魔女とお茶会
???
ここは……どこ?
ニンフ
おーい――
かすかに響くこだま
おーい――
ニンフ
あたし……どうやってここに来たのかな?
手が……
手の平には、淡いピンク色の模様が現れていた。血液が氷の結晶と化し、皮膚を押し広げ、その模様に沿って少しずつ突き出てくる。
骨身に沁み込む風が吹く。血と肉がぱらぱらと剥がれ落ち、花びらのように風に巻かれて飛んでいき、そこに残されたのは――
ニンフ
痛い……どうして、こんな……
30分前
エルマンガルド
ごめんなさいね、ニンフ。私もこんな風に急かしたくはないのですけれど……
レヴァナントの欠片を集め終えるまで、私は平穏を得られませんのよ……
ここ数日、先生とウィシャデルは始終言い争っておりますの。あれは溶炉の中のご先祖様方よりも狂気じみて聞こえますわ!
ニンフ
ごめんねエルミー……この数日でカズデル中をほとんど回り尽くしたけど、残りのレヴァナントの欠片の手がかりがなかなか見つからなくて。
エルマンガルド
はぁ、あなたにはもう少し頑張っていただくしかなさそうですわね……ところで、一緒にいたスラムの子はどうしたのですか?
ニンフ
あの人なら別行動してるよ。この生活エリアの世帯数と、あたしたちの歩行速度を計算した結果、日暮れ前にこのエリアを調べ終えるにはそれしかないってことになったの。
だから途中で別れて、半分ずつ担当することにしたんだ。向こうの担当エリアには手癖の悪い修理屋さんがいるらしくて、前に騙されたから、お灸をすえてやるにはいい機会だとか意気込んでたよ。
危ない目に遭わなきゃいいけど……まあ、あの人ならたとえ危ないことがあっても、さくっと片付けちゃうよね。
ペール
おいおい、ちょっと質問しただけだろうが。武器を取り出すほどのことか?
悪徳商法で稼ごうってんなら、追われる覚悟くらいしとけよ。それと、俺は何も軍事委員会に通報するとは言ってないぜ? ――まあいい。あんたら二人相手するくらいなら、ちょいと運動がてら……
ニンフ
ねえ、エルミー。飛び出してきたレヴァナントたちって、何日かあちこち飛び回ったらお家が恋しくなって、自分から炉の中に戻ってきたりしないかな?
エルマンガルド
あなた、自分が何を言っているかわかってますの……?
何百年間も狭苦しい場所に閉じ込められてきたというのに、戻りたいだなんて思いますか?
ニンフ
ちょ……ちょっと考えてみただけだって……あたしには、炉の中がどうなってるかなんてわからないしさ。
思うんだけど、もしかしたらカズデルも一つの「炉」みたいなものかもしれないでしょ。外の人は、この街をすごく恐ろしい場所だと思ってるけど、あたしたちにとって、ここは故郷なんだもん。
でも確かに、同じ場所に二百年以上も閉じ込められるのがどんな感覚かなんて想像もつかないや。あたしはここに十年ちょっとしか住んでないし……エルミーのほうがそういう経験はありそうだよね?
エルマンガルド
この話題はここでお終いにしましょう、ニンフ。
ニンフ
あはは……
エルマンガルド
はぁ、なんと言ったらいいのでしょうね。恐らく、カズデル全体でも、そう考えているのはあなたくらいのものだと思いますわよ。心優しいジャールさん。
ニンフ
あれ? なんか……くんくん……ハーブティーみたいな匂いがするよ。
あっ、そうだ! すぐそこにカライシャさんの家があるんだよね。ついでに行ってみようかな。
エルマンガルド
ニンフ! 私たちにはまだやるべきことが残っていますのよ!
ニンフ
えっと……あくまでレヴァナントの欠片を探すためであって、イチゴクッキーが食べたいわけじゃないんだからね!
エルマンガルド
……仕方がないですわね。あまり長居しないようにしてください。
それにしても、カライシャですか……あなた、よくあの人と仲良くできますわね。
ニンフ
カライシャさんはすごくいい人だもん! 前なんて、家に行くたび毎回プレゼントをくれてたんだよ。どうしてみんな、あの人のこと怖がるのかなあ……
そうだ、今回は手ぶらで会いに行くわけには……あっえっと、これは公務だからね! 手土産くらい持って行かなきゃダメじゃない?
