巻末の端書
母親が黒い霧との戦いに向かう直前、森から霊の守人が彼女を諭しにやってきた。あなたはまだ娘のために葬儀を挙げておられない、そちらのほうこそ今一番重要なことだ、と守人は言った。
黒い霧と刺し違える覚悟を決めていた母親は、霊の守人が古い歌を歌い始めた時、思わず雨のように涙を流した。そしてついにはしきたりに則り、まず娘のために葬儀を挙げることにした。
葬儀の夜、母親は娘の魂を象徴する紫のかがり火の前で一晩中泣き続けた。流れ落ちる涙の雨は街中に燃え盛る炎を消し、ついには葬儀のかがり火までもが消えようとしていた。
これでもまだ黒い霧との死闘に臨むおつもりか、と霊の守人が問いかければ、母親は涙に濡れた顔で、消えかけのかがり火に向かいこう言った。
「私にはまだ守らねばならぬ王国の民がおります。皆を見捨てるわけにはいきません。」
その言葉と共に、消えかけていた紫の炎が突然眩い橙色に変わった。その炎の中からは蘇った娘がゆっくりと歩み出て、母と抱擁を交わし合うのだった。
作家
これが物語の結末です。本当の、今度こそ迎えることができた……
……結末。
謎の女性
おめでとうございます。あなたは真相に辿り着いたのです。
作家
めでたし、めでたしだ!
何もかもあなたのおかげです! さあ、乾杯しましょう。この酒を飲み干したら、物語の結末を書き上げて発表の段取りを……
ああ、いや……発表は難しいかもしれませんが、とにかく完成したんですから――
謎の女性
葬儀、かがり火、そして復活……あなたは確かに、すべてを見届けました。
まさかあなたに、逃げ延びたあと再びナ・シアーシャまで戻ってくる勇気があるとは思いませんでしたよ……
「吟遊家」さん。
「吟遊家」
少なくとも、結末は良い形でしたから。そうでしょう? 何しろ、エブラナは死者と共に去り、二度と戻ってこなかったのです。
ラフシニー殿下、この物語をあなたに捧げたいと思います。これを発表しようと、封印しようと、私のようなダブリンの残党と共に消し去ろうと、私は喜んで受け入れましょう。
謎の女性
それは素晴らしい……
こんなことなら、お前が自虐的に「吟遊家」を名乗ることなど許すべきではなかったな。私はお前を過小評価していたようだ。
「吟遊家」
あなたは――
ッ、今なんと!?
あんたはラフシニーじゃなく――エブラナなのか!?
「吟遊家」だった男は錯乱して腕を振り回し、酒をテーブルの上にぶちまけた。
「吟遊家」
死んだはずだろう! 二度も殺されたものが、生きているはずがない! 一度は槍に貫かれ、一度は炎に焼かれ――どうあれ、ここにいるわけがないんだ!
……
まさか、死んだのは私のほうか? ははっ、はははっ、冗談じゃない……死した赤き龍よ、在るべき場所に帰れ!
ああ、そうに違いない、あんたは嘘をついていたんだ、死んでなどいなかったんだろう! あんたがラフシニーを殺したんだ、何もかもが幻想で、嘘で――
エブラナ
だとしたら、お前の物語はどうする?
「吟遊家」
私の……物語?
……
エブラナ
やれやれ、やっと落ち着いたか。
「吟遊家」
だが、あんたが生きているはずがない……ありえないんだ……
エブラナ
私にとって、死とは決して永遠の眠りではない。命を操るのと同様に、私は死をも操ることができるのだ。
物語を語り終えたことに免じて教えてやろう、「作家」よ。重要なのは、炎だけだとな。
「吟遊家」
……紫の炎。
エブラナ
そう。お前の物語の中では非現実的に描写されていたが、それは決して虚構のものでも、誇張されたものでもない。
実際私は、長い戦争の中であまりに多くの炎を他者に分け与えたことで、弱り果てていた。
だが炎とは広がり、飲み込み、増殖していくものだ。
「ガストレル」号でナハツェーラーと一戦を交えたあと、私は原野に、遺跡に、人々の心に分け与え増殖させた炎を、己の中に取り戻す必要に迫られた。
「吟遊家」
はっ、まるで高利貸しだな……
エブラナ
血税の徴収は、君主としての基本の権利だろう?
