墨魎

講談師
――画竜点睛と言って、絵の仕上げに目を書き入れる工程は、最も難しい部分です。徐夫人は深く考えるあまり、なかなか最後の一筆を入れられずにいました。
衝動に任せてはいけない、だが理想のイメージも思い浮かばない。悩んだ夫人は気晴らしに街へ出かけると、肉屋の掛け声が聞こえてきました。店先の籠を覗くと、肥えた羽獣が入っています。
夫人はしばらく羽獣を観察していました。迫る死期を悟ったのか、羽獣は呆然と道行く人々を見つめ、ほとんど騒ぎません。
その様子を眺めながら、夫人は思わず想像を膨らませました。もし自分があの羽獣なら、何を思うだろう……
道行く者は皆、言葉すら通じぬ異種の生き物。青草と河原から遠く離れ、自身の属する文化と異なった荒野で、天涯孤独の身となる。
運命はすでに動かしようがなく、もはや天の迎えを待つしかない。
諦観や麻痺などという言葉だけでは、形容し尽くせない感覚であろう――夫人は思わず数歩近づきました。羽獣も奇妙な視線を感じてか、惹きつけられたように夫人の方を見ます。
その刹那――夫人は、鮮烈な技法や珍しい色彩など必要なく、あの絵の買い手である貴族がどう思うかの心配も全く無用だと悟りました。
成功と失敗、得るものと失うもの……夫人はこれら全ての答えを、そのただ死を待つ羽獣の目に見つけたのです。
彼女はお金を払いその羽獣を譲り受け、庭の池で飼い始めました。そしてすぐに筆をとり、最後の仕上げに取りかかったのです。機が熟せば、物事は自然と成就する――もはや迷いは何もありません。
翌日、夫人は無事その美人画を仕上げ、貴族たちからの賞賛を得ました。
しかし夫人は、金銀財宝を持って家へと帰る道中、最後の筆入れに際し何かが足りなかったのではと考え、悄然と肩を落としました。
そして家に帰り着き、門をくぐって庭の池にいる羽獣を見た時、彼女はハッと気づきました。
自分は成功し名を上げたと思っていたが、肉屋のまな板から飛び出したあの羽獣が、結局のところこの池で飼い殺しになるように、自分も自由を失っただけなのではなかろうか。
今の徐夫人は、もはや活気に溢れた若い画家などではありません。
絵筆をとること十数年、名誉と財産を手に入れたのは良いが、夫は早逝し、自分は常に他人の顔色を窺って生きている……一体誰が私の人生に仕上げの筆を入れ、自然に帰してくれるのだろうか?
その晩、徐夫人の邸宅へ戻ったのは、たくさんの金銀財宝を積んだ台車のみでした……
その後、姜斉(きょうせい)の国で徐夫人らしき人を見たという噂はございましたが、それ以来「当代一の美貌と才能」と讃えられたその女性画家は、二度と表舞台に現れることはなかったそうです。
それから二十年後。夕城の権力者たちの間で、徐夫人の絶筆であるという絵の噂が流れました。
ですが人々はそれを偽物だと言います。なぜなら、その絵は徐夫人の作風とは相容れなかったからです。絵には余白が多く、死んだように見える羽獣が一羽、描かれているだけだったのです。
多くの鑑定者はこう考えました――同じ動物画でも、当時の彼女の描いたものはみな生き生きとして真に迫り、今にも動き出しそうな画風だった。
しかしこの羽獣は、異常なほどに動きもなく、生気もない――それゆえ偽物と鑑定されたのであります。
徐夫人を慕う者の中に帰余(きよ)という者がおりました。帰余は若い頃こそ商売に成功していたものの、今は商売が傾いて家財を売り尽くし、未来が見えず失意のどん底でした。
帰余はその絵に描かれた羽獣の目を見た時、雷に打たれたような衝撃を覚えました。そのままフラフラと家へ戻り、十数日あまり寝食も忘れて考えた後、腹を決めて一から出直すことにしたのです。
ラヴァ
…………
講談師
……世は無常です。
もしかすると、失意の底にいた帰余のみが、死んだような羽獣の双眼に隠された、生々流転への渇望と、「絵の中に囚われた獣」という意図を読み取ることができたのかもしれません。
生きること。生きるとはそういうことなのです。
ラヴァ
……本当に多くの奇譚を収集してるんですね。勉強になります。
ですが、聞く限り全て炎国の画家の伝説のようですね。
講談師
ええ。私の書斎には多くの書があり、各地の民間伝承や、怪異小説なども少なくありません。ですが大部分は歴史に名高い大画家に関するものです。
もちろん、様々な要因によって名が広まらず、炎国の歴史の片隅に埋もれてしまった人物に関するものもあります。
彼らは最終的に頭角を現すことは叶わずとも、この大地に爪痕を残すことには成功したのでしょう。記録者不明で、本当かどうかも分からないような物語ばかりですが。
そういえば……ラヴァさんがご友人のためにお探し中の方も、画家でしたよね?
