灯火を燃やす者

昔々、一人の母親がいた。かつては一国の王だった彼女は、仇敵に王冠と家族を奪われてしまった。
しかし、幸い彼女には強大な力を持つ娘がいた。娘は森で黒い霧と契約を交わし、霧と力を合わせて仇敵を追い払った。娘は母のために王国を、黒い霧は打ち破れぬような安らぎを取り戻した。
そして母は、娘のために盛大な戴冠式を執り行うと決めた。だが儀式が始まる前に、娘は突然命を落としてしまった。
母は深い悲しみに打ちひしがれ、それはやがて激しい怒りへと変わり、彼女は娘の仇討ちに囚われるようになった。復讐に燃える狂気はついに、王国全体を焼き尽くさんばかりの烈火となった。
だがそのあまりに激しい炎は、眠りに就いたばかりの黒い霧を目覚めさせてしまった。
霧は母親に対し、怒りを鎮めるよう命じ、さもなくば闇に引きずり込むと告げた。だが悲しみに暮れる母親は、黒い霧が娘の命を奪ったのだと決めつけ、命を賭して戦うことを決めた。
ブリギッド
ネモス、リード……
都市の入り口を前に、ノマドは最後に一度遠くの要塞を見やった。
突然、焦げ臭い匂いが立ち込めてきて、彼女は駆け出したい衝動に駆られた。それが何を意味するかは、彼女にはよくわかっていた。
だが、ラフシニーが成功しようとしまいと、ネモスに言われた通りすぐにでも街を離れて、霊の守人を訪ねるべきなのだ。できるだけ早く、守人たちを呼びに行かなくてはならないのだから。
とはいえ、ネモスは口では前向きなことを言っていたが、実際には事態が好転するとは思っておらず、ブリギッドに霊の守人を連れてこられるとも思っていない様子だった。
そんなネモスからも漂ってくる強烈な焦げ臭いにおいは、死者だけが持つ執念を思わせた。
「放逐王」
何をぐずぐずしているんだ? 死に首筋を触れられてから、追いかけっこでもするつもりか?
ブリギッド
……誰?
「放逐王」
おっと、そうだった。お前には私の言葉が聞こえるんだったな。
ブリギッド
聞こえるよ。そこにいるのも感じるけど……姿は見えないね。
「放逐王」
早く街を離れろ、よそ者よ。
ブリギッド
聞く限り、君もよそ者みたいだけど?
「放逐王」
無論そうだとも。よそ者同士、親切心で忠告をするのは当然のことだろう?
生きろ、ブリギッド。何より大事なのは生き延びることだ。遅くとも明日の太陽が昇るまでには、この街は必ず滅びるのだから。
ネモスの言った通り、奴の同族を探し、それから遠くへ逃げ延びるんだ。二度とここには戻るなよ。
ブリギッド
……確かに、もう行かないとね。
だけどわたしは戻ってくるよ。
「放逐王」
なんだと!?
ハッ、やはり愚かさと頑固さというのは、代々受け継がれてしまうものだ!
お前は奴に逃がされたんだぞ。それがのこのこと戻ってくるつもりなのか?
ブリギッド
やっぱり、君もそう思う? ネモスはわたしを生かすための言い訳を探してただけだって。
「放逐王」
ほかに何があると言うんだ? 自分ならあの石頭どもを説得できると思うなら、試してみるといい! 引きずり回し続ければ、そのうちに一人くらいは黒き森までついてくる気になるかもしれんな!
ブリギッド
そういう言い方しないでよ、見えない同胞さん。
「放逐王」
お前、今何と呼んだ?
ブリギッド
君はすっごく焦げ臭くてひどいにおいをしてるけど、それ以外の部分はノマドにちょっと似てるからさ。わたしたちと関係あるかは知らないけど、そう呼ぶことにしたんだ。
「放逐王」
ははっ……ははははははっ!
では一つ、賭けをしようじゃないか、ブリギッド!
ブリギッド
賭けって?
