それぞれの願う明日
金色の荒波がロドスを押し流す。君主の意志が果てしない海の中に沈み続け、巻き上がる高波が再度この海にある唯一の船へと押し寄せる。
Logos
もしやサルカズの魂の声が鎮まらぬうちは、魔王の遺した声は永遠にやまぬのか?
いや……荒波を起こすのは、サルカズの魂の怒号だけではない、あの塔も――
塔が戦慄し、根の震えが潮汐をかき乱しておる。
彼らはうぬと出会った……
たとえ眼に呪文を刻もうと、天地を貫くこの塔の頂を目視できはせぬ。
源石が我の視界を遮っておる。
殿下。うぬは我に言いたいのか、その場所は我が介入すべき戦場ではないと。
大波がバンシーの呼びかけに応え、君主が叫ぶ。
Logos
我は退かぬ。
我はすでに歌声でもって塔の彼方に消えた彼らへと約束を届けた――
この場所、ロドスは、永遠に沈まぬ我らの足場となる。
若きサルカズは骨筆を持ち上げ、虚空へと踏み出し、荒波に呪文を書きつづる。
波は束縛から逃れようとするが、バンシーは一言も発さない。
彼は空を見上げ、巨塔が戦慄する際に発する音に耳を傾けている。
彼には分かる。今この瞬間に彼の視線の届かぬ地にて、魔王と魔王が対峙している。
Logos
アーミヤ……それはうぬらの戦争だ。手出しできぬ、そしてすべきでもない。
うぬらが無事に帰還する時を待っておるぞ。
「サルカズの魂の怒号はいずれ私が鎮めるわ……」
「だけど、そのための唯一の方法は私たちの苦難の根源を絶つことなの。」
「我々サルカズにとって、苦難とは一体何か?」
「雪の中で働いた後、真っ暗な坑道のたった一本の蝋燭のそばで縮こまる短い休息か?」
「それとも開拓地にて、心から愛し合うサルカズとリーベリの子供が、彼らの子孫の容貌を恐れてやまない狂信的種族主義者に縊り殺されることか?」
「あるいは来る日も来る日も自らの角を磨き、一生涯キャプリニーになりすましビクビクと日々を過ごすことか?」
「サルカズは一生のうちで、何千何万もの形で不当な扱いを受け、苦難を理解するよう迫られるかもしれない……」
「あらゆる不公平がすでに常態化し、彼らの生活の全てを構成している……」
「でも、あなたたちが受ける苦難とは一体何なのかって問われると……」
「彼らは答えに詰まって押し黙る。」
テレジア
……
天に通ずる巨塔の上、純白の人影がこちらを見下ろしている。
「魔王」。
あなたは共に日々を過ごしてきたコータスの少女がいたことで、今に至るまでその呼称が含む意味について深く考えずにいた。
魔王の名はテレジアにとって、その王冠のみに与えられたものではない。
一人の人間が、どのような見識と知恵を持てば、どのような策略や手段を持ち、どのような力があれば、無数のサルカズの民に心から「魔王」と呼ばせられるのか?
膨大なエネルギーが塔の中心からあふれ出し、アーツが純白の糸、そしてシルクを成す。その果てしなさに抵抗するすべはない。
ケルシー
テレジアも「魔王」になる前は、サルカズにおいて千年に一人の類まれなる術師だった。
ましてや、ここは彼女のテリトリーだ。
これらの攻撃手段は……巫術でなければ、私のよく知る魔王の能力でもない。
彼女は源石の中の情報を再構築し利用しているんだ。
ドクター、彼女の動きをよく見ろ。アーミヤとWを助け、テレジアの攻撃に抗うんだ!
W
息が詰まりそうな圧迫感……
死が迫ってくるこの感覚……彼女は本気で……
いや、ありえない、本当の殿下なら絶対に――
フッ、「本当の殿下」ね……
自らのこんなバカげた考えを彼女は思わず笑う。
彼女はテレジアを見た。見るほどに、よく知る顔つきだが、まるで知らない冷ややかな表情を浮かべている。
W
*サルカズスラング*、やるしかないわね!