もし著名な流派で学んでいたり、どこかの地で名を馳せていたりなどすれば、手がかりを見つけることができるやもしれません。
ラヴァ
うーん……
サガ
ご覧あれ、ここが町の出口でござる。
ウユウ
おお! この空模様では、提灯がなければ何も見えませんなぁ!
お坊様は、町の外に行ったことはあるのでしょうか?
サガ
ん? そなたたちは外から来たのではないのか?
ウユウ
あはは。わ……私はその時かなり酔っ払っていましてね。目覚めた時には、仲間たちと一緒にここの宿場で寝ていたんですよ。
サガ
さようであったか。この町の西側には鴻洞山(こうどうざん)という山がある。ここから出て山道を数里ほど行くと到着するでござるよ!
しかし鴻洞山には、いつも奇っ怪な化け物が出没するゆえ、みだりに近づかぬようにな!
ウユウ
……ば、化け物って、あの怪物の事でしょうか? お坊様はあいつらの正体を知っているのですかな?
サガ
少しばかり心当たりがあるという程度だが……確証もないので言及は避けよう。拙僧はあやつらのことを、墨の化け物ということで、「墨魎(ぼくりょう)」と呼んでおるぞ。
ウユウ
墨? あ、それは奴らが汚水となって消えるからですね? まさしくピッタリの名前ですね、さすがはお坊様!
サガ
いやいや。まだ小僧だった頃に、よく住職様が「魍魎」の話をしてくださったので、そこから思いついただけでござる。
ウユウ
またまたご謙遜を。
サガ
そしてここの住民は、墨魎が襲撃してくる日を「大晦日」と呼び、夜通し眠らず太陽の下で身を潜めるのだ。拙僧が聞いていた炎国の「大晦日」の話とは、似ても似つかないのだがな……
もしや炎国の広大さゆえ、各地方で風習の違いがあるのだろうか?
ウユウ
いやいや、私のいた所でもそんな大晦日など見たことありません。墨魎に至ってはその存在自体が初耳ですし。
サガ
拙僧も各地を放浪しておるが、墨魎を見たのは数えるほどだ。この婆山町に来てからも然り。
ウユウ
ええ? だとすれば本当に私たちはツイてないですね。ここへ来た途端、墨魎の襲撃に遭うなんて……でもすぐに終わってくれてなによりです、一時はもうダメかと思いましたよ。
サガ
ううむ。その占い師のような風貌から、そなたは八卦を見れば何事もお見通しなのではと期待したでござるが。
ウユウ
まさか。もしそんな能力があれば、私はそもそもこんな――
――いや待ってください! その墨魎は普段、鴻洞山を離れる事はあるのでしょうか? 群れからはぐれた墨魎が偶然、町に近づいてくることなどは?
サガ
拙僧は暇さえあれば町をぶらついておるが、墨魎が近づいてくるのを見たことはござらん。見たのは前回が初めてで、あれはまことに大所帯が集結していたようであった。
ウユウ
それはつまり、一匹でも見つければ、それは大群の襲撃を意味すると考えて良いのでしょうか?
サガ
おおかたそうであろうな。
ウユウ
じゃ、じゃあ早く逃げましょう……
サガ
ん? それはどういう意味で――あっ。
女の子
お姉ちゃん!
