双飛燕
ウァン
……状況は把握した。
この件はくれぐれも盤外の者に知られてはならない。格別の注意を払え。
それからもう一つ、頼みたいことがある。
ジュン
大理寺はすでに書刀が失われた時刻前後に、天鏡閣に近付いた人物全員の調査を始めています。
ジエ
……
私たち兄弟姉妹を除けば、この書刀の存在を知る者は、炎国全土を見渡しても片手で数えられるほどです。
ジュン
ええ、私が懸念していた通りです。
ジエ、もし何者かがあなたに危害を加えようとしているなら、私は決して座して見過ごしはしません。
ジエ
……本気で私を害するつもりなら、このような手段には出ないでしょう。
ですから、これはむしろ警告に近いものだと思います。
ジュン
……
ジエ
かの陛下は志ある君主で、すべての「人」が膝を折り自らへ忠誠を捧げることを求めています。彼にとって、我ら一家は確かに「異種族」でしょう。
しかし彼の矜持の高さであれば、この書刀を使って卑劣な真似に及ぶとは思えません。
ジュン
しかしあなたに対して酷すぎる仕打ちです。最も疑われるべきでないはずなのに。
ジエ
「公正」という二文字を実践することがどれほど難しいかは、ジュン姉さんが一番よく知っているでしょう。長兄が言っていたように……衆口金を鑠(と)かす。弁明したところで無意味ですよ。
ジュン
あの人がこの場にいたら、黙ってはいなかったでしょう。
ジエ
ふふっ……
兄さんの怒った顔を見るのなんてごめんですよ。本当におっかないんですから。
ジュン
それなら、どうするつもりですか? この件、ウァンにも黙っておくのですか?
私としては彼の力は、こうした時に却って役に立つものであると思いますが。
ジエ
……
ジエは軽く首を振った。
ジエ
ちょうど姉さんに頼もうと思っていました……この件、ウァン兄さんには必ず秘密にしておいてください。
ジュン
……
ジエ
ウァン兄さんはこれまでずっと様々な理由で疎まれてきました。新しい真龍が即位してからは、一層微妙な立場に立たされています。今この時に巻き込むべきではありません。
それに、兄さんの気性を考えると、この件を知られたら、どんな理性に欠けたことを仕出かすか分かったものじゃありませんよ。
ジュン
良いでしょう。ひとまず意向を尊重します。
ですがジエ、あなたが私には正直でいてくれることを望みます。
答えてください。ウァンと共に何事かを共謀しているのか、否か。
ジエ
もう、姉さんったら、取り調べは勘弁してくださいよ。
ジュン
……
ジエ
はぁ、姉さんの前で嘘はつけませんね。
ジュン
やはりそうでしたか。
ジエ、あなたが今扱っている力が非常に危険であることは分かっていますね?
ジエ
もちろん、危ういことだとは承知しています。でも、これまで危険を背負ってきたのは、私一人だけじゃありません。
シュオ兄もウァン兄さんも、リィン姉さんもジュン姉さんも、皆が私たち弟妹のためにたくさんのことをしてくれたんですから、私だけ何もしないなんて無理ですよ。
それに、私が頭を捻らせて皆に付けた名前が……歴史から消え去るなんて、ごめんです。
目の前の姉が尚も顔を曇らせているのを見て、ジエはそっとジュンの手を取った。長年楽器を操ってきた掌は荒れていたが、握ると心が落ち着いた。
ジエ
ほら、私はちゃんとここにいるでしょう?
安心してください……
実は最近、ある夢を見たんです。私たちの未来に関する夢を。
シュウちゃんが語っていた真っ白な夢とは違って……私が見たのは違う未来でした。
家族一人一人が、本当の自分として生きている未来です。
その光景はまるで本当のことのようで、夢には見えませんでした。それどころか、予感がしたんです……
あれは、ただの夢なんかじゃないって……
リャン
やあ、ニェンのお嬢ちゃん、久しぶりだね。
ニェン
よお、まん丸頭。なんで現場監督がオメーなんだ?
オメーんとこの親方はどうした? またどっかでサボってんのか?