これが凡庸な君主であれば、兵を補充し、数百年もすれば手元を離れる領土を民を勝ち取るために血税を取り立てるのだろうが――
私はそれを用いて、赤き龍の炎と共に道を作る。命と死とを繋げ、生と死の狭間でもがく者たちが私を仰ぎ見るようにな。
「吟遊家」
ばかげたことを……
エブラナ
一国を焼き尽くすほどの死が主の元へ戻った時、何が起こるかなど到底理解もできないお前からすれば、そう聞こえるだろうな。
千年もの間続いた恨み、悲しみ、怒り……そうしたものが私の中に集まった時、この意識と身体が単に消え去るだけで終わるはずがあるまい?
「吟遊家」
怨恨の奴隷に成り下がったか、相応しい末路だな――
エブラナ
自分で書いた物語のセリフを忘れたのか?
そうしたものは自らが私を作り上げたつもりかもしれないが、実際にはそれが偶然、私にとって意のままに操れるような形に育っただけの話だ。
仮に私が本当にその奴隷となっていたのなら、お前を一目見た瞬間に灰にしていたことだろうな。
「吟遊家」
……狂人め!
だからあんたはウェリントンを黒き森に駐屯させ、ナ・シアーシャを封鎖し、夜の外出禁止令まで延長したんだ。初めから……ナ・シアーシャに活路を残す気なんてなかったんだな!
エブラナ
黒い霧とはウェリントンの率いる軍勢だという不愉快な叙述トリックを、作家自ら明かしてくれたことに感謝しよう。
「ガストレル」号で目の当たりにしたシルバーロックブラフスでの一戦は、今もお前の酒に頼らねば眠れぬ夜の夢に出てくるのか?
きっと纏わりついて離れないのだろう? でなければ、暗雲の如く渦巻く黒い霧を描くことにこだわりながら、その正体を定義せずにいるわけがない。
外出を禁じたこと自体も、当初は何の問題もなかった。あの時は、確かにナ・シアーシャの中にはヴィクトリアの密偵が何人か潜り込んでいたからな。
その後、ラフシニーがナ・シアーシャに入った時、ウェリントン公爵は封鎖を突然強化した。二人の赤き龍に関する情報が洩れる可能性をすべて潰そうとしていたのだ。
「吟遊家」
あの食糧が返ってきたのは……
ああ、将校はあんたが誰より信頼を置く側近であるだけじゃなく、ウェリントン旗下の赤鉄親衛隊の隊長でもあったからか。ウェリントンは食糧の件で頼ってきた将校のメンツを立てたんだな……
エブラナ
そして、ラフシニーがナ・シアーシャを離れ、霊の守人を訪ねに向かった時、ウェリントンはあれに失望した。ただ、それだけのことだった。
だが、お前はラフシニーに感謝すべきだな。失望したウェリントンがナ・シアーシャへの封鎖を緩めていなければ、お前は黒き森から逃げ出すことなと到底できなかった。
「吟遊家」
はっ、まさか……
あんたの命令を拒み、権力を捨てようとしなかったダブリンの連中を、あんたは場所を移そうと言って連れて行ったが、その後あいつらはどうなったんだ?
エブラナ
お前好みの表現で言えば「黒い霧に飲まれた」といったところだ。文字通りにな。
「吟遊家」
……
だが、ラフシニーはそれでもあんたを殺すと決め、ウェリントンも結局あんたのばかげた命令には従わなかった!
仮に変異した紫の炎があんたに身体を残したとして、これからどうするつもりなんだ? 死者の軍隊を率いてターラーを奪い返そうとでも?
私は手を貸さない。生きている人間は誰一人、あんたの力にはならないだろう。あんたはただ、二度と戻らない死せる友人たち共々、破滅するだけだ!
エブラナ
フッ。
やはりお前は、ダブリンの吟遊家には相応しからぬ人間だな。
己の目で見たものと心で信じたもの、どちらをも手放せず、両者が共存できなくなった時、お前はどちらかを捨てることではなく、自滅を選んだ。
しかし、本当にすべてがお前の想像通りだったと思うか?
