炎に溺れる
エブラナ
……
要塞内の従者は全員暇をやったはずだ。この足音は……
将校
……殿下。
エブラナ
ほう、お前だったか。何の用だ?
将校
なぜ戻ってこられたのかをお尋ねにならないのですか?
エブラナ
聞かんさ。忠実な臣下たるお前が戻ってきたというだけのことだ。
それに、お前がどんな客人を連れてきたかはわかっている。
…外出を禁じた時間になったか?
将校
つい先ほど、その時刻になったばかりです。
エブラナ
ならば命令違反とも言えんな。
……失敗した……
エブラナ
なんだと?
ナ・シアーシャも、私も未だここにある。それのどこが失敗だ?
……逃げられた……
エブラナ
期限はサウィン祭までだと言ったろう。黒い霧に人の言葉を聞く耳がなくとも、それくらいは覚えているはずだ。
……案の定だ……
……失望した……
……容認できぬ……
エブラナ
やれやれ、そんな断片的な言葉でどう理解しろと言うんだ?
あるいは……お前も言葉を用いた対話より、アーツと破壊のほうが速いとでも思っているのか?
エブラナが言い終えるより前に、冷たい光を放つ枝葉が黒い霧から飛び出して、彼女の喉元に突きつけられた。
それと同時に、彼女の槍も分厚い霧の奥深くへと突き立てられていた。紫の炎がその中でかすかに揺れる。少し念じるだけで、霧はたちまち蒸発するだろう。
だが、枝葉がエブラナの喉を貫くこともなければ、紫の炎が霧の中で燃え上がることもなかった。
エブラナ
サウィン祭が終わるまで待て。
祭の二日目、朝日が昇るより前に、我々はその結果を得ることになる。
今のところ……我々は、互いに虚勢を張っているだけだ。そうだろう?
エブラナは霧に槍を突き立てたままでいた。だが、ほどなく喉元の枝葉がふっと消え失せると、穂先の炎もまたかき消えた。
そうして、黒い霧はたちどころに消えた。
将校
殿下……
エブラナ
まだいたのか。
どうした、まだ何かあるのか? ああ、ダブリンのことか?
ここに居るのは私たちだけだ。ゆえに、再びその言葉を口にすることを許そう。我が最も忠実なる部下よ。
将校
殿下のご厚意に感謝いたします。ですが、そうではないのです。
一国を築かんと尽力した者であれ、亡霊であることに変わりはありません。そんな者が歴史に名を刻むなど、許されてはならないことです。
けれど私は、あの日共にあの場に残った同僚たちのことが、やはり気がかりなのです……彼らは今どこにいるのですか? まさか殿下に害を成す企てでもあったのでしょうか?
エブラナ
心配はいらない。それに、お前が危険を冒してまでここに残っているのは、それが理由ではないだろう。
将校
……私はここへ戻る道中、ある混乱を目にしたのです。
人々は錯乱した様子で、些細なことを理由に……あるいは何の理由もなく殴り合いを始める者もいれば、人形のように立ち尽くしている者もいて……
その様子は……あの当時、我々と共にヴィクトリア人に立ち向かった亡霊たちのようでした。
彼らも闇に飲まれることになるのでしょうか?
何と言っても、この地は赤き龍の巣にしてターラーの首都たるナ・シアーシャです。ここで起きたすべてが、ターラーを揺るがすことになるのではないかと思うと、私は不安なのです。
エブラナ
そうはならないさ。
将校
……
エブラナ
どうやら、信じ切れていないようだな。
将校
殿下……私には……
やはり一つだけ、伺いたいことがあるのです。
どうかこの問いにだけはお答えください。
エブラナ
いいだろう。無礼を許す。
将校
(深く息を吸う)
エブラナ殿下、あなたの見せた未来は……
かつてあなたがダブリンに、すべてのターラー人に約束した未来は――ターラーの人々が、自由に己の夢を描くことの叶う未来は……
……偽りだったのですか?
将校の身体は震えていた。日々心の奥底に押し隠してきた恐怖が、不意に込み上げ、彼を襲ったのだ。
その恐怖は、己の末路に対するものではない。彼は、同僚のように黒い霧に飲まれることも、赤き龍の逆鱗に触れて命を落とすことも恐れてはいなかった。
彼が恐れていたのはただ一つ。今まで想像することさえ避けてきた答えを、赤き龍の口から聞くことだけだった。
エブラナ
無論、決して偽りではない。
将校
殿下……
エブラナ
さあ、答えたぞ。
赤き龍の声は儚く、か細いものだったが、その言葉に疑いの余地はなかった。
男は、幾度となく自分を勝利へと導いたその声を聞き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
将校
あなたを信じます。
エブラナ
あるいは……信じるほかにないだけではないか?
将校
いいえ。私は信じているのです。殿下はこれまで幾度も、行き止まりにさえ見える理解しがたい道をお選びになられていましたが、常に我々を理想に近い場所へと導いてくださっていたのですから。
エブラナ
それほど信頼を置かれているのなら、感謝の言葉を送らねばならんな。
だが、ナ・シアーシャの秩序維持にお前の助けを借りるつもりはない。
お前は黒き森から帰ってくることができたのだから、また戻ることも叶うだろう。今は森へ身を置いていろ。
将校
サウィン祭が終わるまで、そこで待機せよと仰るのですか?
