胸の中の矜持
レト中佐
……あの金の杯はかなりの重さだ。売れば相当の値がつくだろう。ガリアの芸術品の相場はいつだって悪くないからな。
たとえその杯を融かし、ただの金として売ったとしても、どの都市の一等地でも家を買えるだけのお金は手に入るだろう。
これは私の家の鍵だ、持っていけ。物はクローゼットの中に仕舞っている。
新しい場所へ行き、新しい暮らしを過ごしたまえ。今年起こった出来事は、たまたま見てしまった悪夢とでも思っておけばいい。
元都市防衛軍の兵士
サルカズに追われた時に私を助けてくれたのも、都市防衛軍の執務室に私を匿ってくれたのも、中佐、あなたです。
私が感謝しなければなりません。私はとっくに都市防衛軍の者ではなくなった上、ガリア人でもないのに……
中佐がそこまでする必要は――
レト中佐
いいから持っていきたまえ。
もし家の中でほかに目ぼしい物があれば、好きなだけ持っていくといい。記念品は、もはや私にとってなんの意味もないのだ。
外が落ち着くまで、君はここに隠れておいたほうがいい。
軍事委員会はすでに都市防衛軍の武装を解除してしまった。サルカズたちから見れば、今の君はヴィクトリアの一般人となんら区別はないだろう。
元都市防衛軍の兵士
しかし私たちの戦友がまだ外にいます。彼らはその、ちょっと無鉄砲なので……私、みんなを助けてやりたいのです……
レト中佐
彼らならみんな捕らえられてしまったよ。
元都市防衛軍の兵士
……
レト中佐
私の手で彼らを捕らえ、軍事委員会に引き渡したのだ。
元都市防衛軍の兵士
なっ……
中佐、これから……どこに向かわれるのですか?
レト中佐
私か?
ブラッドブルードの大君が私を待っている。
君はここで待機していなさい。全て終わった後に立ち去るといい。
生き残りたければ、ドアを開ける際に、外で歓喜の叫びを上げているのが魔族どもではなくヴィクトリア人であることだな。
???
ルネ·レト?
まさかこうしてキミと接触することができたとはな。
クロヴィシア
多分これはいい知らせなのだろう。少なくとも、キミはまだサルカズに処刑されていないのだから。
少し話をする時間はないか?
レト中佐
……
ふむ、君のことは知っている……自救軍の小さき指導者、クロヴィシアだね?
自救軍の拠点ならすべて我々によって掃討され、残された者たちも全員ロンディニウムから撤退したはずだ。なぜ君がここにいる?
クロヴィシア
都市防衛軍が手加減してくれた上に、カスターも約束を違えなかったからだ。
自救軍がこの滅びゆく都市から脱出できるように、彼女の「グレーシルクハット」がそれを保障してくれたのだ。
レト中佐
カスター公爵……
……君の正体ならとっくに目星はついている。だが今、君がどのお偉いさんに従属していようがその操り人形でいようが、私にはもうどうでもいいことだ。
君の実力がどれほどのものかは分からんが、今のロンディニウムは政府に反旗を翻した子供がうろちょろしていい場所ではないぞ。
隠れていた場所に帰るといい。サルカズに捕らえられていないうちであれば、私も君のことは見なかったことにしてあげよう。
クロヴィシア
……レトよ。
君もロンディニウムに隠れて長くなるだろう。
レト中佐
……
クロヴィシア
私は自救軍とはぐれてしまった後、可能な限り迅速にロンディニウム内で行動する目標を新たに見つけたのだ。
私たちも……裏切りに遭ってな。具体的にどういった面々が裏切ったかは今も分からないままだが。
しかし、そんなことを考えている暇など私にはない。市内の状況は私たちの「移動都市を占領する」という概念に対する理解を遥かに超えている。
今ここで起こっていることは、歴史書をどれだけ漁っても見つかりはしないはずだ。
レト中佐
そんなこと、私も理解しているさ、誰よりもな。
クロヴィシア
では、市外の状況は見たのか?
サルカズの法陣が天にも突くほどの赤い光を発しているところを見かけた。各種異様な形状をした戦争装置もこの目で見かけた。あれは決して国の制式装備が敵うものではない。
空を浮いている巫術師が領空を制して、あらゆるドローンとアーツを無効化していくところも目にした。
以前であればサルカズの軍勢とあのいわゆる「ナハツェーラー」を描いた伝説は、多少なりとも徒に恐怖を脚色していた文学的な手段に過ぎないと考えていた。
だが、もうそういった考えは捨てたよ。
死そのものが門を開けば、私たちは一体どういった生き地獄を見ることになるのだろうな?
レト中佐
公爵たちはどうしている?
クロヴィシア
……公爵の軍は確かに逞しくて強い。だが……
彼らは地平線の遥か彼方にいる。ここまで手は届かないだろう。
レト中佐
……
クロヴィシア
当ててみようか? 今のキミは心の中に後ろめたさと悲哀を抱きながらも、ほんの少しだけ誇らしさを持っているのではないか?
