理想とは
1098年
p.m. 1:03 天気/曇天
ロンディニウム 聖王会西部大広間
ロンディニウムがまだ移動都市ではなかった時代から、聖王会西部大広間はすでにここにあった。
初めは西部大広間という名前にすぎなかった。ドラコの王室はこの宮殿に臣下を招集して、お気に入りの黄金やルビーで外壁を装飾したりもした。
そうした装飾は三百年前の大火ですでに焼失している。しかし建物の骨組みは残り、初代アスラン王の戴冠式を見届けた。
その後、ドラコ王とアスラン王が共同して築いた平和と繁栄を記念して、ここ西部大広間は正式に聖王会西部大広間へと名が変えられた。
遡ること二十六年前、最後のアスラン王はまさにここで議会軍に捕縛された。
そして今、ここはもうヴィクトリア議会の集会場ではない。
会議机の前に座っているのはたった一人――ドラコでも、アスランでもなく、一人のサルカズである。
テレシス
……
端末の声
……ゴドズィン公爵にいまだ動きはありません……子爵暗殺以降、領地内での我々の行動は厳しく制限されております……
……ノーマンディー公爵の邸宅では毎晩華やかなパーティーが開かれておりますが、鋼材の流れに極めて疑わしい点があるうえ、諜報員の中に成果を上げて戻った者もおりません……
……ダブリンの声は、ウェリントン公爵の高速戦艦の轟音に隠れており、鉄公爵の領地に深く入ることは今でもできません。しかし他の公爵がかの老将を牽制できずにいるのは間違いありません。
……侯爵および他の徒党はようやくスタッフォード公爵が残した遺産を諦めました……カスター公爵は、新年の前夜にその者たちの使節と贈り物を受け入れました……
……各大公爵は昨年の冬以降動きが活発になってきております。これは彼らがまもなく「結論を出す」合図かもしれません。ロンディニウムの準備速度は依然……申し訳ございません、少々お待ちを。
なに? 本当か……リターニアが? 三日前? 遅すぎるぞ! ……はい、どうやら彼らの外交講和がようやく成果を得たようです……
ええと。新たな暗号文の変換が只今完了しました。前線からの情報です、将軍。緊急なお知らせですが……
女帝の声が三日前、人目を憚ることなくウィンダミア公爵の領地を離れました……えー……
……双方の接触を即座に察知できませんでした。ですが、今日……
ある都市……ある要塞が航路を調整し、ロンディニウムに向かっております。ここ二年で我々に最も近づいております……えー……
リターニアとヴィクトリアの国境から直行しており、峡谷に接近、ええ、はい、選帝侯の大敵……ウィンダミア公爵の軍です。
ウィンダミア公爵は、対外的には……「天災を避けるため」だと発表しております。
沈黙が再び大広間を包む。しかしこの瞬間、テレシスはきつく閉じた眼の中に、ロンディニウムの外の濃霧を見た。
濃霧が晴れれば、予定していた通りに戦争へと突入するだろう。
靴音が、テレシスの思考を遮った。
彼は目を開けざるを得なかった。
???
テレ……
......
テレシス。
テレシス
――
そなたであったか。
テレジア
寝ていたの?
テレシス
……かもしれぬ。
ヴィクトリアの公爵たちはいずれも狡猾である。彼奴らが念入りにふるいにかけ、ロンディニウムに流れてきた情報の一つ一つが、サルカズの足並みを乱してきよる。
この駆け引きの中で、我らは優勢を占めているわけではない。だがしかし、劣勢になったこともない。
テレジア
軍事委員会の仕事が尽きることはないわ。私たちの歴史はもろく、情報に対するいかなる指示の過ちによっても、カズデルの復興は永遠に叶わなくなるわ。
そして今……今、私たちがロンディニウムに身を置いても、状況にあまり変化はない。あなたも変わらず疲れきっているわ。
テレシス
いいや、一点変わった。
そなたがここにいるであろう。
テレジア
……ああ。
そうね、私がここにいるわね。
テレシス
そなたが私の首を取った後の様々な可能性を、考えたことがないわけではないのだ。あるいはそなたであれば、私よりも手際良くやるかもしれぬ。
テレジア
それは、あなたが考えるようなことではないわ。マンフレッドが提示した仮説に過ぎないでしょう。
テレシス
私は常に異なる声を必要としている。
テレジア
何を考えているの?
テレシス
……夢だ。
テレジア
ん?