厳粛な近衛
閣下、お手紙が届いております。
カスター公爵
入ってちょうだい。
急を要するものかしら?
厳粛な近衛
いえ……
封書なのですが、こちらの紋章をご覧ください。過去五十年の記録にはなかったもので……
カスター公爵
ターラーの?
厳粛な近衛
……
カスター公爵は近衛兵の手元に視線を移した。
封筒の端には、歴史の塵に埋もれていたとある紋章が添えられていた。
若者であればそれを見たことなどなく、長い歳月を重ねた者すらそれを忘れているかもしれない。その出処を思い出せるのは、歴史の細部にあえて注意を払わねばならない者だけだ。
厳粛な近衛
我々には、これが果たしてターラーの紋章なのか、あるいは……ゲル王の紋章なのかがわからず……
カスター公爵
まさかあなたが紋章学に興味を持っているとはね。
厳粛な近衛
いえ、そのようなつもりは! ただ――
カスター公爵
この紋章の意図するところはわかっている。それだけで十分でしょう。
「カスター公爵へ」。
カスター公爵
封を開けて、読み聞かせてちょうだい。
ゆっくりお願いね。
厳粛な近衛
はっ。
挨拶の言葉は書かれておりません――
「これまでの書状はすべて確認してある。」
「返信を保留していたのは、事態の収拾を待っていたからだ。今こそ、機は熟した。」
「この通達の発信日時をもって、ナ・シアーシャを始めとするグレイヒル以南の地区における、戒厳令を解除する……」
新聞売りの子供
号外、号外!
ターラー全域の戒厳令が、今夜0時で正式に解除されたよ!
出版規制が緩和されて、芸術界が復活するって! 新しい規則について詳しく知りたきゃ、二面の特集記事を見て――
のんびりした住民
これでやっと、あんたの酒場も本当の意味で酒場って呼べるようになるな。
酒場のマスター
ああ。夜の外出禁止令がなくなれば、みんな何時までだって飲み明かせるだろう。
ちょうど今日は俺の誕生日なんだ。景気づけに、来た客全員、タダで飲ませてやるよ!
のんびりした住民
ほ、本気か!?
街にはこんなに大勢人がいるんだぞ、マジですっからかんになっちまうんじゃないか!?
酒場のマスター
俺の心配する前に、自分のことを見つめ直してみたらどうだ? お前、真昼間からランプをつけっぱなしじゃないか。
のんびりした住民
おっと、忘れてた。
最近は暖かくなってきたもんで、家の改装で忙しくて。今日はゆっくりしようと思ってたんだが、まさか昨日からランプを消し忘れてたとは。
ビールもう一杯。ここでしっかり疲れを取っておかなきゃな。
酒場のマスター
はいよ。
のんびりした住民
でも、改まって考えてみると、こうして疲れを感じなかったらそれはそれで怖い話だよな。疲れる時もあるからこそ、実感できるってもんだろ。生きてること――っていうか、なんつーか……
酒場のマスター
生活してることを、だな。
のんびりした住民
そうそう。
酒場のマスター
おっ、そこの姉ちゃん、あんたも――
憂いげな住民
……
酒場のマスター
あれ、エマじゃないか。
憂いげな住民
ごめんなさい、今から用事があって。
酒場のマスター
農業区画で仕事かい?
憂いげな住民
ええ。
酒場のマスター
あんたが去年、どうやってあれだけの食糧を街からこっそり運び出したかはわからんが、今じゃ立派に働いてるんだろ。この一杯は俺の奢りだ。
憂いげな住民
ありがとう……
のんびりした住民
俺たちの生活に。
酒場のマスター
ターラーに乾杯。
憂いげな住民
そうね、乾杯しましょう……
エマは片手でグラスを掲げ、もう片方の手をポケットに入れると、去年の冬に失い、また返ってきたネックレスを握りしめた。
その時にネックレスを返してくれた人が言った言葉が脳裏に浮かんで、彼女は気付けばそれを口に出していた。
憂いげな住民
……ターラーのために命を落とした、すべての同胞に。
モラン
ブリギッドさん、もう行ってしまうんですか?
