雪と茂みの中で
エンヤ
ここは……
小さな猟師
あたしの家だ。
さっきの連中は反対方向へ行ったから、ここなら安全だよ。でも、傷口の手当てが終わったら、すぐ出て行ってくれ。
エンヤ
……ありがとうございます。あの――
小さな猟師
喋るな、それと動くなよ。
……
コートが分厚かったのと、距離が遠かったおかげで、傷口は浅そうだな。
……でも、あいつらが使ってた矢には小さい返しがついてるから、抜く時にかなり痛むと思う。なるべく慎重に取るよ。
年若い猟師は刺さった矢を真っ二つに折ってから、残った部分を握りしめると、怪我人に目を向けた。すると彼女はただ静かにうなずくばかりで、少しも慌てた様子を見せなかった。
そこで、猟師は深呼吸すると、ゆっくりと矢を引き抜いていった。返しが肉を引っ張る感触に、彼女も思わず冷や汗を滲ませている。
そうして彼女は、矢じりが完全に抜けるまで、両手を震わせまいと必死に力を込めていた。
小さな猟師
はぁ――はぁ――やっと取れた……
エンヤ
本当に……ありがとうございます……
小さな猟師
まだ終わってないぞ。もうちょっと我慢してくれよ。
彼女は続けて、腰の袋から粉末状の薬を取り出し、エンヤのスカートの裾をたくし上げると、慣れた手つきで傷口に塗り広げ、それから布できつく縛り上げた。
小さな猟師
痛かったら叫んでもよかったのに。笑ったりしないから。
エンヤ
あなたを緊張させたくなかったので。
抜く時に手が震えてしまえば、こちらも痛い思いをしますから。
小さな猟師
チッ。
……ん?
一匹の真っ白な雲獣が、狩人のフードの中から細長い身体を覗かせた。それは両爪で猟師の三つ編みを掴んだまま、エンヤの毛皮の襟の辺りで、湿った鼻先をすんすんと震わせている。
そうして、雲獣は首を伸ばすと、見知らぬその人の匂いを嗅ぎ始めた。
小さな猟師
勝手に触るなよ。この子はよそ者嫌いだから。
猟師がそう言い終わる前に、エンヤの指は小さな雲獣のあごをそっと撫でていた。その柔らかな毛皮に触れただけで、極寒の中でも心にかすかな温もりが湧き上がるように感じられた。
小さな猟師
(声を抑える)裂雲獣、戻ってこい……
エンヤ
この子は「裂雲獣」と言うのですか?
そういえば、まだあなたの名前を聞いていませんでしたね、命の恩人様。
小さな猟師
……
ジョアンナ。
ジョアンナ
でも、あたしはあんたの名前なんて知りたくないからな。あたしと友達になれるかも、なんて勘違いするなよ。
エンヤ
なぜですか? あなたはとても優しくしてくれたのに。
ジョアンナ
ああそうさ、あんたたちはあたしに、あんなことしたのにな!
ふん……もういい、あんたには関係ないから。
エンヤ
「あんたたち」というのは、シルバーアッシュ家のことですか?
あるいは、エンシオディスの……
ジョアンナ
やったのはあいつだけじゃない。
父ちゃんが言ってたんだ。シルバーアッシュ家は、エンシオディスの父親の代からもう、イェラガンドを侮辱することに憑りつかれてるんだって。
そいつはイェラガンドの背骨にコンクリートを流し込み、イェラガンドの尻尾に毒水を注いだ。それで結局、貪欲さで自滅したんだ。
エンヤ
……
ジョアンナ
でも、エンシオディスのやつはそこから少しも教訓を得てない。それどころか、イェラガンドの平穏をますますかき乱すばっかりだ。
ただ、あいつの一番の罪は、イェラガンドの血肉にでっかい穴を開けたことだけどな。今回の災厄は、シルバーアッシュがイェラガンドを怒らせたことの証明じゃないか?
エンヤ
それでも……イェラグの民も、永遠に雪山に閉じこもっているわけにはまいりません。
工業や商業は、実際我々により良い暮らしをもたらしてくれたのでは? それに、慈悲深きイェラガンドが、良い暮らしを送ったことを理由に我々を罰することがあるでしょうか?
ジョアンナ
より良い暮らしだって?