リャン
それは誤解だよ。百灶を移動都市に作り変えると聞いて以来、都市の設計に奔走していてね。一番忙しい時期だと、丸々一ヶ月も眠らなかったくらいだ。
ニェン
へえ、のんびり屋がそこまで本気になることもあるんだな。
リャン
これは炎国初の移動都市であり、重大な意義を持つと言っていた。都市に残るあらゆる設計に、熟慮が必要だとね。
だからこそ、ニェンがその設計に手を出す前に、先んじて完成させねばならないそうだ。
ニェン
はあ――!
イーの奴め、こっちは良いもんが見つかったら、いつもあいつに分けてやろうと気にかけてやってんのに、まさか裏でそんな悪口言ってたのかよ!?
あいつ今どこにいるんだ? これはじっくりお話をしねーと――
リャン
今は寝てなかった分を取り戻してるよ。
もう十日も眠り続けている。しかし工部との約束によれば、正門の設計案の提出期限は今日なんだ。
ということで、どんな手を使っても、工部の者を外で食い止めるよう命を受けている。
ニェン
あははっ……! やっぱりな、それでこそ私の知るイーだ。
……
リャン
まだ他に何か?
ニェン
イーの奴は、まだぐっすり寝てるって言ったよな……
ふと思い出したんだが、何十年か前、確かあいつが隕鉄の塊を拾ってきたことがあったはずだ……まだ庭園に残ってんだろ。どこにあんだ?
リャン
お嬢さん……私は彼から任務を預かっている身だ。今日は工部の官吏だろうと、君だろうと、界園内に入れるわけにはいかないよ。
ニェン
なんだよ、やけにいい子ちゃんじゃねーか。本をただせばオメーのその身体を作る材料を用意したのは私なんだぜ? 道理から言や、私の言うことだって聞くべきだろ。
いいからごちゃごちゃ言わずに、さっさとそこをどいてくれ!
リャン
お嬢さん、そういうわけにはいかない……どうか私を困らせないでくれ――
工部役人
リャンさん、ニェンさん、侍郎より至急、禁城でご相談があるとのことです。
ニェン
相談? 別にいいけど、そんな急ぎの相談なんかあるのか?
工部役人
百灶の工事で、いくつか問題が発生しまして……
本来百灶へ運び込まれる予定だった異鉄や源石などを含む、現在急ぎ補充すべき物資の輸送が軒並み滞っているのです。
そのため後続の工事の段取りが……完全に混乱しておりまして。
ニェン
ったく何やってんだ……
大丈夫なのかよ、工部の爺さん連中は!
工部尚書
どうなっている……一体どうなっているんだ!?
百灶の移動都市化は一大事業だというのに、なぜ着工でこんな問題が起こるのだ!?
都付近の馳道は常に整備が行き届いており、天災に見舞われたわけでもないのに、なぜ突然崩落などが起こる? それに都にこれほど近い場所で、何故賊の騒動などが起こるのだ!
懸念する工部役人
尚書様……確かにこれらの出来事は、あまりにも不可解です。
突如発生した崩落、それに忽然と消え去った後、本来あり得ぬ場所から再び現れた物資……
もしこれらの背後に何者かがいるなら、恐らくその者の目的は、人心を惑わすことにありましょう。
事実として、近頃は都でも流言が少なからず耳に届いてきます。多くの労働者が、この時期に移動都市の建設に着工することは、凶事だと信じています。
工部尚書
故意に人心を乱している者がいると? 誰がそのようなことをすると言うんだ。
苛立つ工部役人
失礼いたします。礼部尚書様が面会を求めています。
工部尚書
礼部? こんな時に何のつもりだ。工部を笑い物にしに来たか?
苛立つ工部役人
礼部尚書様曰く、工部が近頃多忙を極めているのは承知の上だが、現在発生している問題は工部だけの問題ではないと……
司歳台監正
チュエン、来たか。
何の用件で呼ばれたかは分かっているな?
チュエン
大方……書刀の件ですか。
司歳台監正
そうだ。
君は我らが板挟みになっているこの窮地を、如何に解決すべきと見る?
チュエン
私としては、監正様が……陛下にいくらか彼女の口添えをすることで、書刀を返還できればと……
司歳台監正
ふっ。
チュエン
……
司歳台監正
続けてみろ。
チュエン
もし本当に数字を書き換えたいだけなら、彼女を間に挟まなければ済む話です。なぜここまで……大事にする必要が?