ブリギッド
うん。駄獣たちが待ってるから、原野に戻らないと。
それに、ラフシニーからロドスってところに向かってほしいって頼まれてるしね。君も一緒にどう?
モラン
機会があれば、いずれ。
それよりも、私たちをナ・シアーシャへ送り届けてくれたあなたがここに残れないことが気がかりで……
ブリギッド
残れないんじゃなくて、残らないって決めただけだよ。君たちがここで暮らそうって決めたのと同じようにね。
もし、霊の守人が都市に戻ってきたら、よろしく伝えておいて。
モラン
戻ってくる予感でも?
ブリギッド
当たるとは限らないけどね。
だけど少なくとも、この場所にはあの焦げ臭さはなくなった。その代わりに、草木が芽吹くみたいな、朝露が落ちる明け方みたいな匂いがしてるんだ。
将校だ、こんにちは。
モラン
……
将校
……
ブリギッド
あれ、知り合い?
モラン
単なる知り合いではないのです。お互いに色々とありまして。
それで、何をしに来たのですか? 赤鉄親衛隊の出動を要するようなことは、何も起きていないと思いますが。
将校
今は休暇中なんだ。亡くなった人々を……卑劣ではあっても、共に戦った人々を弔うためのな。
旅路の途中で死んだ仲間の敵を討ちたいというのなら、相手をしても構わない。休暇中の私闘であれば、軍への挑発行為と見なされることはないからな。
モラン
……セルモンたちに直接手を下したのは、あなたではありませんから。
あなたのしたことは決して忘れはしませんが、それを心に刻んでおくだけで十分です。
将校
そうか……
誰かの記憶に刻まれるのなら……それ以上、望むことなどないな。
「……五月のベルテイン祭、またの名を火祭り。失われかけていたその祭りが、近々復活する。」
「祭りで行う炎のリレーは、オークグローブ郡を起点とする。」
ネモス
先ほどから黙っておられますが、緊張していらっしゃるんですか?
ラフシニー
ううん。ただ、考えていただけ。本の中にしか描かれていなかった光景を、本当に現実のものにできるなんて、って。
春の終わりに、人々は家中の火を消して一か所に集い、再び炎を灯す。五月の宴と、かがり火の煙と灰が舞う中で……
新たな季節と、新たな生活の到来を歓迎するんだ。
注意する声
ラフシニー殿下、数分後に点火の儀式が始まります――
ネモス
わかりました、ご苦労様です。
ラフシニー
私は多分、この瞬間をずっと待ち望んでいたんだ。そのせいか、夢みたいで現実味がないように感じる。
実は今、すごく歌いたい気分なんだ。でも、ナ・シアーシャの時はキミたちが代わりに歌ってくれたから……今度は、この手の中の炎に歌ってもらおうと思う。
ネモス
そういえば、ラフシニー殿下、もう一点……エブラナ殿下のことなんですが――
注意する声
殿下、お時間です!