クソ、彼女が設けた制限がおかしすぎて、あたしの爆破が全く効かないわ。
この場所がこのまま落ち続ければ、あたしたちは全員おしまいよ!
ケルシー、何とかしなさい!
ケルシー
通常の手段、ひいてはアーツでさえこの場所では意味がない。
しかし今の彼女に勝てないわけではない、少なくとも――
W
子ウサギのこと言ってるの?
前方でいまだ天地を覆うほどのアーツに抗うアーミヤを、彼女は見た。黒い王冠はすでにアーミヤの頭に浮かび上がっている。
W
何言ってるかさっぱりだわ、でも――
チッ、今はあんたと子ウサギを信じるしかないわね。
いつからかは分からないが、Wは自分がずっとアーミヤを信じてきたことに、今も信じていることに気付いた。アーミヤなら必ずできる。
チェルノボーグの燃え盛る司令塔で、あの鍵の入った箱を自分の手に渡してくれたように……
そして、あの都市が止まったように。
いつからかは分からないが、この少女の姿が、殿下の姿と重なり始めた。
アーミヤは殿下が選んだ人。
殿下が選んだ人は、殿下を、そして自分を失望させないだろう。
W
もし殿下がすでにサルカズの魂と切り離せないなら――
先にその魂たちを吹っ飛ばしてやればいいってことでしょうが。
言う間に、彼女はすでに動き出していた。
ためらうことも、自らの決定を疑うことも決してない。
脳内で忌々しいサルカズの魂を木っ端みじんにするという天才的アイディアが思い浮かんだ時にはもう、完全に興奮に身を任せていることを知っていた。
戦場に立つたびにそうしていたように。
W
子ウサギ!
まだあたしの声が聞こえるんでしょ!
アーミヤ
Wさん、私は――
W
振り向くな!
あんたの不思議な指輪で、あたしをあの*サルカズスラング*なサルカズの魂に結びつけなさい!
アーミヤ
えっ――?
W
この摩訶不思議な空間なら、できるはずでしょ。
聴罪師が何らかの方法でサルカズの魂を殿下のそばにくくりつけたのは分かっているわ。ならあたしも、この老いぼれどもが殿下に一体何をのたまってるのか聞いてやろうじゃない――
それから、あたしがそいつらをズタズタに吹き飛ばして……殿下と話し合う機会がないか見つけてくるわ。
アーミヤ
それはできる……かもしれません!
なんとかやってみます、Wさん、気をつけてください!
W
早くしなさい、こっちの準備はもうできてるのよ――
Wには無数の声が聞こえたが、彼女が想像するものとは異なっていた。
レヴァナントのような無数の怒りの雄たけびを聞くと思っていた。しかしそれらの声は、想像よりもはるかに落ち着いたものだった。
それは「サルカズ」として過ごした一生を穏やかに話す無数の者の声だった。
さまよう農民がついに土地を得た時のため息、息を引き取る前に炉に投げ入れられた感染者の死に際の哀願。
侵略者が都市を攻め落とす様を目の当たりにした死にかけの戦士の無力な叫び、寝床の上で眠れずにいる飢えた子供の孤独な泣き声。
異なる環境に身を置きながらも、「サルカズ」という身分のために似たような悲劇の運命を遭わされた人々。
彼らの喜び、彼らの怒り、九千年にもわたる歳月の中で日増しに膨張してきた彼らの感情――
もし殿下がずっと聞いてきたものがこれだとしたら……なぜだ?
サルカズの魂の意志が、二人の王を再び並び立たせたのか、サルカズの魂の意志が、彼らをこの戦場へと送り込んだのか?
あるいは哀れな輪廻なのかもしれない。サルカズは自らの悲しみを魂に刻み込み、その魂の意志が後の者に似たような道を歩むよう導くのだ。
憎しみが憎しみに火をつけ、悲しみが悲しみを際立たせる。
……それで、果たしてこれだけなのか?
