見捨てられた者
デルフィーン
予想よりも、ついてきた人が多いですね。
カドール
オマエらについてきゃ生き延びられると思ってるかどうかは怪しいもんだがな。
シージ
分かっている。
彼らは、私たちを信頼してついてくることを選んだわけではない。ただ……行き場がないだけだ。
デルフィーン
足音はすごく説得力のある物証ですね。私たちに加わる人が増えれば増えるほど、他の人のためらいも減る。私たちが──
カドール
オレらの尊い陛下が封鎖壁に着いた頃にゃ、もっとたくさんの人がオマエの代わりに流れ弾や砲火を防ぐ壁になってくれるってか?
シージ
その時は私が最前線に立つ。
カドール
……待て、空を見ろ、ありゃ何だ?
デルフィーン
サルカズの飛空船……飛び立ったんですね。
これは私たちの──
シージ
いや、あれは──
騒がしかった人々も急に黙り込み、自分たちの頭上を覆う飛空船を一斉に見た。
全員の瞳に映ったのは、怪しく光る紫色の炎がゆっくり落ちてくる光景だった。
冷たい紫の炎が大地にぶつかり、飛び散った火花は生きているかのように避難する人々の体を這い上った。
炎が誰にも止められぬ勢いで蔓延っていく。消すことのできない紫色の炎が、慌てて逃げ惑う人々を一瞬にして呑み込んでいった。
彼らは炎の中で泣き叫びながら崩れ落ちる。
しかし次の瞬間──彼らは炎の中から亡霊のように立ち上がった。その目の中には渇望の紫炎が燃え盛っている。
静寂。
その場の誰もがこの忌まわしい「奇跡」を目の当たりにした。
恐れる難民
これが……魔族のやり方か?
楽に死ぬ機会すら与えないつもりかよ……
空を覆う紫の火の雨が、地面にゆっくり迫っていた。それはまるで死そのもののように降り注ぐ。
静まり返っていた群衆が再び一斉に沸き立ち、瞬く間にパニックが広がっていった。
シージ
その炎に近寄るな! 急げ! 早く退避しろ!
……通りの家が燃やされている。
デルフィーン
シージ……見た?
シージ
何をだ?
デルフィーン
この紫の火……サルカズにはこんなことできません。
死者を蘇らせる者の伝説を聞いたことがあります……あれは、ドラコだという話でした。
ダブリンのリーダー、貪欲な赤き龍……きっと、彼女が来ているんでしょう。降り注いでいるのは、その炎です。
シージ、彼女はもう自分の野心を隠すつもりはないと思います。
シージ
……これが誰の仕業であろうとどうでもいい。
それより今は全力で走らなければならない。
デルフィーン
危ない!
エブラナ
それほど長く生きているというのに、辛抱とは何たるかをまだ学べていないようだな。
お前は私と戦いたがっていたのだろうに、なぜ私の炎を恐れる必要がある?
それともあの摂政王の下僕になってから、かつて誇っていた知恵を放棄したのか?
変形者
すごく面白い能力だね、若きドラコ。君の炎は……とてもユニークだよ。
僕たちの存在を知ってるなら、この体が、僕たちの数え切れないほどある欠片の一つにすぎないってことも知ってるよね。
僕たちはただ、ちょっと警告しに来ただけだよ。別に君のことなんてどうでもいいから。
君の魂は浅はかで貧しすぎるんだよ。瞳の中で燃え盛る権力を渇望する炎を、隠そうとすらしていない。
今この瞬間も僕たちとおしゃべりしてる若きバンシーに比べれば、僕たちは君に何か質問する興味さえ湧かないんだ。
エブラナ
取り繕う必要などない。私の炎は、常に私のために全てを焼き尽くすのだ。今のようにな。
そして私は期待し始めている。変形者がこの炎に焼かれて、私の足元に屈することをな。
変形者
若きドラコ、君には足元から響く泣き声が聞こえるかな?
エブラナ
私は彼らを導き、彼らは私を称える。
これが私の責任だ。お前には理解できないだろうな、古の放浪者。
変形者
何年か前は、足元のこの国ってまだこんな滑稽じゃなかったよ。あの頃、ヴィクトリアの南で一人のドラコに出会ったことがある。その時の彼は、今の君くらい幼かったかな。
「私は彼らを導き、彼らは私を称える」──戦場で死んだ彼が生前に君と似たようなことを言ってたよ。
だけど残念なことにさ、最終的には彼の後継者も、帝国の幻光に屈しちゃった。かつてアスランとお酒を酌み交わして講和した者も然り、そして君もまた然り。
君は、戦に赴いた君の祖先と自分を比べてどう思う?