ラフシニー
ごめん、ネモス。儀式が終わってから話そう。
ドラコは前へと歩み出る。
演説台の代わりに設けられた、遺跡を模した石の台へとかがり火を灯す前に、彼女は振り返った。
広場に並ぶ人々は、息をひそめて上を見上げている。
彼女は深く息を吸いこんだ。
ラフシニー
千年前、ヴィクトリアのドラコがターラーを侵略し、屈辱のうちにゲル王の称号が生まれて以来、遊牧民族であったターラー人は自由を失った。
六百年前、当時のゲル王はやむを得ず、自身の王城にヴィクトリア人のあらゆるものを受け入れざるを得なくなった。
二百年前、ヴィクトリアの王冠はアスランによって奪われ、しかしターラー人の理想は再び踏みにじられ、私たちの言葉さえもがほとんど失われかけてしまった。
そして今、ターラーは立ち上がった。
私がこの屈辱の歴史を改めて語ったのは、憎しみを煽るためではなく、平和を守るため。
ヴィクトリア語で綴られた詩歌が美を讃えるものならば、それを歌えばいい。
ターラー語で記された伝説が心動かすものならば、それを語り継げばいい。
私たちがこの歴史を心に刻むのは、生者に尊厳ある生活を与え、死者にいつかの再会を約束するためであり……
凍える夜に……
温かな火を抱くためでもある。
だから私は――ターラー唯一のドラコの末裔である、ラフシニー・ダブリンは……
「復活の象徴となる炎を灯そう。それが、生者も死者も含めた……あらゆる人々の行く先を照らすことを願って。」
厳粛な近衛
「この手紙には、移動都市への出入申請テンプレートを添えてあるので、ご確認いただきたい。」
署名は……「ターラー王国」とあります。
公爵閣下、これは……言語道断では……
カスター公爵
ターラーは元々ヴィクトリア皇帝の持つ王冠の一つに過ぎない。この書状では、最初から最後までそのことは否定していないわ。
そのうえ、衝突を避けるために、あの赤き龍は多くの民が心待ちにしていた「戴冠式」さえ自ら無期限の延期を決めたのよ。
厳粛な近衛
ですが事実として……
カスター公爵
ええ、事実として、王族を騙る優柔不断な者や、不正から生まれた貴族の集団、首都を包囲していた軍隊、そして荒れ狂う世論に至るまで……すべては静まり返った。
いま彼らが口々に語っているのは、数百年ぶりに誇りを持って語ることのできる、新たな「ゲル王伝説」なのよ。
短期的に見れば、この動乱はウェリントンの領内に留まっているけれど、時が経てば、こうした伝説はどんな動乱よりも危険なものになるわ。
ターラーがヴィクトリアから独立するなど、あってはならないことよ。
ウェリントンが領地全体を移動都市に移して持ち去らない限り、私は彼との交渉を続けるつもりでいるわ。ほかの大公爵たちもそうでしょうね。
厳粛な近衛
了解しました、閣下。この件には責任をもって、長期的な交渉に取り組んで参ります。
ラフシニー
ふぅ……やっと終わった……
ネモス
本当に、お疲れ様でした。
ラフシニー
ありがとう。
そういえば、儀式の前にエブラナのことで何か話したがっていたよね。
というと、赤き龍が死んだ後に蘇ったのではなく、二匹の赤き龍の間で暗殺劇が繰り広げられていた、とか、そういう内容?
ネモス
それよりもひどいものになるかもしれません。
ラフシニー
そう。キミは、エブラナが帰ってきて、この物語のすべては私が仕組んだ陰謀だったと言い始めるのが怖いんだね。
ネモス
私たちも完璧ではありませんしね。
ご存知の通り、あの夜あなたが最初に彼女を仕留めたあと、その遺体は消えていたんです。私は空の棺を引きずっていたにすぎません……
ラフシニー
うん、わかってる。
姉さんの槍に残っていた最後のわずかな炎を使って、棺に火をつけたのは私だということもね。
街を出てウェリントンに会い、計画を打ち明け、見返りとして様子見を続けてもらい、軍が都市へ入るのを遅らせてもらったのも私で――
みんながエブラナに返した炎の中に入り、命の炎で死の炎をかき消し、置き換えて……最後に眩い炎の中から出てきたのも私だった。
ナ・シアーシャ要塞のバルコニーにいた時点で、この計画は決まっていたでしょう?
エブラナが残した絶望的な局面を打開するには、奇跡を用いるしかなかった。
ネモス
私たちが……この手で作り上げ演じた奇跡を、ですね。
ラフシニー
今となっては、霊の守人が帰って来てくれたことのほうが奇跡的に感じるけれど。
もし、エブラナが「放逐王」を呼び起こしていなかったら。もし、ブリギッドが数百年越しの伝言を霊の守人の集落へ伝えていなかったら。もし、モランの忠告がなかったら……
私たち二人だけでは、奇跡は起こせなかった。
ネモス
……
ラフシニー
こうなった今、もう恐れるものなんてないでしょう。
私が王座から逃れる道は、エブラナの手ですべて塞がれた。それなら私にできるのは、この先ターラーのために身を捧げて……
いつ訪れるかもわからない審判を静かに待つことだけ。
「吟遊家」
ネモスが引きずっていた棺が、空だった……!? ラフシニーが最初にあんたを仕留めた時には、すでに「赤き龍の復活」を計画していたというのか!?
