エーギル失格
ブランドゥス
おや、お目覚めかな?
傷口は処置しておいたよ。そこに神経活性剤が二本置いてあるだろう。注射をすればしゃっきりするぞ。私が打とうか、リトル・ハンディに打たせようか?
ウルピアヌス
……
ブランドゥス
わかった、どうぞご自分で。
……その慣れた手つきを見るに、順調に回復しているようだな。
忠告しても無駄だろうが、それでも言わせてもらおう。
自分の身体で実験するのはやめたほうがいい。でなければ、マスクだけでは隠せなくなるぞ。そのうち、目元まで覆わなければ、周りから虐待を受けているとでも思われるようになりかねん。
ウルピアヌス
俺の身なりは改造実験とは無関係だ。
ブランドゥス
確かに、君はずっとそんな恰好をしているからな。昔は、君がその陰気な様子で教室に入って座るだけで、皆身震いしていたものだ。
君とは知り合って長いが、その顔はほとんど拝めた試しがない。
ウルピアヌス
ブランドゥス。お前が冗談を言い始めたということは、結果は悪くなかったんだな?
ブランドゥス
良し悪しで評価することは難しい。私が先ほど覚えた感情は、たとえるなら、セクンダが目を閉じて巡視船を操縦するその隣に座っているようなものだった。まさに天地がひっくり返るという具合だ。
ウルピアヌス
……
ブランドゥス
まず、接部自動調節点だが、予期せぬ効果をもたらしていた……
君の身体は、シーボーン遺伝子が異常な形質支配力を見せた時、拒絶反応を強めることはしなかった。むしろ弱まったくらいだ。
ウルピアヌス
それは、俺のシーボーン化が加速しているということか?
ブランドゥス
いいや、その逆だよ。
手術を中断しようとした瞬間、奇妙な現象を確認したんだ。君の拒絶反応が弱まったのをきっかけに、シーボーン遺伝子の形質支配も緩やかになったんだ。
まるで――君の身体とシーボーン遺伝子が、ある種の合意に達したかのように。
ウルピアヌス
その現象はさらに研究する価値があるな。だが、今はそれよりも、この状況がアビサルハンターの今後の作戦にどう影響するかということのほうが気にかかる。
「ファーストボーン」を殺すことは、アビサルハンター誕生以来最も重要な任務だ。
それを目前に控えた今は、いかなる異変も許されない。
ブランドゥス
今のところ悪影響は確認されていないが、君たちの出発まで引き続き安全テストを行っていこう。
とはいえ、この現象がいかなる原理によるものかを解明するには、君が生きて帰りさらなる研究の一助となってくれることが最善だ。
正直に言うと、とても心配なのだよ。
我々はこれほどの規模の戦争を起こしたことはないからな。全アビサルハンターと、正規軍三つを海溝へ送り込むなど……
ウルピアヌス
こうした戦争なくして、新世代のシーボーンを、奴らの根源を、奴らの「神」をどう殺すと言うんだ?
ブランドゥス
それで本当にシーボーンの問題を根本的に解決できると思うのか?
ウルピアヌス
十年以上我々と共に働いてきたというのに、お前はまだアビサルハンター計画への疑念を払拭しきれないらしいな。
ブランドゥス
本音を言うべきかな?
ウルピアヌス
……
ブランドゥス
進化の軌跡を捻じ曲げて、同胞の人間性を犠牲にすることを前提としたこんな計画は、審査の段階で棄却されるべきだった。
提起したのが君でなければ、その実現性を考えることすらしなかっただろうし、ましてや十年以上もこの計画に取り組むことはなかっただろう。
……だが、渦中に身を投じたからには、疑念を抱けば抱くほどに、中核を担う人物となって、その方向性を自らの手で制御したいと考えるようになった。
それでも忘れられないんだ。この研究所がどれほど多くの「怪物」を生み出してしまったのかを。
彼らのほとんどは君の手で殺されていった。
ウルピアヌス
そうだな。
ブランドゥス
その死は「犠牲」とすら呼べない。そうだろう?
ウルピアヌス
シーボーンに故郷を破壊され、命を奪われたエーギル人のほうがはるかに多い。
ブランドゥス。こうした議論はすでに何度も交わしてきただろう。出発を前にしてわざわざ行う必要はない。
それよりも、早く安全テストの手配をしてくれ。加えて、進行中のアビサルハンター改造実験もすべて中断するように。
ブランドゥス
理由は?
