生死の論争

臆病な市民
来るな、来ないでくれ!
やせ細った男は、突然懐から何かを取り出して振り回し始めた。それは一本の万年筆だった。暗闇の中でも、軸に豪華な装飾が施されているのが見てとれる。
その絢爛さは、自称次期王立科学アカデミー会員にふさわしいものである。この万年筆は、かつて紋章学者の相棒として、素晴らしい論文をいくつも生み出してきたのかもしれない。
しかし今、それは震える手によって握られ、哀れで見苦しい武器に成り下がっていた。
男のコートから缶詰が一つ滑り落ちて、カンッという音を立てた。男は慌ててそれを拾い上げると、再びコートの中に隠した。
デルフィーン
……それ、私たちのところにある最後の肉の缶詰ですよね。
臆病な市民
えっと……
……すまない。
すまないが、私はもう耐えられない。頭が変になりそうなんだ! この封鎖エリア、この宙を漂う死人の粉塵、どこまでもまとわりついてくる死体の臭い、この全てが──
何度考えても分からないんだ。なぜ私がこんな暮らしをしなければいけないのか!
わ……私は社会的に栄誉がある立場なんだ! 羽獣のさえずりの音で目を覚まし、コーヒーを一杯飲んで、それから原稿を書く……そういう暮らしをすべき立場で……
なぜなんだ──あぁ、本当に申し訳ない。君たちはあんなにも助けてくれた、なのに……
許してくれ。どうか責めないでくれ。分かっている、こんなことはすべきじゃない。私は自分の道徳心を誇りに思っていた、使用人には優しくしていたし、外食ではチップを倍払っていたんだ……
だが私は……
もう耐えられない、本当にうんざりなんだ。何も理解できない、私はひどく混乱している……
デルフィーン
ではその缶詰を置いて、ここから離れてもいいですよ。
臆病な市民
交換しようじゃないか! 私はサルゴンの宝石を持っている、それにサンクタの守護銃も……
デルフィーン
残念ですが、私たちには無用の長物です。
臆病な市民
頼む、お願いだ──
男はさらに激しく震え出し、最終的には膝から崩れ落ちて、地面に跪いた。こんな風に誰かに懇願したことなどなかったのだろう。その姿勢はひたすら滑稽であった。
彼はコートを握りしめて、前をきつく閉じていたが、肉の缶詰を隠している場所は不格好に膨らんでいた。それは体に寄生した哀れな腫瘍のようでもあり、愛情を注がれるべき胎児のようでもあった。
ベアード
……
出口はあっち。正面の扉は閉じられてるけど、ベランダから出る方法は知ってるはず。
デルフィーン
ベアード!
ベアード
いい。行かせればいい! そのクソみたいな缶詰を持ってここから消えて! 二度と帰ってくるな!
私……疲れた。こんなのもう見たくない。
本当に……もう何も見たくない。
臆病な男はよろめきながら慌てて立ち上がった。だが彼はその場を去るのを躊躇している。ボクシングジムを管理するこのギャングがすんなり行かせてくれるはずがないとでも思っているようだ。
デルフィーンは、全身で怒りを表しながら男を見つめていた。彼は目をそらし無意識に体を探ったが、ポケットには対価となるものは何もなかった。金銭は今のノーポート区では何の役にも立たない。
そして彼は歯を食いしばると、固く握り締めていた万年筆を地面に置き、身を翻して暗闇の中へと逃げていった。
デルフィーン
……行ったね。
ベアードは万年筆を拾い、自分のポケットにしまった。
ベアード
……デルフィーン。
こっち来て座って。少し眠ろう。
あの頃、ビデオシアターにいた時みたいに。
パプリカ
……
サルカズ兵士
小娘、お前が新たに配属された傭兵か?
パプリカ
そ……そうっす。
サルカズ兵士
なら運が良いな、ここでの任務は楽勝だぞ。
あのヴィクトリアのクズどもが、壁を越えて逃げないように見張ってりゃいい。騒ぎを起こそうとする奴がいたら、始末しろ。
パプリカ
了解っす!
サルカズ兵士
ハッ! 傲慢なヴィクトリア人共も、とうとう運が尽きたな! せいぜい苦しめばいいんだ。俺的には、あいつらに斧でも渡して、身内で殺し合わせりゃスカッとすんだがよ!
パプリカ
そ……それって、規定違反なんじゃ……
サルカズ兵士
小娘、冷めること言ってんじゃねぇよ。あいつらの生き死にが俺たちと何の関係があんだ? 俺たちはサルカズなんだぜ?
