滑り落ちるもの
クサントス
サルゴン大使の部屋……となればこれが、百年前に奪われたという文化財か?
大柄なミノス人は巨大な木箱を見据えると、手にした櫂のモーターを起動した。彼が船を漕ぐ道具たるそれは鋭い刃を持っており、今や武器として、留め具を正確にこじ開けた。
そうして彼は、両手で慎重に木箱の蓋を持ち上げた。本来ならとうに故郷へ戻っていたはずの、英雄ケレセイラの楽器は、防塵用の布にしっかりと包まれていた。
クサントス
かつてケレセイラが用いたというかのリラが、なぜサルゴン人の手に渡った挙句、取引の材料とされ、このような虚飾に満ちた重苦しい箱に押し込められねばならないのだ……
パラス
リラを下ろしなさい、クサントス。
クサントス
パラスよ。あなたがアテヌスに戻ったあと、真っ先に第一神殿再建を提案したという偉業は、多くの者が称賛するところであり、あの投票では確かに俺も「賛成」と刻んだ。
パラス
そのことには、感謝いたします。
クサントス
だが、サルゴン人と友になるべきではなかったな。
ティティ
……
弟子にホテルを破壊させて火災を引き起こし、その隙に乗じて客室に忍び込んで、両国の外交に関わる文化財を盗み出そうとするというのは……賢明な判断とは言えません。
ホテルから出たところで、外は人でごった返しています。こんなに大きなリラを抱えてここを離れることはできませんよ。
クサントス
……
ティティ
うそ、窓から……!? ここは四階よ!
パラス
ですが、この真下にはホテルの厨房が……そして川があります。一階に突っ込んだ船は、陽動であるのみならず、退路でもあったのでしょう……彼は最初からこうするつもりだったのです。
ホテルの正面から出て追いかけたところで間に合いません。となればいっそ――
ティティ
送ってくれる?
パラス
そのつもりです。
警備官
書記官さん、火の勢いはほとんど抑え込みましたが、ホテルの損害について……
ヘカデモス
被害の内容は、私のほうから手続きを踏んで、監督官執務室へ報告しておきます。厨房に対する損害も、ホテルのオーナーと話し合いを済ませておきました。
警備官
ご苦労様です。この混乱に乗じて、違法行為を働く輩がいるかもしれませんし、しばらくはこちらで警備を……
ヘカデモス
おや、どうかしましたか?
警備官
う、上を見てください!
ヘカデモスは顔を上げた。
フォルテの角が陽光に照らされ、さながら漆黒の双月のように見えたと思えば、その影は乗り上げた船に積まれた藁の上に落ち、そこから即座に飛び降りるなり、川沿いを逃げて行った。
それからほんの数秒後、今度は白い影が、銀色の鎖の先端をつま先で踏んで窓から飛び出した。そうして、幾重もの柔らかな帯がフェリーンを包み込み、軽やかに着地させる。
警備官
あれは……クサントス!? それに、サルゴンの大使さんか!?
しかし、クサントスが背負っていた大きな包みはいったい……もしや……
ヘカデモス
……
どうやら、この混乱に乗じて違法行為を働く輩がいたようですね。
警備官
了解。――捜査隊に告ぐ。現場を封鎖し、船を押収せよ! 巡回隊はただちにメジェティクティさんの援護に向かい、クサントスを確保せよ!
農家側の代表
よし、新しいリンゴの収穫も終わったし、あとで箱詰めも手伝ってもらえるか?
作業員側の代表
おう、任せろって。あんたらには、あれだけ石材採るのを手伝ってもらったからな。このくらいお安い御用だ。
クサントス
失礼、通してくれ。
作業員側の代表
おわっ――
ん? 今の、クサントスさんか? なんであんなに急いでんだ?
追っかけてるのは……ティティだよな?
ティティ
ファニスさん、どうも! はぁ……悪いけど、通してちょうだい!
作業員側の代表
おいおい、競争でもしてんのか? ゴールはどこだ?
頑張れよ! 相手は荷物を担いでるんだし、負けやしねえだろ?
ティティ
もちろんよ!