ウルピアヌス
狩人不在の状況で実験中に異常が起きれば、対処が困難になるだろう。
ブランドゥス
「異常」か。
君は十年以上にわたってアビサルハンター計画を主導してきたが、そんな君自身もこの計画を完全には信用しきれないのだろう?
君が最初の被験者になると決めたのはそれが理由だ。
この戦いでシーボーンの危機を根本的に解決できるかどうかは、君にも断言できないのだろう。
ウルピアヌス
ブランドゥス……
ブランドゥス
だがな、ウルピアヌス。私は誰よりもこの戦争での勝利を待ち望んできたのだ。
君たちが無事に帰る頃には、アビサルハンター計画は不要のものになっているかもしれない。そうなれば我々は、昔していた研究を再開することもできるだろう。
君はもう忘れかけているのではないか? この間、評議会で我々の師匠にお会いしてな。我々の理想について尋ねられたのだ。
ウルピアヌス
「エーギル細胞発展史」か。
ブランドゥス
決して壮大なテーマではないが、ミクロな観点から我々自身の源流を見つめてみることも、美の追求の一種だと私は確信している。
太古の昔、河の中で付属肢を揺り動かしていた先祖の代から、今ここで科学や理想を語り合う我々に至るまでの流れは、内的な秩序の変化を伴うものだ。
我々には、今もそれを見届けるチャンスがあるのかもしれないな。
ブランドゥス
ごほ、ごほっ……やっと来たな、ウルピアヌス。
ウルピアヌス
自己弁護のために、つまらん冗談を言うのはやめたのか?
ブランドゥス
ははっ、つまらん冗談か。セクンダにもそんなことを言われたよ。
ここ数年であの子はますます君に似てきた。そのうちに、もう一人の「ウルピアヌス」になるのだろうな。
そうしてこの先も、それが自発的なことであろうがなかろうが、無数のウルピアヌスが生まれる。彼らはシーボーンとの戦いに身を投じ、戦争の中で死んでいく。エーギルの血がすべて流されるまで。
ウルピアヌス
彼女の変化には悲しみを覚えるが、お前の変化は俺にも理解さえできん。
今すぐに行動を止め、お前たちの計画について話せ。
深海教徒、ブランドゥス。
ブランドゥス
来るのが遅すぎたな。私の為すべきことなどもう残っていない。
たった今、ホログラフィック海図が第37号営巣地の信号を受信したところだ。最後のビーコンは起動し、第Ⅳ級兵器は動き出している。
君がどんなに強くとも、もはや止めることはできない。
それと、深海教会の計画についても答えられないな。
彼らは、事あるごとに私を一方的に庇ってくれていたんだが、ある日突然意向を変えたようでね。
実際、彼らの行動がなければ、私のことはとうに感づかれていたかもしれない。だが、自分を彼らの一員だと思ったことはないよ。私には、彼らのねじ曲がった理念など理解もできない。
とはいえ、私がこんな行動を取った理由を知りたいのなら、喜んで話すとしよう。
ウルピアヌス
いいだろう。これで不必要な武力行使をせずに済んだ。
ブランドゥス
ははっ、武力行使か。
君は相変わらず、すぐ暴力に訴えるな。自分で自分を進退窮まる状況に追い込んでいなければ、展望研究所の老いぼれたちは喜んで君と膝を交えて話しただろうに。
あの戦争が失敗に終わった後、君たちはすぐに「死亡を確認」された。それからほどなくして、展望研究所が私のもとを訪れ、アビサルハンター計画を再開しようと持ち掛けてきたんだ。
ウルピアヌス
……
ブランドゥス
君はまだ、あの戦争での死傷者数を確かめてはいないだろう?
一度見てみるべきだよ。アビサルハンターも、軍人たちも……あれほど痛ましい犠牲を出しておいて得られたのが、あんなにバカげた結果だとは!
暴力に頼ることそれ自体が、初めから行き詰っているんだ。アビサルハンター計画には勝機などなかった。
確かに、エーギルは白々しい嘘やプロパガンダを用いて犠牲を奨励したことはない。アビサルハンター計画の被験者たちには皆、十分に知る権利があった……
だが、同胞の犠牲が天秤にかけられている時点で、その犠牲が自由な選択に由来するものかどうかなど重要ではない。
かつて、エーギル人の価値は、我々が人生の中で創り上げたものにこそあった。だが今はどうだ? 我々の命、そして我々の死、すべてに値札がつけられている。
ウルピアヌス
お前の言葉はまったくの無意味だ。しかし、覚えてはおこう。
ブランドゥス。俺は、お前の持つ疑念や不満が、お前を今のように軟弱な自己欺瞞に陥れるのではなく、探求の深みへと導いてくれると思っていた。
堕落者は皆、激昂と共に、あるいは悲しげに、似たような言葉を口にする。「自分はエーギルの堕落を見た」とな。
国家を擬人化してその道徳を判断しようとは、それがたとえ自己満足を得るためであっても実に低俗な行いだ。
そしてお前も――涙ながらに犠牲を批判しておきながら、自分が航路計画を破壊することでどれほどの命を奪うことになるか、考えたことはあるのか?
