甘き隣人
エンヤ
……
「かつての冬は長く、食糧も乏しかった。ゆえに主は種を探しに、山林へと分け入り……」
……この章ではなさそうね。
確かに、古イェラグ語には「天災」という言葉すら存在しないけれど、それは本当に、この地では天災が起きたことがないということを表しているのかしら?
昔の人々には天災とその他の災害の区別がついていなかったと仮定するなら、何かしら記述が残っているはずだけど……
「雪解け水で田畑と牧場が冠水し……季節外れの寒波によって作物は枯れ落ちた……」
この部分も違うわね……天災の記述には見えないわ。
でも、もう一つ、昔彼女が話してくれた物語があったはず……
「寒い冬がカランドの心を凍てつかせたある日、敵が遠方より氷を渡り訪れた。」
「武器を手にした戦士は日々警備に当たっていたが、その日の夕暮れ、彼は鏡の如き氷面の中に、恐ろしき怪物……ラドソーンの姿を見た。」
「戦士は急ぎその知らせを持ち帰り、隣人たちに警告した。しかし……」
アドソ
「戦士のほかに怪物を見た者はなく、誰もその話を信じなかった。それゆえ戦士は、怯えて日々を暮らすようになった。」
エンヤ
アドソ長老? いつの間に……
アドソ
今朝の祈祷を終えたあとから、こちらに控えておりました。お邪魔になるのではと思い、声を出さずにおりましたが……見慣れた経文を口にされているのを聞いて、つい。
ですが、驚かせてしまいましたな。どうかお許しください。
エンヤ
いえ、大丈夫です……ただ、この時間は政務をこなしていらっしゃるものとばかり……
室内の灯りは薄暗く、高い梯子の上に座っていたエンヤの目には、大長老のローブが木の床の色とほとんど溶け込んでいるように見えており……
その表情はよく見えなかった。
エンヤ
大長老の職務を引き継がれたばかりで、さぞお忙しいことと思いますが、お仕事のほうはいかがですか?
アドソ
面目次第もないことに、私は半生をこの蔵経閣で過ごして参りましたので、政務はおろか、蔓珠院の外の方々と関わる機会すらほとんどなかったものでして……
この年齢のおかげもあって長老の座に就かせていただいただけですから、ただ精一杯務めますと申し上げるほかありません。
エンヤ
ご謙遜を。これまでにお話しした機会は多くありませんが、あなたがいかに博識な方かということは以前より聞き及んでおりました。
アドソ
いやはや、お恥ずかしい……私など、こうした書物を読み込むほどに、己の浅学を思い知らされるばかりですよ。主に比べれば、我々の視野は浅く狭いものですから。
それでも、巫女様が蔵経閣で二日も寝ずにお過ごしになっていると聞いて、何かお役に立てることがあればと思いここへ伺った次第です。
エンヤ
……有難く存じます。ちょうど、いくつかご意見を賜りたいことがありましたので、助言をいただけますでしょうか。
彼女は開いていた巻物を巻いて、ほかの巻物とまとめて持つと、振り返り、梯子を下りた。
古い木製の梯子は軋んで音を立てたが、それでも高みに置かれた知識と無言の地面を実直に繋ぎ続けている。
エンヤは経典を抱えたまま、書架の狭い隙間を抜けると、広い机の前に腰を下ろした。その机上は、開かれた経典が山と積まれて埋め尽くされかけている。
エンヤ
これが二日間の成果です。
今は、イェラグにおける特殊災害に関する記録を洗い出しているところです。ただ、過去千年の歴史において、実際に天災が起きたことがあるかどうかについて、現状確証は得られていません。
それに……なぜ、よりによってこのタイミングで天災が起きたのかについては、説明しようがありません。ご存知の通り、この冬は例年と変わらないもので、何も特別なところはありませんから。
少女は経典から目を上げて、大長老へ視線を向けた。
しかし、老人は広げられた経典にはまるで興味を示さず、ただ無言でうつむいていた。彼の白髪の下、たるんだまぶたをした、落ちくぼんだ目がゆっくりと細められ、弧を描いている。
エンヤ
……大長老は、身共の取組みをあまりお認めくださっていないようですね。
アドソ
いえ……決してそのようなことは。
巫女様は天災の――此度降臨したあの巨大なものの真相を、ある種の表象的な恐怖の真相をお求めになっておられるのでしょう。
山に行き当たれば山道を切り開き、川に行き当たれば橋をかけるが如く、その行いは当然、理に適ったことです。
ですが、イェラグの歴史を初めから終わりまで見通して、断片的な記録の中からすべての波乱と災いを探し出さんとする……その旅はまさに、蝋燭を手に雪原で塩粒を探すが如き苦行と言えましょう。
エンヤ
この程度の労苦など、些細なことです。此度の天災に合理的な説明をつけねばなりませんから。必ず成し遂げなければ……
アドソ
巫女様がそのように急がれるのも無理はありません。イェラグを案じ、被災した民のために胸を痛めておられるうえに……何やら、切実な想いに突き動かされているご様子ですね。
しかし、そうした焦りが、巫女様の目を曇らせてしまっているのではないでしょうか。
エンヤ
……
アドソ大長老、これまで身共は、個人としてあなたの意見を伺ったことはございませんでしたが……
今イェラグで起きているこの天災を、どうお考えかお聞かせいただけますか?