んーと、カライシャさんはこの間引っ越してきたばかりだから、今贈るなら……
コンコン、コンコン。ニンフは片手を身体の後ろに隠したまま、もう片方の手で湿り気を帯びた木の扉を軽くノックした。
ニンフ
カライシャさん、いる?
???
あら、ニンフ。
少し待っていて。今開けるわ。
ニンフ
カライシャさん! こんにちは!
来るって決めたのが急だったから、これくらいしか用意できなかったんだけど、よかったら受け取って。
確か前に、家の中の薬草の匂いが強すぎるから、お花の香りで中和したいって言ってたよね……?
あっ、下に土がついてるから気を付けて。根っこごと摘んできたんだ。こうすれば、このまま植え替えて育てられるでしょ?
色白の両手が一すくいの花を受け取った。手のひらの上に落ちた青い花びらは、精巧に刺繍された模様のように見えた。
カライシャ
アオマツリじゃない……カズデルの貧しい土地でも、こんなに綺麗な花が咲くようになったのね。
贈り物をありがとう、ニンフ。これは一番綺麗な植木鉢に植えることにするわ。
ニンフ
気に入ってくれてよかった~。
それにしてもこのお花、「アオマツリ」って言うんだね。
カライシャ
ええ。ところでニンフ、わざわざ来てもらったのはとても嬉しいのだけど、少しタイミングが悪くて。用事があるから、少し出かけないといけないのよ。
ニンフ
あっ、カライシャさん忙しいの? ひょっとしてお邪魔しちゃったかな? それならすぐに――
カライシャ
大丈夫よ、本当にちょっとした用事だから、ここで待っていて。ただし……
私がいない間、くれぐれも家の中を勝手に歩き回らないように。物にも無暗に触らないようにしてね。
ここにはまだ……準備ができていなくて、人前に出すには適さない物も置いてあるの。だから、約束してくれる?
ニンフ
うん! 絶対無暗に触ったりしないよ。そういう基本的なマナーはパパとママに教わったもん。
カライシャ
そうよね、あなたはお利口さんだもの。
ニンフはテーブルのそばに腰かけた。暖かな蝋燭の光は、まるで壊れやすい覆いのように、壁際や屋根の影を遮っている。
天井のはりから吊るされた薬草が、ほのかに腐ったようなにおいを発している。壁際にいくつか置かれた木製の棚は、さながら棺桶のように、光から身を隠すべき秘密を守っていた。
ニンフ
ふぅ……なんだかドキドキしてきちゃった。
ギイギイ言ってるのは何の音だろう? 壁の中で鼷獣が駆け回ってるのかな?
ニンフは我知らずごくりと唾を呑み込んだ。首筋を伝う寒気が、彼女を不安にさせていく。
ちらちらと窓辺に目を向けるたびに、窓の外の薄暗い日差しは少しずつ暗くなっているように思える。
心臓の鼓動はますます早まり、次第に奇妙なリズムを刻み始めていた。ジャールが慌てて胸に手を当てると、震え続ける小さな箱に手が触れた。
ニンフ
ふぅ――なぁんだ、探知器が震えてるだけか……
って、ええっ!?
外にいた時は反応しなかったのに……まさかこの家のどこかに、欠片があるの!?
あー、ずっと座ってたら、腰が痛くなってきちゃったな~! こういう時は立ち上がって動かないとね~! ……ちょっと見て回るだけなら、大丈夫だよね?
こっちかな、それともこの辺? 天井かな? まさか床下にあったりしないよね?
うう――ぶつかっちゃった……どうして急に棚が現れたのかな? さっきからここにあったっけ?
大変、上の物まで落としちゃった!
カライシャさんに見られたら、無暗にあれこれ触ったと思われちゃう! 早く元に戻さないと……
床から拾って元に戻すのは、「無暗に」触るうちには入らないよね……?