テレシス
ある夢だ。我々はやはりロンディニウムにいるが、敵対するつもりで武装を行ってはいない。
塵霧がこの都市を覆い、黒い石がそこかしこに生え、そしてサルカズ……サルカズは天災と人々の間で壁になっている。
天災が過ぎ去ったあと、ロンディニウムの城門は我々のために開かれて、ヴィクトリア人は道の両端に立ち、歓声を上げて我々の来訪を迎え入れるのだ。
我らがこの宮殿に足を踏み入れると、玉座に座っていた者はこの身の黒い石を忌むことなく、我々と握手を交わした。
そして彼奴らはサルカズをこう呼んだ――
「友」と。
テレジア
とても不思議な夢ね。
テレシス
それだけではないのだ。
ブラッドブルードとナハツェーラー、そしてウェンディゴが共に肩を並べて、ウルサスよりもさらに北方へと足を踏み入れ、化け物の破片を寒空へと投げ返した。
バンシーと変形者がイベリアよりもさらに南方へと向かい、海からの脅威を果てしない水中で防ぎ止めた。
無数のサルカズがこの大地のために犠牲となり――
アスラン、ドラコ、フェリーン、キャプリニー、リーベリ……皆が皆サルカズと共に在るのだ。
テレジア
共に在る?
テレシス
そうだ。その夢では、サルカズは排斥される漂流者ではない。大地が我らを抱擁し、我らはまた新たな根を張ったのだ。
テレジア
その夢……
テレシス
これは私の夢ではない。
これらの光景は、かつてそなたが私に思い描いたもの……サルカズが有し得るかもしれぬ未来である。
テレジア
覚えているわ。
でも、あの時あなたはこう言ったわ。私の理想ははるか遠すぎる、私たちのかつての敵だけでなく、サルカズも私のことを理解できないだろうと。
万年積もった恨みはあらゆる武器となって、それらすべてが私に向けられると。
あなたは、私がサルカズを連れてその未来にたどり着く前に、内部の戦火でサルカズが引き裂かれる可能性の方が高いとも言ったわ。
テレシス
しかし、そなたはいかなる可能性も諦めようとしなかった。たとえそれが生まれたばかりの火種であってもだ。
テレジア
……
テレシス
……そなたは、かつてこうも言ったであろう。
この大地は、かつてサルカズだけのものであった。先民と神民が我らの祖先の手から故郷を奪ったのだと。
レヴァナントは、まだサンクタの裏切りを囁いている。王庭は秋葉のごとく衰え、血脈は悲しみの叫びの中で失われていく。罪人たちは滑稽なほどに歴史を忘れ、カズデルの廃墟はテラの至る所にある。
そして、彼奴らは、こう騒ぎ立てる――
――「サルカズが我々の故郷を侵した」と。
テレジア
……
テレシス
では、サルカズは闘争を信じようではないか。我らの運命を一つに束ねるのは闘争であって……
……平和ではないのだ。
平和は不公平である。統治もまた共存の手段であるのだ。
テレジア
テラは、あれら古の問題を迎える前に自滅するわ。
テレシス
しかし、我らの故郷はシーボーンの大群より壮麗となり、我らの巫術師は北の邪悪を抑え、我らの知識に及ばぬところはなく、源石を取り除き、天災を消滅させるであろう……
その前に、サルカズは答えを出さねばならない。
テレジア
そう……そうね。
テレシス
このような対話は数え切れぬほど行われてきた。だが今、そなたは彼奴らの声を明瞭に聞き、古の魂の触手に確かに触れることができる。では答えてくれぬか、テレジア――
――この万年来、ティカズの全ての生者と死者の意志は、生と死の彼岸を越え、一時の安らぎを得られたことがあるのか?
テレジア
……
私はもう失敗したわ、テレシス。
テレシス
そなたが、あと一歩及ばなかったが故に。
テレジア
今この瞬間ここに立っているのが、私たちであるが故によ。
テレシス
ここ……
ロンディニウム。
答えよ、テレジア。
ザ・シャードの頂上からこの都市を眺めた時、そなたは何を見た?