アドソ
まず私は、己の浅い知識では、この天災の原因を説明することなどかなわぬということを認めねばなりますまい。
しかしながら、私は、巫女様が先日仰せになられたことに……
「イェラガンドが、イェラグの民を天災から守ると約束なさったことはない」ということに、大いに賛同しております。
実のところ、イェラガンドが民に何かを約束されたこと自体、一度としてないのです。それどころか経典では「神の奇跡」を以て主の存在を証明してはならぬ、と強調されているほどで……
我らが主を崇めておりますのは、主が善なる存在であり、あらゆる美徳の化身であると信じているがゆえのこと。つまり、主の道に従うことで、我らはより良い「我ら」となっていけるからこそです。
エンヤ
身共も、そのお考えには同意します。
しかし、同時に憂慮もしているのです。こうした教義解釈では、民を納得させられないのではないかと……
アドソ
まさしくその通りです。「理性の崇高さと真なる叡智は金の靴が如しもの。其は汝をより遠くへと導くが、其を履くにたる足がなくてはならぬ。」と言われますように――
いつの日か、巫女様の真理の道が実現する日も来るやもしれませぬが、それは今ではないのでしょう。
エンヤ
ならば今、我々は何をなすべきなのでしょう……
アドソ
その答えは……私にもわかりませぬ。
ですが、巫女様は先ほど「ラドソーン」の物語をお読みになっておられましたね……ならば、その話を最後まで語ってみるとしましょう。
卓上に開かれた書物には、水源を巡る争いについての記録が残されていた。
それはどの文明にも存在するような、ありふれた、新鮮味のかけらもない話だった。大長老は手を伸ばすと、その書物の下から別の一冊を抜き出した。
埃と、暖炉から漂うかすかな煙が、淀んだまま凝固した琥珀のように混ざり合う。
アドソ
「戦士は怪物に抗う方法を模索した。だが、イェラガンドにすら、その『見えない怪物』を追い払ってやることはできなかった。」
「主は戦士を氷に閉ざされた湖面へと導いて、こう告げた。『他の者には怪物が見えぬゆえ、抗うことも能わぬ。怪物が見える汝であれば、必ずやそれを打ち倒す術を見出せよう。』」
「そうして戦士は悟りを開き、カランドの心は融け、春の陽が寒冬を払いのけた。」
「イェラガンドは民に最後の恩寵を授けた。主の涙は敵を凍らせ、三つの永久なる雪山へと変えたのだ。」
エンヤ
『イェラガンド』建国編における最初の物語ですね。歴代の学者たちは、この部分について様々な解釈を提示していました。
物語に出てくる「カランドの心」は、今でいう銀心湖を指すという説もありますし、イェラガンドの神託を聞いたその戦士こそが、巫女の原型だと説く学者もいます。
「氷を渡り訪れた敵」の正体については諸説ありますが、「見えない怪物」というのは……
アドソ
――「ラドソーン」ですね。
発音自体も定かではなく、真の意味が失われてしまった言葉です。同時に、イェラグにおいては何よりも有名な寝物語の一つでもありますね。
子どもたちが遊びに夢中になり、寝床へ入ろうとせぬ時に、親たちは決まってこのお話を聞かせてから、子らに暖かな布団をかけてやるのです。
しかし、そうして広く使われすぎたがゆえに、「ラドソーン」は呪文でもなければ、錯乱した者が発したうわごとでもない、確かな意味を持つ言葉であることを、多くの人は忘れてしまいました。
エンヤ
長い歴史の中では、多くの言葉が本来の意味を失ってしまうものですからね。
「ラドソーン」はかつて、約千年前にイェラグに流入してきた外来語だと考えられていました。その点は、「天災」という言葉も同様の起源を持っています。
身共の記憶違いでなければ、アドソ大長老が蔵経閣で主導されている研究のテーマは確か、意味が失われてしまった外来語の翻訳でしたね……
アドソ
ええ。幸いにも、私の研究はいくらか成果を得ておりましてね。
「ラドソーン」という言葉は、二つに分けることができるとわかったのです。前半部分の短い発音「ラド」と、発音がより硬く、舌音を含んだ「ソーン」。
暖炉の中で炎が揺らめく。大長老の指が書物にすっと縦線を引き、わずかなくぼみが生まれて影ができたかと思えば、それは瞬く間に消え失せた。
そうして、誰も見たことのない謎に満ちた怪物は二つに裂かれた。