エブラナ
ああ。
あるいは……
……
「明け方の黒き森へと踏み込んで、霧を呼ぶ」……
将校
殿下?
エブラナ
黒き森の外から響く、あの歌声が聞こえるか?
街を出たあと、まだ一度日が廻っただけだと言うのに……やるものだな、ラフシニー。
モラン
街でそんなことが……!?
リードさん、あなたのお姉さんは……一体何を企んでいるんでしょう?
ラフシニー
わからない。
以前、姉さんが何を画策していようと、それはターラーにとって良い結果をもたらすものだと保証してくれた人がいた。でも、今は姉さんのことも、その人のことも、信じられない。
ターラーの流民
霊の守人は、これでもリードを助けちゃくれないのか?
生真面目な霊の守人
……
彼女は葬儀のために訪れた。我らもそのためにこそ彼女を受け入れたに過ぎん。
どうあれ、故人の生前については承知した。
この組紐と花輪を持ち、外へ出るとしよう。彼の葬儀は間もなく始まる。
人々は意見の相違を脇に置き、静かに立ち上がった。
明け方の黒き森へと踏み込んで、霧を呼ぶ……♪
戦場に続く道へと踏み出していく……♪
笛の音も、軍鼓の音もなく……♪
背後に響く鐘の音ばかりが、霧を突き抜けていく……♪
霊の守人全員が小さく歌を口ずさみながら、それぞれの仕事をしている。
ある者は故人の遺体の周りを飾っており――とはいえ、木箱の上に組紐と花輪を置くだけなのだが。
一方でまたある者は、木箱の周囲に薪を積んでいた。
かと思えば、歌を歌いながら、葬儀の参列者である流民たちに蝋燭を配る者もいる。
小さく眩い火明かりが、集落のあちこちで揺れていた。
ラフシニーにもその一つが手渡され、彼女はそれを慎重に捧げ持った。
ターラーの流民
あの……
生真面目な霊の守人
聞こう。
ターラーの流民
俺は故人のことをよく知らないから、正直言うと、特に大事な話があるってわけでもないんだが……実家では、葬式をやる時はみんな好きなように話していいことになってたんだ。そうしてもいいか?
生真面目な霊の守人
無論だ。それこそが、ターラー人が死者を敬う上での本来のやり方だからな。
終わりを迎えてしまおうとも、命とは祝福に値するものであり、生者の喜びが死者の慰めとなることは言うまでもない。好きなように語らうといい。
モラン
でしたら私、お菓子を作ってきたのですが……
生真面目な霊の守人
配っても構わない。この後、我々からもあなたたちに食事を用意している。
ただし、若くして街の混乱の中で命を落としたクラン氏の境遇を鑑みて、過度な振る舞いは慎んでほしい。
それと、返し火の儀の際には、どうか我々の指示に従ってもらいたい。
ターラーの流民
わかった。
モラン、あんたらのとこでも、こういう葬式をやってるのか?
モラン
いえ、単に通夜の儀をやるくらいのもので、これほど多くの伝統的な手順を踏むことはありませんね。私には「返し火」が何なのかもわかりませんし。
ターラーの流民
まあ、とにかく言われた通りにすればいいよな。
リードは、こういう儀式に参加したことは?
ラフシニー
(首を横に振る)
ターラーの流民
そうか……
将校
と仰いますと……
エブラナ
ラフシニーが霊の守人の元に着き、英雄のための真の葬儀が始まったということだ。
「明け方の黒き森へと踏み込んで、霧を呼ぶ」「戦場に続く道へと踏み出していく」……お前はこの歌を歌えるか?
将校
お聞きにならずともご存知でしょう。
私は幾度となく、その歌を口ずさみながら、若者たちを戦場へと導いてきたのですから。
「吟遊家」
誰だ? 一体誰が歌っている?
クソッ、ようやく黒き森を抜け出して、旧王城の遺跡へ辿り着いたのに、どうしてまだこの歌が聞こえてくるんだ?
まさかまだ森を出られていないのか!?
いや、違う。音を発しているのは……遺跡の中央にある炉か?
……
なんと美しい旋律だろう……
笛の音も、軍鼓の音もなく…
背後に響く鐘の音ばかりが、霧を突き抜けていく……
私は……
帰るべきなのかもしれないな……
今なら、私が本当に求めていたものが見えてくるかもしれない……
だが、私に……ナ・シアーシャから逃れる資格などあるのか?
落ち着かない様子の住民
ほら、エマ。今日の分のパン。
憂いげな住民
まだ食べ物を分けてくれるのね。ありがとう。
落ち着かない様子の住民
前はあんたのほうが俺に分けてくれただろ? そのお返しさ。
憂いげな住民
でも、さっきからずっとこのパンを見つめてるみたいだけど……
落ち着かない様子の住民
……
(小声)こらえろ、こらえるんだ……
(小声)エマは俺にパンを分けてくれた人なんだ。だから、彼女を助けなきゃ……
(深呼吸)何でもないよ、俺は平気だ。
ただその、あんたはずっと寝込んでるし、この先大変なんじゃないかと思ってさ。
憂いげな住民
……
「笛の音も、軍鼓の音もなく」……
落ち着かない様子の住民
どうした、なんでその歌を?