クルース
あれ~、こんどはどうしたのぉ?
女の子
お父さんが、お姉ちゃんは村を救った英雄だって言ってたよ。とっても強いんだよね!?
クルース
えーっとぉ、英雄って強い人のことなのぉ?
女の子
違うの?
クルース
英雄は、他の人を助けるために戦うような人のことだよぉ。
女の子
そうなんだ……あ、お姉ちゃんあれ見て! あれが私の言ってた宿だよ!
名前はえっと……すい……酔晴楼(すいせいろう)!
クルース
……綺麗で達筆な炎国文字だけど、読めるのぉ?
女の子
読めるよ!
クルース
すごいねぇ~、じゃあ、入ってみようかなぁ。
女の子
わぁ、このお部屋は私のおうちより広くて明るいなぁ!
クルース
たしかにいい部屋だねぇ〜。
女の子
お姉ちゃんはここに泊まるの? いいなぁ!
クルース
(置物……机と椅子のデザイン……あと文字の様式。全部手がかりになるからねぇ〜、メモしとこうっとぉ……)
うーんと……ちょっと待ってねぇ……
女の子
わっ! 今聞こえたのって――
クルース
――鐘だねぇ。
ウユウ
お、お坊様、もう少し早くできないのですか?
サガ
無理でござるよ、拙僧はこれを十二回叩かねばならぬゆえ!
ウユウ
しかしですねぇ……うわっ! 今何かが軒の方へ飛んで行きませんでしたか!?
サガ
よーし、あと三回でござる!
ウユウ
わ、私も手伝いますから早く!
講談師
ふむ……一日に二回か……まさかこんなに頻繁に来るとは。
ラヴァ
「一日に」――というのは二十四時間以内にということですよね?
昼と夜が交互に来ないというのは面倒ですね。もし寝過ごしでもしたら、時間が分からなくなってしまいませんか?
講談師
ははは。規則正しい生活を心がけているのでそうはなりませんよ。
しかし、ラヴァさんは落ち着いていらっしゃいますね。先程、突然化け物が現れた時も、全く怯みませんでしたし。
ラヴァ
……緊急事態には慣れていますから。見たところ、あなたもとても落ち着いているようですね。
講談師
私たちの頭上にある太陽をご覧ください……化け物たちもここまでは来られませんから。
ラヴァ
ケガ人の心配はないんでしょうか?
講談師
もし逃げ遅れれば、被害は免れないでしょうが……命があるだけで御の字です。
ラヴァ
……煮傘さん、提案があります。
講談師
どうぞおっしゃってください。
ラヴァ
私たちが、婆山町が無事大晦日を越せるよう手伝います。あの怪物はそんなに強くありませんから、全力で皆さんの安全を守ります。
そのかわり、婆山町が安全を取り戻したら、私たちがここを出るのを手伝ってもらえませんか。
講談師
ここを出る? それはもちろん、お安い御用ですが……ここへ来て間もないのに、私たちのために危険を冒すというのですか?
ラヴァ
大丈夫です。あの怪物たちは見た目が恐ろしいだけで、実際はそれほど脅威ではありません。
講談師
――なるほど……承知いたしました。では私が婆山町の全町民を代表し、先にお礼を申し上げます。
ウユウ
お、恩人様!
サガ
おお、そなたがウユウ殿の恩人というラヴァ殿にござるな! お目にかかれて光栄至極、拙僧はサガと申す。極東から――
ウユウ
わわわ、お坊様、自己紹介は後にしましょう! 墨魎たちが町めがけて突っ込んで来るぞ!
ラヴァ
……ボク……リョウ?
サガ
ああ、拙僧があの化け物につけた名前だ。
講談師
ぼくりょう……墨魎か。魑魅魍魎から取ったのですか? なかなかいい名です。これで呼び名ができましたな。
ラヴァ
まあそのボク……墨魎どもはそれほど恐ろしい敵じゃない。そんなにビビらなくていい。
サガ
うむ! 気迫十分である……良きかな!
ウユウ
でも恩人様、今回はなんだか少し違う気が……
ラヴァ
どう違うんだ?
ウユウ
奴ら、何だか少し数が多い……かも?