道半ばの宣告

空っぽの執務室。
ノーシスにとってそれはあまり馴染みのないものだった。デスクに近付けば、淹れたてのコーヒーが湯気を立てており、そのそばにエンシオディスが署名した書類が置かれている。
ノーシス
「委任状」か。
面と向かって別れを告げる気はないんだな。
エンシオディス
……書類への署名は済ませた。
ノーシス
これがどれほどリスクのある選択かはわかっているだろう。
鉱物資源と土地は不可分のものであり、我々は蔓珠院を介することなく直接外国と関わり、共同出資で採掘場を建設することになる。
この先は、面倒ごとが増えるだろう。
エンシオディス
だが、今日こうした代償を支払い、実力差を縮めておかなければ、今後彼らはより多くを要求してくることだろうな。
ゆえに、我々の受け入れられる最低限の代償を支払うほかない。
ノーシス
君の結論はいささか楽観的すぎるな、エンシオディス。
エンシオディス
それに比して、お前は何事に対しても、私ほど楽観的な見方はしない。
つまり、多くの場合はお前のほうが、私より先まで進めるということだ。
ノーシス
……
君のそうした「楽観的な」視点に後押しされていなければ、私も暗闇の中で一歩を踏み出す勇気を持てなかっただろうな。
エンシオディス
ふっ。
お前の世辞など、久しぶりに聞いたな。
それでは、残りの計画の仕上げを頼む。
ノーシス
……
カランド貿易の従業員
管理職以上の従業員は全員揃いました。録画も、いつでも開始できます。
ノーシス
では、始めてくれ。
カランド貿易の従業員
わかりました。今回の総会の内容をお聞かせいただけますか?
ノーシス
今日君たちを集めたのは、重大な人事異動を伝達するためだ。
本日付で、エンシオディス・シルバーアッシュは、カランド貿易の会長及びCEOを退任する。
彼は、近頃の業務上のトラブルを受け、その責任を取り、辞任することを決めた。取締役会も彼の申し出を承認している。
そして、同じく取締役会の決議により、私がエンシオディスの全職務を引き継ぐこととなった。
ゆえに私は取締役会を代表して、カランド貿易社員、及びイェラグの民に向けて、カランド貿易の新時代における最初の声明を発表する。
……
カランド貿易はこれより、ヴィクトリアとの協力関係すべてを断ち切るものとする。
加えて、過去にエンシオディスが独断で締結した多数の契約は、そのすべてを一時的に保留し、取締役会の判断を待つ。
この特殊な状況下においても、各位には職務を堅持し、イェラグの発展を第一として、残された諸問題の解決に努めてもらいたい。
浮ついたイェラグの衛兵
起きろ、交代だ。
不満げなイェラグの衛兵
……随分遅かったな。
浮ついたイェラグの衛兵
ここに来るのは初めてで、迷っちまってさ。
ところで、この仕事、面倒なのか?
不満げなイェラグの衛兵
いや、別に。あの指導者の老いぼれだけちゃんと見てたらいい。ほかの奴らは何も話さないしな。
浮ついたイェラグの衛兵
老いぼれってどの老いぼれだ?
蔓珠院なんかジジイばっかだろ?
その言葉を聞いた彼らは大笑いしたあと、それぞれに散っていき、その場には当直の看守二人だけが残った。
慎重なイェラグの衛兵
……あのなあ、少しは言葉を選べよ。お前もイェラグ人だろ? 長老に向かってそんな口の利き方はないんじゃないか?
浮ついたイェラグの衛兵
あいつの味方するのかよ。あの*イェラグスラング*のせいで、俺たちはこんな目に遭ってんだぞ?
慎重なイェラグの衛兵
おい、やめろって……!
二人の看守は牢獄に座るアドソに目を向けた。彼は分厚い経典に没頭しており、ページの端に手をかけたまま何かを思案している様子だ。
慎重なイェラグの衛兵
よ、よかった、聞いてなさそうだな。
浮ついたイェラグの衛兵
……何をビビってんだよ。蔓珠院の連中、何百年も偉そうに講釈垂れてきやがったが、こうなっちゃ何にもできねえだろ。
慎重なイェラグの衛兵
あの人たちはイェラガンドの代行者なんだぞ。長老への敬意がないにしても、主のことは尊重すべきだろ。
浮ついたイェラグの衛兵
俺はこういう奴なんだよ。それに、蔓珠院には敬意を払う価値なんかないだろ。
うちのおふくろが病気になった時、修道士は草を摘んできておふくろに食わせて、この草に祈りを捧げろだの、イェラガンドのご加護があるだろうだの、適当言いやがったんだ。
結局治んねえもんだから、カランド貿易の医者んとこへ連れてったら、「修道士の対応のせいで治療が遅れた、あと一日遅ければ助からなかった」って言われたんだぞ。
それを思えば、代行者ってのはやっぱエンシオディス様だろ!