だったら、楽しんだ方がいいじゃねぇか。
パプリカ
で……でも……
サルカズ兵士
チッ、まぁいい。俺は一眠りしてくるから、しっかりここ見張っとけよ。もし何かありゃ、お前のその小せぇ頭をかち割ってやったって別に構わねぇんだからな。
パプリカ
……
行ったっすよ。
サルカズの老人
ありがとうよ、お嬢さん。
パプリカ
今回はあんま持ち出せなくて。食べ物と薬がちょっとだけ……
サルカズの老人
十分だよ。ありがとう、本当に……
パプリカ
あんたもサルカズなんだし、助けたって問題ないっしょ。
だってうちらの同族だし……
おじいさん、うちから上官にうまく言っておこっか? そしたら、あんたはヴィクトリア人たちと一緒にいなくてすむかも。
サルカズの老人
大丈夫だ。私は生涯ここで過ごしてきたのだからね。ここが私の家なんだ。
パプリカ
ロンディニウムにずっといたんすか?
サルカズの老人
お嬢ちゃん、サルカズはどこにでもいるものだよ。あなたたちがロンディニウムに来てからは、私はホテルの支配人にまでなった……
私にとってはカズデルの方が馴染みが薄いんだ。行ったこともなくてね。お嬢ちゃん、あなたはカズデルから来たのかな?
パプリカ
いや、うちも行ったことないっす。
サルカズの老人
では、あなたの家はどちらに?
パプリカ
家? うーん……よく分かんない。生まれはクルビアだけど……前の隊長はカズデルこそが、うちらサルカズの家だって言ってたし。
サルカズの老人
だけど、あなたはそこへ行ったことはないのでしょう?
パプリカ
でも……分かんないっすけど、みんながそう言ってるし……
サルカズの老人
ハハッ、私は兵士たちが吹聴しているものについては、あまり興味がないね。彼らと一緒に人を殺すより、ホテルのシャンデリアを修理する方法を考えたいよ。
あのシャンデリアがまだ無事だった頃の姿を、お嬢ちゃんにも見てもらいたかったな。どんな貴婦人のアクセサリーだろうと敵いやしないくらい、キラキラしていたんだから!
若い頃、私は毎日自分の手で、とんでもなく時間をかけてあのシャンデリアをピカピカに磨いていたもんだ。
パプリカ
おじいさん……ガチで変なサルカズっすね。
サルカズの老人
人を殺すことよりシャンデリアが好きなのは変かい? すまなかったね、あまり傭兵さんとは付き合いがなくて……
しかし、私のために物資を持ってきてくれるあなたのような優しいお嬢ちゃんがいる……私はそれだけで十分幸せだ。
さて、そろそろ戻らないと。ここに長くいるのはよくないだろう。お嬢ちゃん、今度機会があったら、ぜひ私のホテルを見においで。
三、四十年前ノーポート区がまだ賑やかだった頃、我らがホテル・サンセットストリートは全ロンディニウムで一番のホテルだったんだ!
パプリカ
わ……分かったっす。
多分……行けるとしたら、この戦争が終わってからっすかね?
サルカズの老人
ハハ、そうこなくちゃね。その時にはうちで一番のデザートをこっそりサービスしてあげよう!
Logos
砕けよ。
変形者
こんな呪術、僕たちには何の意味もないんだけど。バンシーさぁ、この数日で、もう十分すぎるほど試したでしょ。
時間の無駄だって。君は僕たちという集合体を、本当の意味で理解していないんだよ。
君の知識はぜーんぶ学習から得たもので、実際の経験が少なすぎるんだ。
ねぇ、とりあえずさ、その骨筆を置いたらどう? 僕たちはただ君とお散歩したいだけなんだよね。
前に僕たちが変身した子爵が言ってたんだけどさ。今がこの都市の一番いい季節なんだって。
もっとゆっくり歩こうよ。中央区のこの街路樹は、ロンディニウムの自慢なんだよ?
Logos
変形者、うぬは己の運命にいかなる結末を選び取るつもりか。
うぬには多くの姿があり、多くの形が存在する。それゆえ常に死から逃れられると思っておる。
なれど我は、うぬへ挽歌を奏でよう。一つとして零さず、どれも余しはしない。全てのうぬに贈ろう。
変形者
あーおっかない。そんな風に脅さなくていいよバンシー。君がどんな手段を持ってるのかは、よく知ってる。
けど、僕たちにとって個体の死は終わりじゃないんだよね。通りが一つ無くなっても都市が変質したりしないでしょ? 文字が一つ消えても文明が崩壊したりしないでしょ? そういうことだよ。
Logos
しかし、文明はまた衰退し、落魄するもの。
変形者
だから僕たちは「更新」と「経験」を重視するんだよ。
僕たちは君の先祖をほぼ全員知ってるんだよね。彼らにも若くて青い時期があった。君と同じように大きな熱意と希望を抱いてたよ。
本当は、そっちの方が正しいのかもしれないね。変革は本来、挽歌の中から生まれるべきなのかも。
でも彼らは最終的に一人残らず塵になっちゃった。君たちもまた、背後から近づいてくる弔鐘の音からは、逃れられないんだ。
Logos
うぬの経験が今なお、うぬをあの破滅の炎へと導いておるのか?