テレジア
ヴィクトリアは、非常に創造力にあふれる国よ。
テレシス
疑う余地もない。わずか数百年の間で、移動都市を建設し、天災を抑え、ひいては嵐までも掌握しようと試みたのである――
そして、あの白い蒸気を噴出する騎士たちだ。二百年前、カズデルに足を踏み入れた鉄鎧の屈強さは、その後私が見たあれにはるか及ばなかった。
テレジア
あぁ……それは特殊な血が私たちの多くの人に、あまりにも長い歳月を与えたからかもしれないわね。
戦争の合間に顔を上げてみると、サルカズ以外の誰もが前進していることに、ふと気付くのよ。
テレシス
否、個体の寿命の長短とは無関係である。
彼奴らに前進する機会があるのは、過去に彼奴らだけが平和と戦争のどちらかを選択する自由を享受していたからにすぎぬ。
テレジア、ロンディニウムを目にする時、私はこの国がどれだけの機会を逃しているかを見た。
ヴィクトリア人はサルカズを野蛮であると蔑み疎むが、その実はただ自らが設けた文明のルールでもって、骨に刻まれた貪欲と暴力を飾っているにすぎぬ。
彼奴らは片時も止むことなく互いに噛みつき、貪り合っているではないか。最終的に彼奴らが作り出したすべてが、己の手の中で滅びゆくのだ。
故にこそ、我らは自由を獲得するこの機会を勝ち取ったのだ。
テレジア
たとえ希望がわずかであっても?
テレシス
――
いかなる可能性であろうと、私はこの手から逃しはしない。
テレジア
ええ……その点において、私たちは昔から似ているわね。
1098年
p.m. 1:34 天気/曇天
ロンディニウム オークタリッグ区 カンバーランド公爵邸
クロヴィシア
アーミヤ、ドクター、都市外のトランスポーターから重要な知らせが入った。サルカズの主力部隊がロンディニウムへの帰路についたそうだ。つまり、奴らが公爵部隊と開戦する可能性が極めて高い。
これまでに得た情報から判断すると、たとえサルカズの主力部隊がロンディニウムに戻ってこようが、公爵全てを正面から相手取ることはできない。
サルカズが今動くことを選択したのは、戦局を左右できる鍵となる力を掌握したと、奴らが認識したからだろう。
クロヴィシア
サルカズに占領されたあの建造物か? あそこに武器が隠されていることを知っているが……戦局を左右するほどのものなのか?
アーミヤ
そうです、クロヴィシアさん……ザ・シャードの頂上で渦巻く嵐のことに気付いたことはありますか?
クロヴィシア
うむ……あの雲はどこか異様だ。
アーミヤ
私たちが得た情報によれば、あれはただの嵐ではなく、ザ・シャードが誘発した天災なんです。もちろん本当の天災とは異なりますが……
クロヴィシア
サルカズは、天災を引き起こそうとしているのか? 奴ら自身がいまだロンディニウムにいるだろう、この都市を滅ぼすことは奴らにとってどんなメリットがある?
クロヴィシア
……うむ。
アーミヤ
ザ・シャードが引き起こす事象は、私たちの根拠のない想像ではないんです。この武器……この技術こそが、ロドスがロンディニウムに入る主要な目的なんです。
クロヴィシア
……そうか、ロドスはロンディニウムを覆う塵霧のためにやってきたのか。
アーミヤ
はい、これは単なる比喩ではありません。
万一テレシスがザ・シャードを起動すれば、彼は戦火と嵐を同時にサルカズの敵と見なす者に向けます。
人為的に発生した天災の動向を予測できる天災トランスポーターはいません。このような天災の打撃から逃れられる移動都市は、一つとしてないんです。
無数のサルカズとヴィクトリア人が、この戦争の中で命を落とすことでしょう。そして生き延びた人はもっと悲惨です。ほとんどのみなさんが感染者になってしまうのですから。
アーミヤ
そして……ザ・シャード、これは辺境ではなく、一国の首都であるロンディニウムに設置されています……
クロヴィシア
それが意味するのは……
クロヴィシア
サルカズ……あれらはヴィクトリアの力を用いて、ヴィクトリアを滅ぼすのか。
もし本当にそこまで事態が発展したなら、自救軍がこれまで行ってきたすべてが徒労に終わるだろう。
たとえ我々がロドス同様に、天災から人々を救出できたとしても、ロンディニウムと我々の生活は、決して過去と同じには戻らないだろう……
アーミヤ
クロヴィシアさん、ロドスは自救軍にとても感謝しています。もしあなたたちがいなければ、私たちは中央区に無事入ることはできませんでした。
でも、私もドクターもみなさんに嘘をつきたくありません。これからザ・シャードに接近するために我々がどのような計画を立てたとしても、この先の戦いは簡単なものではないでしょう。
仮にロドスが数日の間でテレシスを阻止できなければ、全面戦争が始まり、大公爵たちは必ずロンディニウムへと進軍します。
もし自救軍が公爵軍を待つのであれば……
クロヴィシア
……アーミヤ、我々にはできない。
私は織物を生業としていた商人の娘にすぎない。私だけでなく、ほとんどの戦士がただの一般市民だ。
我々の中には、工場労働者や農民、手工業者、商人がいる。我々の出身はそれぞれ異なり、自救軍を結成した唯一の目標は、一刻も早くサルカズをロンディニウムから追い出すことだ。
したがって、自救軍がすべての希望を大公爵に託すことはない。そうするくらいならば、我々はもとより立ち上がっていないからだ。
さらには、もし本当にそこまで事態が進んだとしたら、最も恐ろしいのはザ・シャードを掌握したサルカズではなく……もう何も失う恐れがなくなった大公爵たちの方だろう。
アーミヤ
では……自救軍はここで作戦を中止するつもりはないのですね?