あんたらシルバーアッシュの連中が、毎日暖かい暖炉のそばで美味い物を食べてのうのうと過ごしてられるのは……
あたしが子供の頃には、雪山の麓にもまだたくさん動物が棲んでたんだ。
小川で綺麗な水を飲んで、森に帰ったら草木や木の実を食べて……そんなふうに千年の間変わらず、山と川に育まれてきたんだよ。
なのに、カランド貿易が鉄道をここまで敷いて、山や川を無理やり引き裂いたせいで、動物たちは命懸けで鉄道を跨いで往復しないと生きられないようになった。
おまけに、動物が列車に轢かれて死んだって、あんたらは「目がついてないのか」なんて文句まで言う始末だ。
動物たちは仕方なく高いところへ引っ越したけど、あれだけの数の群れを養うには、山の上の土地じゃまるで足りない。そのせいで争い合って、生き残る個体はますます減ってるんだ。
それに、列車の騒音に敏感な雲獣はたくさんいて……そのうちのどれだけの命が消えていったか、あたしがどんな経緯で裂雲獣を引き取ったかなんて、あんたにはわかりっこないよ!
エンヤ
……ですが、麓の農民たちには、列車で運ばれてくる肥料や種が必要ですし、山の上の病人にも、薬が必要なのです。
ジョアンナ
だったら、イェラガンドが授けて下さった豊かな収穫はどこに行ったんだ?
あたしたちが狩る獲物は毎年減っていく一方だし、清らかだった泉の水は穢れつつある。
うちの一族はこれまで、イェラガンドの神聖な教えに従って、代々山の上で狩りをして生きてきた。それに、敬意を示そうと聖像まで彫って暮らしてきたんだ。
父ちゃんも……あたしも、弟や妹たちだって、ずっと心から祈りを捧げてきたし、イェラガンドを軽んじたことなんて一度もない。
なのに、どうしてあたしたちが「代償」を支払わされなきゃいけないんだ!?
突然の大きな声に驚いた裂雲獣は、身を震わせるジョアンナのもとから飛び降りて、エンヤの足元をうろつき始めた。
すると、エンヤはかがんで裂雲獣を抱きかかえ、ジョアンナの肩に戻してやった。
ジョアンナ
……あんまり動くと、傷口が開いちゃうぞ。
エンヤ
実は……今のお話は、どれも初めて聞くことばかりでした。
ジョアンナ
何か反論したいってことだろ。言ってみろよ、シルバーアッシュ。
エンヤ
いいえ、反論するつもりはありません。
私は……少し変わった事情があって、普段は家の中で過ごさなくてはならないので、今のイェラグについては人づてに知るしかないのです。
時々は外へ出て、イェラグのすべてを身を以て体験することもできますが、それでは到底足りません。
ですが、イェラガンドはイェラグの民を誰一人お見捨てにはならないということは、保証しますよ。
ジョアンナ
ふん……
保証がどうとか言う前に、今ある危険を乗り切ることに集中したほうがいいと思うけどな。
そういえば、さっきの野盗どもは何だったんだ? あたしは山の猟師たちとなら大体顔見知りだけど、あの連中は見たことないぞ。
エンヤ
彼らは……おそらく私を追ってきたのでしょう。
ジョアンナ
あんたを? 恨みでも買ったのか?
エンヤ
……むぅ、話せば長くなることなのです。
ジョアンナ
それなら、今日はここを出ないほうがいいよ。あいつらはきっと諦めないだろうし。
あたしは今から山を降りて、薬と矢じりをいくつかもらってくる。うちの父ちゃんの友達が、町で雑貨屋をやっててさ。弟も妹も、ここ数日はそっちを手伝ってるんだ。
降りたついでに、知り合いを何人か呼んで、あの野盗どもをやっつけることもできると思うよ。
エンヤ
……
やめてください、絶対に。
ジョアンナ
一人でいるのが怖いのか? あたしは足が速いし体力もあるから、今から降りれば明日の朝には戻って来られるって。
エンヤ
いえ、そうではなく……
ジョアンナ
じゃあ何だよ? シルバーアッシュの奴って本当面倒だな。そんなふうに、ぐずぐずもごもご言ってさ。
あんたが戦えないなら、町から助けを呼ぶしかないんだから、それで決まりな。
エンヤ
待ってください、今お話ししますから――
エンヤは慌てて立ち上がり、出ていこうとする猟師の袖を掴んだ。その拍子に、身に纏っていたマントが落ちる。
ジョアンナ
……!
巫女……様……?
エンヤ
実は……その……
ジョアンナ
ごめんなさい!!
巫女様に無礼な物言いをしてしまいました! どうか罰をお与えください!
エンヤ
そんな……罰を与えるなんて……
まずは落ち着いて、座ってください……
エンヤが小さな猟師の手を掴みなおそうとしたその時、猟師は素早く後ずさり、エンヤと距離を取った。
彼女はそのまま背を向けて、その場を立ち去ろうとしたが、ふと何かを思い出したように振り返ると、エンヤに深々と一礼し、それからようやく部屋を出ていった。
エンヤ
はぁ……
マッターホルン
グロ将軍……
グロ
おう、ヤーカ家の若造か。ったく、*イェラグスラング*、入る前にノックくらいしろっての。
何の用だ?