デタラメを! そんな――
そうか、ウェリントンの仕業だな。きっと良心に目覚めたウェリントンが軍の包囲を解いたんだ!
エブラナ
まったく、諦めの悪い奴だな。
相手は鉄公爵閣下だぞ。良心などと、本気で言っているのか?
「吟遊家」
あんたは彼に約束したはずだ! 自分の計画はターラーのためのものであり、害にはならないと!
エブラナ
「ガストレル」号の上でのことなら、私はこう言っただけだ。ラフシニーさえ帰ってくれば、私はターラーの進むべき道を変えることができると。
死の炎を吐く赤き龍、死者で溢れかえる亡霊部隊、両手を血に染めたダブリン……そうしたすべては闇に沈み、ターラー人は唯一の赤き龍の下に団結するだろう、とな。
無論、公爵閣下は私と違い、ナ・シアーシャの人々が死の定めにあることなど知る由もなかったが。
死を定められた一都市の人々と引き換えに盤石な土台を築けるのなら、それこそターラーのためになる無害な計画ではないか?
だが惜しいことに、公爵閣下はラフシニーの性格を嫌っていた。それがなければ、この件はもう少しスムーズに進んだだろうな。
「吟遊家」
詭弁だ! あんたはウェリントンを騙したんだ! これは無害な計画なんかじゃない! それに、ナ・シアーシャの人々は死なずに生き延びられただろう!
エブラナ
その件は誰から見ても予想外だった。
まさかラフシニーが、人々の命を救うため、忌み嫌っていた権力を手にし、詩や小説、そして己の高潔な性格には到底相応しからぬ奇跡を起こすことを選ぶとは。
そうした行いは、ラフシニーにしか……いや、二、三年前にはあれにすら成し得なかったことだ。お前は、奇跡というものを初めから天秤にかけて物事を計るのか?
「吟遊家」
ラフシニーが失敗していたらどうするつもりだったんだ!?
エブラナ
そうなれば、お前にここで酒を飲む機会はなかっただろうな。
鉄公爵閣下が排除すべきと目したものに何をするかは、お前も耳にしたことがあるだろう。
物語には多かれ少なかれ原型がある。その原型たる、作家の執筆を支えてきた記憶が、満ち潮のように脳内に押し寄せてきた。
そこから逃れようともがいた時、彼はようやく気が付いた。自分にはその波をかき分けるだけの大きな力などないことに。
「吟遊家」
ッ――ぐうっ! げほ、ごほっ……
……赤き龍……
あんたは……あんたたちは知っていたんだな!
あ、危うくナ・シアーシャを滅ぼして……それどころか、ターラーのすべてを騙し愚弄するところだったんだぞ!
エブラナ
お前の認識には正すべき点がある。私は約束を果たしたまでだ。有言実行は美徳と言えるだろう?
何より、お前自身もこの結末を「めでたし」と語ったというのに。
「吟遊家」
――!
私は――断じて認めない! こんなものは、在るべき結末ではない――
私の物語には相応しくない!
作家の視界に、一枚の白い何かが映った。彼は突然ひざまずき、地面に這いつくばると、舞い散る数枚の白紙に向かって懸命に手を伸ばす。
一枚、二枚、三枚と紙を掴み取り、彼はそれをペンと共に手中へ握りしめた。
「吟遊家」
違う、違う違う違う違う――
エブラナ
まだ何か書こうというのか? ならば私が手伝ってやろう。
「吟遊家」
違う――
違う!
作家は両肩を神経質に震わせて、眼前の人物から目を離さずに後ずさり続ける。そうするうち、彼は小さな酒場のぐらついた壁に背をぶつけた。
そして作家は、槍でも握るように強く握り締めたペンを、白い紙の上へと突き立て始めた。
うわごとのように何か呟いてはいるが、紙面にはただインクの染みができるばかりだ。さらにはそのうわごとすらも、ついにははっきりとした音節を失っていった。
「吟遊家」
はっ……ああ……くっ――ぐううっ!!