エブラナ
私たち一族が受けた苦しみを評価する資格は、お前にはない。
私にも、ターラーの歴史を作った赤き龍を評価する資格はない。
だが、今はっきりしている事実は、お前の語ったその美しい記憶がもう随分と昔にターラー人の中から消え去ったということだ。
ドラコの先王たちが私よりも高尚であるということはない。我々が求めるのは等しく「公平」に他ならない。彼らは彼らの選択をし、私も私の選択をしたのだ。
そしてお前──長命者、お前は自らの生命の長さに慢心し、知識の広さをひけらかしているが。
変形者
……
エブラナ
お前の誇るその知識は、お前の生命にいかなる変化ももたらしていない。何とも哀れなものだな?
「観察」と「探究」、それだけだ……それこそがお前の長い生命におけるすべてだ。違うか?
我々が互いを重要な客人と見なしていないのなら、このくだらない論争を早く終わらせようではないか?
変形者
……
ありがとう、若きドラコ。君のおかげでこの割に合わない仕事が、少し楽しいものになったよ。
エブラナ
変形者よ、お前は私を記憶するだろう。
お前の冗長で乱雑な記憶の中に、私だけのエピソードを刻みつけてやろう。
モーガン
……
外のあの火は……
ベアード
今はぼんやりしてる場合じゃない。早く荷物をまとめて、さっさと追いつかないと……モーガン?
あなた、ヴィーナに詰め寄ったことを後悔してる?
モーガン
吾輩もよく分からない。どうしてあんな言葉が急に出たのかな……本当にヴィーナを責めるつもりはこれっぽっちもなかったんだよ。
吾輩は、この悪夢はもう終わったって、全部良くなるんだって、誰かに言ってほしかったんだ。これまでその誰かは常にヴィーナだった。
ベアード
ハァ、このビデオまだ覚えてる? あなたがマクラーレンから大枚はたいて買ってきたやつ。
モーガン
これは絶版だから、持っておく価値があるって騙されたんだっけ。
ベアード
彼も嘘をついたわけじゃない。あなた、ヴィーナと一緒にソファに居座ってこれを何回見た? 十回、それとも二十回?
じゃあこうしよう。あなたはそれを持って行って。私たちがここから無事逃げ延びて新しい拠点を見つけたら、またみんなで一緒に二十一回目を見る。それがどんな言葉よりも確実。
モーガン
……ヴィーナは何も変わってない、そうだよね?
ただ……ノーポート区が変わっちゃったんだよ。
ベアード
ビデオといえば……モーガン、あと一人知らせてない人がいる。
先に行って、ヴィーナにすぐ追いつくって伝えておいて。
ノーポート区の通りは街灯がすべて消え、街中に広がる紫色の炎がベアードの行く先を照らしていた。
無数の燃える人影が生気のない目で空を見つめている。彼らはただ静かに「リーダー」の呼びかけに耳を傾けているのだ。
だが空に浮かぶ飛空船は闇夜に覆われ、天を衝く紫色の火でもその姿を照らすことはできなかった。
ベアード
クソッ、あの人たちは……「あいつら」は一体何を見てる?
早くマクラーレンを見つけてヴィーナと合流しないと、ここは危険すぎる。たしか彼の家はこっちだったはず……
暗すぎる、懐中電灯を持ってくるべきだった。
前までは、マクラーレンのシアターのネオン看板が夜通し光ってたのに。
……燃えてる「あいつら」が、ホラー映画の化け物みたいに突然動き出さなければいいけど。
左から三軒目……左から三軒目……一、二、三……あれだ!
おーい、マクラーレン! マクラーレン!
隣の建物が燃えてる! 今すぐ避難しないと!
闇夜の中、ベアードの声に応じる者はいない。彼女の耳に聞こえてくるのはただ、炎で木材が爆ぜるパチパチという音だけだった。
ベアードは体を強張らせつつ耳を隙間に押し当てた。がらんとした室内から、歯の震える音と息を切らす声が辛うじて聞こえた。
ベアード
マクラーレン! よかった、まだ生きてた!
