血塗れのダンス

ティーチ
気をつけろ、蒸気の柱にぶつかるなよ。
ハビエル
ったく、このザマでよく「突入するぞ」なんて抜かせたもんだな。俺たちを皆殺しにする気か?
イシドロ
すまない……次はもっと気を付けよう。
イシドロの投げた試験管が空中で破裂し、淡い金色の煙が広がる。
するとすぐに、かすかに赤い気流が煙を突き抜けていくのが人々の目に映った。
それに続けて、激しい蒸気が噴き出してくる。
イシドロ
こうすれば、蒸気の噴出は予測できる。
とはいえ、この薬剤も残り少なくなってきた。あまり遠くまでは行けないな……もっと急いでくれ。
ハビエル
フンッ……
ティーチ
前に船の残骸がある。注意してくれよ、ハビエル。
イシドロ
必要とあらば、薬剤で吹き飛ばしてもいいが。
ハビエル
いい、このくらい避けられる。お前がどんなにデキる奴かはよーくわかってるよ。
イシドロ
そうか……わかった。それにしても、この難破船……だいぶ年季が入っているな。
ティーチ
これはキャプテンが設計した最初のソルトシップだね。あの人は初め、これにみんなを乗せて骸礁峡谷を抜け、海に帰ろうとしてたんだ。
ハビエル
だが、それは失敗した。
ティーチ
そして多くを失いもした。
ハビエル
それで坊主、キャプテンの痕跡は見つかったのか?
イシドロ
ああ。そう遠くない場所にいるはずだ。
ソルトシップは進み続け、高くそびえる骨のそばを通り過ぎた。骨の表面にはいくつか亀裂が入っており、大量の血で染まっていた。
ハビエル
……
ティーチ
心配すんじゃないよ。あれは塩鱗獣の血だ。
イシドロは崖から転がってきた塩の塊を拾い上げると投げ捨てた。
それに触れた手はべたついており、手のひらを見れば、塩の塊から移った血がべっとりとついていた。
イシドロ
……
ティーチ
すごい戦いだったようだね。そこら中こんなに血だらけになるなんて。
ハビエル
キャプテンは……まだ生きてるのか……?
イシドロ
答えはこの先にある。
峡谷の巨大な骨の柱をぐるりと回れば、大きな塩鱗獣の死体が横たわっているのが見えた。それはとうに息絶えており、舵輪がその脳天に突き刺さっている。
舵輪の持ち主は塩鱗獣の背に伏せ、微動だにしなかった。血がゆっくりと彼女の足を伝い落ちている。
ティーチ
キャプテン……
ハビエル
……そんな……
全員が船を降り、塩鱗獣の背を登っていく。ハビエルが、彼女の腕に軽く触れた。その身体はまだ温かかったが、かえってそれが彼の心を痛ませた。
ハビエル
ごめんなさい……来るのが遅れて。
???
げほっ……ごほっ、げほっ……確かに、遅かったわね……
ハビエル
ふ、フアナさん!?
フアナ
早く手を貸してくれないかしら。
ティーチ
フアナさん、大丈夫ですか? 全身血だらけですよ……
フアナ
心配しないで。これは私のじゃなくて、この大物さんの血だから。この子ったら、散々足掻いてたけど結局は持たなかったわね。
イシドロ、水筒をくれる?
イシドロ
ああ。
フアナは水筒を受け取ると、ゆっくりと塩鱗獣の背を降りて、その巨体にもたれて座った。
それから彼女は水筒のふたを開け、勢いよく何口か飲むと、周りに集まってきた人々を見て笑みを浮かべた。
フアナ
ガルムね……残念。これが上等なラム酒ならよかったんだけど。
ねえイシドロ、支えてもらってもいい? この大物と随分長く戦ってたから、立ち上がれないくらい疲れちゃったの。
イシドロ
俺が?