アドソ
……「その文士、ユルゲンは信心深く、数多の善行を行った。しかしある時、これを妬んだ悪徒によって、国庫の銀貨を盗んだという濡れ衣を着せられ、彼は処刑を待つばかりとなった。」
「手足を重き鎖に縛られたユルゲンは、夜分に兵士の刀剣がぶつかり合う音を聞き、死期が近いことを悟り、悲嘆し打ちひしがれていた。」
慎重なイェラグの衛兵
これは……
浮ついたイェラグの衛兵
チッ、おかげで指導者ってのがどの老いぼれかハッキリしたな。
守衛はアドソの牢屋にまっすぐ歩み寄り、握り締めた警棒を鉄格子に激しく叩きつけた。するとアドソは読経を止め、静かに彼に目を向けた。
浮ついたイェラグの衛兵
おい爺さん、檻に入ったら口を閉じてろ。
お前が生涯重ねてきた罪を思い返してみるんだな。イェラガンドにお会いした後だって償いきれないくらいだろうが。
アドソ
……
「天を仰げど光は見えず、ユルゲンは獄中のわらの上に跪き、主に向け空しく哀願した……」
「公正なるイェラガンドよ。私は主の御名において善を施し、道を求めて参りました。」
「あなたの国は、正直者を苦難に陥れ、不義の者を救う地なのですか?」
「法を司る者たちはなぜ、あの荒唐無稽な偽りの宣誓に耳を傾けるのでしょうか? 私が救った者はなぜ、黙したまま何も語らぬのでしょうか?」
慎重なイェラグの衛兵
……
浮ついたイェラグの衛兵
*イェラグスラング*! 裏切者がよくもそんなことを言えたもんだな!
お前に教訓ってもんを与えてやる!
彼は警棒を手にしたまま、鍵を取り出し、牢の扉を開けようとしたが、怒りのあまりその手は震え、鍵を差し込めずにいた。
アドソ
……「イェラガンドよ! 我が身は獄中にあれど、我が魂は今も主の憐れみを求めております!」
「我が目が見え、我が耳が聞こえるうちに、どうか正義の手を差し伸べたまえ!」
浮ついたイェラグの衛兵
この野郎……!! 『イェラガンド』を読んでられるのも今日までだと思え!
慎重なイェラグの衛兵
……
お、俺は何を……
仲間を傷つけるなんて……!
アドソ
よくやってくれた。
神聖なる重荷は、三家や巫女、蔓珠院のみが背負うべきものではない。
イェラグの民全員が、常に主のご意志の遂行者となるべきなのだ。
今のようにな。
慎重なイェラグの衛兵
覚えていたんです……「聴悔者ユルゲン」のことを。
子供の頃、雪山で迷子になって気を失いかけていた時に、俺はある修道士さんに助けていただいたんです。
その人は、自分のローブを脱いで俺に着せてくれて、帰りの駄獣の上でユルゲンの物語を聞かせてくれました。イェラガンドは必ず、無辜の民すべてを救ってくれるんだって……
アドソ
では、ほかの修道士たちがどこに閉じ込められているのか教えてくれ。
慎重なイェラグの衛兵
皆さんこの近くにおられます。
アドソ
ならば、機を見て彼らを皆解放してやりなさい。散り散りに逃げ、生き延びるよう伝えるのだ。
この雪山に、戦が訪れようとしている。蔓珠院は廃墟の上にすべてを築き上げるだろう。
さあ、君に「聴悔者ユルゲン」の迎えた結末を聞かせてあげよう。
イェラグの衛兵
止まれ!
大長老、あんたに手を下したくはない。頼むから止まってくれ。俺たち皆武器を持っているし、あんたらのうち誰一人、ここから逃がすわけにはいかないんだ!