司歳台監正
実に興味深いものだ。前任の持燭人も、「代理人と親しすぎる」という理由で弾劾され、職を辞して故郷で隠居することになった……彼女の人を惹きつける力は確かなようだな。
チュエン
彼女……いえ、代理人は確かに変わり者揃いですが、炎国に害を成そうと考えたことは一度も――
司歳台監正
炎国に積極的に害を及ぼさぬ限り、他の者の奇行は、我々も容認できる。
だが彼女は……
君は理解をしておくべきだ。自分がどのような存在と付き合っているのか、そして彼女の権能が、炎国にとって一体何を意味するのかを。
監正はまだ奉呈していない書類をチュエンの目の前に放り出すと、墨を含ませた筆を彼女に手渡した。
司歳台監正
試してみよ。
あの代理人を避けられると思うのなら、やってみろ。その書類の数字を好きなように書き換えるのだ。
礼部役人
陛下……百灶の工事用物資が損害を受けた件について、礼部と工部での共同調査が完了しました。
調査に携わった者の見解は一致しています。一連の事故は、人為的に引き起こされた可能性が極めて高く、さらに……その裏には糸を引く首謀者がいると。
物資はすでに順次百灶へ到着しています。工事の遅れにつきましては、工部が何とか挽回するとのことです……
真龍
なぜ話が途中で変わった。
首謀者の存在を疑っているのなら、疑わしき者もあるだろう?
礼部役人
……
緊張した官吏は帳の向こうの影を直視できなかったが、視界の端で、最も尊き御方が文机の前で、何事かを書き記す姿が垣間見えた。
真龍
誰も彼もが、機を見て私に挑戦状を叩きつけてきたというわけか。
我こそは炎国の喉舌であると示してくる女。それと、少し策を施すだけで炎国の大がかりな工事を妨害することができ、工事を円滑に進めたくば、自分の首肯が必要だと示す男。
いつの日かその気になれば、奴ら二人で炎国の全軍を寝返らせることもできるのではないか?
礼部役人
陛下、これは由々しき事態です。もし本当に代理人の仕業であるなら、ただちに司歳台に厳正な処分を命じさせましょう。
真龍
……
まだ必要ない。
しばしの沈黙の後、帳の向こうの影は筆を置いた。
真龍
字の鍛錬には長い時を要するとは分かっているが、どうも上達する気がしないな……
だが理解したことはある。かつて、太師がなぜ私に多くの時間をかけ、この一事に励むよう求めたのか。
腰を据えて耐える胆力が必要だからだ。
青年の真龍は目の前の紙に残る墨跡をしげしげと見つめた。どう見ても気に入らないようで、眉間に深いしわを寄せる。
今夜明月人尽望
彼は傍らの書刀を手に取ると、目を引く「望」の字を削り取る……
瞬く間に、紙面は何もなかったかのように真っ白に戻った。
真龍
妹は愚かだが、本人はなかなかに聡い男だ。表向きの体裁を整えるために、物資を百灶に届けることくらいは心得ている。
妹のために声を上げると言うのなら、私がその兄妹愛を叶えてやろうではないか。例の数字は彼らの好きにさせよ。
この品については……
そうであるな。当初は、この書刀で何がしかを行おうと思ったが……
やめだ、返してやろう。
チュエン
ジエ……
君の書刀は、司歳台がすでに取り戻した。
ジエ
……
ありがとう。
チュエン
ジエ、本当にすまない……
ジエ
失くした物を取り戻してくれたのに、どうして謝るんですか。
気にしないでください。元に戻って来てくれただけで十分です。
チュエン
今回の件は、結局のところ私の不手際だ。
……ジエ。実は、ずっと聞きたいと思っていた。
君は書刀で歴史を削るつもりはないと言い、この数年は、誤字を直すことにすら使おうとしなかった。では、これを手元に置き続けているのは、一体何のためなんだ。
ジエ
忘れたのですか? その質問は、あなたが来て三ヶ月目の頃にもしていましたよ。あの時、書刀で誤字を修正することを許さなかった私に、あなたは文句まで言っていましたよね。
チュエン
そ、そうだったか? ……よ、よく覚えていない。
ジエ
衍獣のエルフに関する記述がようやく正されたそばから、あの時の初心を忘れてしまったんですか?