Wは自分がまるで激しい流れに身を置いているかのように感じながら、前へと押し流される。
サルカズの魂の声の中には、彼女の人生もあった。
「あたしはものを爆破して、ものを守る。」
「それからものをぶっ壊して、ものを導くわ。」
「彼らは皆生きた人よ、W。」
「チッ、あんたに教えてもらう必要はないわ、イネス。ヘドリーから『人』と『物』の区別は教わってるから。」
そうだ。サルカズの魂の声が訴えかけるものを、Wは余さずに見てきた。彼女ほどサルカズの生活を知っている者はいない。
カズデルのスカーモールからバベルの船まで、チェルノボーグの廃墟からロンディニウムの戦場まで、彼女は十分に見てきた。
これまで、そこにある意味を深く考えてこなかった。また自分のやろうとすることも複雑であったことはなかった。
雨風をしのぐ住みかに欠くのであれば、たき火をしてテントを張ればいい。生き延びるための道を敵が阻むのであれば、あらゆる砲弾を用いて片づければいい。
彼女の歩みを支えてきたのは、背後にいるサルカズの魂のささやきではなく、目の前のわずかばかりの光だ。
Wは探し続けていた。そしてついに、自分が最も見つけたかったその声を掴んだ。
「あなたたちは皆生きていく価値のある命よ。あなたも同じ。」
「あなたのことは覚えているわ、傭兵さん。」
「あなたに与えられたコードネームは、Wね。そうでしょ?」
殿下……ようやくまた会えたわ。
あなたが本当の殿下であろうとなかろうと、今のあたしに選択肢はないのよ。でしょ?
そうだ、ようやく思い出した。自分が一体なぜ殿下に惹かれたのかを。
サルカズの王、それでいて最もサルカズらしくないサルカズ。
あなたはあたしに示してくれたの。サルカズは哀れな姿しかないわけではないと。
だから、ひとまずサルカズの魂なんか脇に放っておいて。
「Wさん! Wさん……」
W
子ウサギ、叫ばなくてもあんたがいるのは分かってるわ。あんた今こっそりあたしの記憶をのぞいたでしょ?
もしイネスがいたら、とっくに――
チッ、こんなこと考えてる時間はないわね。
魔王同士の戦いには手を出せないけど、殿下をサルカズの魂の干渉から抜け出させてやることはできるわ。
アーミヤのアーツを頼りにすることで、Wにはサルカズの魂との繋がりを感じられた。
感情が彼女の目の前で凝縮する。それは彼女自身の感情……
喜び。
悔しさ。
怒り。
そして、釈然……
黒い王冠が彼女の感情を増幅させ続ける。
彼女は自らの過去を思い出し、自らの経験を噛み締める。
W
自分の一生の経験に触れて、直視するのって……面白いじゃない……
とにかく自分をサルカズの魂の中から取り上げないと、黙ってもらえないってわけね?
感情は形を成し、彼女は手の中にある目を奪うほどのその輝きを握り締める。
それは彼女の喜怒哀楽、彼女の人生そのものだ。
「自分」を起点に、あるかなきかの糸が遠くの混沌へと、サルカズの魂へと繋がる。
W
子ウサギ、これってあんたが普段から向き合って対処してるものなの?
フッ、あんたが見てるものは、こんなのよりもはるかにすごいんでしょ……
殿下も……昔はこうやってあたしのことを見守ってくれたんでしょうね。
ありがとね、アーミヤ。
Wが砲口をサルカズの魂に向けた。
W
子ウサギ、見てなさい。
このプレゼントが殿下にどんなサプライズをもたらしてくれるかをね!
テレジア
あなたたち……サルカズの魂を直接攻撃したのね。
誰の力でも彼らの声に干渉することはできなかったというのに……アーミヤ、W、あなたたちがやったことには、驚いたわ。
アーミヤ
ですがなぜ……テレジアさんは、影響を受けてなさそうです。
W
殿下……
アーミヤ
(Wさん、戻ってください! 何をする気ですか?)
W
(確かめないといけないことがあるのよ……)
(殿下ならあたしたちの考えを聞いてくれるかもしれない――)
彼女は足を止めた。テレジアは彼女を見て、彼女はテレジアのまなざしを見た。
もしかすれば……もしかすれば……
テレジア
あなたが心の中で考えているものを見たわ、W。
サルカズの魂の意志が私の選択を左右したのだと思っているのね……
W
まあ大方……そんなところね?
