客間の迷宮

同じことを何度も繰り返せば、その行為はやがて無意識下に沈んでいく。
同じ一日を何度も繰り返せば、その循環に閉じ込められてしまうのだ。
自覚することも、そこから抜け出すこともできない。
長く、果てしなく続く、覚めることのない夢のように。
山にこだまする羽獣のさえずりと共に、毎朝自然と目が覚める。
二度寝したければ、再び顔を枕に埋めればいい。ここには彼女を急かす者などいないのだから。
布団とベッドを整えたら、キッチンで簡単な朝食を作る。
パン、目玉焼き、ミルク……
何を食べるも、何を飲むも、すべて自分の気分次第だ。
ひとりピアノの傍に腰かけ、鍵盤を叩く。弦を調律して少しずつ正確な音に合わせていき、一つの音を整えると、また次の弦に手を伸ばす。
最後の弦の調律が終わる頃には、また最初の弦が狂い始めていた。
そうして、もう一度調律を繰り返す。
ひとり真夏の草原に寝転がり、満天の星空を眺める。
初華は知っている。星はたとえ昨日と同じ位置にあるように見えても、実はほんの僅かに動き続けていることを。
今でこそ、隣り合う二つの星は人々から何らかの意味を与えられている。しかし何千万年も経てば、二つの星は遥か遠くへと離れ、完全な「他人」となる。
人と人の関係と同じように。
今日も、あの子は帰ってこなかった。
ひと気のない小島で、脳裏に残った微かな記憶だけを頼りに、不確かな夢を築く。
記憶の牢獄に囚われる。人形のように。
執着と絶望が身体を満たし、どこまでも膨れ上がっていく。
初華は、この島から動けなかった。
三角初華
初めは、ただふらっと散歩に行っただけだと思ってた。
後になって、港で働いてる人たちから聞いたんだ。あの子が一人で島を出る船に乗ってたって……
エイヤフィヤトラ
どうして探しに行かないんですか?
三角初華
こんな一日をもう何度も繰り返してきたからね。これが夢か現実かも分からなくなるくらい。
私は……もうあの子の顔も、名前も、よく思い出せなくなっちゃった。
きっとここが私の終着点……だから、ここで静かに待ち続けるよ。
私は待ってる。あの子が帰ってくる日か、私の命が尽きる日を。
悲しみの泉はいつか枯れ果てる。涙が出なくなれば、泣くこともできなくなる。
誰も気に留めないこんな隅っこが、私に一番ふさわしい居場所なんだよ。
三角初華
――!
エイヤフィヤトラ
初華さん、泣いてるってことは、まだその人への想いは残ってるってことですよね?
こんなの、あなたが望んだ結末じゃないですよね!?
三角初華
……
エイヤフィヤトラ
私にだって分かったんです。初華さんの気持ちは、きっとその人にも伝わります。
全力で叫ばないと、彼女の心に届きませんよ?
彼女を知らない私にも気持ちが伝わったんですから。同じように、きっと彼女にも伝えられるはずです。
三角初華
あの子に……でも、あなたを一人にするわけには――
エイヤフィヤトラ
私なら大丈夫です。なんといってもロドスの訓練を受けたオペレーターですから。
たまたま知り合っただけの私に、初華さんはとても優しくしてくれました。
今度は、あなた自身の心に問いかけるべきです――今この瞬間、どうしたいのかって。
三角初華
(小声)あの子に会いたい……
……ううん、何でもない。
エイヤフィヤトラ
初華さん、私、唇が読めるんですよ。
気付いた時には、初華は全力で駆け出していた。
胸の奥が、今までにないほど火照っているのを感じる。ふらふらと目眩を覚えるほどに。
しかし最後に残った理性が、絶えず初華の耳に囁き続ける――
名前も、顔すらも思い出せないのに……
この広大な大地で、どうやって彼女を見つけるつもり?
三角初華
それでもあの子に会いたいの!
何があっても、もう一度あの子に会いたい――!
その声は初華自身よりも先に、心が向かう先へと響き渡っていく。
そして初華は、自分の声を追うように全力で駆け抜けていった。
祥子は別荘へと辿り着いた。その中は、すべてがモーフィアスに見せられたものと全く同じだった。
豊川祥子
初華――
間取りも、調度品も……棚の中の本さえまったく一緒……
どうして……
床には塵一つなく、キッチンには二人では使いきれない数の食器が並び、ダイニングには十人以上が座れる長テーブルまで置かれている。
初華がここで一人暮らしする光景を、祥子は想像できなかった。
豊川祥子
夢の中なら、辛い思い出なんて捨ててしまえばいいのに……
???
きっと、二人にとってはすごく大切な場所だと思ってたんでしょうね。
エイヤフィヤトラ
あなたがこの別荘の家主さんですね……初華さんはついさっき出て行ってしまいました。
豊川祥子
……どちらへ行きましたの?