農家側の代表
おっと、リンゴには気を付けてくれ!
クサントス
あのサルゴン人、しつこいな……
だが、それもここまでだ。
ティティ
そっちは川の入り口です、もう逃げられませんよ!
それに、防水用の梱包材を取ってしまった以上、水に入ればリラが壊れてしまいます!
クサントス
その程度の道理、かつてミノスの無数の宝を破壊したサルゴン人に説かれるまでもない。
ティティ
クサントスさん!
ううん、今の水音は変だった……埠頭の下にもう一つ小舟を隠していたのね。やっぱりあれは思い付きの行動じゃなくて、最初からリラが目的で計画していたことなんだわ。
でも、ダメ。行かせるわけには――
彼女のアーツに従って、帯がクサントスの担ぐ巨大な包みを目掛けて飛んでいく。
フォルテの戦士はとっさに身を引き、リラを船尾へと置いた。すると、帯は柔軟に進路を変えて彼の腕に絡みつき、ティティは慣性を利用して小舟の上へと跳び乗った。
ティティ
クサントスさん! うっ……め、目が回る……
あの、私たちの間には何か誤解があると思うんです。ちゃんと話し合いましょう。まずは船を降りませんか?
クサントス
サルゴン人と話すことなどない。
ティティ
でしたら、申し訳ないのですが……
小舟の船首と船尾に立った二人は、互いの動きに目を光らせる。クサントスが櫂を強く握り、モーターを起動した途端、ティティの身体からはアーツの光が迸った。
その瞬間、彼女の衣服についた長い帯が伸びていき、船尾に置かれたリラを正確に掴むと、船首のほうへ引き寄せる。
クサントスは即座にその帯を断ち切ったが、相手はすでにリラまであと一歩の距離にいた。彼が急いで船首へと駆け出すと、船は激しく揺れ、ティティもアーツを中断されてバランスを崩す。
咄嗟に二人が手を伸ばすと――
リラを包んでいた防塵用の布が剥がれて、長らく行方知れずだった伝説のリラが、争いの中でその全貌をあらわにした。
ケレセイラとリラにまつわる物語は、ほとんどすべてのミノス人が耳にしたことがあるものだが、その実物を目にした者はごくわずかしかいない。
千年という長い時を経てもなお、リラは本来の姿を保っていた。その台座にあしらわれた金属製の装飾は葉を象っており、そこに陽光が降り注ぐ様は淡い光をまとっているかのようだ。
だが、船上の二人にはその輝きを目に留める余裕はなかった。奪い合われるうちにリラが軌道を変え、手を伸ばせども落ちていくのを見ていることしかできなかったのだ。
メジェティクティは、自分が幸運な人間だなどと思ったことは一度もない。
貴族の家系に生まれはしたが、家は父の代で没落していたうえ、その父は文学に耽溺していて、母は上流階級への未練を捨てられず、子育てにまるで興味を示してくれなかったからだ。
一人でいる時、彼女は父の書斎で時間を潰していた。
そこで得た学びは深くこそなかったが、視野は広がり、彼女は万物に好奇心を抱き始めた。そしてそれは、彼女が自力で資金を貯めてクルビアへ行き、博物館学を学ぶきっかけの一つにもなった。
その後、パーディシャー・ヘリに選ばれ、ミノスに向かう大使として任じられた時、彼女の中には興奮と不安が渦巻いていた。
ミノスの煌びやかな文化と英雄譚に心惹かれる一方で、歴史が残した禍根がもたらす影響は、この旅を決して順風満帆なものにはさせてくれないだろうということを、彼女はよく理解していた。
神殿の職人たちからようやく感じ取れた喜びも、彼女の心に残されていた美しい幻想と白昼夢も、すべては落下するリラと共に、一瞬で粉々に砕け散ることになるのだろう。
クサントスは、サルゴン人からリラを奪い取るこの計画が、完璧なものであるとは思っていなかった。
投獄される自分の姿を想像し、計画実行中に鉱石病の発作が起こる可能性も考えたが、多くの人間からすれば滑稽に映るだろうこの行為に己の命を懸けることを、彼は少しも躊躇わなかった。