ハビエル
俺がやりますよ。
フアナ
いいえ、坊やにやらせて。あなたたちは、この塩鱗獣を切って持ち帰らないといけないでしょ。
ハビー、ついでに塩鱗獣の身体に刺さってる舵輪を取ってきてね。
ハビエル
わかりました。
フアナ
ほら、坊や。
イシドロ
わ……わかった。支えよう。
フアナ
あら、ちょっと待ってちょうだい。レディを待つ時は焦っちゃダメよ。その人が用事を済ませるのを待たないと。
フアナは、幾度かふたを投げ上げてはキャッチして、落ち着いた様子で水筒の中の液体を飲み干していく。そばにいるイシドロは、それを辛抱強く待つほかなかった。
フアナは、喉を鳴らしてゆっくりと嚥下している。
あるいは、飲み込むのに苦労しているとも言えるだろう。
イシドロ
(小声)怪我を負ったことを彼らに言ったらどうだ。
フアナ
(小声)いいから、私の腰をしっかり支えて……
(小声)ッ……
(小声)あのね坊や、私は怪我なんてできないの。
(小声)近頃、船団内では……不安が広がっている。だから、船員たちに……弱っているところなんて、見せられないのよ。
イシドロ
(小声)あんたは、船員たちのために今後一ヶ月分の食料を仕留めたんだぞ。
(小声)向こうもあんたの面倒を見て当然だ。
フアナ
(小声)もちろんあの子たちに裏切られる心配なんてしてないわ。だけど……私が倒れてしまったら、あの子たちは現状を危険なものと思い込んで、パニックに陥ってしまうでしょう。
(小声)だから、ちゃんと支えていて……みんなの前で倒れたくはないの。
(小声)ッ……
イシドロ
(小声)だが、肋骨が折れているだろう。あまり強くは支えられない。
フアナ
(小声)耐えられるわ……大丈夫。
武装修道士
審査官閣下、ソルトシップが南西方向から来ます。
シルバー
見せてくれ。
大収穫のようだな。船の後ろに大物を括り付けている……
ご覧になりますか?
アナスタシオ
いえ、不要です。
……修道士たちに、攻撃の合図をしてきましょう。
シルバーが望遠鏡を覗けば、円形のガラスレンズの中、ドクロが描かれた旗が風砂に揺らめいている。
彼は塩海で長く生きてきていたが、これほどまでにその旗を見るのを楽しみにしていたことはなかった。
フアナ
収穫はどうかしら?
ルス
ざっと見積もりましたが、全員に食料を割り当てた上でかなり余裕を出せますね。
フアナ
いいじゃない。これでコンパスの修理用の材料としても十分ね。
ルス
……そうですね。
ハビエル
フアナさん……あの……
フアナ
あら、どうしたの?
ハビエル
後のことは俺に任せてください。激しい戦いだったわけですし、かなりお疲れでしょう。早めに休んでもらわないと。
フアナ
……そうね。じゃあ、あなたに任せようかしら。
ハビエル
部屋までお送りしましょうか? 手を貸しますよ。
フアナ
いいから自分の仕事をして。私はただ疲れてるだけで、手足を失ったわけじゃないんだから、手なんて借りなくても平気よ。
ハビエル
そう、ですね……
ティーチ
坊主、聞きたいことがあるんだが。
イシドロ
ティーチさん。何か?
ティーチ
キャプテンは怪我してないんだね?
イシドロ
どうしてそんなことを? 彼女なら大したことはない。
ティーチ
本当かい? 嘘だったら承知しないよ。
イシドロ
もちろんだ。
ティーチ
はぁ……
イシドロ
心配なのか?
ティーチ
当たり前だろ。あの人は人前じゃ弱みなんか見せたことがない。あたしもあの人が傷つくところなんかほとんど見てないくらいだが……フアナさんの身体には、いつだって新しい傷がある。
怪我を隠されるのは嫌なんだけどね。
イシドロ
……あの人は大丈夫だ。
武装修道士
目標、射程圏内に入りました!
アナスタシオ
撃ちなさい。
窓の外の悲鳴
うわああっ!!
フアナ
何事!?
ハビエル
くそっ、裁判所の奴らだ!
フアナ
私の舵輪はどこ?
あの連中、きっと獲物が目当てで来たのね。
ハビエル
ですが、フアナさん……! 俺に行かせてください! あなたには船室で待っててほしいんです、いいですね?
フアナ
私の獲物をみすみす裁判所に差し出せって言うの? そんなの、有り得ないわ。
ハビエル
フアナさん!
フアナ!!
ティーチ
まあ、あんたがそう言うなら……
イシドロ
危ない――!
ティーチ
何だ?
ぼうっとしていた船員
ぐああっ!
ティーチ
伏兵だ! 全員伏せろ!
クソッ、裁判所の連中め。
イシドロ
何が起きたんだ?
ティーチ
あたしだって知りたいね。大方、捕まった腰抜けがあたしらの狩りのルートを漏らしちまったってとこだろうが。
うろたえる船員
ティーチ! あのクソ野郎ども、俺らの獲物を狙ってるぞ!
ティーチ
んなこたわかってんだ! 獲物の見張り役はどうした!?
うろたえる船員
急なことすぎて応戦できてない! 死んだ奴もいれば怪我した奴もいる!