アドソ
このうち、「ソーン」については、そこまで理解しがたい言葉ではありません。おおよその意味としては、「恐ろしいもの」あるいは「未知の魔物」と言ったところでしょうか。
ウルサスの古語に由来を持ち、我が国に残るウルサス方言から徐々に変化したのち、今でも一部の老人の間で用いられているこの言葉は、秘密を探る出発点ともなっています。
一方で「ラド」はヴィクトリア語に由来を持ち、現代ヴィクトリア語の「ラドライズ」に通じるところがあります。「ラドライズ」は「盲目的な、近視眼的な」という意味です。
また、約五百年前、ヒロック郡の著名な劇作家が代表作『シャアのバラ』の中で用いていた単語も気にかかります。
エンヤ
「ラドリス」――「目には見えない、真っ暗な場所」という意味の単語ですね。
アドソ
ええ、まさしくそうです。どうやら巫女様は、あの写本と、そこに書かれた脚注をお読みになられたようですね。
しかし残念ながら、こうした考察を行った当時の私は若輩であり、知識も経験も浅く、立派な学者とは到底呼べぬ身でした。
そして、その後の長い年月の中で、多くの書物を読み、多くの知識に触れたことで、ようやく過去の過ちに気づき、それを正すことができたのです……
静まり返った室内に、ペン先が紙を擦る音だけが響く。それは虫が這う音のような、ほとんど聞き取れないほど小さな音だった。
そうして、インクは紙の上に長い単語を――「ラドソーン」を綴った。語源の異なる語根が短く分けられて、「ラド」の部分が丸で囲まれている。
アドソ
それは確かに「目には見えず、真っ暗で、人が自ら探れぬ」場所、つまりは「心」を意味するものだったのです。
エンヤ
では、「ラドソーン」というのは……
人の心の中にいる……恐ろしいもの。
アドソ
……その通りです。
エンヤ
戦士が湖で目にしたのは、己の心に潜む魔だったのですね……
他者に怪物が見えなかったのは、他人の心の中の恐怖を知ることはできないからでしょう。イェラガンドにすら追い払えなかったというのも、心の魔を打ち倒せるのは当人のみであるがゆえのこと……
真に恐ろしい災いとは、目にも見え、知覚することのできる災害ではなく、人の心に潜む怪物であると……
アドソ
ご明察です、巫女様。
これは、千年前の賢人がとうに悟っていた道理でした……今起きている天災は、イェラグにのみ目にすることのできる「ラドソーン」なのです。
エンヤ
……
ですが今や、迷える戦士を導いてくださったイェラガンドはもうおられません……
アドソ
……そのようなことはありませぬ。
イェラガンドが人に代わって心の魔と戦うことがかなわぬというのは、主が至高の善そのものであるがゆえのこと。主には人のような欠陥はなく、その御心には暗い影もないのです。
さればこそ、主は無数の衆生の内より一人の巫女を選ばれ、「ラドソーン」と相対する力をその手にお授けになったのですよ。
常にイェラガンドの傍らに身を置いて、雪解け水で眼を清め、真心を以て堅氷の試練を受けるのも、イェラガンドの導きに耳を傾け、人々の愛と支持を受けるのも、巫女様だけです。
氷と土に穴を穿ち、イェラグの人々のために心の迷宮を抜け出す活路を創り出し、「イェラガンド」を我らの中へ呼び戻すことかなうのは、あなただけなのです。
千年以上もの間、イェラグの民は皆、信じ続けてきました……イェラグ人、イェラガンドの民に代わって贖罪を果たす資格を持っているのは、巫女様ただお一人であると。
大長老はそう口にすると、両手を膝の上に置いて、頭を垂れた。それは懇願するような仕草だった。
蔓珠院の巫女は、蝋燭の炎を挟んだ向こう側にいた。その炎は揺らめいており、蝋燭の芯は伸びきっていた。
エンヤ
つまり、今なすべきは……
「聖巡」だということですね。
アドソ
……それでは、昼の読経の時刻ですので、私はこれにて失礼いたします。
エンヤ
アドソ長老、お待ちを。
アドソ
なんでしょう……
エンヤ
先ほどのお言葉が少し気にかかったのです……
アドソ長老は、イェラガンドが民に何かを約束されたことは一度もなく、また、奇跡が起きたからと言って、それは神の存在の証明にはならないとお思いのようですね。
もしや……イェラガンドは存在しないとお考えなのですか?