マッターホルン
こちらには、エンシアお嬢様の検査の付き添いで来たのです。お嬢様は今朝方、事故に遭われまして……幸いお怪我はありませんでしたが。
それで、あなたもここに居られると聞き、お見舞いをと――お加減は如何ですか?
今朝、旦那様の代わりに荷物を届けに蔓珠院へと向かわれる途中、お車が山道で対向車と衝突してしまったのです。すぐにデーゲンブレヒャーさんが駆けつけていなければ、危ういところでした。
グロ
あいつも蔓珠院に向かってたのか……
妙だな。うちの旦那にも、今朝いきなり、「朝早くから会議をすることになった」って蔓珠院からの通達が来たんだ。その結果、あの山道で落石に遭ったわけだが。
……で、お前、ブラウンテイル家で何か起きたとか、そういう話は聞いたか?
マッターホルン
いえ……現状何も。どうかしたのですか?
グロ
なるほどな……道理で旦那がさっきすげえ剣幕で出ていっちまったわけだ。あんなにキレてるのは久々に見たと思ったら……
しかしこいつは――参ったな!
すまんが力を貸してくれ、マッターホルン。お前んとこの旦那に、今すぐ人を連れてブラウンテイル家に向かってほしいと頼んでもらえねえか?
うちの旦那は俺より短気だからな。この時期に、バカな真似しちまわねえか心配なんだ。そうなったら、止められるのなんざエンシオディスの旦那だけだろ。
マッターホルン
わかりました……すぐに手配します。
ラタトス
……アークトス、それ以上癇癪起こす前に、まずは医者に行って精密検査を受けたらどうだい。軽い脳震盪ってのは目立たないから、一番見過ごされやすいって聞くよ。
アークトス
話をそらすんじゃない!
俺の目を見て答えろ! 俺とシルバーアッシュの人間ばかりが襲われて、お前たちブラウンテイルの人間は安穏と家で過ごしていたのはなぜだ! お前は何を知っている!?
ラタトス
今日起きたことについては、あんたから聞いた話以外何も知らないよ。
アークトス
まだ言い逃れをする気なのか?
シルバーアッシュ家に連絡を取った時は、向こうの使用人も俺を気遣う言葉をかけてくれたし、エンシアが騙されて呼び出されたことまで教えてくれたんだ。
それに比べてお前はなんだ! 澄ました顔で応対し、こんなことが起きても不思議じゃないとでも言うように振る舞って、それがブラウンテイル家を代表する者の態度なのか!?
ラタトス
私の態度が気に障ったなら、謝るよ。ただ、今はイェラグ人全員が苦境に置かれているから、そこは理解してもらえると助かるね。
アークトス
その白々しい物言いはやめろ、もううんざりだ。
――今のブラウンテイル家では、「毒婦」が権勢を振るっているというのがもっぱらの噂でな。
しかしこれまで、俺はそんな噂など真に受けてはいなかったんだ。お前がイェラグとイェラガンドのために動いている限りは、何をしようと構わんと思っていたからな。
だが、今は?
ラタトスよ、イェラガンドはいつお前に盟友を裏切るような卑怯なやり口をお教えになったんだ?
ラタトス
口の利き方に気をつけな、アークトス。私への皮肉や挑発であっても、イェラガンドへの冒涜は許さないよ。
アークトス
話を逸らすなと言っているだろう! 今質問しているのは俺だぞ、はっきり答えろ!
俺とエンシアが襲撃を受けた件に、ブラウンテイル家は関わっているのか?
ラタトス
まったく、時間の無駄だよ。何度も言っただろう。私は何も知らないし、その件を心から遺憾に思ってると。
アークトス
それがお前の答えだと言うのなら、容赦はせんぞ。恨んでくれるなよ。
ラタトス
どういう意味だい?
アークトス
グロを傷つけたからと言って、ペイルロッシュ家に動ける人間がいなくなるとは思うなよ。出発前、時間になったらここへ「迎えに」来るよう部下に言いつけておいたんだ。
ブラウンテイル家を徹底的に捜査せねばならんからな。俺もこんなことはしたくなかったが、スキウースとその子供には、少しばかり迷惑をかけることになりそうだ。
ラタトス
ふざけるんじゃないよ!
アークトス
元はと言えばお前のせいだぞ、ラタトス!
その時、ホールの扉が何の前触れもなく開かれた。扉が開く音と同時に、アークトスはすぐさま刀を抜く。
目端の利くブラウンテイル家の衛兵たちも素早く武器を構え、ラタトスの前に立った。
エンシオディス
……
どうやら、今日の出来事に関する議論は済んでいるようだな。
私もその件でここへ来たのだが、ある程度の結論も出してきた。両名とも、そう殺気立つことはない。
アークトスが先に刀を収めたのを見て、ラタトスが合図を出し、衛兵たちもゆっくりと下がっていった。
アークトス
いいところへ来てくれたな、エンシオディス。
俺とお前、それぞれの家を代表する者二人で、共にブラウンテイル家の全書類を徹底的に調査し、関係者であるブラウンテイル家の人間にも調査に協力してもらえるよう要求を出そう。
エンシオディス
アークトス、すまないが、その意見には同意できない。
アークトス
なんだと?
