巻頭の序文

ラフシニー
(小声)……ごめんなさい。
あの、少しいい?
友好的な住民
あっ、リード! さっきは突然いなくなったから、てっきり私たちのおもてなしに何か問題でもあったのかと思ってたわ。
ラフシニー
……ううん、そんなことないよ。招いてくれてありがとう。さっきは急に用事を思い出しちゃっただけなんだ。それで、少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな?
友好的な住民
ええ、いいわよ。
ラフシニー
キミは、自分の身体に炎が灯っていることは知っている?
友好的な住民
炎? もしかして祝福のこと? 変わってるわね、あなたには他人の中の祝福が見えるの?
住民は自分の腰に手を伸ばした。
沼地に立ち込める黒い霧を払うべく、ターラー人の祖先はアーツで灯した小さな炎を腰から吊るしていたという。
そうしたしきたりは、ターラーがヴィクトリアの完全な支配下に置かれてからは厳しく禁じられていた。
時代が変わり、もはやヴィクトリアの禁令など気にせずに済むようになったターラー人――中でもナ・シアーシャの人々は、腰から小さな源石式ランプを吊るすようになっていた。
友好的な住民
ほら、今は燃料不足でしょ。だから源石式ランプは灯せないし、夜間外出禁止令が出ているから灯す必要もないの。だけど……こうすれば……
ラフシニー
あの人の炎で……ランプに色が灯っている……
友好的な住民
最近、街の人がランプに火を灯すとこの色になるのよ。違う色になるはずの部品に換えても、色は変わらなくてね。
ラフシニー
不安にならない?
友好的な住民
見ての通り、今のナ・シアーシャはすべてが良いほうに進んでいるから、これはきっと赤き龍の祝福だと思うのよ。ほかに説明のしようがないもの。
ラフシニー
それでも――
「それでも」?
それでも、一人の考えなしな帰還者が、「その炎は不吉なものだ」と教えたところでどうなるだろうか。きっと信じてはもらえないだろう。
それより、もっと直接的なアプローチのほうがかえって上手くいくかもしれない。そうであってほしい、とラフシニーは内心祈った。
ラフシニー
私も「赤き龍の祝福」を感じてみたいのだけど……キミの手を握ってみてもいい?
友好的な住民
あなたはこうして街に戻ってきたことだし、そのうち授かると思うけど。
ラフシニー
お願い、少しだけでいいから。
友好的な住民
まあ、いいわよ。ターラーまで戻ってくるのも大変だったでしょうしね。
そういえば、あなたって何の仕事をしているの?
ラフシニー
私は……少しだけ医術の心得があるんだ。アーツでそれを補助して使ってるっていうくらいのものだけど。
友好的な住民
ああ、お医者さんだったのね。ちょうどよかった、この街にはお医者さんが必要なのよ。
はい、握手しましょう――
ラフシニーは女性のタコができた手をぎゅっと握ると、自分の手首から相手に向けて炎を広げていった。
ラフシニー
ありがとう……
彼女は目を閉じた。
そして、思い出していた。かつて自らの手で苦しみをやわらげ、この世から解放してきた人々のことを――
そうして、その冷たい炎を温めた。
友好的な住民
うっ……
紫の炎が次第に薄れていく。その下からは、青白く、友好的な微笑みをたたえた顔が次第にはっきりと見えてきていた。
そのまま紫色の部分をさらに取り除こうとしたラフシニーは、女性の表情の急な変化に気付いていなかった。
友好的な住民
そんな、私の――
私の手が――手の感覚がないわ……!
ラフシニー
えっ……!?
「霊の守人」
リードさん!
ラフシニー
キミは、「霊の守人」……
「霊の守人」
まずはそちらの可哀そうな女性を放してあげてくれませんか。
ラフシニー
でも、私は――
「霊の守人」
(首を横に振る)
そちらの方、困らせてしまってごめんなさい。
リードさんには悪意はないのです。私が保証します。
友好的な住民
でも、彼女はお医者さんなのよね。どうしてそんな人が……
「霊の守人」
アーツを用いた医術では、時として副作用が出てしまうものなんです。見てください、あなたの手は何ともないでしょう?
友好的な住民
だけど、まだ感覚が――
「霊の守人」
大丈夫ですよ。
はぐれ者の守人は手を上げると、怯える女性の額を温かい手のひらでそっと撫でてやった。それは何ということのない行動だったが、女性は次第に落ち着いてきた。
友好的な住民
ええ、そうよね、あなたを信じるわ。私の手も、祝福も、まだここにあるものね……
「霊の守人」
もうすぐ日が暮れますし、早めにお家に戻られては。
リードさんも、もう一つの宴に出席されるご予定でしたよね?
ラフシニー
宴?
……うん、そうだね。
「霊の守人」
では、今からそちらにお連れしましょう。
ラフシニー
……
「霊の守人」
……
ラフシニー
キミが帰ってきたってことは、モランたちのほうは落ち着いたの?