ブランドゥス
破壊だと?
ウルピアヌス、それは違う。私は本当の道を切り拓こうとしているだけだ。
ウルピアヌス
お前は一体何をした?
ブランドゥス
そう焦るな。君にすべてを話そう。
ブランドゥスはウルピアヌスの横を通り、巨大なホログラフィック海図の前で歩みを止めた。彼はウルピアヌスを背に、煩雑な光の点を指でなぞると、右上の光っている場所を差し示した。
ブランドゥス
見えるか、狩人たちは今この位置にいる。
最後のビーコンを起動した彼女たちは、恐らく今、激しい戦いのなかにいるだろう。だが、決して危険はない……真の意味での危険はな。
そうして、狩人たちが力尽きた瞬間、兵器が効果を発揮するのだ。シーボーンは戦いをやめ、彼女たちを抱いて眠りに就く。
ウルピアヌス
続けろ。
ブランドゥス
接部自動調節点の技術について覚えていれば、この先話す内容を理解するのも容易いだろう。
ウルピアヌス
かつて俺の身に起きた、手術中の事故に関わることか?
ブランドゥス
そうだ。当時君が言っていた通り、あれは確かに研究価値のあるものだった。
接部自動調節点は君の体内でミクロレベルのバランスをとることに成功した。君の身体はシーボーン遺伝子を排除せず、またシーボーン遺伝子のほうも奇跡的に、君に影響を及ぼすのを止めた。
これ自体は偶然かもしれないが、私はすぐに、マクロレベルでもこの現象を再現できることに気付いた。これによって、シーボーンの人間に対する敵意をある程度解消することができるのだ。
グレイディーアたちが第37号営巣地に向かう前に行った手術で、私は彼女たちに対し、当時の君に起きた「手術中の事故」を再現した。
ウルピアヌス
……
お前は狩人たちの身に、原理も効果も不明で厳密な検証すらされていないような「事故」を再現したと言うのか?
ブランドゥス
いや、そうではない。君の体内で起きた現象は、もはや偶然の産物ではない。私は、君のいない間、片時もその研究を止めはしなかったのだ。
……君たちがまだ生きていると、戻ってくると信じていたから。私なら、君たちがこの忌々しい「運命」を脱するのを手伝うことができる。
ウルピアヌス
道理で、死の気配が滲んでいるわけだ。
ブランドゥス
ははっ、当然ながら私は、今の君のようには平気でいられないからね。
もはや残された時間は多くない。ごほっ……命が流れ出ていくのさえ感じるよ……だが、幸い私の為すべきことは完遂した。
ウルピアヌス、答えてくれ。アビサルハンターは道具でも武器でもなければ、いずれ捨てられる消耗品でもない――解決策として生まれたのだろう?
ウルピアヌス
ああ。
ブランドゥス
……ならばいい。
アビサルハンター計画は失敗に終わったが、解決策としての使命を果たす機会が、狩人たちには残されている。けれどもそれは、殺戮や犠牲によるものではない。
君たちはその犠牲によってエーギルを延命させるのではなく、生きることでこそ己の価値を発揮するのだ。
アビサルハンターを起点として、人類とシーボーンの関係を書き換える。シーボーンに狩人たちを血族と認識させることができれば、大群にもエーギルを隣人として認識させられるかもしれない。
ウルピアヌス
それで航路計画に目をつけたのか。
ブランドゥス
正確に言うと、航路計画の方から歩み寄ってきたのだがね。
展望研究所とほぼ同時に、クレメンティアも私を訪ねてきてな。航路計画の詳細と、第Ⅳ級兵器の開発計画について話してくれたよ。
このバイオテクノロジーを中核とした兵器は、シーボーンの行動に大規模な影響を与えることができる。そしてその根底にある原理は接部自動調節点の技術と類似性があった。
当時、私にはすでに接部自動調節点に関する十分な技術的蓄積があり、その応用対象は人体にとどまらなくなっていた。
そこで私は、第Ⅳ級兵器にちょっとした改造を加えたのだ。あれが起動すれば、その瞬間に、我々とシーボーンとの争いは一区切りつくかもしれない。
アビサルハンターと第Ⅳ級兵器は、種の隔たりを越えて、一本の懸け橋となる。
二百年以上も続いたエーギルとシーボーンの戦争が、こんな小細工で止められるかもしれないというのは、実に皮肉なことだ。
あるいは初めから、この戦争の深刻さなど虚構にすぎないのかもしれないな。先人の行いを批判するつもりはないが、我々にはまだ別の可能性を選択するチャンスが残されているはずだ。
ウルピアヌス
……
ブランドゥス
だが、私に残された時間は少なく、私にできることもこれくらいしかない……そんな今、幸いにして君を闘智場で見かけることができた。
アビサルハンター計画の発起人であり、接部自動調節点を熟知しており、そのすべてを経験した人物。この事業を続けられるのは君しかいないんだ、ウルピアヌス。
ウルピアヌス
だから俺が来るのを悠然と待ち、死ぬ前に「事業」を託そうとしたと?