「放逐王」
私は、お前がここを離れた後、今夜ナ・シアーシャが燃え尽きる前に戻ることはないというほうに賭ける。
ブリギッド
本当に賭けたいのはそんなことじゃないでしょ。
「放逐王」
ほう? では何だと言うんだ?
ブリギッド
君は自分が正しいってことを、生き延びることが何より大事だってことを証明したいだけなんだ。わたしも最後にはそれを選ぶだろうと思ってるんでしょ。
でも、賭けには乗ってあげる。
「放逐王」
ならば何を躊躇っているんだ?
ブリギッド
不公平だなあって思ったから。君が勝ったら、わたしは一生後悔するだろうけど、わたしが勝っても、ただ見物してるだけの君は痛くも痒くもないでしょ。
だから、わたしが勝ったら、帰るべき場所に帰るって約束してくれない?
「放逐王」
……
どこへ帰れと言うんだ?
ブリギッド
それはわからないけど、君の家はここじゃないと思うから。
君はこの街の人たちからひどい裏切りを受けたことがあるみたいだけど、それでもみんなを傷つけることはできないんでしょ。
みんなが報いを受ける姿を楽しんでるみたいに振舞ってるのに、街が燃え尽きるって話をしてた時は……ちっとも嬉しそうじゃなかったもん。
君って、今まで見てきた中でも一番のひねくれ者――
「放逐王」
もういい!
ブリギッド
……
「放逐王」
約束してやる。お前が勝ったら、帰るべき場所に帰るとな。
だが、これは重大なことだ。お前がただ考えなしに戻ってきて死ぬばかりでは、賭けに勝ったとは認めない。
ブリギッド
じゃあ、どうすればいいの?
「放逐王」
街の外にいる石頭どもにこう伝えてくれ……
(古代ティェンゲ語)「六百年が過ぎた今、もはやお前たちを恨む者なぞ居はしない。さっさと為すべきことを成せ。」
ああ、それからこれもな。(古代ティェンゲ語)「この*スラング*! いつまでも過去にこだわり続ける石頭どもが!」
ブリギッド
え……ええっ?
「放逐王」
罵倒も含めて、あのバカどもに一言一句そのまま伝えるんだ。聞き取れたか? もう一度言ってやろうか?
ブリギッド
い、いいよ。部族の長老がたまにそういう言葉を使ってたから、少しは聞き取れるし……
「放逐王」
なら行け。
ブリギッド
……
「放逐王」
どうして立ち止まってる?
ブリギッド
これを言おうかどうか迷ってたから、さっきはあんな回りくどい話をしたんだよね?
「放逐王」
……いいから、今すぐ、さっさと行け!
金髪のノマドは深く息を吸いこむと、街の外へと駆け出した。
彼女がついに姿を見ることのなかった先祖は、一人その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間一歩も動こうとしなかった。
「放逐王」
まったく、愚かさと頑固さというのは……
……つくづく、受け継がれてしまうものだな。
ネモスが踵を返して去る一方で、ラフシニーは黒き森のほうを見つめていた。
太陽はすでに地平線の下に沈み、外出禁止とされていた時間が間もなくやってこようとしている。
遥か遠く、これまでになく濃密な黒い霧が、森からナ・シアーシャへと迫りくるのが見えた。
ラフシニー
はぁ、はぁ……
間に合った……
彼女は街の外に広がる黒い霧に向かって槍を構える。紫色に染まる街の中、黄色の炎が明るい輝きを放った。
すると、何かの合図を受け取ったかのように、霧はゆっくりとラフシニーの槍の穂先と同じ高さまで立ち昇っていく。
ラフシニー
おいで。温かく、明るい、まだ命が残るこの場所へ……そう、こっち。
どうしたの、また私なんていないみたいに振る舞うつもり?
キミたちの思い通りにはさせないよ。
本当の暗闇が訪れるまで、私は決してこの灯火を絶やさない。
霧は彼女の炎に吸い寄せられながらも、近づくことはできず、通りに沿って流れていく。
ほどなくして、霧が再び戻ってきた時、それはもはや炎に吸い寄せられることはなく、振り払うこともできないものになっていた。
霧の中から金属がぶつかり合うような音が響いて、彼女の視界は突然暗闇に包まれる――
黒い霧がやってきたのだ。
これがお前の答えなのか?