「霊の守人」
ええ。あの方たちは、遺跡から少し離れた外縁部に滞在することになりました。今頃は、その辺りにある使われていない小屋を掃除していると思います。
ラフシニー
ありがとう。
「霊の守人」
お気になさらず。それと、よろしければ私のことは「ネモス」と呼んでください。今の私は、本来の霊の守人とはかけ離れた仕事をしていますしね。
ラフシニー
わかった、ネモスだね。ところで、さっき言ってた宴って……何の宴なの?
ネモス
数日後に行われる、ダブリン主催の祝賀会です。幹部は全員出席する予定で、エブラナ殿下もいらっしゃいますよ。私は今、その準備をお手伝いしているところなんです。
ラフシニー
祝賀会? 街の人たちがジャガイモを「肉のシチュー」や「焼き鱗獣」と呼んで食べてるこんな時に?
……
ネモス
とはいえ、ダブリンも街の状況はわかっていますから、宴と言っても食べ物や飲み物を特別に用意するようなものではありません。
もちろん、私は誰かを擁護しようとしているわけではないですからね。単に、ダブリンはターラー人を省みないような真似はしないと信じているんです。
っと、そろそろ行かないと。すみません、お先に失礼しますね。
ラフシニー
随分急いでたみたい……
紫の炎を直接取り除くとパニックを起こさせてしまうようだから、それならたとえば、みんなに気付かれないようにこっそり――
背後からの声
望みの物を手に入れよう、とでも?
ラフシニー
誰?
気高い赤き龍が振り返ると、そこには紫の炎を纏った人物がいた。
いや、街の人々が炎に「侵されている」のだとすれば、その人物はもはや紫の炎の塊とすら言えるものだった。その炎は激しく燃え盛る様子こそなくとも、その周囲の光さえ歪めているように見えた。
「放逐王」
残念だが、お前が求めるそれは退屈極まりないものだ。
ターラーの炎が色づいたことは、変えられない事実なのだから。
ラフシニー
炎のことを知っているんだね。
「放逐王」
偶然にしてな。
ラフシニー
それなら、知っていることを教えてもらえないかな。大切なことなんだ。
「放逐王」
私が? 何のために。
ラフシニー
みんなが紫の炎に飲まれていくのを止めないと。
「放逐王」
そうして、代わりにお前の炎を植え付けると?
ラフシニー
街の人たちの安全が保たれるのなら、何色の炎だろうと構わないでしょう。
「放逐王」
その高尚ぶった戯言には懐かしさすら覚えるな。お前の言い訳はお粗末すぎて笑いが込み上げてくる。
ラフシニー
あなたと姉さんの間には……何か関係があるの?
ラフシニーが一歩踏み出すと、彼は一歩後ろへ下がり、距離を保つようにした。
「放逐王」
関係か。お前も、お前の姉も、私も、本質は同じだ。権力を、争いを、殺し合いを渇望している……
我々は皆、これから起こることに胸を躍らせ、そのすべてを炎で焼き尽くすのが待ちきれないとさえ思っているのだ。
だが、今回私は降りさせてもらおう。そうして、この巣が炎に包まれるその時まで、お前たち二人に声援でも送っておくとしようか。
ではな――
ラフシニー
待って!
赤き龍は命の炎で檻を編み上げようとしたが、檻が形を成す前に、男は風に吹かれて消えていた。
炎はほんの一瞬、その人物の長い尾を照らすばかりで……
そのまま無に帰した。
憂いげな住民
失礼いたします。
「官僚」
君か。こんな時間に何の用だ?
また自分の食料品店で起きた問題を解決してほしいだなどと言うつもりはないだろうな。君は私の部下ではなく、あくまで「取引先」なんだぞ。わかっているのか?
憂いげな住民
はい、承知しております。
「官僚」
ならばいい。実は都市の外へ運び出してほしい荷物がまだもう少し残っていてね。すぐにここを出て、外出禁止時刻になる前には戻ってきたまえ。
憂いげな住民
すみません、その件についてお話が――
「官僚」
その件とはどの件だ?
憂いげな住民
以前街から運び出した穀物のことです……あなたはあの時、「市内の食料供給には影響しない」と仰いましたが、今では皆ジャガイモだけしか食べられない状況になって……
「官僚」
君はターラー内のほかの地域がどうなっているか知らないのか? 彼らはそのジャガイモにすらありつけていないんだぞ!
ナ・シアーシャの農業生産量は高水準に達している。今はこの非常時に合わせた柔軟な対応をすべき時だ。我々は同胞を救っているんだよ。
それに、君は前回大麦を車何台分か運んだだけで、どれだけの利益を得たと思っている?