これまで多くの残忍な選択を下してきたが、今ようやく自分の使命を全うすることができたと、そう考えているのだろう。
レト中佐
……
クロヴィシア
キミは多分テレシスに一つ取引を持ち出し、それにテレシスは応じてくれたのではないか? かつてガリアに属していた移動都市に関する取引だ。
ロンディニウムは、サルカズの野心を収めるにはあまりにも小さすぎる。彼はこの場所を利用して、テラ各国の蠢く野心を突き動かそうとしているだけだ。
そんな者が本当にキミやキミのガリアのことを気にすると思うか?
今やロンディニウムは完全に陥落してしまったが、キミは愚か者ではない、きっと分かるはずだ。
カズデル軍事委員会は最初からヴィクトリアを占領するなど計画していないのだ。
レト中佐
私とて愚かではないさ。最初から希望をテレシスの許諾に託してなどいない。
クロヴィシア
しかしそれでもなお、キミは同胞らが殺し合う多くの惨劇に関与してきた。
チャンスを作るつもりでいたのか? サルカズたちがカズデルのためにしていることのように。
公爵らのすべての力を搾り取ってしまうこの戦争なら、確かにガリアの亡霊を再びこの世へ呼び戻すきっかけにはなり得るだろう。
しかし問題は――
キミは本当にそれを信じているのか。ルネ・レトよ?
レト中佐
……
他に何を信じればいいというのだ?
私はすでに自分の臆病さを認めた。この上、自分の愚かしさや絶望そして存在すらが無意味であることをを認めろと言うのか?
一体、何の用があって訪ねてきたのだ。
クロヴィシア
協力関係を結ぼう。
自救軍、それからサルカズに反抗し、ヴィクトリアの愚かな貴族たちの間で藻掻いている人たちにはまだ生きる道が残されている。
そして、キミが追い求めているその「ガリア」も、その道の中にあるかもしれない。
レト中佐
……ガリア、ガリアか。
どうやら君は、今も抗い続けようとする者のようだな。
君たちのような者からすれば、たとえ塵の中の廃墟でも、次の砦の礎になり得るのだろう。
みんなそうだ。君にしかり、軍事委員会にしかり……
君たちは本当に強かったよ、国家を転覆し得るほどに。歴史を思うままに操ることも……私のような者の運命を弄ぶことも、容易だろう。
クロヴィシア
自暴自棄になるのはやめておきなさい。地獄が訪れる前に、私たちにはまだやれることがたくさん残っているだろう。
キミがこれを贖罪か、あるいは別の抗争の始まりと見なしていようが私はどうだっていい。
レトよ、どうかキミと手を――
レト中佐
ならば大層立派であられる者よ、教えてくれ――
私はどうやって私自身を救えばいいのだ?
クロヴィシア
……
レト中佐
ほら、君でも思いつかないではないか。
さあ、道を開けたまえ。
クロヴィシア
本当に考え直す気はないのか?
レト中佐
ああ。
クロヴィシア
……なら、こちらも祝福は贈らない。
キミはあれだけ多くの死を、私の仲間たちの死を引き起こしておきながら、ここまで見下げた決断を下したのだからな!
ルネ·レトよ!
レト中佐
……そこまでにしたまえ。早く逃げるがいい、もうじきサルカズたちがやって来るぞ。
私はまだ……別れを済まさねばならないのだ。
レト中佐
……
???
……所属と、階級を言え!
レト中佐
相変わらず長官の棍棒は力強いですね。
???
黙、れ! 貴様の……所属と階級を言え、と言っているのだ! 兵士よ!
レト中佐
……
リンゴネス青年近衛隊は第二近衛選抜歩兵兵団所属、レト伍長であります!
酷く呆けた老人
私の、部隊?
レト中佐
はっ、長官の部隊であります。
酷く呆けた老人
見ない、顔だが。
レト中佐
会ったことはあります。ただ忘れてしまわれただけですよ、長官。
酷く呆けた老人
そうか……
皇帝陛下から、ここで養生しろとの、ご命令が下っている。が、前線の戦況が、知りたい。
邪悪なる、巫王は我らの艦隊によって、撃滅されたか?
テレビで、あの、ヴィクトリアの、ひ、髭を蓄えた公爵の軍を見たのだ!
奴ら、は隙につけ込んで、皇帝陛下に逆らうつもりか!
レト中佐
ロンディニウムならすでに陥落していますよ、長官。
酷く呆けた老人
おお、素晴らしい!
これで私も……古参、近衛隊に抜擢されるのだ! 貴様などは、まだまだ! 貴様にはまだ、実績が必要だ!