アドソ
……私は君の横を通るとしよう。
その弓で神のご意志を踏みにじり、己が心を撃ち抜こうというのなら、やってみなさい。
イェラグの衛兵
っ……
知らせを聞いて駆け付けた衛兵たちは、二列に並んだまま顔を見合わせた。そして多くは武器を収め、アドソのために道を空けた。
アドソは頭を垂れると、衛兵の間を抜けていき、雪上に浅い足跡をつけていく。
……
「ユルゲンが言葉を紡ぎ終えるや否や、牢屋全体が揺れ始め、風雪が牢屋の隅々まで吹き込んできた。」
「信徒を閉じ込めた壁は朽木の如く崩れ落ち、まばゆい光が信徒の身を包み込む。」
「兵士たちは四方で倒れ、その武器こそ折れていたが、その身体には傷一つなかった。彼らはユルゲンの足元にひれ伏し、涙ながらに罪を悔いた。」
「その後『聴悔者ユルゲン』は、三家の領土を渡り歩き、その奇跡を生涯語り継いだという。」
「かくして、イェラガンドは呼び求める者に手を差し伸べ、正義をもたらされたのだ。」
関節は徐々に感覚を失い、靴は何度も柔らかな雪に沈み込んでいたが、彼女は足を動かし続け、大きく口を開けて冷たい空気を吸い込んだ。
カロリン
はぁ……はぁ……
……だ、誰……?
遠くにかすかな人影が見え、彼女のほうへと近づいてくる。だが、明滅する光でそれが誰かは判別できなかった。
カロリン
あなたたちは……
ヴィクトリアの工作員
カロリンさん、我々はあなたを迎えに来るよう命を受けた者です。
事前の話では、同行者がいたはずですが。
カロリン
……
彼らはイェラグ人に捕まったわ。
ヴィクトリアの工作員
では、あなたの持っていた情報は? 問題ないのですか?
カロリン
……公爵様に伝えてちょうだい。イェラグに隠されていた力は、跡形もなく消えたと。
私は空から飛来した物体を観測して、記録したの。その後に起きた天災も、私の判断を裏付けるものだったわ。
エネルギー力場説でも、巨獣にまつわる仮説でも、イェラグに起きた変化を説明することは可能よ。
このファイルを持っていって。イェラグ関係の仮説とその検証研究は全部ここにまとめてあるわ。これを――
……あっ!?
ヴィクトリアの工作員
残念ですよ、カロリンさん。
あなたが秘密裏にマイレンダー基金と通じていることは把握しています。
ゆえに、公爵様は資料のみを持ち帰るようにとお命じになったのです。
イェラグが何らかの加護を失ったという件は、公爵様を満足させるに足るものとなるでしょう。
カロリン
あなたたち――
……
空から来たものにせよ、巨獣の伝説にせよ……
この大地には、まだ真相が明らかにされていない奇跡が、至る所にあるのよ。
それなのに、あなたたちは騙し、略奪し、謀殺することにばかりかまけていて、それ以外の物事をすべてゴミ同然に捉えている。
ヴィクトリアの工作員
あなたの訴えは、ありのまま公爵様にお伝えしましょう。
さようなら。我が国への「献身」に感謝します。
彼女は、それが誰のための嘆きかもわからぬまま深く息を吐いた。
ヴィクトリアの工作員
発煙弾!?
敵襲だ! 分散して遮蔽物に隠れろ!
一面が夜の色に覆われた中へ、突如として灰色の煙が現れ辺りを包み込み、そこに響いた銃声が雪原を混沌へと変えた。
かと思えば、黒いオフロード車が煙の中から飛び出していく。その場に残されたヴィクトリアの工作員たちは車に向けて発砲したが、それは結局無駄に終わった。
マイレンダー基金工作員
申し訳ありません、カロリンさん。恐ろしい思いをさせてしまいましたね。
ヴィクトリアの人間に気付かれないよう近付くのに、時間がかかってしまいまして。
お荷物は無事ですか?
カロリン
……
彼女はうつむくと、持ち出してきた資料の中から、空からの飛来物にまつわるファイルを取り出して、目の前の工作員に手渡した。
カロリン
……それで、研究はいつ始められるの?
マイレンダー基金工作員
そう焦らないでください。上長が、まずはあなたとお話ししたいと言っているのです。あなたの研究テーマに強い興味があるそうで。
きっと我々は、長いお付き合いができると思いますよ。
カロリンは頷き、そこでふと、あることを思い出した。
本来ヴィクトリアに渡すはずだった「イェラグに関するレポート」を、渡しそびれたままだったのだ。
彼女は窓を開けると、吹き込む寒風も気にせず、苦労して書いたレポートを一枚一枚引き抜いて、ためらいなく外へ投げ捨てた。
夜闇に落ちていくその紙は、荒野に降る新雪の如く、裏面の白さが際立っていた。
そうしてそれは風雪の中、政治家たちが巻き起こす渦の中で舞っていた。
カロリン
あなたたちの分よ。どうぞ、ヴィクトリアの皆さん。