ラフシニー
そう、これが私の答え……
まだ完璧じゃないし、時間も必要だけど。
時間はお前の敵であり、友ではない。
ラフシニー
そうとも限らないよ。
死の炎の中にいる人たちは、まだ完全な屍になったわけでも、狂った亡者になったわけでもない。彼らはまだ生きているんだから、火を返すこともできるでしょう。
ネモスがみんなを目覚めさせるまで、キミはどこにも行かせはしない。
笑えるな……
ラフシニー
そうかもしれないね。
キミに比べれば、私の力も、知恵も、アーツも、笑えるくらいに取るに足らないものかもしれない。
だけど、私にはこの決意しか残されていないから。
ネモスは棺を引きずって長い廊下を歩き続けた。
赤き龍の遺体は燃えることなく、ただ静かに、そこに横たわっていた。
普通の人間にとって、死とは本来こうあるべきものだ。しかしネモスには、耳元で自分を嘲笑する声がぼんやりと聞こえてさえいた。
はぐれ者の守人は、力なく横たわる龍の身体を躊躇うことなく引き上げると、棺の中に放り込んだ。
ネモス
この棺こそ、あなたが最後に行き着く場所……
あなたのような人は、初めからこうした場所へ帰るべきだったんです。
今でもあなたはどこかにいて、あの歪んだ笑みで私たちを見つめているのでしょうか?
けれど、少なくとも、この肉体は二度とあなたの意のままに動くことなどないのでしょう。でなければ、あなたはここで、すぐさま私を灰に変えていたでしょう?
ああ、それから肌身離さず持っていたこの槍も……あなたはこれまで、この槍からどれだけの炎を放ち、クランさんのような人をどれだけ傷つけてきたことでしょうね。
きっと、自分でも覚えていないのでしょうけど。
ネモスは槍を力の限り振り上げると、全力で棺の中に突き刺した。
すると一瞬にして炎は穂先から棺全体へと広がり、さらに棺とネモスを繋いでいた縄を伝って、ネモスが纏う紫の炎と一つになった。
ネモスの全身を、死に至るほどの寒気が瞬く間に駆け巡る。だが彼女には、もはや温度などほとんど感じられもしなかった。
ネモス
観念してください。あなたは今や私の手中にあるのですから。
クランさんが下した決意を継ぎ、彼が成し遂げられなかったことを私が代わりに果たして見せます。
行きましょう。あの卑しく、蔑まれている人々の元へ。あなたが勝利をかすめ取った戦争の中で苦しんだ人々の元へ。
あなたは衆目にさらされ、あなたの死は皆の目に焼き付けられることになるのです。
彼らはあなたの死に気付くでしょう。あの傲慢で尊大な赤き龍が、エブラナ・ダブリンが今、この冷たく燃える棺の中に横たわっていると。
そのあと……彼らはどうするでしょうね?
ラフシニーの思い描いた通り、あなたの死を知って目を覚ましてくれると嬉しいのですが。
そうなれば皆、あなたの時代が終わったことを知るでしょう。そして、ナ・シアーシャはこの災厄を乗り越え、ターラーが都市の滅びを以て自らの復活を祝う必要もなくなるのです。
けれど、ふふっ……
私はきっと、あなたの炎で気が触れてしまったんでしょうね。
なぜだか急に、別の結末も……滅びへと至る結末も……悪くないように思えてきたんです。
結局のところあなたを殺したのは私ではないのですから、今が……
今こそが、私からあなたへの復讐なんですよ。
棺はなおも黙したままで、ネモスもそれきり黙り込んだ。
彼女はただ、狂気と決意と共に燃え盛る棺を引きずり、階段を降りていく。衝突とも摩擦ともつかない奇妙な音を立て、棺を意図的に段差にぶつけながら……
その音は、死者の乾いた嘲笑のようだった。