アドソ
……
いいえ……
イェラガンドは確かに存在しますとも。
我ら自身の姿に目を向け、我らの紡ぐ言葉に耳を傾けて……イェラグの草木、積まれたレンガ、山や石の一つ一つを見れば、そうしたすべてが「イェラガンド」の存在の痕跡であるとわかるはずです。
無論、中には神のお姿を目にして、自らの信念を揺るがぬものにしたいと望む人もいることでしょう。
ですが……仮にどんな願いでも叶えてくれる「神」が目の前に現れたとして、その時、信仰は何を意味するものとなるのでしょうか?
エンヤ
それは……
アドソ
失礼ながら巫女様、これは本来、あらゆる信徒が初めに学んでおくべき道理です。よもや今にしてこの話題を持ち出されようとは……
エンヤ
身共は……
エンヤ
いえ……失言でした。
老人は何も言わず、ただ恭しく頷くと、踵を返して立ち去った。
その姿は、書物の上から払い落とされた埃のように音もなく、扉の向こう側へと消えていった。
エンヤ
……
エンシオディス
待たせたな。
今日はそちらの両名からの呼び出しだったが、用件は最近の災害救助活動についてか?
アークトス
エンシオディス、これについて説明してもらおうか。
アークトスは、ヴィクトリアの紋章が刻まれた包みを卓上に放り投げた。
エンシオディス
補給物資の包みだろう。中身は一日分の簡易食料と、救急用の医薬品だ。
アークトス
そうではない! 俺は、なぜ今になって、イェラグにこれほど大勢のヴィクトリア人が上がり込んできたのかと聞いているんだ!
あの国の記者どもはあちこちで勝手な噂話を広め、労働者の格好をした兵士どもまで辺りをうろついている。家からここまでくる間に見かけたヴィクトリア人の数は、農場の駄獣より多かったほどだ!
何も知らないとは言わせんぞ。このヴィクトリアから送られてきた品を皆に配っているのはカランド貿易だということくらい、こちらは把握しているんだ!
エンシオディス
だが、蔓珠院がこれまでに、ヴィクトリア人に対してイェラグへの入国禁止命令を出したことはない。
何よりも、今ヴィクトリアは支援を提供してくれている。
仮に我々が、こうした時期に理由もなく他国の援助を拒み、外国からの観光客を追放するようなことがあれば、イェラグの国際的な立場に影響することは間違いない。
アークトス
何が援助だ! あんな偽善者どもの手を借りねば、イェラグはこの天災を乗り越えられんとでも言うつもりか!?
力強く叩かれた机に乗っていた茶がさざ波立ち、卓上にその雫が軽く飛び散った。
そうして揺れる茶の表面には、三人の当主の影が映っている。その曖昧な姿は、高さの異なる三つの山々のように見えた。
アークトス
それに、ヴィクトリア人が何の助けになると言うんだ?
ああ、そうだった――思い出したぞ。実際、あのハロルドという男は、かつて我々に「援助」をもたらしたことがあったな!
当時の奴は、毎日のようにうちの部下たちと飲み明かし、駄獣小屋に入り浸っていたものだ。駄獣の出産の手伝いに、病気の治療にと世話を焼き、随分熱心だったと聞く。
大勢の人間が、「あいつはヴィクトリア人だが、悪い奴じゃない」と口を揃えて言っていた。
だが、信用した結果はどうだ? 奴は銀心湖で行われた式典で、何をしようとしていた?
エンシオディス、お前は相当頭の出来がいいと思っていたが、この程度のことも学び取れないのか?
エンシオディス
……
アークトス
俺は今日、お前たちに伝えに来たんだ。シルバーアッシュ家とブラウンテイル家がどう考えていようとも、ペイルロッシュ家の領地には、今日この日より一人たりともヴィクトリア人は入らせんと。
「政治的な意図」だの、「国際的な評判」だのはどうでもいい。これ以上このイェラグの地で、ヴィクトリア人に好き勝手をさせるわけにはいかん!
ラタトス
落ち着きなよ、アークトス。外国人との交渉も済んでないのに、身内で争ってどうするんだい?
エンシオディス
では……ラタトス、お前の考えは?
暖炉の炎が爆ぜる音の中、響くラタトスの声は落ち着いていた。その目の下にある隈が、連日の多忙さと苦労を物語っている。
ラタトス
今回は、アークトスの意見に賛成だね。
エンシオディス、ヴィクトリアの奴らとの付き合いに一番慣れてるあんたなら、あいつらのやり方くらい一番よくわかってるだろう。奴らの目的は終始一貫してる。ましてや、時期が時期だからね……
ヴィクトリアが理由もなくイェラグに善意を向けるはずがない。今は善意と呼べる援助が、いつ伏兵に変わるか知れたもんじゃないだろ。
振り返って考えてみな。ここ数年イェラグで起きたもめ事の中に、「よそ者」が関わってないものなんかないだろ……だから、あんたも奴らと関わるリスクは承知してるはずだ。
エンシオディス
ラタトス、お前の意見には全面的に同意する。
だが、停滞は何よりもリスクの少ない選択である一方で、緩やかに自分の首を絞めていくような行為でもあると忘れてはならない。
今この時期にヴィクトリアが人員を派遣してきたこと自体が、こちらの出方を探るための行為であり、彼らもまた、我々の内部崩壊を期待しているのだ。
イェラグは、長き苦難を経てようやく現在の成果を手にしたところだ。今再び鎖国を選べば、これまでに積み重ねてきた努力は水泡に帰すこととなる。
アークトス
エンシオディス、お前はまだヴィクトリア人との交渉を続けるつもりでいるのか?