ニンフは腰をかがめると、暗闇の中で輪郭のぼやけた影を手さぐりに探し始めた。
奇妙な感触が指先へと伝わってくる。その影は彼女の手で拾い上げられ、本来の姿を露にした。それは枯れ枝と、棘と、苔の花で編まれ、まだ溶けていない雪がついた花冠だった。
ニンフ
……(古代サルカズ語)雪?
その古代サルカズ語を口にしたあと、ニンフはふと、まるで雪の花が手のひらに落ちた時感じる寒気のような、一瞬の動悸を感じた。
彼女は手中の花冠を見つめて、それを被りたい衝動を必死に押さえつけようとした。
部屋の中はどんどん狭く暗く、息苦しく感じるようになり、耳元に響く呼吸音はますます激しさを増していく。だが、その呼吸音は自分のものだろうか? それとも……背後からのものだろうか?
髪の毛が枯れ枝ともつれ合い、棘が手のひらに突き刺さる。ニンフは心の中で数を数えながら、ゆっくりと、しかし確かに背後を振り返って――
???
お受け取りください。
ニンフ
えっ!?
い、い、い――いつの間に……あなた誰!?
???
お受け取りください……
お受け取り……ください……
小屋の壁が倒れ、屋根までもが剥がされて――気付けばニンフは荒野にいた。命を奪い合うような音が、煙塵の奥から響いてくる。
彼女はまだ、何かを捧げ持つような姿勢のままでいたが、あの花冠は汚れた血だまりになって、指の隙間から滴り落ちていた。
全身血みどろのナハツェーラーがこちらに向かって這い寄って来る……それでも、身動きは取れなかった。
???
どうかお助けを……
ニンフ
あなた、一体誰なの!?
瀕死のナハツェーラー
宗主に……お伝えください。魔王は、イレーシュは死んだと。
我々はなぜ、戦い続けているのでしょうか?
ニンフ
……
古代サルカズ語が耳まで届いてくる。その途切れ途切れの音は、いくつもの意味深な単語を構成していた――
「魔王」、「死」、「戦い」。
ここがどこなのかを尋ねようとしても、言葉は口から滑り落ち、曖昧な音として響くばかりだ。
ニンフ
ここは……どこなの?
瀕死のナハツェーラー
戦場の果て……生と死の境です……
なぜ……なぜ、いまだに恩寵をくださらないのですか? あなたも私の臆病さが嫌になられたということですか?
どうか私に、腐敗の苦痛をお与えください。我が命を永らえさせ……この力をお受け取りください。
お受け取りください……
彼は自分の胸から朽ち果てた何かを取り出すと、こちらの手の上に置いた。
その表情は苦痛でねじ曲がっていて、瞳の中には敬虔さと、恐怖と……憎悪がない交ぜになっている。
ニンフ
は、早く持ってって!
そんなのいらないよ!! 助けて!
瀕死のナハツェーラー
わかっています……これは決して恩寵ではなく、戦線を放棄した私への懲罰なのですよね。
お願いいたします……カライシャ様。
ニンフ
いま……あたしのこと、カライシャ様って言った?
待って、あたしの手が勝手に……!
カライシャさんのいたずらなの? お願い、やめて!
ニンフはそのボロボロの身体に向かって手をかざした。しかし、気付けばそこにあるのは、包帯が巻かれ、乾いた血の跡がついた一本の腕だけだった。
垂れ下がった布が脱走兵の壊れた兜をかすめる。腐敗の気配が流れ込み、彼の残された理性を食いちぎると、その無用の肉体を支配していき……命を与えた。
ニンフは目眩を覚えたが、同時に飲み込みたいという欲望に駆られた。脆弱な同族に力を与える一方、そのおかげでさらなる力を得たのを感じた。
口を開かずとも、聞き覚えのある声が彼女の喉から発せられる。
聞き覚えのある声
脱走兵よ、武器を降ろしなさい。私の戦場から出ていくのよ。
瀕死のナハツェーラー
仰せのままに……カライシャ様。
彼が重い鎧を一つ一つ外していくうちに、身にまとった包帯が破けた箇所から、見るも無残な傷口があらわになった。
その身体から絶えず滲み出る血はすぐさま固まり、その奥で新しい皮膚が作られている。
瀕死のナハツェーラー
雪をご覧になったことはありますか?
