耳を塞ぐ
ベアード
すでにモーガンはみんなを連れ帰って、薬を配ってる。
ダグザとハンナは廃墟を巡回して、どこかにまだ隠れてる人たちがいないか探してる。
封鎖エリアの状況は、あなたたちも分かってると思うけど……ここ数日、通りに顔を出す人はほとんどいなくなった。
カドール
きっとたくさんの連中が、どっかのビルの小部屋に隠れて震えてるだろうな。深夜に残飯を漁ってどうにか生きてんだ。
シージ、そういった奴らを全員探し出すつもりか?
シージ
全員を救うのが不可能だということは理解している。
だが、撤退行動が行われようとしている事実を、隠れている者たちに知らせるのは重要だ。
でなければ、大公爵たちによる砲撃が始まった際に、それがここを脱出するチャンスだということに大半の者が気付かず、何とかしてさらに身を隠そうとするだけだろう。
カドール
それはそいつら自身の選択だ。もしかしたらサルカズたちがここを去るまで生き残ってるかもしんねぇだろ。
シージ
だがそれでも、彼らには他に選択肢があることを知る必要がある。
カドール
フンッ、なるほど。他の選択肢ね……
数日前、幾つかの場所で物音を聞いた……廃墟の中で餌を探してる野獣じゃなけりゃいいんだがな。
シージ
モーガン、どうした? 顔色があまり良くないぞ。
モーガン
いや……平気だよ。
ただ……ハハッ、ちょっと慣れなくてね。
シュトラウスとエミールが喧嘩を始めちゃってさ。緊急遮断薬一本のために、片方が相手の目を刺しちゃったんだよ。
吾輩とアーミヤちゃんでどうにか二人を引き離したけどさ、あの目はもうどうしようもないね。
吾輩たちはそんなにたくさん薬を持って来たわけじゃないじゃん。でも外には今、人が集まってて、中には……パニックを起こしてる人もいるんだ。
自分が感染するんじゃないかって不安に思ってる人もいれば、自分がもう感染者になったことに全く気付いてない人だっている。
イネスから来るはずの連絡が届かなくて、アーミヤちゃんはイネスとドクターの状況を確認しに行かなきゃって言ってた。
吾輩は……吾輩は一人で下にいるのがしんどくなって、息抜きするためにここに来たんだ。
ベアード
あなたは、ここへ連れてきた人たち全員と顔見知り?
モーガン
吾輩は小さい頃からここで育ってきたからね。ノーポート区に関して言えば、ヴィーナはもちろん、あんたやハンナちゃんよりも詳しいって自信があるよ。
ベアード
やることがない時はいつも街をぶらついてたよね。
モーガン
そうだよ。ノーポート区は吾輩の手のひらみたいなもんなんだ。しわの一本一本がどこに繋がってるかまで知り尽くしてるよ。
ヴィーナ、吾輩は……吾輩はたくさんの知り合いを連れてこようとしたんだ。
シアターにも、もう一回行ってきたんだ。マクラーレンは吾輩たちに反応しないんじゃなくて……
音が聴こえなくなってるんだよ。耳から血が出てるのが見えた。
それでメモを書いて見せたんだ。だけど、明らかに見たはずなのに……それでも部屋の中に隠れちゃった。
それとレコード屋のカーシュね……あいつにはいっつも時代遅れのレコードを掴まされてさ、いくら無駄金を注ぎ込んだか分かんないくらいなんだけど。
あいつの片方の足が完全に変形しててさ……どうやってここまで移動してきたんだか分かんない。
それから衣類の輸入業をしてたブレンダ……あの子からはよく龍門のファッション雑誌を借りてたんだよね。
彼女の火傷の手当てをしてあげたんだ、でも……
他にもクレア、アイリーン、イートン……
吾輩は、全員知ってるんだよ!
ヴィーナ、吾輩たちはこれを見るためだけに戻ってきたってこと?
……吾輩たちは一体何のために帰ってきたんだろう。
ヴィーナ、ねぇヴィーナ! もし今起こってることを黙って見てるしかないなら……もし吾輩たちが、この状況を変えられないなら……初めからここに来るべきじゃなかったのかな?