彼が思う、身を埋めるにふさわしい場所など、五年前のミノスの辺境――イサコスが赴いた戦場を置いてほかにない。ゆえに彼には、その後起きた数多の出来事に意味を見出す必要などなかったのだ。
しかし、運命とは、得てして英雄譚よりも残酷なものである。自らの結末については幾通りも思い描いていたクサントスでも、このような状況だけは想像していなかった。
貴重なリラは、今にも地に落ちようとしている。クサントスにもはや成す術はなかった。胸中にあるのは、怒りか、悲しみか、あるいは己の無策を滑稽にすら思う気持ちだろうか。
運命に囚われていた感情が、空虚な胸へと再び戻って来るのを感じた彼は、唐突にすべてを思い返していた。
デルフィ運河に吹くそよ風が、クサントスの背に触れる。かつてないほど骨身に染みるその冷たさに、彼は思わず身震いした。
クサントスは、眼前に立つサルゴン人の青ざめた顔を見た。きっと自分も同じ顔をしているのだろうと、彼にはわかっていた。
警備官
本件の主犯であった渡し場の管理人クサントスと、その弟子リュケイオンを確保しました。
今回のことで、被害がもたらされたことを深くお詫びいたします。立場上お聞きすべきでないこととは思うのですが、損害を受けた品物は、もしや――
ティティ
お気遣いありがとうございます、警備官さん。ですが、被害を受けたのは私物ですので、大したことではありません。
思えばアテヌスに着いた初日、川を渡してくださったのもクサントスさんでしたし、何か誤解があっただけのようですから、見物人の方々を解散させてもらえますか。
警備官
わかりました。
これ以上の追及は必要ないと仰るのなら、こちらの二名は我々が連行して、規定通りの処分をいたします。
おい、お前たち、縛られているのに大人しくできないのか。メジェティクティさんのご厚情にお礼くらい言ったらどうだ?
クサントス
……
リュケイオン。もとよりお前は船の操縦ができないうえに、書記官のヘカデモスもそれを証言できたはずだろう。あの場を切り抜けることもできたというのに、なぜ俺と共に罪を被ろうとする?
リュケイオン
先生が私に船を任せて囮の役目を与えたのは、私が嘘をつけない人間であることをご存知だからでしょう。
先生の計画を知ったうえで、実行の手助けをした以上、その責任を負うのも当然のことです。
それに私は、先生がバカな真似をしたなどとは思いませんから。
クサントス
……
ベフヌイ
あれが「私物」だと? あの警備官がそんな言葉を信じたと思うのか? 奴は同胞の過ちを追及したくないあまりに、君の気遣いを利用しただけだ!
両国の国交樹立後初めての文化交流で、交換する文化財が盗難に遭い、さらには奪還の過程で損傷するなど、これがリターニアやシラクーザなら開戦の理由ができているところだぞ!
ティティ
リラの状態は確認しましたが、幸い、大きな問題はありませんでした。台座にひびが入っただけで、亀裂を埋めて再塗装を行えば直せる範囲です。
本来なら、その痕跡は残しておくべきところですが……今回は状況が状況ですし、数日後には交換の儀が始まってしまいますから、手を尽くして、できる限り元通りにしようと思います。
ベフヌイ
ハッ、君はサルゴン貴族の血を引いておきながら、政治的な嗅覚がないようだな。
本件は完全にミノス側の過失だ。これを利用して二人の罪人を厳罰に処し、サルゴンの威信を示しておけば――
ティティ
ベフヌイさん。あなたの一族がミノスで立てた「軍功」を、あなたが誇りに思うことは承知しています。あなたが今回使節団に加わったのも、所縁ある地への里帰りと捉えているからなのでしょう。
ですが、時代は変わったんです。パーディシャー・ヘリが我々にリラを持たせ、使節としてミノスへ向かわせたのは、威信を誇示するためではなく、両国の関係を修復するためなのですから。
我々サルゴン使節団にとっては、交換の儀を滞りなく終えることこそが最重要事項であり、個人の執念や追求などは重大事ではありません。
ベフヌイ
……