その言葉はとても奇妙な発音だったが、意味するところは理解できた。
カズデルにはもうずいぶんと雪など降っていない。多くの人は、その言葉の読み方すら忘れてしまっている。
瀕死のナハツェーラー
私は一人のウルサス人を殺し、彼の胸を引き裂きました。しかし死にゆく彼は、少しも苦しんでいるようには見えず、ただこうつぶやいていたのです……
(ウルサス語)雪だ、と。
恐らくは、苦痛を和らげてくれる存在なのでしょう。カライシャ様は、雪をご覧になったことは?
聞き覚えのある声
苦痛とは力の落とす影であり、命とは照り付ける太陽なのよ。そんな太陽の下で、雪を見ることはできないわ。
あなたは苦痛を恐れていながら、死を恐れてはいないのかしら?
瀕死のナハツェーラー
生きていたところで……いえ、私にこんなことを言う資格はありませんね。
もう行かなくては。
聞き覚えのある声
北へ向かいなさい。そうして二度と戻らないで。
目の前のすべてが急速に遠ざかり始め、ニンフは地面をどんどん離れて、戦場へと近付いていく。
ひしめき合う人々や、鎧と刃が交錯し合う様子が見える。死の影がカズデルの上空に漂っている。
ニンフ
ここは……どこ?
おーい――
響き渡るこだま
おーい――
ニンフ
あたし……どうやってここに来たのかな?
手が……
手の平には、淡いピンク色の模様が現れていた。血液が氷の結晶と化し、皮膚を押し広げ、その模様に沿って少しずつ突き出てくる。
骨身に沁み込む風が吹く。血と肉がぱらぱらと剥がれ落ち、花びらのように風に巻かれて飛んでいき、そこに残されたのは――
ニンフ
痛い……どうして、こんな……
穏やかな声
こっちよ。
穏やかな女性
さあ、手を出して。
ニンフ
カライシャさん?
彼女はニンフの両手を強く握ると、聞いたこともない呪文を唱え始めた。
まつ毛に輝く水滴が付いているのが見える。もしかすると、融けた雪かもしれない。
穏やかな女性
ふぅ――
彼女は軽く息をつくと、ニンフの手を放した。
そのほっとする温もりは今も残っており、ニンフが手を開けば――
模様も傷もなくなって、その代わり、青い鱗粉に覆われた蝶の翼がそこにあった。それは翼をはためかせ、雪原の中に消えていった。
ニンフ
これは、幻?
穏やかな女性
いいえ、すべて本物よ。ついてきてちょうだい。歩きながら話しましょう。
ニンフ
カライシャさん……
穏やかな女性
前に会ったことがあるかしら? 何はともあれ、ここでは「北風の魔女」と呼んでちょうだい。
「北風の魔女」
そういえば、ここに来てからは、ナハツェーラーに会うのは初めてだわ。
ニンフ
ナハツェーラー? あたしは……
「北風の魔女」
この雪原にあなたが足を踏み入れた時から、その存在は感じていたの。あなたの力は、雪に埋もれた焚き火のように、段々と弱まっているわよね。
戦争から身を遠ざけたナハツェーラーは誰であれ、弱体化を避けることはできないわ。そして、その過程がもたらす苦痛は、迫りくる死よりも苛烈なものになってしまう。
それなのに、どうしてこんなことを?
その問いは、つま先で柔らかな雪を蹴り上げるかのように軽やかな口調で投げかけられた。
だがそれは、ニンフの身体にとてつもなく重く降りかかった。呼吸をするのがやっとで、口を開くこともできないほどに。
「北風の魔女」
……やっぱり、あの戦争のせい?