吾輩は英雄たちの物語を読んだことがある。彼らはすごい冒険の旅に出たり、正義の味方として悪人を懲らしめたりしてた──
でも英雄以外の人たちは、物語の中のモブでしかなくて、主人公たちの話し相手や、成長のきっかけでしかないんだ。
吾輩たちはずっとそんな物語の中にいると思ってた。それで吾輩は一人でずっといい気になって喜んでたんだよ……
でも実際の彼らはモブなんかじゃない。だって一人一人のことをよく知ってる──全員知ってるんだよ!
「モンスターが村を破壊し、英雄がモンスターを倒しました」なんて簡単な話じゃないんだ。
これは、くだらない復讐小説なんかじゃない……
ヴィーナ、吾輩は二十年もここで過ごしてきたんだよ。ノーポートのみんなは英雄が悲しみ嘆く時にぼそっと呟く名前でも、悪役にとどめを刺す直前にさらっと流れるフラッシュバックでもない。
彼らは……彼らは本来……
シージ
モーガン、わかっている──
モーガン
ヴィーナ……アレクサンドリナ・ヴィーナ・ヴィクトリア!
あんたがこの国に戻ったのは、立派な王冠を取り戻して、新たなアスラン王の不朽の伝説を作るためなの──?
それとも家に帰るためなの?
ヴィーナ、お願い、教えてよ……今の状況は、全部一時的なものだよね?
あと少しの辛抱だって言ってよ。
知りすぎるほど知っている相手の目から、涙がこぼれ落ちた。
シージが憶えている限り、モーガンが泣いている姿など、ビデオシアター以外の場所でほとんど見たことがなかった。
「諸王の息」は相変わらず、冷えきったままそこにあった。
モーガン
ごめん、ヴィーナ、あんたを責めてるわけじゃないんだ……
……ただ街を歩いてる途中、ふと顔を上げたら気付いたんだよ……
吾輩たちは本当にノーポート区を失ったんだって。
ベアード
モーガン!
ヴィーナ……
友人が去った部屋は物音一つしない。まるで過去の賑わいと喜びがすべて錯覚だと告げているかのように。
部屋のレイアウトは以前のまま、彼女たちが離れた時と何ら変わりはない。
ここには何もなくなってしまった。
ここ数日、シージは常にその「諸王の息」という名の剣に無意識に触れていた。
彼女は今も習慣のように剣の柄に手を置いた。
彼女はそこから何かしらのエネルギーを、背中を押してくれる力を感じようとしてきた。それが自分に課された責任でも、或いは自分が犠牲を払うことを定められた運命であっても構わなかった。
だが、今回もまた彼女に残ったのは失望だけだった。
自分は何のために戻ってきたのだ。この現実を経験するためか?
あるいは、人々の期待の眼差しがそもそも相手を間違ったのか? あまりに多くの錯覚をこの剣と師匠に与えられたせいで、自分が何かの象徴になれると勘違いしてしまっただけなのか?
シージは、自らの迷いをこれほど恨んだことはなかった。
シージ
モーガン。
……私が帰ってきたのは、自分が後悔したくなかっただけなのかもしれない。何年も経った後で、当時何もしなかった自分に気付くのが怖かったのだろう。
どこへ向かっているかはわからない……だが私はじっとしていられないんだ。
デルフィーン
それは何かのたとえ話ですか、コルバートさん?
ヴィクトリアに対する皮肉とか?
コルバート
たとえ話? いえいえ、私は回りくどい話が好きではありません。ただ老人が昔を懐かしんでいるだけですよ。
ここに皆さんが座っていらっしゃいますから、暇潰しに何かお話ししなければと思いまして。
「グレーシルクハット」
私の興味は未来にあるんだ。「ヴィクトリアの」サルカズ。
ターラー人、あなたたちは万全な準備をしてきたようだな。恐らく多くの兵を引き連れているのだろう。
だが、あなたたちも私と共倒れしたくはないはずだ。
「将校」
君がここでおとなしくしていれば、何も起こることはない。
「グレーシルクハット」
つまり、あなたたちはあの飛空船の技術を独占したいと?
「将校」
カスター公爵が君をここへ送り込んだのは、まさか散歩させるためではないだろう?