クロヴィシア
……ああ。
むしろ、戦争が始まろうとしている今、ロンディニウム内に身を置いている自救軍にしかできないことがある。
クロヴィシア
我々の考えは同じようだな、ドクター。
公爵部隊と開戦するのであれば、サルカズは必ずロンディニウムの守りを固める準備をしているはずだ。
鋼の要塞として、この都市はある程度の自給自足なら可能だ。しかし都市内におけるサルカズの行状、すでにその負荷を超えている。
サルカズは、以前のロンディニウムの主のようにはいかない。奴らはヴィクトリアの他の都市から、いかなる支援も公に受けることはできないのだ。
対照的に、公爵部隊は各々が好きなように行動しているものの、それぞれの領地から絶えず補給を得ることができる。
アーミヤ
補給ルート……サルカズだけの、隠し補給ルートが存在しているはずです。
ザ・シャードを完成させるのも、何年もかかる大がかりな計画ですから、ロンディニウムで生産される材料だけに頼っていてはほぼ不可能です。
サルカズの補給ルートがあるなら……その出発点は都市外に。そして終点は……サルカズのために武器を製造しているロンディニウムの軍事工場内でしょう。
クロヴィシア
そうだ、もし我々がその補給ルートを見つけられれば……
クロヴィシア
そのようだな、ドクター。
クロヴィシア
自救軍の中にハイベリー区に詳しい戦士がいる。
クロヴィシア
ドクター、キミは彼と親しいはずだ。
クロヴィシア
ああ、彼が今回の任務に最も適任だろう。
クロヴィシア
しばしの準備の後、彼が各位を連れてサルカズの視線を避けつつ軍事工場へと向かってくれる。
クロヴィシア
……都市防衛軍指令本部だな。
クロヴィシア
あの司令塔は、オークタリッグ区とハイベリー区の境界に位置し、ロンディニウム都市防衛システムのネットワーク全体を管理している。
補給ルートがロンディニウムを通るのであれば、必ずシステムに記録が残る。
クロヴィシア
防衛軍の指揮官レトは数年前にサルカズに投降している。
裏切り者の支持を得たところで何の意味もない。都市防衛軍の司令塔を襲撃するのであれば、システム権限を奪取する別の方法が必要だ。
もちろん……そういった方法よりもまず、我々に差し迫って必要なものは新たな武器だ……サルカズが再び視線を都市内に向ければ、我々の補給が困難になる。
アラデル
物資は私が何とかするわね。ロンディニウムを正常に稼働させるために、数はとても少ないけど、一部のヴィクトリア商人がサルカズに奉仕しているのよ。
クロヴィシア
アラデル?
アラデル
……でも、あなたたちにも手伝ってほしいことがあるの。
クロヴィシア、ロドスがアルトリウスの遺品をロンディニウムに持ち帰ったわ。
クロヴィシア
アルトリウス? ドラコ王室の末裔の苗字だな……
アラデル
その通り。すでにドクターとアーミヤさんに確認してもらったわ。あれがアルトリウス家の鍵であるのは間違いない。
アラデル
あの鍵なら……諸王の眠る地に続く扉を開けることができるわ。そうすれば、国剣「諸王の息」を手に入れることができる。
クロヴィシア
……
アラデル
国剣の有する意味は、一般的に想像するものをはるかに超えているのよ。私を信じてちょうだい。
あれは単に象徴と定められた、きらびやかな鉄塊ではないの。もしもザ・シャードがロンディニウムの未だ完成させていない、壮大な願いだとすれば……
国剣と諸王の眠る地の真相こそが、ロンディニウム最後の切り札であるはずよ。
クロヴィシア
国剣にそのような秘密があるのか?