エンシオディス
仮にラタトスが我々の排除を試みたとして、その動機は何だ?
今この時、両家の当主を暗殺したところで、かえって混乱を助長するばかりだろう。
ペイルロッシュ家は最大の兵力を持っており、シルバーアッシュ家はカランド貿易の運営を担っている。
となれば、我々が同時に事故で命を落としたとて、ラタトスはイェラグの状況を掌握しきれないどころか、かえって激しい報復を受けることになるだろう。
そうは思わないか?
ラタトスはエンシオディスの視線を避けて、かすかにうなずいただけだった。
アークトス
だとしても、ブラウンテイル家だけが襲撃を免れたことの説明はつかんだろう。
エンシオディス
恐らくは単なる偶然、あるいは時機が合わなかっただけといったところだろう。襲撃者がブラウンテイル家を狙っていたかどうかは、我々にも判然としないことだ。
アークトス
「偶然」だけでは納得できんな。
ラタトスでなければ、誰がこんな真似をすると言うんだ?
エンシオディス
この事件の真相は、短期間で判明するようなものではない。
今のイェラグが混乱のただなかにあり、この機に乗じて利益を得ようとする輩が大勢いるということを、決して忘れてはならない。
この件は、ヴィクトリアからの援助物資の到着と時期を同じくしている。つまりこれは、我々の協力関係を分断させようとする意図があってのことだろう。
アークトス
ヴィクトリア人の仕業だということか?
エンシオディス
彼らのみならず、現在イェラグへの介入を試みている国外の政治家たちはいずれも嫌疑の対象だ。
ゆえに私は、前回の会議における結論を――すなわち、対ヴィクトリアを含めたすべての対外業務に対しては、私が全責任を負うという結論を維持したいと考えている。
必ずや、本件の真相を突き止めてみせよう。ペイルロッシュのためにも、三家に平穏を取り戻すためにも……そしてエンシアのためにもな。
アークトス
……
だったら、もう一度だけ信じてやるとしよう……
ラタトス
ふん……
アークトス
図に乗るなよ、ラタトス。これはエンシオディスとスキウースに免じて許してやるだけのことだ。運が良かったと思え!
真相が明らかになった時、黒幕がお前だったなら、決して容赦はせんからな!
屈強な当主はテーブルを叩き、勢いよく踵を返すと立ち去った。
ラタトス
……エンシオディス、あのイカレ野郎の怒りを静めてくれたことには感謝するよ。
だけど、悪いが私は疲れ切っててね。あんたも、根拠のない非難に対処するのがどんなにくたびれることかは知ってるだろ。
もし、あんたも私に疑いを持って、何かを聞き出そうとしてるなら――
エンシオディス
皆まで言うな、わかっている。今は三家間の信頼関係こそが何より重要だからな。
こちらも急ぎの用が残っているので、これで失礼しよう。
ラタトス
……ああ。
デーゲンブレヒャー
安心して、エンシアは無事よ。
エンシオディス
本来なら、奴らの狙いは私だった。
デーゲンブレヒャー
そうね。現場を調べてみたけど、十中八九、人為的な「事故」だと思うわ。相手はあなたの車を狙ったものの、誰が乗っているかまでは知らなかったんでしょう。
でも、妙ね。やり方が過激すぎるもの。まるで、「糸を引いてる連中はこういう乱暴な手段も厭わない」って言ってきてるような感じだわ。
エンシオディス
……相手が主眼に置いているのは、混乱と猜疑心を煽ることだ。それゆえ結果よりも、そうした行動を取ることにこそ意味があるのだろう。
一方で、他の可能性を考慮するのなら――私やエンシア、アークトスは、真のターゲットではないということもありえるな。
……だとしたら、雪山で何かが起きている。
デーゲンブレヒャー
そいつらの狙いはエンヤだってこと?
エンシオディス
今この時期、巫女の身に何かあれば、ああした陰謀論をさらに裏付けることになり、イェラグは泥濘に沈んでいくだろう。
デーゲンブレヒャー、お前にエンヤを守ってほしい。
デーゲンブレヒャー
……
エンヤが出発してから随分経つのよ。何の約束もできないわ。
最悪の事態も考えておきなさい、エンシオディス。
エンシオディス
……
私はエンヤを信じている。
デーゲンブレヒャー
「信じている」、ね。
いつもみたいにあれこれ分析した理屈を並べ立てて、私を安心させようとはしないの?
エンシオディス
ああ。
私は信じているんだ。