宗主、いえ、ネツァレムはああすると決めた。そしてあなたは……
彼らとは相反する道を進むしかなかったんでしょう。かつての私がそうだったように。
着いたわよ。
ひび割れた巨岩の背後で、風雪が薄い氷の表面を避けて吹き抜けていく。氷の下の水は波一つ立てず静まり返っていて、悲しげな瞳のように丸い気泡をその中に抱えていた。
「北風の魔女」は手にした杖で氷の縁を砕いた。すると気泡は氷の泉から逃げ出して、風雪の中へ還っていく。
「北風の魔女」
この場所を見つけたのは偶然なの。あの鼷獣たちはたとえ喉の渇きで死ぬことになろうとも、ここの水を飲むことはないわ。
この泉は増減もしなければ、濁ることも決してない。この雪原から独立している存在なのよ。
私は昔、この泉のほとりで自らに布を巻いたことがあるのだけど、それより直接泉に浸かったほうが、布を巻くよりも効果的だと気づいたの。
ニンフ
浸かるって、ここに? 動力エリアの整備士さんたちは、地面にドラム缶を埋めてお風呂にするらしいって話は聞いたことあるけど、ここでそんなことしたら冷たいんじゃ……
「北風の魔女」
この水はそんなに深くないのよ。怖かったら、私の手を取って。
ゆっくりと泉の中に入っていけば、その冷たさがニンフの物ではない鎧と包帯を貫いて、骨の髄までしみ込んでくる。
水は彼女の肩まで達し、心臓にのしかかってきた。
ニンフ
カライシャさん、じゃなくて「北風の魔女」さん……ずっと昔に、ナハツェーラーの瀕死の脱走兵に会ったことを覚えてる?
「北風の魔女」
ええ、覚えてるわ。
ニンフ
あれからどうなったの? あの人は雪を見ることができたのかな?
「北風の魔女」
北へ向かう道中で命を落としたと聞いてるわ。
ニンフ
そ、それでも雪は見られたんだよね?
「北風の魔女」
いいえ。きっと死ぬまで見られなかったと思うわ。だけど雪は、彼の身体の中に流れ続けていたのよ。
ニンフ
っ……
心臓の鼓動は徐々に緩やかになっていき、その音の合間に、雪の花が頭上にひらひらと降る音が聞こえた。
爛れた傷口と古傷の痕は今も絶えず痛み続けていて、枯れた血肉は二度と豊かさを取り戻すことはない。けれど、すべてはもうどうでもいいことだった。
実際のところ、苦痛は和らいだわけではなく、ただ形を変えて存在しているだけだ。氷の泉に解ける雪の花のように。
ニンフ
カライシャさん……これは本当に夢なのかな?
だとしたら、一体誰のためにこんな夢を用意したの?
その人たちに何を伝えたいの? あなたの過去や、進む先のこと……それとも、あなたが何者なのか、とか?
彼女は何も答えずに、膝を折って岸辺に座り、杖を足の上に横たえている。
青紫色の蝶が彼女の髪から飛び立っていく。
一匹、また一匹と、泉の周りで羽をはためかせながら、蝶たちは二人の身体から漂う腐敗の気配をすべて、新たな蝶へと生まれ変わらせていく。
その氷晶のような蝶に取り囲まれながら、彼女は指先を垂らし水面に滑らせた。けれど、さざ波一つ起こることはなかった。
雪が止んだ。ニンフはふと、この夢が終わりを迎えたことを理解した。
ニンフ
この夢は……もう終わったの?
カライシャさん? ここから出てもいい?
脅かすのもこのくらいにしてね。あたし今、温かいお茶がすっごく飲みたい気分なの。
……カライシャさん?
暗闇の中、何かが近付いてくるのを感じる。だがそれは、決して生命の形をしたものではなかった。
身体を丸めようとしても、四肢や胴体の感覚が少しもない。どうやらニンフには、孤立した意識だけがぽつんと残されているようだった。
暗闇の存在
(悪意に満ちた声)
ニンフは感じた……牙を。彼女は触れた……飲み込みたいという欲望に。
そしてニンフは辿り着いた……果てのあとにある、扉の前に。
ニンフ
カライシャさん、助けて! 無暗に色々触っちゃったあたしが悪いの! ごめんなさい!
カライシャさん!
冷たさが再び彼女を飲み込み、恐怖が喉へと流れ込む。今にも溺れ死んでしまいそうだと思ったその時、扉が叩かれた。
ナハツェーラーの王
入るがよい。
ナハツェーラーの王
カライシャ、その方は軍事委員会が与えた階級を拒否したな。
己が何を拒んだか理解しているのか? 戦争を――我らが長年待ち望んだ戦争を拒んだのだぞ。
過去の血痕はそそぎ得ぬものだ。よもや本気であの小屋と共にカズデルを去るつもりではあるまいな? リッチは許さぬであろうに。その方が彼らのアーツを……
……いや。
なぜここにジャールがいる?
