拒食
少女は言われた通りに目を閉じ、手を離した。
同時に足へと纏わり付いていた力が、ふっと消えた。たくさんの小さな何かが水へと落ちていく音がする。そして海面に触れる瞬間、強い力が少女を陸へと引き戻し、引き上げた。
――ただし、着地は顔からだったが……
アニタ
きゃっ! いたたた……
スカジ
……人相手だと、力と角度のコントロールが難しいのよね。
アニタ
だ、大丈夫、大したことないですから……
スカジ
あいつら、何を嗅ぎつけて来たのかしら。私から、血の匂いは……しないみたいだし。
傷口からも……もう血は出てないのに。
それに、どうしてまだ興奮してるの? この辺りの恐魚はこんなにも数が多いものなの?
アニタ
昨日の怪物たちのことですか?
スカジ
まあ、そうね。
アニタ
あれは今まで、一度も見たことなかったものなのれす。
スカジ
そう。それなら、数日はここには来ないことね。早く帰りなさい。
アニタ
歌い手さん。
スカジ
……スカートを引っ張らないで。そこまで子供じゃないでしょ。
アニタ
えっと……私、何が欲しいか決まったんです。あなたの歌を聞かせてください。
スカジ
……私の歌を?
アニタ
だって……私は歌を知りませんから。あなたが夢の中で口ずさんでたのは聞きましたけど……でも、うまく聞き取れなかったので。
スカジ
わかったわ。
アニタ
今、「わかった」って言いました? これが「約束する」ってことですか?
スカジ
そうなるわね。
……はぁ……
……私のハープ。
アニタ
え? あれ? そういえばそうですね。歌い手さんのハープ、どこに行っちゃったんですか?
スカジ
……探しに戻るわ。
アニタ
わかりました、じゃあ私も一緒に探しますね。
アニタ
あっ、これって……もしかして、私と一緒に戻ってくれるってことですか? や、やったあ!
スカジ
……
そこまで……喜ぶことかしら?
男性住民B
……
アニタ
ハーイ、ほこり! おはよう!
男性住民B
トタン……
アニタ
あれ、言われてみれば……トタンったらどこへ行っちゃったの? あなたたちいつも一緒なのに。
男性住民B
トタン。
アニタ
あなたが見てる方向って……海……?
まさか、昨日赤い貝殻を引いたのって、トタンなの?
はぁ……
男性住民B
木枠、俺の病気、ひどくなったみたいだ。
俺の胸、はちきれそうだ。まるで、爆発するみたいだ。
何も、食べたくない。放って、おいてくれ。
アニタ
……はぁ。
アニタ
歌い手さん、私たちの家へようこそ! また来てくれて、とっても嬉しいです。
年老いた住民
ううっ……あぁ……
スカジ
ねえ、あなたのおばあさん……
アニタ
ペトラおばあさんはまだお休みしてるんです。昨日一緒に帰ってきてから、ずっと目を覚まさなくて。
きっと、おばあさんもたくさん体力を使って、疲れちゃったんだと思います。まさかおばあさんが出てきて、審問官にあんなこと言うなんて……普段の様子とは全然違いましたよ。
スカジ
……ええ。彼女は……すごい人だわ。審問官を追い払ったのは彼女だもの。
年老いた住民
ふぅ……はぁ……
アニタ
審問官を……追い払った!? 歌い手さん、そんなこと言って……もし審問官に聞かれたら、きっとまた怒っちゃいますよ。
スカジ
好きにさせたらいいわ。
それで、また彼女が手を出してくるのなら……その時は……
アニタ
審問官はもう、あなたにはちょっかい出さないと思いますよ?
スカジ
……誰へのちょっかいだろうと同じことよ。
……
アニタ
……あっ、そうだ! そろそろハープを探しに行きませんか?
スカジ
待って。
アニタ
はい?
スカジ
頭の上。
アニタ
わっ! 緑のねばねばがたくさん……な、何でしょうこれ?
スカジ
海藻でしょ。
アニタ
さっきくっついたんでしょうか?