その騒がしさに、酒の入ったバーテンダーがついにカウンターの後ろから出てきて、作家の襟首を掴み上げた。
粗野なバーテンダー
なに騒いでやがんだ?
「吟遊家」
ぐっ! うあ……ふ、ううっ!
もはや自分がまともな言葉も話せないと気付いた作家は、煩わしそうに傍観している女性へと絶望の目を向けた。
作家は、彼女の手を指さしてから、自分の口を指さした。その意味は見ていれば伝わった。
エブラナ
言葉を失くしたか。
興奮のあまり頭でも打ったか、脳卒中でも起こしたのか?
あるいは、これまで信じてきた何かが不意に壊れただけか。
その何かがお前をダブリンへと加わらせ、祝賀会でその場に留まらせ、そしてナ・シアーシャへと引き返させたのだろうが……
そろそろ目を覚ますべき時だ。
作家は震える手でペンを握り、自らの手のひらに何か書こうとしたが、そこにはひどく歪んだ線が残されただけだった。
エブラナ
お前は最後に、ターラーのために、断片の寄せ集めではない完結した物語を書き上げた。実に素晴らしい物語だったな。私は気に入ったぞ。
今やこの物語はお前のものではなく、私だけのものとなったのだからなおさら良い。
ではな、「吟遊家」――いや、「作家」と呼ぶべきか。
さらばだ、最後のダブリンよ。
死が再びお前を私の元へ送り返す時、どのような物語を聞かせてくれるかを楽しみにしていよう。
女性は作家を一瞥し、数枚のコインをテーブルの上に投げ置いたあと、静かに去っていった。
作家はふと思い出した。
一年半ほど前、両者の機嫌を損ねまいとして、リーダーの影が出発したのちようやく上に報告したあの夜も、エブラナがこうして自分を一瞥したことを。
???
お前が今この瞬間に思っていようとも、この場の私は単なる「ネクラス」でしかない。
お前が、あの署名を要する薄い紙切れには何の効力もないなどと考えていない限りな。
ネクラス
その接頭辞を使いたければ使うがいい、学者よ。
だが、私はそれよりも、この話を聞いたお前が何を考えている様子でもないことのほうが気になるな。
おっと、うっかりしていたな。
ナ・シアーシャからはるばる届いた私的な手紙と、その後公的に伝えられた断片的な言葉で、か……ラフシニーはますます腕を上げているようだ。
あれは私の状況についても報告をしたのだろう。ゆえにこそ、こうして私と一対一で向かい合い、この暗示に満ちた物語に耳を傾ける気になったのだな。
ならば、なおさらお前の勇気を称えるべきだな。
ああ、それとラフシニーの勇気も。あれは今や、満足のいくダンスパートナーであることをすら超え、素晴らしいリードダンサーとして立っているのだ。楽しい時間を過ごしてくれているよう願おう。
無論だ。死者の権力は、生者たちのそれと比べて強いとは限らないが、より長く続き、抑制も困難であることは確かだからな。
学者よ、命は儚いものだが、死とは遥かに長く続くもの。
大地には今もこれほど多くの興味深い人間が生きているのだから、それだけで、死が彼らを迎えるその時を楽しみに待つには十分だ。
鋭い非難だな。だが、そういった問いは喜んで受け入れよう。
何しろ、お前が向けた非難は偏ってこそいるが、的を射ており、さらにはお前自身が私の興味を引く人物だからな。
なぜ行動に目的がなければならない?
私は死そのものと不可分の身だ。このような存在が、お前とロドスに引き寄せられるのは至極当然のことだろう?
引き寄せられ、ゆえに降り立ったというだけだ。ここは常に死の気配に包まれているからな。特にお前の周りはそうだ、親愛なる学者よ。
ふっ……そのうちわかるさ。
洪水が押し寄せ、死が夜の如く寄り添う時、私がお前たちの災難を嘲笑しない限り、お前は私の存在に感謝するだろう。
だが今の私は――
ターラーのリーダーの小さき影たる「ネクラス」に過ぎない。
それだけのことだ。