顕現せし影

1094年 年初
カズデル地区 移動都市カズデル
マンフレッド
お待ちください、将軍!
テレシス
落ち着け。
マンフレッド
ですが! あの公爵の使者の態度はこちらに唾を吐きかけるようなもの――
テレシス
こちらに必要なものは得られたのか?
マンフレッド
確かに一部の工業区画の使用権と国境通行権は得ました……ですがあのように屈辱的な方法と引き換えである必要がありますか?
ヴィクトリアの公爵は将軍をあごで使い、サルカズを従順な獣だと見なしています。内戦の泥濘から顔を上げた戦士が待ち望んだのはこのような結果ではありません、将軍!
テレシス
これこそまさに我らの思惑通りではないのか?
まさか我々は、ヴィクトリアが初めからサルカズを最大の敵とみなし、一致団結して我らを相手取ることを望んでいたとでも?
マンフレッド
これも将軍の……いえ、敢えて敵に弱みを見せる必要性があるのは理解しています。ですが……
我々の中の多くが、そこにはいささかの栄誉もないと――
テレシス
私が彼奴らに約束したのは栄誉であったか?
ヴィクトリア人の目に映るサルカズに栄誉はあるか?
マンフレッド、お前は近頃性急がすぎるぞ。
マンフレッド
……
テレシス
……尊厳の重要性は認めよう。
お前は戦士たちの立場でものを考えられるがゆえ、皆の尊敬を集めている。普段であれば、私もお前を褒めたたえたかもしれぬ。
しかし今、我らは何をしようしている? 一国の心臓を盗み取る準備をしているのだ。
この大地において最強の帝国を瓦解させようとしているのだぞ。
内部に隔たりによって彼奴らはこの上なく脆弱になっている。そして、サルカズは今まさに腹を空かせているのだ。
ならば我々に必要なのは元より「栄誉」や「尊敬」などではない。
マンフレッド
……承知いたしました。
テレシス
軍隊の準備はどうだ?
マンフレッド
完了しています。先行した同胞が、ロンディニウムにて我々を迎える手はずとなっています。
キャヴェンディッシュ公爵が我々に要求した到着期限は間もなくですから、いつでも出発できる状態としてあります。
テレシス
よい。
では、ヴィクトリアに滅亡を与えに行こう。
マンフレッド
ずっとここで見張りをしていたのか?
軍事委員会衛兵
はい。
マンフレッド
……
もう下がって構わない。しばらく一人にしてくれ。
軍事委員会衛兵
はっ!
マンフレッド
……
衛兵が去るのを待って、マンフレッドはおもむろに棚からグラスを取り出した。
マンフレッド
一杯どうだ?
アスカロン
お前、昔は一切酒を飲まなかっただろう。
マンフレッド
今でも飲まない。
しかし次の任務へ向けて、将軍からヴィクトリア人の「マナー」を学ぶよう命じられていてな。
学び始めるまで知らなかったのだが、あの貴族どもは一度の食事に何種類もの酒を合わせるだけでなく、酒ごとにグラスまで変えるのだそうだ。
幼い頃、将軍が剣の練習に我々を古戦場へ連れていったときのことを覚えているか? 夜は寒く、将軍がスープを作ってくれたが、そこでようやく容れ物がないことに気づいたのだったな。
しかし戦場には至る所に砲弾の薬莢が落ちていて、君はそれを集めてカップを四つ作った。
そして君と私、それから将軍と殿下の四人で薬莢のカップを手に持ち、たき火を囲んだ。
アスカロン
覚えている。とても静かな夜だった。
マンフレッド
今のように。
晩冬の冷たい月光が窓に差し込む。剣の柄に置かれたマンフレッドの手も、月光のように冷たかった。
互いの鼓動が聞こえるほどに、空気は静まり返っていた。
アスカロン
お前たちは明日、ロンディニウムへ向かうのだな。
マンフレッド
将軍に会いたかったのだろう。
アスカロン
……
マンフレッド
しかし会えなかった。そうでなければ、私の所になど来なかったはずだ。
アスカロン
「会わなかった」んだ。
遠くから奴を見た時、最初に頭に浮かんだのは、今すぐ殺すべきだという考えだったのでな。
マンフレッド
では君はいくばくかの理性を保てたことを幸いに思うべきだ。
それで、私には何の用だ?
アスカロン
お前の剣術もかなり向上したと聞いてな。見せてみろ。
マンフレッド
君に勝てたことは一度もない。
アスカロン
倒れる前から許しを請うな。
マンフレッド
……
一度テレジア殿下の書斎で喧嘩をしたことがあったな。
壁一面の本が崩れてしまって、将軍は我々の武器を取り上げて、三十分以内に書斎を元の状態に戻すよう命じた。
あれは君が両殿下の注意を引くために故意にやったことだと、私は気付いていたよ。
アスカロン
そうだったか?
アスカロンの姿が揺れ、瞬く間に影の中に溶け込んだ。
再び目を瞬かせたマンフレッドは、首に冷たい感覚が走るのを感じた。
彼は剣を抜いて抵抗しなかった。抵抗しようという考えが頭に浮かぶ間もなかったのだ。
疲れているのだろうか?