レト中佐
リンゴネス産のランスシャンパンをお持ちしました、あなたが愛してやまない逸品です。さあ、どうぞお座りください。
酷く呆けた老人
ふむ……
いい酒だな、伍長。ふむ……
我々の涙が染み込むリンゴネスよ♪
戦場には苦痛と疲労が満ち溢れるけれど♪
……侵略者に死を下さん……♪
レト中佐
あなたがその歌を歌う時はまるで、これまでの病苦も老いも最初から存在していなかったかのようですね。
酷く呆けた老人
……我らの旗は永久に輝かん♪
レト中佐
私は一度もリンゴネスを見たことがありません。
あなたが何度も私に語ってくださった、あの豪華絢爛な宮殿も、発達した交通網も……
……ゴールディングのことを覚えておりますか? 何年も前、私と共にあなたを訪ねてきた女性です。
その彼女が亡くなりました。
ゴールディングは、この残酷で、動かしがたく、血に塗れた時代に殺されました。
そして私が、その元凶の一人でした。
私は彼女に……いや、分かりません。
しかし、彼女はもうこの世にはいません。もう私の見えるところにはおらず、振り向いてくれることもありません。
私は……とても怖いです、長官。
アーミヤという子供が私にこう言ったのです。私のしてきた行いはすべて臆病さから来ているのだと。
私も昔、ゴールディングに心中を打ち明けました。立て続けにやって来る破滅の中で、私はただ生き延びたいだけなのだと。
なのに私は、今でも……
たとえただの口実だとしても、私は今でも――
あの廃墟から新たにガリア人たちが立ち上がることを願っています……
いや、違う。
ゴールディングにはいつまでも日差しと花の香りに包まれながら、あの子供らを教え諭していてほしかった……
自分の信念を貫く彼女の姿は本当に美しいものでした。
それに比べて私は、私は……
私は、自分のできることすべてをやり尽くしました。とても苦労を要しましたよ、長官。
我々には、はたしてまだ未来は残されているのでしょうか?
ブラッドブルードの大君
来てくれましたね、レトよ。
てっきりどこかに隠れるのかと思っていましたよ。
レト中佐
いえ、無論そんなことはしませんとも。
必ずやあなたのもとを訪ねに参りますよ、大君殿。
ブラッドブルードの大君
今日はかなり気を引き締めた格好ですね、良いことです。あのガリアの教師が亡くなられてから、ずっと気分が沈み込んだままでいましたからね。
私は私の子らと一つ賭けをしましたよ。あなたはもうじき死ぬと、彼らはそちらに賭けをしましてね。
だが私はあなたを信じていましたよ、レト。
さあ、一杯お付き合いなさい。あなたの仇敵、このヴィクトリアと名の付く国の死を祝おうではありませんか。
この手で儀式を執り行い、奴に最古の呪いを授け、哀しい結末を迎えさせてあげましょう。
私はもうじき発たなければなりません。私の血を引く者たちにさえ与えられない特別の栄誉なのです、ここは喜ぶべきですよ?
レト中佐
……
大君殿は、すでにご存じであられるでしょう。
私が生まれた時、ガリアの首都はすでにウェリントン公爵とその卑劣な共謀者らによって徹底的に滅ぼされてしまいました。
そして、今あなたはどうやらロンディニウムにまったく同じことをされるおつもりだ。
ブラッドブルードの大君
それが悲しく思えてしまうのですか?
レト中佐
私はただ……思いもよらなかっただけです。
ブラッドブルードの大君
かのウェリントン公爵はリンゴネスを滅ぼし、その移動区画を分け取りしていきました。フッ、ヴィクトリア人は実に愚かしく凡庸です。
もしやあなた、自らの手で仇を討ちたいと思っているのですか? その執着は称賛に値しますね。
私であれば、その機会をあなたに賜ることができましょう。
レト中佐
感謝の至り、大君殿。
ブラッドブルードの大君
あぁ……なんと嘆かわしい。
卑劣で、心変わりが激しく、臆病でありながら自惚れてもいる。
恐怖のために憐れみを希求し、絶望のために我が身をも滅ぼしてしまうでしょう。
とは言え、やはり気になるものですね、レトよ。
そのちっぽけな命からしてみれば、我々はそれなりに長い付き合いを続けてきましたね。
――本気で私を殺せるとお思いですか、レトよ?
いいえ、そんなことはありません。
レト中佐
――
ブラッドブルードの大君
おそらくこう思ったことでしょう。このサルカズはなんと傲慢で、不遜なのか、と。自分のことを塵埃程度にしか見ていないのだろうと。
むしろ逆ですよ……レト。
これから私が目にする物事が起こるおかげで、私はあなたに対し、愛しさを抱いています。
確かに、あなたは愚かで卑劣な方でした。自分の血は惜しむべきですよ。
その血も本来であれば、もっと面白いところで役に立てると思っていたのですがね。
はぁ。これで我々もお別れですか。あっけないものですね。
哀れな人ですね。もう少しだけ頑張っていれば、ほんの少しだけ藻掻いていれば、剣柄に触れることができるというのに。
レト中佐
……私から……
私の……賜ってやろう……
ブラッドブルードの大君
何か言いたげですね?
レト中佐
貴様に――
私の血を「賜ってやろう」と言ってるのだ、この蛆虫めッ!
これで貴様がその血の純潔をひけらかすことはもうできまい!
なぜなら卑劣者のルネ・レトの血が、貴様の血を穢してやったのだから!