あのヴィクトリア人たちに同情してるわけじゃないけど、テレシスを手伝って天地をひっくり返すほどの源石を生み出すなんて、あなたの本意ではないんじゃないかと思っただけよ?
まずはこれを止めて、この訳が分かんない場所からあたしたちを出してから、どうすればいいか話し合える可能性は――
テレジア
私の記憶の中のWは、こんなふうに冷静になって「停戦協定」を提案するような人じゃない。
あなたは恐れているのね。
W
仕方ないでしょ、だってあなた強いんだもの。あたしだって相手の選び方くらいは心得てるわよ。
テレジア
いいえ……あなたが恐れているのは、自分が長い間ずっと信じてきた道しるべが、単なる偽りの幻影であることよ。
あなたは、自らの手でそれを打ち破るのを恐れている。
でもあなたは向き合わなければならない……
W
なっ――
この空間に風はないが、本来固まっていた空気が流れ始めた。
雲が塔のそばで集まっては散り、柔らかく軽やかで、まるで風に催促されて咲いた白い花のようだ。
テレジアが目を伏せながらその花の海の中央にたたずむ。彼女の足元では、目を引く模様がゆっくりと浮かび上がる――
テレジア
Dr.{@nickname}、あなたはこれを知っているわ。
彼女の声は確信に満ちていた。
それはまるで今この瞬間、あるいははるか遠くの過去に……彼女と自分の感情と記憶が密接に結びついていたかのように。
菱。このマークにはどこか懐かしさを覚えるが、なぜ菱形なのだろうか?
それはこの「宇宙」に、そして源石の内部の至る所にある。
ほとんどの時、それが空に懸かり、無害の光源のように見える。Wたちにとって、空に異常な「星」が現れたところで大したことではないだろう。
しかし、それが普通ではないことをあなたは知っている。
天地が逆さになるというのに、星が……平面であるはずがない。
ケルシー
Dr.{@nickname}、君が何を思い出そうが、それ以上深入りするな。
それは危険だ、非常に。
これ以上その菱形を見つめてはいけない。それらに……君の存在に気づかせてはいけない。
テレジア
安心して、ケルシー。この塔は今のところ安全だから。
ケルシー
テレジア……
君はやはりこの最も危険な一歩を踏み出したか。
テレジア
あなたとDr.{@nickname}から教わった知識はしっかりと覚えているわ。
ケルシー……カズデル近くのあの花畑は、きっともう荒れ地に戻っているわよね?
ケルシー
……それを確かめるために戻ったことがある。
嵐が何度も発生したせいで、過度に活性化した源石があの一帯の地形を一新していた。
出入り口の通路は源石クラスターに覆われ、我々の実験場が破壊されているか否かは確認できなかった。
テレジア
構わないわ、美しくも非現実的な思いにすぎないもの。嵐の中で消えてしまえばいいわ。
私たちの目標は、ここでしか実現できない。
ケルシー
源石の内部……
テレジア
いかにして内なる宇宙を反転させ、それにより源石内に保存された情報を利用ひいては変更するかについて、あなたは述べてくれたことがあったわね。
ザ・シャードと空高く懸かる揺籃の力を借りて、私はついに真相のあるこの地に足を踏み入れたの。
あの金色の海が、私たちの頭上で静かに流れている。空間と時間の制限などなく、あらゆる情報が私たちと共に存在している。
ついに、私はやり遂げたわ。
ケルシー
――!
テレジア
最初の源石は万年も前にサルカズによって大地の奥深くから回収され、今この瞬間、ついにサルカズの手に戻った。
やがてカズデルは天災の侵略や、鉱石病の苦しみから永遠に逃れられる花畑となることができる。
それなのに、あなたたちはここで私を敵に回すの?
アーミヤ
かつて……テレジアさんが私に思い描いた夢をまだ覚えています。
源石を完全に制御し、鉱石病や天災がなく、そして感染者と非感染者の隔たりもない……安全で平等な故郷。
ですが……今でもまだ、戦場で命を落とす戦士や戦争で家を失う罪なき人々がいます……
今のあなたの計画において、その故郷にはサルカズ以外の人はいますか?