そうだ、確かモーガンが耳が聞こえなくなってるって言ってた。
ペン──ポケットの中に万年筆があった!
「外はひどい状況になっている。今すぐに避難しないといけない」
「ベアードだよ。木の板を外して」
このメモを見て! *ヴィクトリアスラング*、気付いて!
時間がない、もう無理やり入るしか……
窓ががっちり釘で打ちつけられてる、何とかしないと……ちょっとマクラーレン、落ち着いて!
ベアードは、バタフライナイフで木の板の隙間をこじ開け、その後ナイフの柄でそれらのボロい板をドアから外そうとした。
ベアード
すぐだから、もうすぐ!
マクラーレン
(小声)向こうへ行け……
ベアード
何か言った? よく聞こえなかった。この板はそこまで頑丈じゃないから、もう少しだからちょっと待てて!
マクラーレン
(小声)来るな……来ないでくれ……
ベアード
何? クソッ、火の回りが早い。
早くしないと、早く……
木の板はあと二つ! マクラーレン、私が見える?
火がすぐに回るから、急がないと! 「早くドアの方へ来て」!
ほら見て、早く! こんな大きく書いても読めないの!?
マクラーレン
(小声)あっちへ行け……来るな……
ベアード
どいて、最後の木の板を蹴り飛ばす。
マクラーレン
来るな!!!
銀色の光が一筋走った。ベアードが一歩後ずさって顔に触れると、ぬめりのある液体がにじみ出ていた。
ベアード
ど……どうして……
マクラーレン……
ドアの向こうに、よく知るビデオシアターの店主が立っていた。
彼の首筋には、耳から滴った血が乾いて張り付き、耳元の黒い源石結晶はすでにかなりの大きさになっていた。モーガンの言う通り、恐らく耳はもう完全に聞こえなくなっているだろう。
彼はずっと、そこにある唯一の明かりを見つめながら呟いており、他のことは何も目に入っていなかったのだろう。
でなければ、ドアの外に立っているのが彼女だと気付いただろう。そうすれば、ここまで恐れることなど──持っていた刃物を慌てて振り回すことなどなかったはずだ。
いや、あるいはそうではないのかもしれない。
扉を開けたのが誰であれ、彼はこうしたかもしれない。
ドアの外で起こっている災いが彼の両耳と財産を掠め取った。彼は最後の食料を守るために、この脆い木の板の後ろでナイフを持ち、常に警戒しておかなければならなかったのだ。
マクラーレン
これは俺のだ……本当に他には何もない。もうなくなってしまった……
ベアード
マクラーレン……
マクラーレン
俺は生きたいんだ、お願いだ……ただ生きたいだけなんだ、他のものはもう全部お前たちに渡しただろ……
なのにどうしてまだ来るんだ?
(小声)これは俺のだ……
ベアード
マクラーレン、こっちを見て……ベアードだよ。あなたが生きられるように私が助ける。
さぁ、ナイフをゆっくり下ろして、手をこっちに伸ばして。
「ナイフを下ろして」──見える?
火が迫ってきてる、本当にもう時間がない。
そう、そうだよ。ゆっくりそっちに行くから、警戒しないで!
ベアードは、見慣れたはずのビデオシアター店主の全身をようやく目にした。
そして、部屋を照らしているのが照明ではなく、数え切れないほどの日々を彼女たちと過ごしてきた、あの小さな映写機であることに気付いた。
ベアード
あなたの手を引いて、支えるから、立って。
マクラーレン
(小声)俺は生きる……
ベアード
そう、私たちは生きる。
ベアードの手がその弱々しい腕に触れた。柔らかい筋肉に浮かんだ源石結晶の感触に、彼女の動悸が早まる。
ベアード
大丈夫、大丈夫だから。私たちは生きる。そしてあなたは新しいビデオシアターをやるんだ。私も新しいボクシングジムを開く。
マクラーレン
(小声)俺は生きる……
ベアード
ほら、力を抜いて……ナイフは私が預かっておく。あなたは大丈夫だから、もうこんなものはいらない……
マクラーレン
ありがとう……ありがとう……
マクラーレンが胸の前でぎゅっと握り締めているナイフへ、ベアードがゆっくりと手を伸ばした。彼の膨らんだ懐に入っているのは、恐らく残りわずかな食料だろう。
ベアードがナイフを取り上げると、全身が震えていたマクラーレンは強張っていた筋肉を久方ぶりに緩めた。
ふと男の濁った目に浮かんだ、パニック以外の感情。ベアードは、彼が自分のことを認識してくれたのだと思った。
彼の懐に入っていたものが床に落ちた。それは空の缶詰で、中身はとうの昔になくなっていた。
ベアード
これでやっと……外に出られる。
マクラーレン
(小声)それは俺のだ……
ベアードはようやくほっと息をつくと、腰を下ろし、マクラーレンのためにその空の缶詰を拾ってやった。
ベアード
でもこれ、空っぽ──
ベアードは腰に突然痛みを感じた。自分の握っているナイフが体に刺さっている。そしてそのナイフを自分の手ごと上から握っているのはマクラーレンだった。
マクラーレン
言っただろ! これは俺のだ! 俺のものだ!