スカジ
多分ね。
アニタ
これ、何かに使えますかね? 見た目は、海で採れる他の草にも似てますし……乾燥させたら、ベッドに敷けるかな? ペトラおばあさんは腰が悪いので……ちょうどいいかもしれません。
スカジ
……貸して。
貝殻を使って、この海藻をすり潰すの。この粘液は、洗い流しちゃダメよ。
すり潰したら、海水を加えて。全部ひたひたに浸かるようにね。そうしたら、この小瓶に入れて、蓋をする。あとは半年放っておけばいいわ。
瓶の中の液体は、初めは緑色だけど……色が薄くなってきたら、発酵したってことよ。そうなれば完成。飲めるようになるわ。
アニタ
う、歌い手さん……
スカジ
どうしたの? わからないところでもあった?
アニタ
初めて……初めて、私にたくさん話をしてくれましたね!
スカジ
……そうね。
ああ、それと貝殻も捨てないで。洗って乾かせば、海藻で作ったお酒の器に使えるでしょ。
アニタ
おさけ……って、何ですか?
スカジ
そこに書いてある文字が「酒」よ。ここは元々酒場だったんでしょうね。
アニタ
この字……「さけ」って意味だったんですね!
スカジ
お酒を飲めば幸せになれるし、悩み事も忘れられる……って、知人たちがよく口にしていたわ。
アニタ
それって本当なんですか?
スカジ
……いいえ。
でも、味は悪くないわ。
アニタ
あなたの故郷では……エーギルでは、よくそれを飲んだりしてたんですか?
スカジ
まるっきり同じものを、ってわけじゃないけどね。
……けど、似たようなものなら、時々一緒に飲むこともあったわ。踊りの前とかにね。
アニタ
きっとすごく楽しいでしょうね……あっ! わかった気がします。それってお酒で幸せになるんじゃなくて、幸せな時にお酒を飲むんですよ。
あれ? でも、外で生活してる人たちは皆お酒を飲むんですか? もしそうなら皆幸せなんでしょうか?
スカジ
そうとも限らないわ。
アニタ
そうなんですか。それならきっと、今の私の方が幸せですね。私に酒の作り方を教えてくれてありがとうございます、歌い手さん。早くあなたと一緒に飲みたいです!
スカジ
……あなたのやり方、ちょっと違うわ。
そんなふうにすると、潰しにくいでしょ。角度を変えるの。貝殻の一番とがった場所で、海藻の筋を狙うのよ。
リズムを掴んで、呼吸を整えて……あなたの手、あなたの身体を、肌に触れる海風と一つに溶け合わせるの。
こうして――こう。一発で潰して。
男性住民B
……
スカジ
何見てるの。まさか、またちょっかい出してくるつもり? まぁ、あなた一人なら、昨日より早く片付きそうだけど。
男性住民B
いいや……違う。
これ、やる。
スカジ
うん……?
私の……ハープ?
男性住民B
トタンが、拾った。
昨日の夜……お前が、落とした。それ、あいつが、見つけた。
スカジ
……
アニタ
わあ、よかったですね! これで探しに行かずに済みましたよ、歌い手さん!
男性住民B
トタンは、これを……こっそり、家に持ち帰った。そして、俺に……これを、お前に渡せと、言った。
そのあと、トタン。行ってしまった……
スカジ
そう……ありがとう。
男性住民B
あ、あぁ……
スカジ
少し、聞かせてあげる。
アニタ
あっ、その音……寝ているあなたが口ずさんでいた歌ですね。
スカジ
私の頭の中でよく流れる歌なの。
アニタ
これって、歌い手さんや仲間の人たちが、前に歌ってた歌ですか?
スカジ
そうね……私に家があった頃、こんな歌がたくさんあったわ。私たちは歌を通じて……話をするの。
けど、家を離れたあと、他の歌声はすべて消えていった。私は一人になって……残ったのはこれだけ。
アニタ
だからこの歌は、どこか悲しい感じなんですね。
スカジ
……
アニタ
歌い手さん、約束でしたよね! ハープが返ってきたんですから、私たちに歌を歌ってくれませんか?