エンシオディス
私から、両名に約束しよう。
カランド貿易が他国との渉外を担う以上は、イェラグとヴィクトリアとの関係も無論取り持ってみせると。
ラタトス
上手くやれるってどう保証するつもりなんだい?
エンシオディス
確かにお前が言うように、ヴィクトリアは一貫して、イェラグから利益を搾取しようと画策している。
だが、彼らがその企みを成功させた試しがあるか?
ラタトス
またその顔か……自分なら必ず成し遂げられる、すべては掌握済みだって感じの表情だね。
でも、今のイェラグは変わりつつあるところなんだ。それは、あんたがもたらした変化に限らず、天災や、あるいは生活の質が向上したことにも影響されてのことなんだよ。
永遠に変わらないものなんてない。それはあんたの積み重ねてきた成功だって同じことなんだ。
エンシオディス
ならば、大国の傲慢な態度もまた変わる可能性があるはずだ。
ラタトス
やれやれ、我らのイェラガンドに。心底から願ってるよ。あんたが自分のやってることを、ちゃんと理解してくれてますようにってね……
その時、遠くの蔓珠院から、夜の祈祷の時間を知らせる鐘の音が聞こえ始めた。その重厚な鐘の音は、幾重にも反響して、いつまでも鳴り響いている。
蔓珠院の修道士
エンシオディス様。
巫女様が経堂でお会いしたいとのことです。
アークトス
なに? 巫女様が?
エンシオディス
……
どうやらこの件は、日を改めて議論するほかなさそうだな。
今は合意にこそ至れなかったが、イェラグの他国に対する開放政策は、蔓珠院の決定によるものだということを忘れないでくれ。
この時期に、それに背くような行動を取れば、それは蔓珠院及び巫女様への反逆行為となるだろう。
アークトス
ふん……大口を叩いて脅そうなどと思うなよ。
俺はあらゆる人間に目を光らせるつもりだ。誰にも、イェラグの秩序を乱すような真似はさせん。
イェラグを守るためならば、俺は何だってする覚悟だ。
ラタトス
それじゃ、エンシオディス様にもこれだけは覚えておいてもらおうかね。あんたの決断はシルバーアッシュ領やカランド貿易だけじゃなく、イェラグ全体にまで影響を及ぼすものだってこと。
願わくば、イェラグがあんたの傲慢さの代償を支払う羽目にならないといいんだけどね……
エンシオディス
イェラグ人が団結し続けている限り、イェラグに「代償を支払わせる」ことなど誰にもできんさ。
ラタトス
……
アークトス
ほう……?
エンシオディス
では、失礼する。
侍女
巫女様、お客様がお越しです。
エンヤ
ご苦労様。あなたたちは入り口で休んでいてください。中へ入る必要はありません。
身共の許可があるまでは、誰も中へは通さないように。
侍女
承知いたしました、巫女様。
エンシオディス
……
エンヤ
……
エンシオディス
何かご用件がおありと伺いましたが――
エンヤ
大した用事ではないのです。ただ、ふと、エンシオディス様は久しくこの経堂にお越しになっていないような気がしまして。
エンシオディス
信心が足らぬとお咎めなのであれば、返す言葉もございません。
この時期が過ぎれば、週に一度巫女様の説法を拝聴しに参りましょう。
エンヤ
それにしても、あなたがご多忙であることは承知しておりますが、これほど疲れた顔をなさっているのは珍しいですね。
……その表情から察するに、麓で起こったことは相当厄介な状況なのではありませんか?
エンシオディス
巫女様もご存知の通り、天災の発生以来、民衆は不安の中で生活しておりますので、対処すべきことが山積しているのです。
しかし、今この時最も多忙であるのは、蔓珠院を置いてほかにないでしょう……巫女様もどうかご自愛ください。
エンシオディスは自分の目の下に、指で線を引くような仕草をしてみせた。エンヤの目にできたクマのことを、暗に示しているのだろう。だが、エンヤは横目でその仕草を見ながら、ただ黙っていた。
暖炉の炎は明々と燃え、その熱気が兄妹の目鼻の先にまで伝わってくる。真っ白で、どこか似たところのある二人の顔が、暖かな色で照らし出された。
二人は互いに目を向けず、同時に荘厳な彫像へと視線を向けた。
エンヤ
今日は偶然アークトス様にお会いしたのですが、ご挨拶くださった際の顔色が悪いように感じました。それに、ラタトス様でさえ、普段とは違うご様子で……
あなた方はよく言い争いをなさっていますが、ここまでの状況は……久方ぶりですね。
何があったのですか?