ティーチ
全員撤退させな!
イシドロ
だったら、塩鱗獣はどうするんだ?
ティーチ
肉よりも仲間のほうが大事だろ。
全速前進! 奴らを引き離せ!
イシドロ
俺はあんたらの仲間じゃないからな……塩鱗獣のほうの様子を見てこよう。
逃げ損ねた船員
うっ――
武装修道士
見張りは片付けました。ロープも切り離しましたので、奴らはもうこの鱗獣肉を持ち去ることはできません。
シルバー
残りの海賊はどうした?
武装修道士
船倉に退避しています。
シルバー
惜しいな……もう少し人数を揃えられていたら、あの船を占拠することもできただろうに。
執行官殿は?
武装修道士
逃走者を追っています。
シルバー
では、呼び戻してくれ。塩鱗獣は手に入ったし、これ以上追う必要もないだろう。
武装修道士
閣下――!
巨大な舵輪がシルバーめがけて飛んできて、彼は慌てて後ろに避け――危うくよろめき倒れかけた。
ソルトシップから黒衣の女が飛び降りてくる。彼女がそこに立つなり、空中を飛んでいた舵輪がその手元に戻った。
フアナ
私の獲物をどこに持っていこうとしてるの? 裁判所の皆さん。
シルバー
お前は……人々の心を腐敗させるあのエーギルだな。
フアナ
あら、シルバーちゃんじゃない……審査官になればもっと成長するものと思っていたけれど、こうして見るに、あなたは信義に背いた前任者とそう変わらないみたいね。
いつまで経っても、後ろから不意打ちすることしかできないんだから。
シルバー
罪人に礼儀正しく接しろとでも言うのか?
フアナ
あら、だったら私もあなたたちには剣を以て語り掛けるだけでいいかしら?
――!
アナスタシオ
愚かな。正義を司る者を殺めれば、その正義をわが物にできるとでも思っているのですか?
フアナ
あなたが塩海に踏み込んできた理由がわかったわ。後ろ盾を見つけたのね、シルバー。
シルバー
執行官殿、この女が海賊のリーダーです。
アナスタシオ
となると、コンパスを盗ませた黒幕は貴方ですね……答えなさい。あのコンパスは今貴方の手元にあるのですか?
あのコンパスを手にして……貴方には、どのような恐ろしき欲望が芽生えたのですか?
フアナ
(ッ、傷が……避けられない!)
イシドロ
気でも狂ったのか? 撃たれるところだったんだぞ……
フアナ
(小声)お黙り、坊や。避けたくないわけないでしょう?
イシドロ
船に戻ろう。奴は強い。今は相手にしている暇はない。
アナスタシオ
ああ、貴方もいたのですか。
では、共に裁きを受けなさい。
イシドロ
行くぞ、手遅れになる前に! 奴らは準備を整えてきているが、こちらは消耗しているんだ!
フアナ
手伝わないならさっさと行きなさい!
イシドロ
ティーチはもう船を全速力で進ませている! ここにいては取り残されるぞ!
少しでも早く奴らを振り切らねばならないんだ! あんたを待っている時間はない!
フアナ
だったら先に戻ってなさい。
フアナは立ち続けようとしたが、まるで力が入らないことに気が付いた。
徐々に包囲を狭めてくる執行官と武装修道士、そしてさらに遠くで傲慢にも彼女の獲物を踏みつけているシルバーの姿が目に入る。
あの獲物は、船団を今後一か月養う食料であり、コンパスを修理する材料の一つでもあるのだ。
海に帰るために、彼女はそれを失うわけにはいかなかった。
「フアナさん! 戻ってきてください!」
船尾で誰かが呼ぶ声が聞こえた。その声の主はハビエルだ。
フアナ
……
ハビエル
さっさと縄梯子を掴め、坊主! フアナさんを連れて戻ってこい!
イシドロ
血が……あんた、傷口が開いてるぞ!
ティーチ
何やってんだ! 早く上がれ!
まだ意識を失うわけにはいかない。船員たちは彼女を必要としているのだ。まだ、船団は彼女が思い描いた未来には辿り着いていないのだから。
クルーズとの約束を、まだ果たせていないのだから。
シルバー
逃がすな、追え!
武装修道士
はっ!
イシドロ
フアナ!
ハビエル
フアナさん!
ティーチ
フアナさん!