「グレーシルクハット」
我々は、利を分かち合うために手を結べるはずだと思うが? 飛空船に対するサルカズの守備は……恐らくそこまで緩いものではないだろう。これは誰にとっても簡単な任務ではない。
だが、もし我々が協力すれば、この技術は特定の大公爵一人だけのものではなく、ヴィクトリアのものにすることができる。
「将校」
私はヴィクトリアなどどうでもいい。
「グレーシルクハット」
……
どうやら、決心は着いているようだな。
「将校」
君が先ほど言ったように、我々はお互いの目標について、ある程度利害が一致している。
それを鑑みて、なるべく君を困らせないようにしてやってもいい。カスターのペットよ。
「グレーシルクハット」
先ほど明らかに私を殺そうとしていたがな。
「将校」
なんだ、私に謝ってほしいのか?
君が任務に失敗しても、せいぜい降職の処罰を受けるだけで、命を失うようなことはないだろう。
だが、もし君がどうしてもカスター公爵からの表彰と抜擢を欲しているというのであれば、試してみるがいい。
「グレーシルクハット」
ウェリントンの配下は主と同じく頑固だな、今回の件で十分に理解した。
いいだろう、私はここに留まってやる。飛空船の技術はあなたたちに譲ろう。
しかし、交換条件がある。
こうなったからには当然だ、ロドスのドクター。
友人になる誘いを断った以上、再び駒に成り下がってもらうしかないんだ。
私は国剣を持ち帰る。ウィンダミアの娘とアレクサンドリナには、ここで死んでもらうとしよう。
デルフィーン
……
「グレーシルクハット」
運命を受け入れたか、後継者よ?
「将校」
私はその件に介入する命令は受けていない。
「グレーシルクハット」
同意が得られたようだな。
すでに成立した取引であれば、カスター公爵は必ず約束を果たす。すべての約束をな。
安心するがいい、「将校」よ。これが我々の最大のポリシーだ。
イネス
(小声)了解よ。
当事者の意見をまるで聞かないのは、あなたたちヴィクトリア人の悪しき習慣かしらね?
「グレーシルクハット」さん、さっきも言ったと思うけど、あなたの比喩はほんとお粗末よ。
私たちを駒と呼ぶのも、比喩でしょう。
「グレーシルクハット」
どうやらロドスはウィンダミア公爵との関係を頼みの綱にしていると見える。
賢いとは言えないな。すり寄る相手を間違えているぞ。
イネス
初めから誰にもすり寄る必要なんてなかったのよ。
「グレーシルクハット」
では仕方ない──
「将校」
待て……
ウィンダミア家の娘……あれは幻術と影の複合アーツか!?
彼女はどこだ?
やってくれたな貴様ら!
イネス
息ぴったりじゃない、「グレーシルクハット」さん。
「グレーシルクハット」
ポリシーに関する問題だからな。
イネス
約束は必ず果たす、だったかしら?
「グレーシルクハット」
いや、もう一つの方だ。
一人勝ちを許してはならない。
ターラー人、この駆け引きはもはや意味をなさない。この者たちが放送を行えば、大公爵たちの主力艦隊は前進せざるを得なくなる。
そうなれば、飛空船は撃ち落とした者の手に渡る。
これであなたも私もボーナスを手にすることはできなくなったな。
「将校」
……
そうか。
イネス
ドクター、危ない!
アーミヤ
イネスさん、間に合いました。
外の影は確認しました。
「将校」
ロドス……公爵様は、現時点では君たちと敵対することを望んでいない。
イネス
不思議なことを言うわね、今の攻撃は敵対には含まれないの?
謝りたいなら聞くわよ。
「将校」
……
では、また会おう。
デルフィーン
ダブリン部隊の死体……
やっぱり、ここにも送り込まれていたんですね。
真新しい傷口ばかり……刀傷ですね。傷口は焼かれてるみたい……
誰!?
がらんとした部屋の中、答える者は誰もいない。
デルフィーンは短剣を握り締めた。
母からはもっと戦闘訓練に励むよう、しょっちゅう叱られていた。しかしウィンダミア公爵はヴィクトリアにおいて剣術で名を馳せ、その娘である彼女も、大概の相手には負けない自信があった。
デルフィーン
通信基地局はこの辺りのはず……
何これ──
あ、ありえない……
デルフィーンの目の前には無造作に延びたコードがあったが、本来これらのコードに繋がれているはずの設備は、跡形もなくなっていた。
デーブルの上にはすでに分厚い埃の層ができている。
何者かが先んじて放送設備を運び去ったのは明白だ。しかも……かなり前に。