みんな待ってるのれす! ね、ペトラおばあさん?
年老いた住民
ううっ……ああ……
アニタ
おばあさん、今日は話せませんけど……でも、きっとおばあさんも一緒に歌いたかったに違いないのれす。
年老いた住民
あ……あぁ……
アニタ
歌い手さん、ペトラおばあさんも聞きたいって言ってますよ。
スカジ
……
わかったわ。
赤いドレスの歌い手が、人々の中心へと座る。そして目を閉じ、指でハープの弦をなでた。
ハープの音と歌声が彼女の体から湧き出でて、ぼろぼろの酒場に満ちていく。回り廻り、のびのびと広がるその音は、もとよりここにあるべきものが戻ってきたかのようだった。
狩人が一人、陸へと上がる……♪
彼は故郷を背にして遠く、行くべき道は前にのみ……♪
父母と娘とはとうに逸れて……♪
恋人は既に海へ葬られた……♪
グレイディーア
……
司教
おや、少し表情が変わりましたね。何か感じ取りましたか?
グレイディーア
……いえ、何でもありませんわ。
司教
まあ、あなたの神経は未だ鈍いままですからね。目の前の水をご覧なさい。水位の昇降、波紋が生まれる頻度、乱反射する光の躍動。これらすべてが海からのメッセージなのです。
もうすぐ、潮が満ちる時です。私たちも上がるべきでしょう。
狩人が一人、陸へと上がる……♪
彼は故郷を背にして遠く、その手に残るは哀嘆のみ……♪
彼の道は果てなく限りなく……♪
彼の道は霧が垂れ込める……♪
審問官
彼女が歌っている……
この荒れ果てた家で、人々の前で歌っている。
そして人々も……彼らも歌を聞いている。
だけど、俯く人は俯いたままだし、話せない人は舌も動かないまま……そんな彼らの固まった肉体に歌声は入っていけない。でも、彼らの目は……
まさか……彼らは、この歌を理解しているの?
狩人が一人、陸へと上がる……♪
......
歌い手はハープを爪弾くその手を止めたが、ハープと歌声が織りなす残響は、すぐに消えはしなかった。
それは未だ、さすらい人の中に在り……やがて変化を生む。人々の心へ分厚く積もったほこりの間にひびが入った。
彼らが心の奥底に押し込めていた、本来そこにあるべき芽がひびを押し分けて顔を出す。それと同時に、心の中にあった他のものもまた、ぽたぽたと流れ出していた。
スカジ
……
住民
……
アニタ
ペトラおばあさん?
スカジ
おばあさんが、どうかしたの?
アニタ
おばあさん……寝ちゃったみたいです。
こんなに穏やかに眠っているのは、珍しいです。いつもは目を閉じたかと思えば急に叫んで、じたばたしてましたから。
私……てっきり、あなたの歌を聞いたら、おばあさんは踊り出したくなるんだと思ってました。おばあさんったら、いっつも踊りたい踊りたいって言ってるのれすから。
男性住民B
……
アニタ
ほこり……?
男性住民B
死にそうだ。目に……海水、入った。それに、塩からい。少しも、おいしくない。
アニタ
わっ、あなた……泣いてるの?
男性住民B
ないてる? ないてるって、何だ?
スカジ
……身体の奥底から流れ出てくる感情が、そうさせるのよ。
男性住民B
そう……なのか? 俺には、やっぱり、よくわからない。
アニタ
……歌い手さん、あなたの歌、私はとっても好きです。あなたはあんまりお喋りじゃないですけど……でも、あなたの歌には言葉がたくさん詰まってるんですね。
あの、もう一回歌ってくれませんか? もっと聞きたいです。
スカジ
……
スカジ
もう一度だけよ。
その時、海風が歌い手の指に纏わり付き、鼻先まで立ち上った。匂いが、変化する。
潮が満ちたのだ。
男性住民C
食いもん……
男性住民D
食いもんが来た……
男性住民C
海岸、行く。
男性住民D
宣教師!
人々は次々と家を出て行く。
ハープの音と歌声が消えた。