フアナ
騒ぐんじゃ……ないわよ……
ついに彼女は耐え切れなくなり、その思考は痛みと混沌に塗り潰されていく。
フアナ
うっ……
ハビエル
目が覚めましたか、フアナさん。
フアナ
私は……
ハビエル
大丈夫、俺たちは無事に帰ってきたんです。
フアナ
痛っ……ティーチはどこ?
ハビエル
あいつはほかのことで忙しくしてます。でも俺はここに、そばについてますよ。
フアナ
あの坊やは……どうしたの? もしかして、逃げたんじゃ……
ハビエル
いいえ、あいつがあなたを連れ帰ってきたんです。
会いたいようなら、すぐ探しに……
フアナ
あの子は今、何をしてるの?
ハビエル
……ティーチと一緒に、あの待ち伏せで怪我をした船員の世話をしてます。
苦痛にもだえる船員
ああああっ――痛い!!
イシドロ
すまないが、この薬は直接塗ると少し刺激が強くてな。ただ、血はすぐに止まるはずだ。
ティーチ
叫んで体力使うんじゃないよ、とっとと口を閉じな!
苦痛にもだえる船員
うぅ……わかった、塗ってくれ……大丈夫だから……
ティーチ
そっちの状況は?
ルス
(大きく首を横に振る)傷がひどすぎてな……
ティーチ
そうか。死人はなるべく早く塩海に埋めてやんな。
ルス
ああ……坊主、こっちに来てくれるか。セスクが会いたいそうだ。
イシドロ
彼も負傷したのか?
ルス
それが、まだ息はあるが……肝臓をぶち抜かれて、ひどく血が出てるんだ。それで、お前に会わせてくれと。
イシドロ
どこにいる? 案内してくれ。
イシドロは肉入りの温かいスープを持って、負傷者の間をかき分けていく。
その青白く生気のない面々の中に、イシドロは見覚えのある男を見つけた。彼は、イシドロに向けて弱々しい笑みを無理やり作ろうとしていた。
そこで、イシドロは男のそばに座ると、微笑みを返した。
セスク
笑った顔が……似合わねえな、お前は。
イシドロ
思ったより元気そうだな。
肉のスープを持ってきた。飲めば気分が良くなるだろう。
セスク
いらねえよ……ほかにもっと、必要な奴が……いるだろ。
あ……会いに来てくれて、ありがとうな……それと、あの時……助けてくれた、ことも。
ずっと、聞きたかったんだ……どうして、俺を……助けたのか。
イシドロ
俺自身、各地を旅している時に何度も……死ぬような思いをしたことがある。
だが運のいいことに、そのたびいつも心優しい人に出会って助けてもらってきたんだ。それで俺も、死を待つのがどういう感覚なのかを知っている。
それはつらいものだ。
セスク
道理で……ごほっ、そういえば、まだ……お前のこと、よく知らなかったな……ほかのことも、もっと……話してくれるか。聞きたいんだ。
お前の……故郷は、どこだ?
イシドロ
俺に故郷はない。
ルス
すると、家族は?
イシドロ
親族もいない。両親はとうに去ってしまった。
セスク
……そうか。
ルス
だったら、お前の知識やその腕前をどこで学んだのかを、こいつに話してやってくれねえか?
イシドロ
わかった……
昔、俺が一人でいるのを見て、生きるすべを教えてくれた人たちがいたんだ。そのおかげで色々なことを学んだ。
それに、俺には剣術を教えてくれた先生もいた。
その人とは長い間共に暮らして、役立つ技術を多く学んだ。
ルス
きっとその人は、随分お前を気にかけてくれてたんだろうな。
イシドロ
ああ。先生は、俺を後継者にと考えていたようだ。
セスク
だったら……どうして……その人の、ところに……残らなかったんだ……?
イシドロ
俺はそんなふうに生きていくことはできなかったんだ。あの人は、俺を安心させてくれたからな。
セスク
安心しちゃ……いけねえってのか?
イシドロ
安心を感じれば人は警戒を緩めてしまうだろうが、それはいいことではない。この世には絶対に安全な場所などないからな。
セスク
……
なあ、坊主……俺は、こう思ったよ……
家もなく……色んな場所を、さまよって……安らぎを、好まない……常に、危険に、身を置いて……ごほ、げほっ……激動と、共にある……お前は、まさに……
まさに……天性の、海賊だ……
……
イシドロ
……
……そうかもな。
イシドロはそれ以上何も言わなかった。スープは塩海の冷たい夜風に吹かれて、もうすっかり冷めてしまっていた。
彼は椀を口に当てると、ゆっくりとすすった。すでに一ヶ月が経った今、彼はその塩辛さにはとうに慣れていた。