アスカロン
もしここでお前の首を掻っ切れば、少なくともお前はロンディニウムで死なずに済む。死体は溶炉に投げ込んでやろう。
……そして、多くの者たちも異国の戦場で死なずに済むだろう。
マンフレッド
決心したのなら、今すぐ私を殺すべきだ。これが君にとって最後のチャンスだからな。
アスカロン
……
もう、決めたのか。
マンフレッド
君は己の信念が欠けていると将軍は言うが、私はそうとも限らないと思っている。
アスカロン
他人に命を握られている時は口を慎んだ方がいい。
マンフレッド
最近になってようやく理解した。意志が固くないのは、むしろ私の方なのだと。
我々はどちらも見えない波にここまで押し流されてきたのだ……しかし戦争が始まったあの日に、引き返す道は断たれてしまった。
アスカロン
……
ならば……精一杯生き延びることだ。
次は矛を収めはしない。
寡黙な刺客は仕込み刀をしまって、ゆっくりと影の中へ戻っていった。
マンフレッド
……私もだ。
これが最後の再会となることを祈ろう。
カズデル地区 バベルロドス本艦
冷たい風が晩冬の分厚い雲を吹き散らし、その隙間から抜けた日差しがブリッジに広がっていく。
階段の下、アスカロンは柵のそばで立ったまま動かない。
彼女は両目をきつく閉じ、日差しがもたらすひと時の温かさを享受していた。
階段の上方から、布が地面と擦れる音が聞こえてくる。
通りすがる人の影が刺客の顔で揺れ、空から降り注ぐ日差しを遮った。
テレジア
ごめんなさい。お休みの邪魔をしちゃったかしら?
靴を脱いで歩けば、音はしないと思ったのだけど。
アスカロン
いや。いついかなる時であろうと、殿下を邪魔などと思うことはない。
素足でいては冷える。すぐに靴をはいた方がいい。
テレジア
お話はしてくれないの?
アスカロン
何の話だ?
テレジア
カズデルに戻ったことについて。
アスカロン
……あれは私の独断だ。
殿下は反対するだろうと思って……結局どう切り出せばいいのかわからなかった。
テレジア
そんなはずないでしょう? あなたの決定なら、私もその判断を信じるわ。
それで、彼らに会ったの?
アスカロン
……あの人もマンフレッドも変わらぬ様子だった。
テレジア
そうでしょうね。二人ともとても強いもの。
私たちもそろそろ準備しないとね。カズデルの奪還作戦はそう遠くないわ。
アスカロン
……
テレジア
そんな険しい顔をしてどうしたの?
アスカロン
我々の最近の作戦計画は急進的なものであり、各戦場にて多くの戦果を挙げている……
しかし、常に不安を感じるんだ。
バベルは変化が大きい。特に……
テレジア
ん?
アスカロン
ドクターの。
ドクターは大きく変わった。何をするにしてもより効率的で冷静になった。まるで……ミスをしない機械のように。
テレジア
それは指揮官としては備えておくべき資質よ。どうしてそれに不安を感じるの?
アスカロン
私は今のあの優秀な指揮官よりも……駄獣の背中から惨めに転がり落ちたあいつの方を信頼している。
殿下、我々は本当に今カズデルに攻め入るべきなのだろうか?
テレジア
あなたの直感はいつも鋭いのよね。
アスカロン
殿下も同じ懸念を?
テレジア
……
だけど、忘れちゃったのかしら。
ここ数年、私たちはどう見ても打開できそうにない窮地に何度陥ったことかしら。でも最終的には――一つ一つ乗り越えてきたじゃない。
きっと今回も同じだと思うわ。
アスカロン
しかしリスクは常に付きまとう……
テレジア
アスカロン、バベルは多くの人の希望と信念を背負って、それに突き動かされるように今日までやってきたでしょう? だから足を止めるなんてできないのよ。
軍事委員会との対立では、私たちは常に不利な状況にあった。だけど今、彼らの主力部隊のほとんどがロンディニウムに向かうというまたとない好機が訪れているの。私たちに選択肢はないわ。
アスカロン
……
必ずやそばで殿下の安全を守ろう。
テレジア
いいえ、アスカロン。
この先、あなたはより遠くへ、より多くの人を守りに行かないといけないの。
今はリラックスして、日差しをゆっくり楽しんで。
アスカロン
殿下……
テレジア
そうだ、休むにしても立ったまま休んでばかりいないで。疲れた時はお部屋に戻ってゆっくりと寝るのよ。
アスカロン
覚えておく。
テレジア
ええ……
日差しが再びアスカロンの顔に戻る。
明るく、暖かい。しかし顔にかかっていた影が遠ざかった瞬間、彼女は不意にみぞおち辺りからわずかな違和感がにじみ出すのを感じた。
この時の彼女はまだその正体を知らなかったが、数年後のある晴れ渡った日に、ようやく思い至った。
それが名残惜しさであることを。
ヴィクトリア ロンディニウム
ヴィクトリア兵
傭兵たちよ、聞け!
公爵様からの報せが届いた。今回のロンディニウム進攻では、お前たちはいい働きをしたと評価してくださっている。
一時間後に中央区に集合しろ。そこで観閲を受け、賞金を受け取るようにとのことだ。
……おい! 聞こえたか?
テレシス
うむ、承知した。
時間通りに到着すると公爵殿にお伝え願おう。
……サルカズは公爵殿の寛大さに感謝する。
ヴィクトリア兵
チッ。
魔族が白々しい……
テレシス
……
戦火によって立ち上る煙がなければ、本来今日はロンディニウムでは珍しい晴天の日だったはずだ。そびえる城壁からは、この古い都市の風景が一望できた。
服を血に染めた将軍は一言も発さず、その目はじっと都市中央の高くそびえるビルを見据えていた。
ロンディニウムの空に、暗雲が立ち込めていた。