チュエン
いや、私はただ……
ジエ
いいですか。過ぎたことを変えられないのは事実です。でも、だからといって過去の過ちを無視したり、誤魔化したりしてもいいというわけではありません。
私がこの書刀を残しているのは、過ちは正す機会があるということを、人々に覚えていてほしいから。それだけです。
チュエン
ああ……分かっている。
チュエン
一文字も直せない……紙を破っても、線を引いて文字を消しても、すぐに元に戻ってしまう――どうして!?
どうしてこんなことに?
司歳台監正
見ての通り、それが彼女の権能だ。
百年以上前は、ここまで厄介ではなかったのだ。あの時すでに、彼女を太史閣から遠ざけ、史書の編纂に携わらせるべきではないと主張する有識者がいた。
本人は不満も見せず、自ら進んで天鏡閣に移り、校閲の仕事に就いた。学宮での授業も大幅に減らし、次女と同じように、顧問として顔を出すことが多くなった。
だが、彼女の一目見たものをすべて記憶する能力、歴史への執着、そして果てしない寿命は、歴史家にとっては、あまりに大きな誘惑だったのだ。
いつしか皆が決して過ちを犯さぬ者の首肯を待つようになり、彼女も喜んでより多くの仕事を引き受けるようになった。その手を経た書類や史料も次第に増え続け……
そしてついに、今日に至って、彼女の手を経た史書や文章は、彼女が望まぬ限り、書き換えることはできなくなった。
チュエン
……
司歳台監正
君がやけに気にかけている書刀だが……ジエが初めてこれを手にした時は、ごく普通の書刀に過ぎなかった。
だが数百年の後、ジエの肌身離さぬ私物となった頃には、もはや竹簡を削らずとも、文字を書き換えられるようになっていた。
それから二百年が過ぎ、この書刀はとある代の『真龍の実録』の一頁を誤って削ぎ落したことがある。
その実録は普段閲覧されることもなく、実際に当時を知る者も皆この世を去っていた。そのため粗忽な史官が軽く一削ぎしただけで、その頁に記されていたことは人々の記憶から消えた。
この件については、実録の写しがなかったことも要因ではあるが、ジエの能力が年々強まりつつあることも、また事実だ。
今この瞬間、もしも司歳台やジエがあの書刀を用い、世のために一字や一句、果ては記憶の一片でも削ぎ落とそうとしたならそれが招くのは……これは決して冗談ではない。
なにより、書刀がジエの力にいくらか中てられただけに過ぎない。本人の力が果たしてどれほどの速度で増しているかは、言うに及ばないな。
炎国の歴史が厚みを増せば増すほど、歴史と共に生きる彼女はますます御しがたい存在となる。
この先百年、千年が過ぎてもなお、今と同じように歴史の中に身を浸し続けるのであれば……彼女は歳獣本体をも凌ぐほど強大で、恐ろしい存在となるだろう。
長命の持燭人はその場に立ち尽くしたまま、今しがた聞いた言葉を信じられずにいた。
チュエン
もう大丈夫だな。私は先に天鏡閣に戻る。
ジエ
ええ、気をつけて帰ってくださいね。
ウァン兄さん……?
ウァン
無事か……
ジエ
問題ありません。
兄さん、あなたはやっぱり……
ウァン
……
二人は黙り込んだ。長い時を過ごす中で、彼らは互いの間に流れる呼吸の合った沈黙にすっかり慣れていた。
だがジエはこの時、傍らの者の瞳の奥にある感情をはっきりと読み取っていた。
内に秘めて漏らさぬ怒りを。
ウァン
これは百余年前の旧事だ。当時、あの書刀を巡って、炎国と争いになったことも覚えている。
今回、お前が私に見せたかったものは何だ?
お前はいつか無謀にもこの夢の中に踏み込み、引き裂くのだろうと思っていた。
自らを策士と名乗るお前が、よもや見抜けなかったとは言うまいな。お前たちの結末が、あの時如何にして禍根を残していたかを。
人心の向背は……
ウァン
……お前に言われるまでもない。
あの時お前は、私とあの真龍との対立に手を出してはいなかったのか。
それを知ってどうする? 墓穴を掘ったのはお前自身だ。我が手を下すまでもなかった。
それに、あの出来事が如何にして彼女の最終的な死へと繋がったか、お前はまだすべてを見てはいない。
終局は間近だ。覚悟はできているか?