ニンフ
こ……こんにちは?
あたしの勘違いじゃなかったら……あなたって、教科書に載ってた……ネツァレム閣下ですよね?
背の高いナハツェーラーは、身をかがめて近付いてきた。彼が観察しているのか、匂いを確かめているのか、耳を澄ましているのか、ニンフにはわからなかった。
ナハツェーラーの王
なぜここへやってきた? この記憶はいまだ彼女の手で脚色されておらず、その他いかなる物とも結びついてはおらぬはずだ。
ニンフ
わ、わかりません。さっきまで、すっごく冷たいところであの人と一緒に氷の泉に浸かってたのに、急にここに落ちてきちゃって。
いま仰ってた、結びついてないっていうのはどういう意味ですか?
ナハツェーラーの王
カライシャは戦場から逃げ出しこそすれども、同族を見捨てはしなかった。
ゆえに、己の記憶を……同族に関する記憶を、未だ保持しているのだ。ある目的のためにな。
かの果てなき氷原で、彼女は新たな道を見つけたのであろうか……
ニンフ
ええと、つまりあたしたちは、カライシャさんの記憶の中にいるってことですか?
じゃあ、あたしをここから出す方法は何かご存知ないですか? これが夢なら、目を覚ませばいいだとか?
ナハツェーラーの王
この場の時間は尺度を失っている。いつ目覚めるかもわからぬうえに、その先で待ち受けるはさらに深い眠りであるやもしれぬ。
ニンフ
ええと……ここにいるのは、あなたご自身なんですか? それともカライシャさんの記憶の中のあなたなんでしょうか?
ナハツェーラーの王
いずれにせよ、些末なことだ。
このネツァレムの命など、特筆すべきこともない。ネツァレムの名は、戦争と同義なのだ。
ふむ……だが、こうして他人と交流をするのは、実に久方ぶりだ。
ニンフ
んー、それなら、目が覚めるまでもっとお話しをするのもいいかも……
ナハツェーラーの王
ジャールよ。その方が来し時には、ロンディニウムの戦争は終わっていたか?
ニンフ
えっと……終わりはしましたけど、その結果についてはお気に召さないかも……
ナハツェーラーの王
否……
その折には、我輩はすでに消えていよう。だが、まだサルカズはおり、カズデルは存続している……
ナハツェーラーの宗主は黙り込んでしまった。ニンフの存在を忘れてしまったのではないかと思うほどに長く、長く。
ニンフ
こほん、こほん!
ネツァレム閣下……その、ほかのことをお話ししませんか?
ナハツェーラーの王
うむ。
その方が来し時には、カズデルはカブの実る季節を迎えていたか?
ニンフ
え? ええと……多分今はみんな、コーンとか甘イモばっかりで、カブはほとんど植えてないと思います。
でも、食べ物にご興味があるなら、面白いものをたくさん知ってますよ!
あっ、その……ナハツェーラーの食べ物……以外のやつですけど。
ナハツェーラーの王
……申してみよ。
カライシャ
ただいま。
出発前に中継炉でハーブティーを温めておいたから、ちょうどいい具合になってるわよ。
ニンフ、ティーセットを出してくれる? ピンクのバラの模様入りを一式、あなたのために用意したんだけど……
ニンフ!? あなた……
「北風の魔女」はトレーを取り落としながらも、辛うじて茶がいっぱいに入ったポットだけは懐に抱えた。割れたトレーを気にする余裕もないまま、恐る恐るテーブルに目を向ければ――
枯れ枝と棘と苔の花で編まれた花冠が、薄暗いろうそくの火の下に置かれており、そのそばではジャールが炉の灰で芋を焼く光景を楽しげに身振り手振りで伝えようとしていた。
ニンフ
……焼きたてなら、ハチミツよりずっと甘いんですよ! お口の中を火傷してでも頬張る価値はあると思います。
あなたの話も聞かせてください。一番の好物は何ですか? カブの炒め物とか?