これは俺のなんだ……
(小声)俺は生きるんだ。お前たちが言ったんだぞ、食べ物を俺に残しておいてくれるって……
ベアード
うっ……
彼はよろめきながらベアードに体当たりして、その何の意味もない空の缶詰を奪い取った。
マクラーレン
(小声)俺は生きるんだ、俺は自分を守る……
元々マクラーレンが持っていたナイフは今、ベアードの体に深々と突き刺さっているため、彼は慌てて新たな武器を探し始めた。
男はベアードのバタフライナイフを見た。冷え冷えとした光の浮かぶ刀身に狂った両目が映った。
このバタフライナイフがベアードとどれだけの時間を共にしてきたかはわからない。
何年も前、グラスゴーの彼女たちが幼い子供だった頃、ベアードは蚤の市でそれを安値で買った。それ以来、肌身離さず持っている。
このバタフライナイフは、ベアードと戦いや喜びを共にしてきた。別に貴重な品ではなく、彼女も特に大切にしているわけではない。ただ手に馴染んで、何となく持ち歩いているというだけだ。
マクラーレンがナイフを奪おうとする力は弱々しかった。先ほど刺した時に、すでに力を使い果たしたのだろう。
しかしベアードは気付いた。どういうわけか、自分も抵抗する力がほとんどない。
マクラーレンは何度か息継ぎをした後、ありったけの力でナイフを引き剥がそうとしがみついた。刃先が危うく彼の首に刺さりそうになった。
ベアード
危ない! け……怪我に気を付けて。
ベアードは自分の腕がもうほとんど上がらないということを悟り、バタフライナイフを握る手を緩めた。
男は武器を奪い取ると、空の缶詰を懐に隠し、よろめきながら外に出て、炎に包まれた通りへと消えた。
ベアード
……
ハハッ、アハハ。
あぁ……痛い。ハンナに手当てしてもらわないと……外にいた間に優しい応急処置の方法を学んできてくれてたらいいんだけど。
ゴホゴホッ……
チッ、何か……うまく立てないな……
ハッ、マクラーレンったら、ほんとひどい奴。チケット代だってツケはもうないはずなのに。
……うん、多分ない。
早く……合流しなきゃ。ヴィーナは……心配性だから。
デルフィーン
ついてきてるのは、この人たちで最後ですね。
火がますます激しくなっていますよ!
アスカロン
私たちも間に合ったようだ、ドクター。
アーミヤ
……はい、大丈夫です。
シージ
ようやく来たか、今のうちに早く──
デルフィーン
どうやら飛空船の発進を見て、大公爵はじっとしてられなくなったみたいですね。
分かりません。気にしてる暇もありませんし。
行きますよ、シージ!
公爵たちとサルカズの決着がつくまで待ってるわけにはいかないんです──
インドラ
ダメだ、ベアードがまだ追いついてねぇ!
あと少し、二分──いや一分でいい、ベアードは足が速ぇんだ。
デルフィーン
あなたたち、半分屍のような見た目の人たちがどんどん増えているのが見えてますか? たとえ運良く爆撃や火から逃げられたとしても、あいつらにやられてしまうかもしれないんですよ。
もう時間がないんです、シージ!
シージ
モーガン、ベアードは今どこにいる?
モーガン
ビデオシアターの店主を探しに行ったよ。ここと反対の方向に……
カドール
民と仲間、オマエにとって、どっちが重要なんだ?
オマエはいずれこの問いに答えなきゃならねぇ。
シージ
どこへ行く、カドール?