エイヤフィヤトラ
彼女はようやく自分の本心に気づき、あなたを探しに行くことを決めました。
親切な船長
船に乗るのかい?
三角初華
はい、この島を出ます。
親切な船長
そうかい、なら出航まで少し待ってな。乗客がもう一人来るはずなんだ。
あの嬢ちゃん、まだ戻らないのか……捜してる人が見つかってるといいんだが。
三角初華
大丈夫です、待つのは慣れて……
初華はその先の言葉を無理やり飲み込んだが、船長はそれを気にも留めなかった。
親切な船長
はぁ……夜の海は波も高いし霧も濃いから、船を出すのは危険なんだ。乗客の安全が最優先だってのによ!
あぁ、通信塔からの信号が来やがったか。さっさと出ろって急かしてやがる。
三角初華
あの塔の上にいる人、旗を振ってる……
親切な船長
ふん、あの飲んだくれは俺が毎月くれてやるビールで生きてるようなもんさ。
「航海の無事を祈る。あと、俺のビールを忘れるんじゃないぞ。」……か。
ふん、あいつの酒だけは忘れねぇよ!
船長はそう言うと、船に飛び乗った。
海から吹きつける風に乗って、小さな島の隅々にまで汽笛が響き渡る。
美しい思い出と辛い思い出が詰まった島を眺めながら、初華は頭に様々な言葉を浮かべていた。
三角初華
……私のこと、忘れないでね。
忘れることなんて、できるはずがない。
子供の頃からここで一緒に暮らしていた。
きっと、もう一度会えると信じてる――
豊川祥子
初華――!
はぁ……はぁ……けほっ、けほっ……
う……初華……!
かすれた声で名前を呼ぶ。
返事はなく、ただ打ち寄せる波の音のみが返ってくる。
船はすでに島を去っていた。
今、彼女一人だけが取り残された。
モーフィアス
数えきれないほどの日々を待ち続けた少女は、ついに友人を探す旅へと踏み出すことを決意した。
――けど、まさか最後の最後ですれ違っちゃうなんて……あーあ、とっても残念。
豊川祥子
……
モーフィアス
正直、あの子が出て行くとは思わなかったわ。
私が用意した結末では、あの子はあんたのことなんて全部忘れて、平穏な一生を送るはずだったんだけど。
あんたが彼女に与える影響を過小評価していたわ。
認めてあげる、今回は引き分けよ。
豊川祥子
……
モーフィアス
でも残念ね。あのスピードだと、船はもうすぐ沈んじゃうわ。
豊川祥子
え……?
モーフィアス
ここは私の作る夢なのよ。この島一つ作るだけでも大変なのに、まさかテラ全土を作れって言うの? あんたたちの悲しい茶番劇を、この大地全てを再現して何度も上演しろって言うわけ?
船はもうすぐ夢の境界に突き当たるわ。そして彼女はまた、次の夢に落ちていくの。
何度も繰り返して、何度もリセットされて……
いつかあなたの存在も忘れちゃうのよ。
豊川祥子
そんな……何とかして追いつかないと――
モーフィアス
もう遅いわ。
祥子は足元に冷たい感触を覚えた。いつの間にか、海水がくるぶしまでを浸していたのだ。
ふと見上げると、海と空の間は暗雲で覆われており、そこに時折鋭い閃光が走っていた。
豊川祥子
初華――!
海水が狂ったような速さで満ちていく。祥子は何者かに深淵へと引き摺り込まれていくように感じた。
豊川祥子
初華、待ってて――
暗くて、冷たくて、息ができない。
海水が両耳の鼓膜を圧迫する。空からの微かな光が薄れていくのと同時に、胸に残ったわずかな酸素が尽きていく。
視界がどんどん霞んでいく。力を失って開いた口に苦い海水が流れ込み、最後に残った意識すら呑み込んでいった。
そのまま、ずっと、ずっと沈んでいく。
海の底、光の届かない場所まで。
「祥……」
「祥……祥……!」
どこからともなく、声が近付いてくる。
ここはどこ?
わたくしを呼ぶ、この声は――
???
祥……祥、起きて……
懐かしい声。ずっと聞いていなかった声。
冷たい水で満ちた海底は跡形もなく消えた。その代わりに、乾いた地面と、空中を舞う砂埃が目に映る。
豊川祥子
この声は……
祥子がやっとの思いで瞼を開くと、淡い色をした髪が目に入った。
若葉睦
祥、大丈夫?
豊川祥子
……睦?
若葉睦
うん。
何の変哲もないその返事に、祥子は涙が止まらなかった。
それは決して、砂埃のせいではなかった。祥子は、自分がどれだけ心細さを感じていたかを理解していた。
いま話すと涙声になってしまう。だが、そんなことは気にしていられなかった。目の前にいる唯一の希望に縋るしかなかったのだ。
豊川祥子
睦……わたくし……どうすればいいんですの……