アラデル
ごく一部の貴族……そしてヴィクトリアの王室だけが知っている事実よ。そして私はカンバーランド家の者。わかるわね?
クロヴィシア
……キミを信じよう。諸王の眠る地は我々からすればほとんど伝説上の存在だが、王室の鍵でその扉を開けられるのであれば……
アーミヤ、ロドスは一体どのようにしてその鍵を手に入れたのだ……うむ、聞くべきではないか?
アーミヤ
この鍵の来歴に関して、秘密にするつもりはないんですが……
これはロドスのものではないんです。私自身が関わっていない、また語ることもできない多くの物語があります。
ロドスがこの鍵を手に入れた経緯については、もし興味があれば、いずれゆっくりとお話ししますよ。
クロヴィシア
感謝する、アーミヤ。
私は、ただ……とても驚いただけなんだ。アルトリウスの遺品と……ザ・シャードの真相……
まるで、ロドスは何年も前から、今日ロンディニウムにやってくるための準備をしてきたみたいではないか。
しかし今はそれについて、深く探りはしない。ほかの者にも探らせたりしない。そのようなことをしたら、決して欠くことのできない盟友を失ってしまうことになりかねないからな。
アーミヤ
……
クロヴィシア
ふぅ……アーミヤ、ドクター、他に話しておきたいことはあるか?
シージ
……ある。
シージ
クロヴィシアさん、私の出自について、話しておきたいことがあるんだ。
アーミヤ
……花。ドクター、この花を見てください。
すくすくと育っていますよ。
ロンディニウムの中心、サルカズに占領された都市に、まさかまだこんな場所があるなんて……
アラデル
あなたたちの言う通りよ、ドクター、アーミヤさん。
カンバーランド公爵邸はここ数年でいくらか寂れたけれど、ここは依然ロンディニウムを象徴する建築物の一つなの。
私は、領地にある家の印象はあまりないのよ。子供時代の記憶は、どれもこの場所と関係するものばかりなの。
この場所を放っておこうと思う人はいないのは、わかるでしょう?
アーミヤ
アラデルさん!
アラデル
殿下は、クロヴィシアにすべて打ち明けるつもりよ。でもまさかあなたたちが殿下の正体を知っていたなんて、その点は予想外だったわ。
アラデル
フフッ……意外な答えね。殿下の正体を知りながら、あなたたちロドスは……彼女をグラスゴーのリーダー・ヴィーナとして接しようとするのね。
アラデル
クロヴィシアとヴィーナには時間をあげましょう。わかってると思うけど、貴族をどう扱うかについて、自救軍の考えは統一してないの。殿下には……話さなければいけないことがたくさんあるわ。
あなたも私に聞きたいことがあるんでしょう。ミステリアスな子ウサギちゃん? 商人たちを相手にしに行く前に、謎めいたロドスともっと交流を深めたいわ。
アーミヤ
アラデルさん……この公爵邸は、本当に安全なのでしょうか?
アラデル
うん。ごもっともな疑問ね。
サルカズが中央区の貴族を排除しなかったのは、当然目的があってのことよ。ロンディニウムはとても大きな都市だから、彼らが気にしなければいけないことは多すぎるの。
アラデル
でも……アーミヤさん、戦争のただなかでなんとか五体満足で生き延びるために、私たちは大きな代償を払ったの。その中で最も価値がないのは、尊厳と呼ばれるものよ。
アーミヤ
……
アラデル
……機会があれば、ロドスに詳しく話してあげるわ。でも今は、どうか信じてちょうだい。この公爵邸と私を監視しているサルカズのスパイは、私たちの支配下にあるの。
奴らは、仲間に私の息がかかってるなんて知りもしないわ。我々ロンディニウム内の貴族は、都市内部で孤立した後、武器を失ったと誤解してる。でもそれは間違いよ。
アーミヤ
サルカズの監視に抵抗する手段をまだお持ちなんですか?
アラデル
……今のところね……
アラデル
いいえ、殿下が自救軍に正体を明かすと決めたのなら、私も隠すべきじゃないわね。
我々の協力関係がつつがなく続くように、みんなに保証するわ。カンバーランド家では、今も都市外と連絡を取れるだけの人手が確保できるのよ。
アーミヤ
でも、サルカズもバカではありません。彼らは戦争を知り尽くしています。
アラデル
それは正しいわ。でもさっき言ったように、ロンディニウムはとても大きな都市なの。奴らは人手不足なうえに孤立無援、必ずつけ入る隙がある。
アーミヤ
……はい。
アラデル
私の答えでは満足させてあげられないようね?