憂いげな住民
……
「官僚」
百歩譲って君の言うことに一理あると考えても、ナ・シアーシャの人々は飢えているわけではない。少なくとも、ジャガイモで腹を満たせているだろう。
ましてや、農地はもうすぐ収穫を迎える時期だ。そうなれば食料は山ほど手に入るだろう。私はむしろ、君の店が在庫を抱えないか心配なくらいだ。
とはいえ、私も無理強いする気はない。どうしても気が引けると言うのなら、経営許可証を誰かに譲り、店を畳むといい。
憂いげな住民
そんな、それではどう生計を立てれば……!
「官僚」
先ほども言った通り、君は私の部下ではないんだぞ。ただの取引先の食い扶持まで、なぜ私が気にしなければならないんだ?
もう行け、後ほど許可証を出して―
憂いげな住民
お、お待ちください! ご要望通りにいたします!
「官僚」
フンッ。
憂いげな住民
あの……
「官僚」
何をぐずぐずしている?
憂いげな住民
もう一つ伺いたいことがあるんです。友人から聞いた話ですが、森の黒い霧が近頃……
「官僚」
まったく、黒い霧のことまで君に指摘してもらわねばならないようなら、私はとうにお役御免だぞ。
いつも通り、街を出た後は迎えの者が現れる手筈になっている。後のことは気にする必要はない。さあ行け。
慌ただしい兵士
「官僚」様。
「官僚」
どうした? 今朝「将校」が巡回に来た時にでも、何か言われたのか?
慌ただしい兵士
いえ、「将校」様は今朝はおいでになりませんでした。リーダーのご命令で、別のお役目があるそうで。
「官僚」
ほう。
ならば、何をそんなに慌てている?
慌ただしい兵士
その、南部の農地が本格的な収穫期に入りましたもので。
「官僚」
良いことではないか。
慌ただしい兵士
はい。ですがその、都市内には熟練の農業従事者がいなくなってしまったものですから……
「官僚」
そのくらい、マニュアル通りにやれば済む話だ。わかったな?
慌ただしい兵士
はっ!
「官僚」
ところで、農地全体の予想収穫量はどのくらいなんだ? 報告したまえ、私が後でまとめておこう。
慌ただしい兵士
ええと、我々もこういった仕事は初めてでして……
「官僚」
なんだと、この役立たずめ! 作物が実っているかどうかなど見ればわかるだろうが!
慌ただしい兵士
それはもちろん、実っています。でなければ収穫もできませんし……
「官僚」
ならばすべては通常通りということだろう? 前年度と同じ収穫量で報告しろ! さっさと仕事に戻れ!
ブリギッド
こんにちは、わたしノマドのブリギッド。
苛立つ衛兵
何の用だ?
ブリギッド
ナ・シアーシャ市内の手紙は全部配達し終えたから、この街で一番高いところに登って、そこから風に乗せて仲間にメッセージを届けたいんだ。それが終わったらこの街を出るつもり。
苛立つ衛兵
ああ、思い出した、またお前か。何度来ようと上へは通さないぞ。一度だって通れてないのにまだ懲りてないのか?
ブリギッド
ヴィクトリア人がいた頃でさえ、要塞の高いところに登るくらいは許してもらえたけど。
苛立つ衛兵
俺がヴィクトリア人に見えるか?
ブリギッド
ううん、君はターラー人でしょ。
苛立つ衛兵
だったらわかるだろう。俺たちターラー人は、もうお前らの古臭いしきたりなんかに付き合わなくていいんだ。ノマドだの霊の守人だのの伝統なんざ知るか、詐欺師どもめ。
さっさと失せろ! ぐずぐずしてると、とっ捕まえるぞ!
ブリギッド
……はいはい、わかったよ。何をそんなに怒ってるんだか。
ブリギッド
結局、手紙の配達以外何もできなかったな。
でも、とりあえず夜の外出禁止時間より前に街を出られたし、あとは黒き森を抜けて原野に戻れば――
はぁ、黒い霧が通してくれればいいんだけど。
って言っても、黒い霧はノマドの邪魔なんてしないものだし、心配することないか。
彼女が道端の落ち葉を軽く蹴ると、目の前に広がる無人の森にカサカサと音が響いた。
しかし予想に反してその音は鳴り止むことなく、繰り返し木霊し続けた。
ブリギッドはとっさに身をかがめ、散らばる葉っぱを押さえようとした。音はまさにそこから響いていたからだ。
ブリギッド
ごめんね、蹴ったりなんかして。
だが、その音は鳴り止まない。
ブリギッド
うっ――
それどころか、反響音がますます大きくなっていき、やがて耳をつんざくばかりの耐え難い騒音へと変わっていった。
同時に、黒い霧が足元から立ち上り、彼女の目を、耳を覆って――
気付けば彼女は、また黒き森の入り口に戻っていた。
ブリギッド
……もう、これで五回目だよ!
まさか帰してくれないつもり? 都市に戻れって言うの?
ふーんだ、戻る気なんてないよ!
最悪、森の外にテントを張って、何日かやり過ごせばいいだけだもん。そうすればそのうち出られるでしょ。