テレジア
……残念ながら。
アーミヤ
だとしたら、源石はあなたがかつて夢見たような「存続」の希望にはなりえません。
サルカズの兵器となって、より多くの破滅をもたらすだけです。
これは決してテレジアさんの夢ではありません。
あなたの言う通りよ、アーミヤ。
テレジア
では、私たちは敵になるしかないわ。
だからあなたたちは歩み続けなければならない。
アーミヤ
テレジア……さん?
テレジア
あなたたちの前に立っているのは、かつての「魔王」。移動都市カズデルの建設者、そしてバベルの最高指導者。
あなたたちは私に打ち勝ち、乗り越えねばならないわ。
テレジア
私は魔王の責務を貫き通し、サルカズの利益のために戦うわ、これまでの数百年のように。
私の前に立ち、私を阻もうとする者は、全員サルカズの敵よ。
私に実現できなかった理想、果たせていない誓いは、あなたたちなら遂げられるでしょう。
アーミヤ
いいえ……これはあなたの意志ではありません……
私にははっきりと聞こえる。
テレジア
……
アーミヤ
――皆さん、気をつけて!
黒い波紋と黒い波紋の交錯、「魔王」と「魔王」の衝突。
アーミヤの黒いアーツは、テレジアに触れた瞬間に静まり返った。黒い糸はアーミヤの周囲から引き抜かれると、今度はテレジアの手のひらに集まる。
無数の純白の糸がテレジアの手からあふれ出る。
糸がアーミヤの全身を密に取り巻く。
さながら柔らかなドレスのように、あるいは咲き誇る過程を逆転させたつぼみのように。
アーミヤ
うっ――!
W
子ウサギ!
テレジアの姿は爆発の煙の中から次第に消え、彼女が元々立っていた場所では、茨の形をした王冠が徐々に姿を現した。
W
チッ、効かなかったのか?
あれも魔王の力なの!?
ケルシー
……彼女は成し遂げたんだ。
テレジアは、源石を頼りに黒い王冠を模倣している。
アーミヤ
この力は、私が扱える魔王の力を遥かに凌駕しています……
ドクター、ケルシー先生、私の後ろへ……!
私が皆さんを守ります――
テレジアさん――
アーミヤ
テレジアさん――
またドクターと会議してるとか、それともケルシー先生と病室を回診?
テレジアさんは忙しいだろうし、邪魔しちゃダメだよね。そうだ。食堂に行って、テレジアさんのためにお昼ご飯を取ってきてあげよう!
空は晴れ渡っていて、きれいな甲板に日差しが降り注ぐ。吹いてくる風も暖かく、野と花の匂いが混ざっている。
テレジア
アーミヤ。
アーミヤ
えっと……これは……
コータスの少女が振り返って眺める。甲板の上で無邪気に駆けるその子は、紛れもなくかつての自分だった。
アーミヤ
ここは……「魔王」のシステムの中ですか。
テレジア
これはあなたの記憶よ、私には見えるわ。
あなたには私の心の声が聞こえるでしょう。私が考えていること、感じていること全てがあなたには分かる。
……逆もまたしかりよ。
アーミヤ
あなたは全てを覚えている……
あなたはずっと……あのテレジアさんだったんですね……
テレジア
アーミヤ、久しぶりね。
大きくなったあなたに会えて、本当にうれしいわ。
アーミヤ
また会うことができて……私もすごくうれしいです……
テレジア
少しだけ時間をくれるかしら、もうすこしあなたのことをよく見たいわ。
ずっと知りたかったのよ。ここ数年、あなたはどういった暮らしを送ってきたのか。
実のところ、私は全部見たの……あなたたちのこれまでを、経験した戦いと失ったものを、全部見たわ。
私はただ、もう少しだけ時間が欲しいの……
アーミヤ
何を見ているんですか……?
女性の視線は遠くへ向けられたが、甲板には何もない。
テレジア
あれはなんて楽しい時間だったでしょう。
最初はあなたのことは特にお世話が必要な不幸な子だと思っていたのよ。でも実際、あなたはロドスに多くの慰めをもたらした。
……ずっと後になって気づいたわ。あなたと出会えたことは、私にとって一番幸せなことだったって。
アーミヤ
どうして、私なんですか?
テレジア
……
少し歩きましょう、いい?
アーミヤ
どこへ行くんですか?