変形者
ううん、違うよ。
僕たちはもう何年も探し回ってるだけだよ。いまだに、探し続けているんだよ。色んな姿で、色んな場所をね。
バンシー、君は素晴らしい呪術師だよ。
この長い記憶のためにさ、君のその力でささやかな背景を作り出してもらえたりしないかな?
「サルゴン人」
僕たち……私は、かつてサルゴンの砂漠で百年余りも揺蕩っていたのよ。あれは「諸王の王」の遠征が終わったばかりの頃だったわ。
偉業がまだ完全に伝説へと成り下がっていなかった頃、人々は常にそれに手を伸ばしたがったものだわ。
バンシー、幻だろうと構わない。砂嵐を起こしてもらえるかしら。
ほんの少しだけあなたの時間をちょうだい。一緒に私の通ってきた道を探しに行きましょう。
一緒にその中に溶け込んで、共に歩みましょう。そうすることで、あなたは私を理解できるかもしれないし、私があなたを認めるかもしれない。
それを証明してみせて。
Logos
......
我々には決着がつくであろう。変形者。
帳よ──
「サルゴン人」
あぁ、もちろんこれは私の記憶に残っているものとは少し違うわ。だけどあなたを責めることはできない、風はあまりにも多くの痕跡をかき消すもの。
私はかつて、ここで人々のために家を建てたわ。その時はまだ移動都市なんていう上等なものはなくて、石を積み上げて作った家は、最終的に砂ぼこりの中に消えるだけだった。
建てては滅び、建てて、また滅び……
大部分の人たちは、その繰り返しに疲れ切っていたでしょうけど、あの時の私はそれを楽しんでいたわ。
Logos
うぬは先ほど自らを文明にたとえていた。つまり、これを指してうぬの堪能する「更新」であると言うのか?
「サルゴン人」
いいえ、堪能などしていないわ。
あれは、出まかせの比喩でしかないわ。文明は、最後にはそれ独自の形をなし、そして結末を有するの。
けれども私はそうしたものを持ちはしないのよ。たとえどれほど望んでいたとしてもね。
Logos
うぬは石ではない。砂である。
「サルゴン人」
……砂。
そうね、バンシー。私は砂ね。
Logos
独自の形など持たぬ。それがすでに結末である。
だが、その有り様がうぬを満たすことはない。なればこそ探すのだろう。
「サルゴン人」
私はかつて首長に化けて、当時の諸王の王に会ったことがあるわ。彼は「過去と未来の王」を名乗り、全ての答えが彼の黄金の宝物庫の中にあると言った。
私はこう質問したわ。「陛下、我々が生きている間に出会う全ての意味は何ですか? あなた様は我々をどこへ導かれるのですか?」
彼は顔を高く上げて、こう宣言したわ。「私の考えこそが、その意味である。」
あまりにも傲慢、あまりにも驕傲。ひと際強い午後の日差しを全身に浴びながら、彼は自分が文明の支配者であると信じていたわ。
でも私の目に入ったのは、滑稽にも自分のローブの端を踏んでいた彼の姿よ。
私はくだらないと感じて、あの場所を去った。
イネス
公爵たちの取った手段には驚いたわ。
私たちの小隊は、そこそこの人数がいる……でもあなたたちは、自分の家の裏庭にでも入るかのようにいとも簡単に潜入した。
あなたたちの高速ウィンチと、あと小型の幻術発生ユニット……道理でこれほど厳重なサルカズの管理下でも、ロンディニウム内に自分たちの情報網を構築できるわけよね。
それとロンディニウムとこの分離された区画間の行き来も。きっとすごく簡単だったはずだわ。
「グレーシルクハット」
ヴィクトリアはこの大地で最も強大な国、そして私が忠誠を捧げる公爵様はヴィクトリアにおける最重要人物だ。
我々が様々な技術的手段を用意しておくのも、これまた至極当然のことだよ。
カスター公爵様は、ご友人を常に丁重に扱う。
飛空船はこの区画のどこかに隠されている。我々の推測によると、恐らくここには地下ドックがあるはずだよ。
イネス
それだけ? もっと具体的な情報はないの?
「グレーシルクハット」
あとは君たちにお任せしよう。
君たちに許された時間は、ウェリントンと例のナハツェーラーの将軍が、互いの力量を探り合って様子見している間だ。まだ多少の猶予はあるだろう、決して多いとは言えないが。
きっと、諸君は私を満足させる結果をもたらしてくれるはずだと信じているよ。
これは、取引なのだよ。アレクサンドリナ殿下、そしてロドスのドクター。ゆめゆめ、そのことをお忘れなきよう。