどを。
太傅
作戦にて消耗する人的資源や財源、戦後復興等の諸事について戸部との協議がなかったが、この作戦計画はいかにして策定したのか?
太尉
太傅と戸部が多忙であるのは存じておりますのでな。兵部はさらに配慮し、この戦争にて用いる人的資源や財源、食料、ひいては戦後復興の工部の出費、全て我々の方で計算しました。
ちょうど陛下の御前ですからな、太傅も共にご覧ください。
太傅
財源や食料は計算できるが、戦事が起きた際、炎国の民がどれだけの血を流すか、それも計算するに値する勘定だと言うのか?
太尉
太傅は計算できないものであれば、しなくてよいとおっしゃりたいので?
太傅
……
太尉
……
帳の後ろの声
秋だ……今年の北方の収穫やいかに?
太傅
あの災害後、大荒城の地は回復し収穫も可能となっています。今年の収穫は、ここ数年と大差ありませぬ。
帳の後ろの声
では……来年は?
太傅
陛下……
帳の後ろの声
生年百に満たざるに、常に千歳の憂いを懐(いだ)く……しかし時間はさしてない。
太傅
事は炎国万民の暮らしに関わります。陛下、どうかご深慮を。
太尉
太傅、議論すべきことはとうに内閣六部にて何度議論したか分からぬほどです。決断せねばならぬ時は来るものです。
陛下は、すでにお心を定められたのですから、百珍宴にて陛下の宣言を待てばよいでしょう。
太傅
……
帳の後ろの声
空は暗くなり、間もなく雨が降りそうだ。
……二人とも下がるがよい。
太傅&太尉
失礼いたします。
幕の向こうの人物が見上げる――
空っぽの宮殿。高座のそばには、三つの席が並んで置かれ、真ん中の椅子はすでに古びていた。
かすかな嘆息が一つ。
ジャン
おっとっと……急に雨が降ってきた、びっしょりだよ……
秋雨が降るたびに寒くなってくるなぁ……あと数日もしたら、新鮮な野菜が食べられなくなりそうだ。今年の冬服の準備もまだ出来てないってのに……
料理長、今年の冬野菜は早めに備蓄し始めた方がいいですよ。倉庫の中の散らかったものをさっさと――
料理長……?
ホァンさん? シィンズゥさん? どこ行ったんだろう……?
普段は賑やかな厨房だが、今は誰もいない。調理道具もきれいに整頓され、窮屈だった空間ががらんと広く感じられた。
竈の上のスープが入った鍋だけがぐつぐつと音を立てている。
ジャン
……