憂いげな住民
遠くで……誰かが歌ってるみたい……
生真面目な霊の守人
返し火の儀を始める前に、個人が生前親しくしていた方からの弔辞をお願いしております。
リードさん、よろしいですか?
ラフシニー
私は……ネモスが葬儀の時に読んでほしいと渡してくれた弔辞を読むだけになるけど、それでもいい?
生真面目な霊の守人
もちろんです。お願いします。
ラフシニー
「クランさんへ……」
……手紙?
「恐らくそう遠くないうちに、私もあなたと同じ結末を迎えることになるのでしょう……」
恐らくそう遠くないうちに、私もあなたと同じ結末を迎えることになるのでしょう。つまりは、紫の炎の傀儡と化し、灰となって燃え尽きることになるのです。
あるいは、灰になることも叶わず、死後も永久に苦しみ続けるのかもしれません。
ですが私は、前にあなたが話してくれたことを今でも覚えています。
あの時、あなたは言いましたね。「俺は英雄になりたいんだ、だから俺にやらせてくれ」と。
「戦争が終わったあとのナ・シアーシャには、ダブリンでも軍人でもない、自分たち自身の英雄が必要になる」と。
あなたは、こうも言いました。「ナ・シアーシャの人のほとんどは、戦争で大切な物をたくさん失った」。「それは恋人や、子供や、あるいは未来かもしれない」。
「英雄が、つまりは、彼らを理解し、彼らのために権利を勝ち取り、また時に彼らを戒め、手本を示す者がいなければ――」
「戦争が終わり、憎むべき相手を失った時、人々は壊れてしまうだろう」と。
私は、あなたの言う通りだと思い、それに賛成しました。
その後あなたはテオを引き取り、仕事を失った人たちに働き口を見つけてあげていましたね。
そうして、すべてが良い方向へ向かっていると思ったあなたは、彫像の制作を提案し、精一杯になるあまり、その重責を一身に背負ってしまいました。
最後には正気に戻ってくれたけれど、その時にはもう遅かった。
今度は私が、このもはや一人の身では背負いきれない重荷を背負う番です。
ラフシニー
「……今度は私が、このもはや一人の身では背負いきれない重荷を背負う番です。」
「さようなら。あるいは、また近いうちに会いましょう、クランさん。」
「願わくば、最後には……」
「温かな炎の中で再び会えますように。」
弔辞を読み終えるとほぼ同時に、炎が木箱の周囲に積まれた焚き木へとつけられて、焚き木全体がめらめらと燃え始めた。
人々は霊の守人の指示に従い、炎の周りを囲んで輪を作る。
生真面目な霊の守人
どうか見届けてください。炎の中で安らぎを得た死者は、もはやこの世を彷徨うことはありません。
そののち、蝋燭を焚き火からなるべく近い場所に置いてください。あるいは炎の中に直接投げ入れ、死者に火を返しても構いません。
死者に伝えたいことがあれば、炎に向かって大声で語り掛けてください。生者から贈られるそれが賛美であれ叱責であれ、すべては思い出となり、死者の旅路における慰めとなるでしょう。
死者に火を返したら、どうかその場を離れず、炎が消えるまで、ここで共に死者の魂をお守りください。
……では、始めましょう。
モラン
どうか安らかに。出会うことのなかった人よ……
……英雄を騙る英雄よ。
モランは腰をかがめると、蝋燭を火のそばに置いた。炎は瞬く間に蝋燭を飲み込み、危うく彼女の手を焼きそうにさえなった。
モラン
リードさん、もう少し炎に近付いてみては?
ラフシニー
私にはクランを弔う資格がないから。
モラン
彼を救うことはできなかったのだと思います。
ラフシニー
モラン?
モラン
彼が本気で英雄になろうと決めた時には、もはや赤き龍の巣に彼の居場所はなかったのでしょう。
どうあれ、彼に火を返してあげましょう。
灰は灰に、土は土に帰らねばなりません。死者を私たちの記憶と共に眠りに就かせ、生者は生き続けなければならないんです。
ラフシニー
……
返し火……
死者を私たちの記憶と共に眠りに就かせ……生者は、生き続ける……
ラフシニーが考え事をしている間に、火を返した人々は次々と、焚き火から離れた場所に腰を下ろしていく。そうしてやがて、蝋燭を手に立っているのは彼女一人だけになった。
彼女は静かに歩み出て、持っていた蝋燭を燃え盛る焚き火の中に投げ入れた。
死者はもう戻らない。
志に満ちていた時間も、無我夢中だった日々も、夢から覚めたその時も、喉が枯れるほど叫んだ時のことも、すべては炎の中で燃え尽き、散っていく煙や、沈黙する灰へと変わりつつあった。