エンシオディス
つまらぬことですので、巫女様に気にかけていただくほどではありません。
エンヤ
では、お答えください――今イェラグを煩わせている「つまらぬこと」とは何なのですか?
……その原因は、ヴィクトリア人にあるのですか?
エンシオディス
はい。ですが、原因は彼らのみには留まりません。
天災発生の知らせが広まったあと、ヴィクトリアは真っ先に、それも大掛かりな規模で救助隊を派遣してきました。
他方でクルビアも、観測所での騒動を知ると、研究員の保護を名目に、国民の退避行動のためイェラグへ派兵すると脅しをかけてきました。
様々な理由から、彼らは皆この天災に特別な関心を寄せているのです。
エンヤ
今回の天災が、イェラグにとって何を意味するのかをよくわかっているということは……彼らは、我々が思っていた以上にイェラグを理解しているのですね。
エンシオディス
あの政治家たちがイェラグの混乱を嗅ぎつけた以上、彼らからすればこれはイェラグへ勢力を拡大する千載一遇のチャンスでしょう。
ヴィクトリア側のイェラグに対する工作が、現在知られているもののみに留まらないことは周知の事実。今の彼らは、ただその牙を隠すことなく剥き出しにしているだけのことです。
私には、ヴィクトリアの動きが誰の指示によるものかは察しがつきます。彼女の企みは想像に難くなく、政治家の本能によるものと言うほかありません。
私が同じ立場にあれば、これは単に必要な一手として――
エンヤ
私はあなたのそういうところが一番嫌いなのだというのは、よくご存じのはずでしょう。
エンシオディス
……清らかなる蔓珠院で、失言が過ぎました。
エンヤ
あなたときたら、なぜいつも戦略家ぶって周りのすべてを駒やチップのように扱うのですか? ――まさか本気でそうしたゲームを楽しんでいるとでも?
エンシオディス
ですが、今お話ししたことはイェラグの現実です。如何なる言葉を並べ立てても覆い隠せぬ事実なのです。
イェラグが力をつけて独立し、この盤上で大国と対等に渡り合いたいと望むなら、「ゲーム」のルールを守らねばなりません。
エンヤ
ふっ……ですが、それは実にばかげたことだと思いませんか?
美徳や善性を信じるのは、イェラグだけのことではありません。あの政治家たちも、自国においてはリーダー、あるいは指導者の役割を演じているのです。
偽善的で狡猾な彼らが、民には実直で誠実であれと説き、あるいはどこまでも貪欲な彼らが、民には従順で善良であれと説くのです。
だとすれば、エンシオディス様……
身共が巫女としてイェラグの民に説く美徳や、経典の教えもまた、あなたからすれば根拠のない戯言に過ぎないのでしょうか?
エンシオディス
……エンヤ。
炎が大きく揺らめいて、芯まで焼けた薪がパキリと音を立てると、二つに裂けた。
長年呼ばれることなく埋もれていた名前を、再びエンシオディスが口にしたのだ。
エンヤ
エンシオディス……様。
一つ聞かせてください。もしも今日、私が巫女としてあなたを呼んでいなかったら、あなたは自ら私の元を訪れてくれたでしょうか?
エンシオディス
……
イェラグは今、未曾有の危機に直面している。少しでも道を間違えれば、イェラグのすべてが破滅することになるかもしれない。
ゆえにイェラグは、これまで以上に団結を必要としている。こうした時には、巫女の力が不可欠だ。
エンヤ
どうやら、エンシオディス様もついに、信仰がイェラグに果たす役割を認めてくれたようですね。
エンシオディス
今までにも、それを否定したことは一度もない。
イェラガンドへの信仰はイェラグの一部だ。それを考慮せずにイェラグとは何かを論じることは不可能だと言えるほどにな。
エンヤ
ええ……以前にも、そうした功利的な視点から道理を説くような方はいらっしゃいました。
ですが、その視座から信仰を語る時、我々は、イェラグが千年の間天災に脅かされずに済んでいたという歴史が、本当に単なる偶然に過ぎないのかを考えたことがあるのでしょうか?
エンシオディス
……事ここに至って、奇跡の真偽を論ずることに意味はない。
すでに天災が起きた以上、今なすべきは、一刻も早く民の心を安らげる方法を見つけ出すことだけだ。
エンヤ
少なくともその一点については、同意見です。
エンシオディス
だがそれは、容易なことではない。
エンヤ
ならば、身共が巫女として、「聖巡」を行いましょう。
エンシオディス
何……?