アーミヤ
いいえ。アラデルさん、私はただ……
あなたが、あまりに多くを背負い過ぎてないか心配なんです。
アラデル
……え?
アーミヤ
もしヴィクトリアに、今のロンディニウムを統べる方法があるのなら……
いいえ……きっとあったはずです。
ですがもし本当あったのなら、ずっとできる力があったのなら、これだけ長い間ヴィクトリアは一体何をしてきたんですか、あなたに何をさせてきたんですか?
アラデルの表情が刹那の間、明らかに変化した。
その一瞬によぎった感情は、アーミヤから見ると無限に引き伸ばされる。それは単なる怒りや警戒でも、狼狽でもなく――
悲しみだった。
苦しくなるほど馴染みのある悲しみだった。
アーミヤ
……アラデルさんごめんなさい。出過ぎた発言を許してください。
クロヴィシアさんのおっしゃる通りです。私たちは互いに根掘り葉掘り問いただす必要はありませんね。それではむしろこの複雑な局面の中で前へ進むことが難しくなってしまいます。
ですが、できることなら……
自分を抑えつけないでください。そのような結末を、私たちは何度も見てきました。
アラデル
……
アーミヤ
アラデルさん? も、もしかして話が重すぎましたか……
アラデル
……いえ。ロドスにはほんと何度も驚かされるわ……どうやら私は人を見た目で判断していたようね。
アラデル
あなたが、こんなタイプのリーダーだとは思ってもみなかったわ。私よりも十歳以上は年下なのに、あなたの表情を見れば口先だけではないのはわかるから。
アラデル
それに……フフッ、私のことを見抜いた上で、さらにクロヴィシアと私よりも先に、ザ・シャードの秘密を言い当て、赤き龍の鍵まで持ってきた……
アラデル
正直言って、殿下の保証がなければ、私はサルカズよりロドスを警戒していたでしょう。
アーミヤ
ロンディニウム……いえ、サルカズは、私たちにとって、確かにより多くの意味を持っています。
アーミヤ
だから私たちはここにいるんです。
アラデル
……なら、あなたたちはここへ、何のために戦いに来たの?
殿下が、ロドスについてかいつまんで教えてくれたわ。あなたたちはサルカズと複雑な関係があるのよね。
でも聞いた話だと、ロドスはこれまで、常に「感染者」のために行動してきたんでしょう。
アーミヤ
はい。
アラデル
それならば、今のお二人は、きっとより多くの考えを持っているのでしょう、ロドスのリーダーと指揮官さん。
アーミヤ
……
おっしゃる通り、ロンディニウムに関わる多くの人と事柄が、私たちと密接に関係しています。
ただ私個人にとって……そしてドクターにとって、真相と過去という二つだけで、すでに行動する理由としては十分とも言えます。
アーミヤ
ですが、私たちは多くの経験をしてきました。その経験が私たちがこの争いと災いを軽視することを、あるいは私たちの個人的な感情をこの大きな問題よりも優先することを許さないんです。
だから私たちは大地に災いを及ぼす戦争を止め、ヴィクトリアの災害の爆心地を取り除くんです。
一つの国の滅亡を阻止し、本来見つけることができるはずの生きる望みを見つけるんです。
被害に遭った感染者を、労働者を、そしてサルカズたちを助けるんです。
アーミヤ
アラデルさん。私たちは「人」を助けに、ここに来たんです。生きている一人一人、生きていく権利を持つ一人一人を。
多くの人に受け入れられるその結末が訪れて初めて……過去の真相に意味が生まれるんです。
アーミヤは、揺るぐことなくそう言い終えた。
わずかに驚愕をにじませたアラデルの眼差しの中で、アーミヤは思わず自問した。
これは自分の最も誠実な考えだ。そこに疑いの余地はない。
自分と共に歩んできたオペレーターたちも、きっと心に同様の確固たる信念を抱いている。ケルシーに至っては一人で、理想がもたらす重圧を背負っているのだ。
ではそうした考えの始まりは? 多大なリスクも顧みず、ロドスはこの政治の渦の中心へと赴くことを決意した。これほどまで大きな信念の火は、一体誰が灯したのか?
そして、もし――
――その答えをもってしても、目の前の問題を解決できなければ?