あたしの話を聞いて、焼き甘イモに変えようか悩んでます? それならちょっと待っててください、すぐに近くの中継炉からいくつか持ってきますから。
カライシャさん? おかえり! あれ、あたしいつの間に目を覚ましてたんだろ?
カライシャ
どういうことなの? ネツァレムが……
ニンフは呆然と目の前を見つめてから、うつむいて自分の両手を見やり、最後に涙で潤んだ目を「北風の魔女」に向けた。
ニンフ
うう……うわぁん! カライシャさん!
ごめんなさい! もう二度とカライシャさんの物に無暗に触ったりしないから!
あっ、あちち! どうしてポット抱えて立ってるの?
カライシャ
もう、あなたがそれを聞くの?
少し花壇までお花を摘みに行ってただけなのに、作りかけの小物を引っ張り出してきちゃって……おまけにあの人まで出すなんて……
これは一体何事なの?
ニンフ
全部あたしが悪いんだ……この部屋に入ったら、レヴァナントの欠片を探すための探知機が反応し始めちゃってね。我慢できなくなって、部屋中探し回っちゃったの……
本当なら、これを頭に被るつもりなんてなかったのに、急に手が言うこと聞かなくなっちゃって。
それからすごく怖い夢を見たんだ! 夢の中のあたしは、戦場を飛び回るカライシャさんになったり、雪の中であなたと一緒に氷の泉に浸かったり、その後怪物に食べられそうになったりしたんだよ!
カライシャ
あれは戦場帰りのナハツェーラー兵を苦境から救い出すために、私の記憶で作った夢で……今はまだ試験段階だから、とっても危険なのよ!
とにかく、怪我がなくてよかったわ。これからは、この家で一人で過ごしちゃダメってことにしましょう。自分の手も制御できないのなら、今日のイチゴクッキーもなしだからね!
ニンフ
ほんとに、ほんとに被るつもりなんてなかったの! だけど何かの力に操られて、被っちゃったみたいで……カライシャさんのイタズラかと思ったくらいだもん!
カライシャ
まさかそれって、あなたの言うレヴァナントの欠片の仕業? だから近頃小屋の様子が少し変だったのね。てっきり消化不良なのかと思ってたけど……
「北風の魔女」はポットを置くと、小屋の周りを、最後に天井の真ん中を見上げた。
カライシャ
チャンスはあげたわよ、敬愛するご先祖様。
私の記憶を使って私を愚弄したことも、我が家を弄んだことも、別段構わないけれど。
度が過ぎて、私のお客様をいじめたとあれば……
彼女がそう言うや否や、影が部屋の隅々から室内の全員を飲み込まんとして湧き出してきた。
ただ一対の冷たい瞳だけが、影に向かって最後の警告を放つ。
そして……
彼女が両目を閉じると、澄んだ青色の巫術が空間全体に広がり始めた――
ペール
まだ本当のことを話さねぇ気か?
サルカズの職人
やめてくれ。これ以上ひねられたらマジで腕が折れちまうよ!
ペール
この中じゃあんたが一番口が軽そうだな。まあいい、手間は省けるだろ。
もう一度聞くが、確かに見てねぇんだな?
サルカズの職人
真夜中のことだったんだぜ。あんたが言ったようなもんが、どこに落ちたかなんて誰にわかるってんだよ。
それが地面にドスンと落ちて、音を立ててなけりゃ、俺たちは――
ペール
ありがとよ、じゃあな。
サルカズの職人
――待ってくれよ! *サルカズスラング*、俺だって何が起きたのか知りてぇのに!
ペール
ニンフ、無事か!? ニン――
……?
カライシャ
どうかしら、欠片は見つかった?
ニンフ
見つけたよ!
箱がカチャリと音を立てて閉じると、ニンフは小屋の瓦礫から飛び降りて得意げにそれを持ち上げた。
ニンフ
すごいでしょ? もうこんなにたくさん見つけたんだよ!
カライシャ
ええ、本当にすごいわ。その欠片の位置まで私が巫術で特定してたのに、あなたのお手伝いで私の小屋が壊れちゃったなんて!