カドール
オレはグラスゴーのチンピラにすぎねぇ、殿下みたくあれこれ考える必要はねぇからな。
ベアードはオレの仲間だ。オレがあいつを助けるのは当然だろ。
むしろオレが気がかりなのは、殿下がでけー口叩いて言った約束を果たせんのかってことだ。最初から最後までこの民たちの前に立ち続けて、こいつらを率いることができんのかよ。
……できることを願ってるぜ。
カドールは振り返ると、黙ったままの群衆をかき分け、封鎖エリアの内側に向かって歩いていく。
インドラ
モーガン、止めんじゃねぇ! ヴィーナ、何とか言えよ!
シージ
……
モーガン
ハンナちゃん、見て、あれってマクラーレンじゃない? 列の一番後ろにいる……たった今追いついた人!
カドールも歩みを止めた。
隊列の最後尾、少し震えているようにも見えるその男は、注意深く辺りを見渡すと、すぐに群衆の中に姿を消した。
シージ
マクラーレン……
あいつだ! ベアードが連れてきたんだ!
カドール
あいつの手にあるのは──
モーガン
ベアードちゃんが近くにいるはずだよ、いないはずがないって! でも待って、あのバタフライナイフ……ベアードちゃんのナイフをどうしてマクラーレンが持ってるの?
モーガンはある可能性に思い至った。
ビデオシアターの店主の持つナイフに付着した血痕が、最悪の予想をもたらしたのだ。そしてヴィーナが顔を背ける直前に見せた眼差しから、自分の推測が間違っていなかったと知った。
涙がすぐに込み上げてきたが、拭いている暇などない。彼女は群衆を押しのけようとするインドラを止めなければならなかった。
インドラ
モーガン、お前なんでそんな必死に止めるんだよ!? オレにぶん殴られてぇのか!
シージ
……
モーガン
(小声)ヴィーナ、あんたも……見たんだね……
(小声)ベアードちゃんは──
力。ヴィーナは一生のうちで、今この瞬間ほど力を渇望したことはなかった。
ごく僅かな力。巨大な力。怒りによる力。悲しみによる力。
何でもいい。
目の前にあるこの現実を打ち砕けるなら、目の前の全てを元に戻せるなら。
たとえほんの少しでも──
たとえ……振り返って、思い出を語り足りない友人を探しに行く、それだけのことしかできない力でも。今のヴィーナは、誰よりも切実にそれを求めていた。
たとえ……
「諸王の息」はこれほどに重い。振るうのが困難なほどに。
自分には何もない。無力なのだ。
緊張した市民
殿下……先へ進まないのですか?
殿下は、私たちを連れてここから出るんですよね?
シージ
……
……
殿下と呼ぶな、私は貴様らの殿下ではない。
私はただの……いや、もういい。
インドラ、自分の持ち場を守れ!
すぐに壁を破るぞ。
インドラ
ヴィーナ、お前までベアードを見捨てる気かよ? ベアードだぜ、俺たちはすでに一度あいつを見捨てちまってるんだぞ!
シージ
分かっている。
彼女がもう二度と私たちと離れたくないということも知っている。
彼女に……選択の余地がない場合でなければな。
今の私たちにも選択の余地はないんだ。
インドラ
俺たちがなんでノーポート区に戻ってきたか忘れたのかよ!
シージ
故郷の地に足を踏み入れたあの瞬間から、私たちが戻った意味は、単純に家に帰ってきたというもの以上の何かになったのかもしれない……
モーガン、ハンナを放してやれ。グラスゴーを信じろ。
私たちグラスゴーに軟弱者はいない。
幼い頃、私たちがどうやって喧嘩相手に向かったか覚えているか?
インドラ
ヴィーナ……
モーガン
グラスゴーのために!
シージ
グラスゴーのために!
インドラ
……
このバカ野郎どもが……ベアード、もうちょっと待っててくれ……
グラスゴーのために!!
ノーポート区の出口を塞ぐ高い壁はもはや目の前にある。いつもと違うのは、サルカズの矢や砲火が今は彼らに向いていないことだ。
自由が間近に迫っているのを実感し、苦難を受け続けてきた人々は抑えきれずに必死で両手を高く伸ばし、目の前の壁を押した。
シージは再び「諸王の息」をかざしたが、沈黙を保ったままの剣は単なる鉄の棒と何も変わりはなかった。
彼女はその剣を振ったかどうかすら覚えていない──あるいは無数の手で同時に押されたことにより、目の前の高い壁はすでに倒れていたのかもしれない。