エンヤ
明朝早くに発つつもりです。今日の夕食のあとには、この知らせがイェラグ中に広まっていることでしょう。
エンシオディス
……
それは蔓珠院の決定か?
エンヤ
私自身が決めたことです。
エンシオディス
だが、伝統に則るならば、聖巡は春と秋にのみ行われるものであり――真冬に聖巡を行う巫女など前例がない。
エンヤ
前例と仰いますが、イェラグで天災が起きること自体、前例のないことでしょう。
我々には時間がないのです。
エンシオディス
それがどれほど危険なことはわかっているだろう……
エンヤ
無論承知の上です。しかしこのほかに、民から天災への恐怖を取り除く方法などありますか? ほかの方法で、イェラガンドが彼らの「過ち」を赦してくださると、どう信じさせるというのですか?
従者を伴わず、財物も持たず、乗り物を使わず、休息を取らず……
徒歩でイェラグの地を一巡りすることで、イェラグすべての罪を償い、イェラガンドの寛恕を請うしかないのです。
順調にいけば三ヶ月ほどで終わりますが、聖巡の途上で命を落とした巫女も少なくないのは知っています。
エンシオディス
そこまで知っていながら、なぜ――
エンヤ
兄上。
少女の声が一瞬止まり、それから、融雪が小川となって、マッターホルン峰を流れ落ちていくかのように滑らかに、自然に続けられていく。
ぼんやりとした温もりが二人を包み込んでいた。それは、幼い頃共にうたた寝をして過ごした、冬の日の午後のようだった。
遥か遠く曖昧な過去の幻影が訪れて、成長した子供たちの姿を確かめ、そこにかつての面影を見出そうとしているのだ。
エンヤ
シルバーアッシュ家のエンヤとしては、当時のあなたの決断を許したことはありません。
ですがイェラグの巫女としては、まだ己に何かを成せる力があることを、身共は幸運に思っています。
エンシオディス
……
エンヤ
わかっているのです……イェラグに必要なのは、信仰の導きだけではないということは。それどころか、我々はあまりに長い間、信仰を誤解したまま、そこで足を止めていました。
しかし身共は、あなたがもたらした変化――工場や、鉄道、貿易……そして空を探究する観測所が、いずれもイェラグを、人々の心の牢獄から連れ出してくれる裂け目となることも理解しています。
イェラグにはそうした変革が必要なのです。ゆえにあなたは、そのすべてを決して止めてはなりません。
一方で身共が成すべきは、人々に信じさせることです。今起きているすべては彼らが過ちを犯したから起きたわけではないと。そして彼らが受ける苦しみは、すべて救済されうるものなのだと。
イェラグ人の心の中にある救済の形はただ一つであり、それを背負うことのかなう人間もただ一人しかおりません……
身共はイェラグの巫女として、負うべき責任を負わねばならないのです。
エンシオディス
今日私を呼んだのは、その決断を伝えるためか。
エンヤ
もちろん、あなたのご意見を求めての行動ではありません。あなたには身共を止める理由も力もありませんからね。
それと、身共が蔓珠院を離れている間は、三大名家の政務は一時的に三家にそれぞれ引き継いでいただくことになります。問題が起こらぬよう、事前のご準備をお願いしますね。
それから……
私が不在の間、エンシアのことをお願いします。あの子があまり怖がらないよう、もう少し気にかけてやってください。
エンシオディス
エンシアはもう子供ではない。些末なことで怯えはしないさ。
彼女よりも、むしろ心配なのは――
エンヤ
エンシオディス様、もう遅い時間になりましたので、そろそろ引継ぎに備えに行かれてはどうでしょう。
エンシオディス
……
「帰れ」ということか。
エンヤ
おわかりならば、お引き取り下さい。
エンシオディス
仰せのままに。
では、失礼いたします。
エンシオディスは一礼すると一歩下がり、巫女に丁重に別れを告げた。
これまで幾度も繰り返されてきた日々と同じように。
イェラグの少女
マリ、待ってよ!
ポン、とゴムボールが農家の壁に当たり、少年の足元へと跳ね返ってきた。彼は、すぐそばの少女に向けて手招きをする。
イェラグの少年
早く早く! いっつも僕のこと待たせるじゃないか。
少年がボールを数メートル先へと蹴り出すと、少女は文句を言いながら、転がっていくボールを追いかけた。
それは子供たちにとって貴重な自由に遊べる時間だった。麓の下にある、わずか二十世帯ほどしか住んでいないこの小さな村では、大人に構ってもらえない子供たちが村の中心で遊んでいた。
僻地の修道士
皆も知っての通り、巫女様がイェラグの民のため、聖巡を行われることになった。この村は、巫女様が登山を前に立ち寄られる最後の場所となる。
ゆえに全員、先ほど伝えた作法に則り、清潔な衣服に着替えて、巫女様をお見かけしても煩わせぬよう努めなさい。良いな?