(ゆったりとした拍手)
ニンフ
ほ、本当にごめんなさい……さっきの影、悪夢の中で見たのと同じだったから、つい怖くなってアーツのコントロールができなくなっちゃって。
でも、宗主さんの話を聞く限り、この小屋はリッチのアーツで作ったものみたいだよね。実はあたし、ちょうどリッチの知り合いが一人いて……
ごくっ……ど、どうして急に怖い顔してるの……?
カライシャ
彼から他に何を聞いたの?
言わなければ忘れるところだったけど、私の記憶を覗き見するのを許可した覚えはないわよ?
ニンフ
あれはただの事故で……
カライシャ
それに、淹れたてのお茶も、イチゴクッキーも台無しにしちゃって……
ペール
あー、ごめんよ、ちょっと邪魔するぜ――ニンフ、こいつはどういう状況だ? 欠片は見つかったのか?
カライシャ
あなたはニンフのお友達? ええ、目的の欠片ならもう見つかったわよ。だけど、彼女にはまだちょっとやるべきことが残ってるの。
ペール
あんたは……カライシャさんか?
で、ニンフは何を?
カライシャ
ご先祖様の機嫌を損ねて、私の家を壊しちゃったの。となれば、修理を手伝ってもらわないとでしょう?
ペール
だがよ、あんたの家はカズデルの城壁を平気で乗り越えて都市に入り込めるくらい頑丈だし、野盗の砲撃にだって耐えられるような代物だろ……それをニンフ一人で壊すなんて本当にできるのか?
カライシャ
あら。今、なんて言ったの?
ペール
い、いや、なんでもない。
カライシャ
それより、お茶でもいかが? 屋根を吹き飛ばされる前に淹れたばかりのものなんだけど。
ペール
ありがとさん、でも遠慮しとくよ……
カライシャ
頑張ってね、ニンフ! この仕事が終わったら帰れるから。
ニンフ
もうお腹ぺこぺこだよー……
うう、あたしのイチゴクッキー……
奇妙な通行人
ここにもありましたか。適当に街を歩いただけで、安全上の重大な欠陥が四箇所も見つかるとは。
このように非合理的な配管設計では、炉の出力変動の影響を受けやすい。いつ爆発が起きてもおかしくないでしょうね。
なんと、アオマツリではありませんか。以前私も、クルビアでいくつか育てたことがありましたが、まさかカズデルの気候でも育つとは。
どうやら、まさしく変化の時が訪れたようですね……
???
ピピッ――ピッ! ピッ――ビッ! ピッ――ビッ!
奇妙な通行人
何の音でしょう? あれは……ジャール?
ニンフ
その人だよ! 探知機がものすごく反応してる!
ペール
それ、爆発したりしないだろうな? なんだってこんなデカい音を出してんだ?
ニンフ
きっと、その人がすっごく大きなレヴァナントの欠片を身に着けてるからじゃないかな!
奇妙な通行人
おっと、袖を引っ張らないでください。これはオーダーメイドなのですよ!
ニンフ
この人……うそ! 生きた鎧だ!
奇妙な通行人
生きた鎧とは……はははっ! これほど失礼なことを言うお子さんは、あのククルカン以来ですね!
ニンフ
なんか変なこと言い出しちゃった……きっとレヴァナントに取り憑かれてるんだ! ペールさん、キューブちゃんを――この箱を持ってて!
ペール
まさかこいつを丸ごと入れるつもりじゃねぇよな? どう見ても箱のサイズが足んねぇぞ!
ニンフ
よい――しょっと!
奇妙な通行人
おっと、私の頭から箱をどけてください。でないと怒ってしまいますよ!
おや? 箱の中に……なぜあなたまで? それも、バラバラに砕かれているではありませんか。
ペール
あいつ、逃げちまうぞ!
ニンフ
手を縛っちゃおう!
おとなしくして! あなたの頭で箱がはちきれちゃう! そうなったらエルミーにまた叱られちゃうよ!
ペール
やっぱりさっさと溶炉まで連れて行こうぜ。
奇妙な通行人
……ふふっ。
本当に、変化したものですね。