アーミヤ
ここは……?
テレジア
ここは私の故郷、カズデルよ。
ずっとあなたに見せたかったの。
アーミヤ
昔、カズデルで起きたたくさんのお話をしてくれましたよね。
ですがバベルは、結局カズデルに帰ることはできませんでした……
それ以上問う必要はなかった。
テレジアがした選択や葛藤は、アーミヤにとって全て我が事のように感じられた。
アーミヤ
あの戦争については……分かりました、今ならば全てを理解できます。
あなたに選択肢はありませんでした。
テレジア
「選択肢がない」と言う時、実のところ内心ではとっくに取捨しているのよ。
私はサルカズにより有利な道を選ぶしかない。
この種族はもうあまりに多くの不遇を経験していて、それが前に進むたびに困難に遭ってしまう。
もしサルカズが新たな活路を探す誰かを必要とするなら、彼女は率先して旗を立てるだろう。もしサルカズが団結のために魔王の死を必要とするのならば、彼女は喜んで受け入れるだろう。
アーミヤ、庇護者は同時に加害者でもある。
我々は何かを手に入れると同時に、何かを奪っている。
アーミヤ
私たちの知っているテレジアさんは……常に平和へと続く道を選んでいました。
だからこそ、バベルも、ロドスも存在しています……違いますか?
テレジア
バベルを存在させたのは、あなたたちよ。
文明の重荷を背負う守り人、鍵を握る知者、自らの意志を目覚めさせた天才傭兵、そして生きとし生けるものと純粋に共感をする子。
そしてLogos、Mantra、Scout、Ace……輝く魂は数え知れないほどいる。
あなたたちは種族を、出自を、そして病がもたらす隔たりすらも越えて、何よりも誠実な友情と、確固たる理想を共有している。
あなたたちは戦争の苦しみと現実の妨害を幾度も経験してなお、一つに集まって私のそばまでたどり着いた。
そうであるからこそ、バベルは設立された。
あなたたちをバベルの一員にしたのは、決して私ではないわ。
あなたたちが……王冠を拾った服職人を、無数のサルカズの魔王のうちの一人を、バベルのテレジアにしてくれたのよ。
あなたたちなら、私にできなかったことも必ず成し遂げられるわ。
アーミヤ
テレジアさん……ありがとうございます。
テレジア
アーミヤ、もう一つ物語を聞いてくれるかしら?
英雄や戦士が故郷を守る叙事詩でもなければ、「魔王」が国に君臨する伝説でもない。
ごく普通のサルカズの少女の、一般人よりも少しだけ長い一生に関するもの。
彼女はカズデルに生まれました。彼女の周りのそう多くない親戚や仲間は常に飢えと寒さの苦しみを忍び、日が沈むと、次の日の出を怯えながら待ちました。
彼女は周りの人々が幸せな暮らしを送り、安定した家を持つことを望んでいました。そのためならどんな努力をしても構わないと考えていました。
そして彼女はその望みを叶えるために努力し、たとえ何があっても変わることはありませんでした。
アーミヤ
なら、なぜ……
なぜあなたと戦わなければならないんですか……
テレジア
……
全ての出会いに美しい結末があるわけじゃないのよ、アーミヤ。
私はすでに一度あなたの元から去った。でも今回は、ちゃんとお別れを言うことができる。
……サルカズの魂を見たでしょう、彼らは生涯運命に抗っていた。死後も利用され、束縛されることを彼らは望んでいない。
それは私も同じよ。
アーミヤ、あなたは私に打ち勝たなければならないの。あなたは、絶対にやり遂げなければならない。
そうしてやっと、あなたは私の果たせなかった理想を携えて歩んでいける。
私を解放してくれる。
アーミヤ、「運命」など、存在すべきではないものなのよ。
テレジア
アーミヤ、どれだけたくさんの経験をしても、あなたはずっと私が最初に出会ったあの良い子のままなのね。
あなたがこんなに勇敢で、優しい子でなければ……これほど多くの苦痛に耐える必要はなかったかもしれないわね。
アーミヤ
これは……あの日?
私を抱きながら、物語を聞かせてくれていて、あの……
テレジアさん、止めて……もらえますか?
