遁走

バベルで一体何が起きたのか――。当時テレジア殿下を知る者は、誰もが同じ疑問を抱いていた。
Wは間違いなく真相を探り出していたはずだ。あれだけ殿下を慕っていた彼女が、謎を謎のままにしておくとは思えないからな。
だが長い旅路の間、彼女は黙して語らなかった。俺もあえて尋ねることはしなかったし、イネスも探ろうとはしなかった。しかし、イネスの方が真相に近いところにいることは常々感じていた。
ふと気付いた時には、いつの間にか俺が一番後ろを歩く一人になっていた。
ヘドリー
……わかりました。
はい、問題ありません。各分隊間で連絡を保ちます。
……承知しました。
ヘドリー
……ふぅ。
しばらくここに駐留することになった。
イネス
予定と違うわね。なにがあったの?
ヘドリー
先行部隊が天災雲を観測したそうだ。とはいえ、ここには天災トランスポーターがいないからな。万が一に備えて、距離を保つことになった。
無理に進んでもリスクしかない。これが最良の選択だろう。
イネス
……天災ね。
ヘドリー
これまで荒野で猛威を振るう天災はほとんど見たことがない。詳細がわからないのが辛いところだ。
とは言え、カズデルと源石の関わりは決して浅くはない。非感染者たちほど慌てる必要はないだろう。
……Wは?
イネス
自分の小隊にいるはずよ。
……彼女が気になるの?
ヘドリー
いや……。Wは随分変わった。俺にはもう、よくわからんよ。
イネス
へえ……あんなに気に入ってたのにね。
ヘドリー
最近の彼女はあまりにも落ち着いている。
戦場で会ったときは、前と同じ皮肉な態度だったがな。
イネス
前と同じじゃなくて、前よりひどくなってるって言うべきだわ。
でも珍しいわね、あなたがそんな微細な違和感に気づくなんて。
ヘドリー
……嫌味は止めてくれ。もしWが大人しくしているとしたら、それはもう「微細」な違和感ではないだろう。
イネス
Wは――あっ。
イネス
山の方に雲が集まり始めてる。気圧の変化も激しいみたい……あれが天災雲?
ヘドリー
……あの規模だと、ここに留まるのも危険かもしれん。全分隊に連絡を。元のルートに沿って五十キロ後退だ。
Wにも連絡を、早く。
イネス
……何度も言ってるでしょう。私に命令しないで。
はぁ……
今のWから受けるイメージは、あれとよく似てるわ。
W
――わぁー!
イネス
W! 何してるの――!
こんな、風の強いところで!
W
決まってるでしょ、天災を楽しんでるのよ!
イネス
あなた、気でも狂ったの――
W
えぇ? 何言ってるの? きーこーえーなーいー!
イネス
チッ、最初から気が狂ってるんだったわね、Wは。
天災であなたが死ぬのは自由だけど、部下まで死なせないで!
W
大丈夫、もうヘドリーと一緒に撤退させてるわ! あたしだって馬鹿じゃないんだから――あっ。
イネス
チッ! W! 気をつけなさい!
W
あんたこそ近づかないでよ。ここから落ちたらあんたじゃひとたまりも――
イネス
じゃああなたは大丈夫とでも言うわけ? 死にたくないならさっさと戻ってきなさい――!
ヘドリー
……お前たち、一体何をしていたんだ。
イネス
彼女に聞いて。
W
こいつがあたしの邪魔をしてきたのよ。
ヘドリー
……はぁ。
幸いWのチームが皆無事だったから良いものを。そうでなければ、レユニオンのリーダーと合流する前に、軍法会議にかけられていたぞ。
イネス
……
ヘドリー
戻って休んでくれ。連絡があるまで待機だ。
W
天災の中で戦うのはそんなにいけないことなの? 鉱石病が怖いってこと? それとも嵐が?
イネス
何が怖いってことじゃないでしょ。ただみんな、それで死にたくないだけよ。
W
でも、天災だって早めに慣れておいたほうがいいでしょ。
面白い経験になるもの。
ヘドリー
イネス。
イネス
そんな顔しないでよ。別に怒ってないわ。子供が喧嘩した後の機嫌取りみたいなことはしないで。
Wは……自分の部隊をとても丁寧に管理していたわ。
ヘドリー
珍しいな。
イネス
ええ……さらに頭がおかしくなったのか、それとも……はぁ。
彼女が天災雲だなんてとんでもない、あれはくそったれの天災そのものよ!
ヘドリー
(なんて汚い言葉を……)
W
ふんふん~ふふ~ん~♪
サルカズ戦士
……随分機嫌が良いようだな。
W
当たり前じゃない。
カズデルみたいに陰気臭い場所を抜け出せたのよ?
サルカズ戦士
まさかそれが、天災雲の真下を待ち合わせ場所にした理由じゃないだろうな。俺を殺したいのか……?
W
もう、そんなわけないでしょ。
みんなあたしのことを狂人だって言うけど、狂人になるとどんな良いことがあるか教えてあげましょうか?
サルカズ戦士
知りたくもないが、大体わかってる。どちらにせよ、俺はあんたに従うさ、ボス。
W
フフ、それで良いわ。
さっき話した良いことっていうのはね、変わったことをすればするほど、怪しまれにくくなるってことよ。
サルカズ戦士
そうか……はぁ。
W
それでバベルのことだけど、ロドス号は確かにカズデルを離れた、そうよね?
サルカズ戦士
ああ。正確に言えば、あれほどのサイズの船が殿……テレシスの手に渡ったという情報を、誰からも聞いてないというだけだが。
W
それで十分よ。
フフ、やっぱり手がかりは出てくるものね。
部隊に見慣れない顔が増えてきたことに、俺は安堵していた。カズデルを離れたことを実感できたからだ。
同行者の中には、かつての敵も、戦友もいる。
だが、俺たちは過去など気にしない。傭兵は当たり前のように生死を軽んじる生き物だ。大事なのは、今だけだ。
或いは……そう思うのは、俺たちが一秒たりとも平和を味わっていないからだろうか。あの短い戦争が終わってすぐ、俺たちはこの戦場にやって来たから。
……しかし、平和、か。そんなものは傭兵にとって、毒薬にしかならないのかもしれない。俺たちはこれまで常に、戦いと衝突によってバランスを保ってきた。
Wが良い例だ。彼女は傭兵らしい生き方を楽しんでいる。
タルラ
……ああ。
歓迎しよう。
遠路はるばるやって来た戦士たちよ。
戦争は、決して避けられるものではない。
こんなことは、傭兵なら当然知っている。ただそのときになって、俺は初めて実感した。
争いは、この大地の隅々にまで広がっている。それはきっと、この地に独立した意志を持った生命が誕生したときから、決まっていた未来だ。
――そして我々は、その中に再び、身を投じることになった。