ブランドゥス
今度は私が誘う番だ。エーギルとシーボーンには、共存共栄を実現できる可能性がある。その未来を見届けてくれないか?
ウルピアヌス
断る。
ブランドゥス
予想はしていたが、即答がすぎないか。
私はこの中央制御室で死ぬことになるのだろう。だが……
ウルピアヌス
ブランドゥス。お前の死がもはや定められていようとも、これだけは知っておけ。お前には未練や悔しさを抱えて死ぬ資格はない。
かつて俺たちは、エーギル人の細胞進化の過程を研究することで、自らの存在意義を体系的に理解しようとしていた。
だがお前は、空虚な妄想のために、己の手で自身のすべてを毀損してしまったんだ。
シーボーンは海を穢すゴミだということに、疑いの余地はない。
奴らは解明されざる部分の多い生き物だ。にもかかわらず、お前は奴らと友人の如く「共存共栄」できると信じているのか?
だとすれば、それは以前のエーギル人が奴らを軽んじ、打倒できると確信していたのと同様に――いや、その百倍は傲慢だ。
自分が何を考えているのか、わかっているのか? お前の言う「共存共栄」の幻想の中に、どんな光景を期待している?
シーボーンはおとぎ話に出てくるような神秘的な海の妖精になりうると? あるいは人々のペットにでもなると思っているのか?
グレイディーアがシーボーンと哲学の議論を交わすさまを、スカジが奴らと午後の茶会を楽しむさまを、ローレンティーナが奴らと共に踊るさまを、お前は想像しているのか?
ブランドゥス
……
ウルピアヌス
……
そんな光景は、一つとて思い描けない。違うか?
お前は科学者として持つべき矜持すら投げ捨てたんだ、ブランドゥス。今のお前ほど笑えるものもないな。
ブランドゥス
君がこんなにも一息にものを言うのは初めて聞いたよ。
つまりは、失望したと言いたいのだろう?
ウルピアヌス
今も昔も、失望しているのはお前のほうだろう、ブランドゥス。
それゆえに俺は、お前には未練や悔しさを抱えて死ぬ資格はないと言ったんだ。
堕落者は皆、裁かれるべきだ。その死体は、乾いた岩礁の上に掛けられるべきなんだ。
ブランドゥス
……君には今も、私を裁けると?
「ファーストボーン」を殺した戦いはすでに疑問視され、君は最大の容疑者となっている。加えてこれまでの行動の数々が、君をエーギルの敵たらしめている今――
君はもはや、この国に見捨てられたのだ。
ウルピアヌス
だからお前の事業を引き継ぐほかないとでも言うのか?
以前のお前は、そうした陰謀家の話術など用いなかったものだが。
ブランドゥス
私は事実を述べているだけさ。
ウルピアヌス
ならば今この時、俺は最後にもう一度だけ、エーギル人としてお前に裁きを下そう。
ブランドゥス
……
もはや言い返す力がないのか、あるいは反論を諦めたのか、ブランドゥスは答えなかった。互いに理解し合えもしないこの対話は、彼が疲れ果てるほどに長く続いていた。
金色の海図が彼の目の前で波打つ。なんとまばゆいのだろう――そう思いながら、彼は目を閉じた。
短い静寂を、どこからか届いた通信の音が不意に破り、それと同時に彼の旧友の巨大な錨が地面をかすめる鋭い音がした。
彼には、帰郷した狩人たちを抱きしめてやれなかった、と思い出すだけの時間しかなかった。