テレジア
もう止めているわ。あなたの記憶は読み取っていない。
アーミヤ
なら……
これは私自身の力。私たちは、今あなたの記憶の中に身を置いているんですね。
テレジア
そうね。
アーミヤ
力の制御ができなくて……テレジアさん、ごめんなさい。
テレジア
謝るべきなのはあなたではないわ。
魔王になるとは全ての人の感情を担うことを意味する。でも私たちの……自分の感情だって変わらずそこにあるのよ。
アーミヤ
……
テレジア
私は多くを失ったわ。だけど心残りはそこまでないの。
私の唯一の心残りは……あなたよ、アーミヤ。昔も今も変わらず、私はずっと……あなたと離れ離れになりたくなかった。
あなたの成長が嬉しいわ。でも本当なら、私はあなたの成長に付き添うべきだった。
魔王の力の本当の使い方を教えてあげないといけなかった。
幸い、あなたはもう私に、かつての魔王に対して自力で――
アーミヤ
――!
熱波が理性を呑み込み、炎が魂をあぶる。
剣先が烈火の中で徐々に形を成し、最終的にテレジアの手の中で完全に凝縮した。
テレジア
「怒り」。
アーミヤ
それは……私の剣です!
テレジア
あなたがこの剣を握る時、あのサルカズの君主の憎悪に塗れた怒号が聞こえるでしょう。
あなたは過去に怒りの炎の中で、不当、不平等に宣戦したこの長剣を握り締めた……
魔王の剣は、いつの世も、ただサルカズの敵に向けられる。
魔王の剣は、教え受け継がれ、サルカズの敵を斬り殺す。
けれど……私たちがここまで歩んでも、差別は消えず、敵意はいまだ潮のように私たちの息を詰まらせるわ。
過去の魔王は失敗した、過去の私も失敗した――
アーミヤは何もかもを見た。
テレジアは暗闇の中を絶えず歩き続けて、あるかも分からない答えを、どうにか見つけようとしていた。
テレジアは飛空船の廊下に立ち、眼下の戦場を見つめていた。
たった一人きり、死から目覚めて、そばにはもはや友も道を同じとする仲間もいない。
そしてテレジアは――自らの剣を握り締め、一人の子供に向けた。
悲しみを携えて。
強烈な悲しみに包まれたアーミヤは、ほぼ動けなくなっている。
テレジア
今、あなたの手にも剣が握られているわ。
アーミヤは突然重みを感じた。
彼女は剣を握っていた。邪神を断ち切ったあの剣はもう彼女の手に戻っていた。
形のない炎が彼女の手のひらを暖める。
アーミヤ
あなたは……そんな!
黒い波紋がテレジアの傍らから広がり、糸となって絡むと、アーミヤの手を引っ張る――
そして剣先がテレジアに向けられた。
テレジア
アーミヤ、これがあなたに残してあげられる最後のものよ。
私の力を、私の感情を、私の意志を感じて。
それらをあなたの一部にするの。
そして私の代わりに……あなたと一緒に連れて行って。
アーミヤの握る剣が震えている。それは恐怖からでも、興奮からでもない。
彼女はテレジアの意志が剣に流れ込むのを感じた。
アーミヤ
……テレジアさん、私はずっと覚えています。
あなたが私に話してくれた童話の一つ一つと、耳元でのささやきを覚えています。
これまで直接あなたに言う機会がありませんでしたが――
私はあなたに出会うことができて……とても、とても嬉しいです。
それと……
長剣が振り抜かれ、アーミヤ自身の胸を貫いた。
アーミヤはテレジアの手に自分の手を重ねてきつく握りしめ、剣をさらに深く刺していく。
そうか、痛みがないわけではなかったのか。
あらゆる苦痛は、ただ優しい温もりに包まれていたのだ。
涙が一滴また一滴と、テレジアの頬を滑り落ち――
そしてアーミヤの目の中に落ちた。
黒い長剣が砕ける。
それに相反する柔らかな力がアーミヤの指の間に絡みつく。
それは悲しみであり……
何よりも純粋な愛でもある。
アーミヤ
私は望みます。
「文明の存続」の継承者となることを。
「魔王」となることを。