鬼気迫る村人
修道士様、巫女様は本当にイェラガンドを呼び戻してくださるのでしょうか?
うちの妻は町で働いていて、あの災厄のあとから連絡が途絶えたままなんです。隣村に帰ってきた人が言うには、エンシオディス様が現場を封鎖なさったので、何が起きたか誰にもわからないと……
僻地の修道士
案ずるな、バウアー。巫女様が旅をなさるのはまさしくそのためなのだ。イェラガンドはイェラグの民を誰一人お見捨てにはならぬ。
年老いた村人
だが、この村に残っとるのは見捨てられた連中ばかりだろう?
カランド貿易が余計な真似をし始めて以来、体力のある若者連中のうち、誰がこの土地に留まろうとした? 子供の頃に脚を悪くしたバウアーくらいのものだろう……
鬼気迫る村人
あのなあ、あんたの息子が町に行って以来、俺と修道士様で面倒を見てきてやったってのに、あんたもうちょっとマシな話ができないのか?
年老いた村人
その息子からも、あの災厄以来連絡がないからな。マシな話なんぞできる気分じゃないんだ。
僻地の修道士
まあまあ、巫女様がお越しになるのだから、今日くらいは明るくいこうではないか。
バウアー、後でカールの容態を見てきてくれ。這ってでも巫女様にお目にかかりたいと前に言っていたからな。君からもよく言い聞かせて――
報告に来た村人
修道士様ー!! 巫女様の姿が見えた!! もうすぐここにいらっしゃるぞ!!
僻地の修道士
おお、随分とお早い……我々は先に、沿道で姿勢を正して整列しておこう。
数十人の村人が、村の中央を通る道のわきに並んだ。遠くを見やると、巫女がゆっくりと歩いてきていた。
修道士は思わず目をそらし、不安げに己の手の平をさすった。彼は二十年以上前、蔓珠院からこの村へと派遣されてきた人間だが、肖像画ではなく実際に新しい巫女の姿を目にするのは初めてだった。
やがて、かすかな足音が聞こえてきた。そこで彼は精一杯表情に気を払い、巫女様に良い印象を持ってもらおうと努めた。
ポンッ――
イェラグの少年
あっ――
イェラグの少女
(声を抑える)やらかしたわね、マリのバカ!
僻地の修道士
なっ……ああもう、子供らのことを忘れていた……!
み、巫女様、ご無事ですか? 驚かせてしまったのでは……!
マリ、すぐ巫女様にお詫びしなさい。
イェラグの少年
ご、ごめんなさい。
エンヤ
大丈夫ですよ。ボールの一つくらい、足に当たったとて痛くもありませんし。
さあ、いい子たち。私は儀式を続けなければなりませんから、あなたたちは先にお家へ帰ってくださいね。お父さんとお母さんは、こちらに?
僻地の修道士
その、巫女様――
イェラグの少年
お父さんもお母さんも死んじゃったの。今はそこのお寺がお家なんだ。
エンヤ
……
イェラグの少年
じゃあ、僕先に帰ってるね、修道士様。
僻地の修道士
(声を抑える)早く行きなさい。これ以上騒ぎを起こしたら、罰として写経をしてもらうぞ!
イェラグの少年
うぅ――
僻地の修道士
お恥ずかしいところをお見せしました、巫女様……
エンヤ
あのような子は、この村にどれほどいるのですか?
僻地の修道士
私の元で預かっている子供は九人です。両親を早くに亡くした子もいれば、町へ働きに出た両親から預かっている子もおります。
ですが、災厄の後……そうした親たちからの知らせは途絶えてしまいました。
エンヤ
……
鬼気迫る村人
……巫女様! 今回の災厄、一体何が起きたんですか? 俺の妻はいつになったら帰って来られるんですか?
僻地の修道士
バウアー、私の話を聞いていなかったのか?
鬼気迫る村人
まさか、イェラガンドは本当に俺たちを見捨ててしまわれたんですか?
僻地の修道士
やめないか――
エンヤ
主は決してそのようなことはなさいません。
……困難な時にこそ、主の善性と公正を思い出し、固く信じねばなりません。
身共が全力を尽くして、あなた方の、イェラグの民の祈りを再び主のお耳へと届けましょう。
我らのイェラガンドに。どうか身共を信じてください。
僻地の修道士
……我らのイェラガンドに。主は我らを、巫女様をお守りくださることでしょう。
短い沈黙の後、村人たちは修道士にならって頭を垂れ、巫女に一礼した。彼らは信じることを選んだのだ。
巫女はわずかにうなずくと、遠方の雪山へと向かっていった。